蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

さざんか   (bon)

2013-01-31 | 花鳥風月

新しい年に入って早や一月が過ぎました。今日は1月31日(木)です。
こんな調子で、今年も足早に歳を重ねるのでしょうか。


この冬は、工事があったために花類は皆目ありません。
以前のようなデッキも無くなりましたし、寂しい感じがします。

何か赤いものはないか?  
さざんかが少し咲いています。花付きが悪く数が少ないです。

頃合いの花と蕾をチョキッと切って、一輪挿しに挿してみました。
全くありふれたさざんかですが、こんな風に扱うと感じが違って見えます。

    

ベランダで冷たい風にさらされて、葉も茶色く変色しています。
秋口からは殆ど手をかけることもなかったのでこんなさびしい姿になってしまったのでしょう。

僅かに残した花木の中に、紅梅があります。 さすがに赤っぽい蕾がついています。
まだ、硬い感じですが、今日のように暖かいと膨らみも早いかもしれません。


 昨年掘り上げた球根の袋を見てみたら、スイセンは市民農園に無断で植えてみましたが、
それ以外にも何種類かあって、なかにムスカリともう一つクロッカスらしい小さな球根がたくさん
あるのに気が付いて・・・今頃気がついてももう後の祭り。
そう思いましたが、ひょっとして・・? で、30㎝くらいの浅い鉢2つに植えてみました。 ダメ元・・。

これについては、近い将来どのようになったかご報告したいと思います。















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六斎日   (bon)

2013-01-30 | 科学・生物

一か月のうち、人間は慎むべき日が6回あるという。 
この起源はインドに始まるらしいのですが、
六斎日(ろくさいにち)とは、1ヶ月のうち8日・14日・15日・23日・29日・30日の6日で、
前半の3日と後半の3日に分け、それぞれの3日を三斎日と称したようです。

今日は1月30日でこの日に当たるというのですね。

この日は、四天王自らが、または使いを派遣して人の善悪行為を調査して、その人が死ぬときは、
生前の行為によって苦楽いずれかの世界に送るというので、この日は特に行為を慎むのが良いとされているそうです。

 この思想は、古く大和時代の仏教伝来(538年または553年)とともに日本に来たもので、
民間信仰と深く結びつき後世に至るまで日常生活を支配したという。
六斎日には、鉦鼓を慣らし念仏を唱える“六斎念仏”が行われたとのことです。



また、話は変わりますが、宮城県の一部において古くから、2月1日を正月として祝う例があり、
その前夜である昨日1月29日と今日30日(まだ31日はなかった?)を初晦日(はつみそか)、
晦日宵などと呼ばれた。 いわゆる“年取り”行事として行われていました。

 ここで、この2月1日を“次郎の正月”とか“次郎の朔日(ついたち)”というのだそうです。
そこで早速、ネットブラウズして調べてみました。

「次郎の朔日とは、元日(1月1日)から起算して二度目の朔日の意で、東日本で2月1日のこと。
一日(ひとひ)正月。初朔日(はつついたち)ともいう。
また、“太郎の朔日(たろうのついたち)”という言い方もあってこちらは、中国・四国・九州などで
2月1日をいうそうです。 
つまり、1月15日の小正月から起算して、初めての朔日であるところから。ひとひ 正月。初ついたち。」とあります。

次郎やら太郎が出て来て面白いですね。 一説には、この“次郎”というのは、曽我兄弟の五郎の名前を
誤ったともいわれているようです。


 ところで、“朔日(ついたち)”つまり1日というのは、以前月の年齢(月齢)で、このブログにもアップした
ことがありましたが、新月と 満月のことから名づけられており、「朔」は1日、「望」は15日(陰暦の1日と15日)。
で、1日は朔で“朔日”=ついたち となるのですね。

朔望月という言い方があって、朔(新月)から次の朔まで、または望(満月)から次の望まで
の平均時間つまり29.530589日をいうのです。
またまた、話が硬くなってしまいました。












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土の買い出し   (bon)

2013-01-29 | 日々雑感、散策、旅行

昨日は、久しぶりにホームセンターで土などを買いました。
大規模修繕工事のために、ベランダをきれいに整理するので、プランターなどの土はすべて捨てる必要がありました。
入居から12年目の工事で、最初からわかっていたことですが、やはりそれが近づくと憂鬱な毎日でした。 
約半年かけてベランダをきれいにして、工事が3か月続きましたから久しぶりの園芸準備ということになります。

2月が来るとそろそろ土の準備から始める必要がありますので、面倒だから、もう何もしないことにしようかと
思わないでもなかったですが、やはり始めることとしました。

培養土25L×3、赤玉14L×2、腐葉土40L、苦土石灰、化成肥料・・など、
運ぶだけでもう汗が出るのでした。




市民農園の方は、取りあえず石灰が必要ですが、まだ日程的に急がないので、これはまた後日の仕事とします。
こちらの地植えの方は楽でいいです。やはりなんといっても土を買う必要がない、土を捨てる必要もない、
その他、水やりも基本的には心配することもない・・など、鉢植えやプランターに比べると段違いに
手間がかかりませんね。
ただ、約束事として、花類特に球根や花木は禁じられていますから、それらに対してはやはり自前で
解決しなければいけないのですね・・。


まだ、始まっていない準備の時期ですが、やがて待ったなしでその時が来る・・かと思えば、今から心が騒いでくるのです。 
失敗せずにうまくやって行けるか・・?という心配な面もあります。 
今年も花が咲いたりしたときにはまたご報告させていただこうと思っています。


春をテーマーにしたクラシック5曲メドレー:








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こうじ漬け   (bon)

2013-01-28 | グルメ,Romantic cook
少し前から、麹漬けを楽しんでいます。 
といっても、市販の麹漬けの素“熟成こうじ床”いう1kg入りパックにいろんな野菜を漬けこんで
冷蔵庫に入れるだけ。 原料は、米、砂糖、食塩、米麹・・と書かれているから、これは米麹である。

最近、塩麹がテレビで紹介されたりして、人気があり 我々の蓼科でもpookyが、何やらやってくれていますが、
ここでご紹介しているのは、塩麹でなく甘麹?です。

パックが小さいので、大きなものは漬けられませんが、手軽で簡単です。 
以前から“ぬか漬け”はづっとやっていますが、これだと混ぜたりちょっと厄介なところもあります。

しかし、こちらの麹漬けの場合も、少しつけていると野菜から水が出て来ますので、
その場合にはごはんと砂糖、塩を入れて混ぜるのです。

 食べ頃の ダイコン(自家製)とニンジンの漬物です。
   


ダイコンは、それこそ“べったらずけ”ですね。

ネットから・・、 
”べったら漬け”は、大根の麹漬けである。江戸時代に今の東京日本橋大伝満町の宝田恵比寿神社で
10月19日に立つ恵比須講の”べったら市”の名に由来し、この名が付けられたと言われ、
麹の上品な甘みが売り物の高価な漬け物である。” とありました。


また、かぶら寿しというのもありす。
加賀の郷土料理として有名で、雪国の気候と野菜(カブ)・塩魚(ブリ、鯖、新巻鮭)・麹との見事な
ハーモニーによって生み出された味の芸術品、イズシの代表格です。
”かぶら寿し”は、麹の自然発酵によってうま味が出てくるところから、その年の気候によって、
うま味が違ってくる。・・といっていますが、
金沢にいた頃には、このかぶら寿しを好んで食しました。
お店によっても、また家庭によってもその味が違ってど れもおいしいのですね。 日本酒の“アテ”としても、
ちょっと甘いですがいけますね。


ネットを見ていましたら、“さごはちずけ”というのがありました。

“三五八漬け(さごはちづけ)とは福島県、山形県、秋田県の郷土料理で、麹で漬けた漬物のこと。
名前の由来は漬床に塩、麹、米をそれぞれ容量で3:5:8の割合いで使うことである。
これらをよく混ぜ、1週間ほど蓋をして熟成させたものに、野菜、するめ、数の子などを漬ける。
ただし、もち米は飯の硬さに炊き、野菜はあらかじめ材料の4%くらいの薄塩で2日間漬けたものを本漬けにする。
福島県会津若松の特産品であった。 秋田の郷土料理としても親しまれている。”


昨日の日曜日は、大阪国際女子マラソンでした。 
懐かしい“たまつくり通り”を選手が走って、もちろん、大阪城から中の島、売れっ子の
“大阪市庁”前から御堂筋などを通り長居陸上競技場に戻るコースです。

日本の福士選手は、ラスト1kmで、ベラルーシのガメラシュミルコに抜かれ2位でした。
1位のガメラシュは、2位を走っていたのですが、初めの頃アナウンサーの声が
“ダメだしみる子”みたいに聞こえ “エッ! だれがダメだしなの?”みたいな感じでした。













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コンクリート  (bon)

2013-01-27 | 日々雑感、散策、旅行

 何となく暗い、冷徹な響きすら感じるこの言葉・・物質。 
しかし、ちょっと見渡しただけでも、道路、橋、トンネル、ビル、住居・・この社会になくてはならない存在なのですね。

 そんな、身近な社会のインフラを構成している基盤、コンクリートが、やや軽視されてきた? というより、
“コンクリートから人へ”などのキャッチフレーズで、さらに遠ざけられてしまった感がある。 

寿命はそれほど長くないという。 やがて、笹子トンネルの事故が発生した。 
この直接の原因は、コンクリートではなかったが、いわゆるメンテナンス(保守、補修)がおろそかに
されてきたツケが来たのだ。 笹子トンネルは、いつも蓼科の畑への道中で利用していたのです。

  中央高速道 上り車線 小淵沢を過ぎたあたりから・・



 先日、H氏から届けられたネットジャーナルを引用します。

***********************
文藝春秋 2013年02月号 p376-382

     「トンネル、橋……
          危ないインフラを放置するな」   藤井 聡(京都大学大学院教授)

【要旨】2012年12月に起きた、山梨県の中央自動車道にある笹子トンネルの崩落事故は、
9人の犠牲者を出すとともに師走の交通・流通に混乱を招いた。
原因は「老朽化」によるボルトの欠落とみられ、多くの国民にインフラの点検・補修の必要性を感じさせることとなった。
本記事は、笹子トンネルだけではない、トンネルや橋などの老朽化の現状を指摘し、過去に同様の問題を
乗り越えたアメリカの例を紹介しながら、国による対策の必要性を訴えている。
筆者は公共政策を専門とする京都大学大学院教授で、第2次安倍内閣の内閣官房参与に登用されている。
著書に『列島強靱化論』(文藝春秋、2011年)がある。
  ------------------------------------------------------------

 我々が暮らしている近代文明は、「コンクリート文明」である。ビルも橋も堤防などと、
インフラは皆、コンクリートで作られている。コンクリートは堅くて頑丈だ。
しかし、その耐久性は、石や木や土に比べれば、著しく劣る。コンクリートはおおよそ50年から60年で寿命が来てしまう。
そして我が国に大量のコンクリートの橋や水門、堤防などが作られたのは、1960年頃の
高度成長期の時代であった。
そこから50年後といえば、「2010年」だ。このことは、今、日本中のインフラが、一斉に寿命を迎え、
老朽化しつつあることを意味している。我が国は、「人間の高齢化社会」だけではなく、
「インフラの高齢化社会」を迎えているのである。

 我が国よりもおおよそ30年ほど早い1930年頃に、様々なインフラをコンクリートで作り始めたアメリカでは、
1980年頃に、全国のインフラの老朽化の問題に直面し、貴重な人命が失われている。
その詳細は、『荒廃するアメリカ』という書籍の中で詳しく述べられているが、例えば、
1983年のコネチカット州にあるマイアナス橋が崩落している。この橋は、一日の交通量が約9万台という
地域の大動脈であり、そのため3名の人命の損失とともに、3ヵ月にもわたるアメリカ北東部の
大規模な経済混乱がもたらされたのであった。

 こうした混乱が起こった背景には、単にインフラが高齢化してしまったという問題に加えて、
当時のアメリカ政府が、「道路予算」そのものを削減してしまったという事情があった。

 そもそも、インフラのメンテナンスの費用は、寿命がやってくるまでは、さして大きな金額とはならない。
しかし、建設後50年程度が経過して高齢化すれば、抜本的な点検、維持、改修費用が必要となってくる。
ところが、当時のアメリカ政府は、この「自明の理」を失念していたのである。
それ故、新規の道路整備量が減少してくるにしたがって、道路予算を年々削っていっ
たのであった。
そのため1980年前後には点検や維持に十分な予算が付けられなくなってしまった。
この一点が、アメリカの1980年前後における、相次ぐインフラの崩落事故につながっていったのだ。

 複数のインフラ崩落事故の苦い経験を経て、アメリカ国家はインフラのメンテナンスに大規模財源を確保するべく、
抜本的な対策を図っていった。まず第一に、マイアナス橋の大崩落事故が起こった1982年に、一気に、
ガソリン税を「2倍」以上にまで引き上げた。そしてその後も値上げを繰り返し、その増加額の大きな部分を、
メンテナンス費用に割り振るような予算配分とした。その結果、80年前後に相次いで起こった橋梁の崩落事故は
激減することとなったのである。

 改めて指摘するまでもなく、以上に述べた「荒廃するアメリカ」の苦悩は、そっくりそのまま、
これから我々がこの日本で直面する苦悩そのものなのである。そうである以上、我々は今、
アメリカのように抜本的に財源を確保し、徹底的にインフラの老朽化対策を図らなければならない時代に
生きていると言わざるを得ない。ところが我が国では、たった10年余り以前には約15兆円

インフラ関係費であったものが、今やもう既に6兆円程度という水準にまで削減されてきたのである。

 ある試算によれば、今後50年間のインフラの維持・改修費用は、実に 337兆円にも及ぶとも、あるいは、
400兆円を上回るとも言われている。つまり、平均で1年あたり7~8兆円程度の予算が、インフラの
維持・補修「だけ」に必要であるが、6兆円程度では新設はおろか、十分なインフラの維持・改修すら
不可能となっているのである。
その背景には、民主党政権が平成21年の総選挙で掲げた「コンクリートから人へ」というスローガンに象徴される、
インフラ関係費を大幅に削減しようとする大方針があった。

 そんな「荒廃を放置する日本」でもとりわけ危ないのは、やはり「橋」である。そもそも「橋」という構造物は、
重力に逆らってつくられているものであるから、老朽化が進行すれば、落ちてしまう。
日本国内では大規模な事故は起こっていないものの、激しく老朽化している大型の橋は、いくつも知られている。
 例えば、三重県の桑名市にある「伊勢大橋」は、2メートルもの地盤沈下が発生している橋桁もあり、
橋梁自体が大きく湾曲している。国土交通省は、この橋梁の大改修をかねてから計画してきたのだが、
民主党政権の方針のために差し止められ、そのまま放置されている。

 この問題を回避するのは、実に簡単だ。内容を取り立てて査定せずに、とにかく一面的にインフラ関係費を削減し、
インフラ事業を「凍結」してしまうような不合理な政策方針を解除しさえすれば良いのである。

 報道によれば、笹子トンネルでは、ハンマーで叩いて音を聞きながら異常を察知する「打音検査」が
2000年を最後に実施されていなかったという。打音検査さえ実施されていれば、今回の事故は回避できたのでは
ないかと報じられている。では、なぜ実施されなかったのだろうか。その原因のひとつと考えられるのは、
笹子トンネルを管理する NEXCO中日本が「道路公団」から分割民営化してできたときに、維持・管理費用を
3割削減したという事実である。
 例えば国から打音検査をすべしという強い指導があったのなら、 NEXCO中日本もそのための予算を確保し、
適正な検査を行っていたということも考えられよう。しかし、そうした強い指導が行われた形跡も見られない。

 こうした「人の命」に関わる事業については、何もかもを民間の裁量に任せるのではなく、
政府による安全に関する適切な「規制」が欠かせない。そして、それを実行させるための十分な予算措置も当然、必要となる。

 コンクリート文明に生きる我々にとって、インフラの老朽化の問題は「文明社会の荒廃」そのものを意味している。
したがって、インフラ老朽化問題を放置するという態度は、文明社会の荒廃そのものを放置することに他ならない。

 折しも我が国には、デフレ脱却と経済成長を目指した積極的な財政、金融、インフラ政策のポリシーミックスである
「アベノミクス」を掲げる安倍新内閣が誕生している。「アベノミクス」における大規模な政府支出項目に、
復興、防災に加えて「文明の荒廃を乗り越えるための徹底的なインフラ老朽化対策」を掲げるべきである。

 とりわけ、平成24年度の10兆円規模ともされる補正予算においては、景気対策として即効性ある予算の執行が
求められている。そんな時、用地買収等が必要とされる大型のインフラ「整備」は必ずしも実務的には容易ではなかろう。
しかし、老朽化対策ならば、短期的な点検や附属部品の交換なども含め、柔軟、かつ、実質的に効果的な予算の執行が
可能であろう。

コメント: インフラの多くが老朽化しており、実際に死亡事故も起きている。点検と補修が必要であり、
そのための予算を確保し執行する。至極当然のことであり、ほとんどの人は納得するだろう。
しかし、公共事業においては、利権や利益誘導に関し国民のあいだに根強い警戒感があるのも事実だ。
整備が必要なところはどこか、どれくらいのコストが発生し、そのための予算はどの程度必要か、
といったことを透明度の高い公正なデータで示す必要があるだろう。
人命にも関わることだけに、客観的で冷静な議論を望みたい。

Copyright:株式会社情報工場













三橋貴明 
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映画 Les Miserables (mak)

2013-01-26 | 科学・生物

映画『レ・ミゼラブル』日本版予告編



今ヒットしている映画Les Miserables(レ.ミゼラブル)を映画館で鑑賞した。

 ビクトル ユーゴが1862年に書いた小説で、日本では明治36年に『噫無情』(ああむじょう)の題名で翻訳された。
世界43カ国、21ヶ国語で上演され、各国の劇場観客動員数記録を塗り替えるとともに、27年間という驚異的ロングランと6千万人を超える動員数を達成した伝説の大ヒット舞台ミュージカルの映画版。

あらすじ:
 格差と貧困にあえぐ民衆が自由を求めて立ちあがろうとしていた19世紀フランス。ジャン・バルジャンは、パンを盗んだ罪で19年間投獄された。
仮釈放されたものの生活に行き詰まった彼は、再び盗みを働くが、その罪を見逃し赦してくれた司教の真心に触れ、身も心も生まれ変わろうと決意。マドレーヌと名前を変え、市長の地位に上り詰める。
そんなバルジャンを執拗に追いかける警官のジャベール。そして、不思議な運命の糸で結ばれた薄幸な女性ファンテーヌ。彼女から愛娘コゼットの未来を託されたバルジャンは、ジャベールの追跡をかわしてパリへ逃亡。コゼットに限りない愛を注ぎ、父親として美しい娘に育てあげる。
そんな中、パリの下町で革命を志す学生たちが蜂起する事件が勃発し、誰もが激動の波に呑まれていく・・・。
 
 これは、ひとりの徒刑囚ジャンバルジャンが偉大なる聖人として生涯を終えるまでの波乱に満ちた物語であり、その底を流れているのは、永遠に変わることのない真実の『愛』である。
 
 あまり期待せずに映画館に入ったのですが、最後のシーンで涙が出て、感動させられました。

イギリスのTV番組 I got Talentで2007年の優勝者Paul Pottsと2009年のSusan Boileの素晴らしい歌声に大喜びの審査員と聴衆者:




奇跡の歌姫Susan" Boile I dreamed a dream"を歌う。下の画像をCTRLを押しながらクリックすると、Youtubeの動画が別タブで開きます。

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バジル   (bon)

2013-01-26 | 花鳥風月
バジリコともいう。 
イタリア語でバジリコ、英語でバジルなのかも・・。

なぜ、今バジルかといえば、
お正月に孫たちを車に乗せた時に、後部座席の足元あたりでバジルの香りがするというので、
取り上げてみると乾燥したバジルの茎でした。

おそらく、蓼科の帰りに後部座席に座った誰かが置き忘れたに違いない・・。
とすれば、もう随分日程的に前のことだ。 2か月は過ぎている・・。


そのバジルの茎を、取り上げて空の花瓶に入れてドライフラワーの感じで置いていたのですが、
香りだけでなくジッと傍で見てみると何ともかわいい色をしている。

   


畑では、このような状態になった枯れたバジルの茎を、手で下から上にしごいて種部分を採るのです。 
なので、マジマジとこの部分を見ることがあまりなかった。


 また、ウイキペディアによると、
“バジリコの種子はグルコマンナンを多く含むため、水分を含むと乾燥状態の約30倍に膨張し、
ゼリー状の物質で覆われる。
食物繊維を豊富に含むことからダイエット補助食品としても利用されている。
日本には最初、種子が漢方薬として輸入された。
ゼリー状の物質により目の汚れを取り去る目薬とされ、メボウキ(目箒)の名称が付いた。東南アジアとアフガニスタンでは、水に浸した種子をデザートや飲み物にする。”

以前にもご披露しましたが、4年前の作品(バジル)です。

              









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大手前高校5年4組   (bon)

2013-01-25 | 日々雑感、散策、旅行
わが母校ではありませんが、大阪の名門高校の一つ大手前高校の名前がたまたま新聞の図書広告欄に、
掲題の書籍広告が目に止まった。

高校で5年とはこれ如何に・・?

著者田村英也氏は、昭和30年入学で途中2年間の療養生活をされているのでした。

ネット検索で、以下の部分を引用します。

“この物語は僕が5年間大阪府立大手前高校に在籍した時に、 実際に僕が経験したものです。(中略)

又、母校の先輩・同輩をはじめ多くの方々にも高校時代に戻って、 あの多情多感な青春時代を、
懐かしく読んで頂きたいと思います。(まえがきより)”




“今から約50年前、関西の名門校・大手前高等学校に通う学生の青春とはどのようなものだったのか。
個性的な教師のもとで学んだ授業風景、放課後を捧げた部活動、甘く切ない恋、途中2年間の闘病生活という
苦難にも遭いながら、大人への階段をのぼっていく。

半世紀の時を経てなお、今も昔も変わらない青春時代に思わず頬が緩みます。
読んだ人の心温まるエッセイです。”

著者、田村英也(たむら ひでや)氏のプロフィール
昭和35年大阪府立大手前高等学校卒。昭和39年名古屋工業大学電気工学科卒。現在、有限会社英E&C代表取締役。
中小企業診断士(104419)経済産業大臣登録
QMS審査員補(A01414)JRCA登録。
大学卒業後、民間電気メーカーで設計・開発・企画・製造・営業・資材管理等の職務を経験。昭和56年「英エンジニアリング & コンサルティング」を設立(平成元年 有限会社英E&C〈ヒデイーアンドシー〉と改称し法人化)し、中小企業診断士として、中小企業の経営改善や製造業の作業改善、品質管理指導を行う。


わが清友幼稚園出身の芹洋子が歌う~








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百人一首   (bon)

2013-01-24 | 日々雑感、散策、旅行
すっかりお正月気分も抜けきっている時に、なぜまた百人一首かということですが、
たまたま、JAFの新年号(月刊情報誌)に取り上げられていて、JAFのことだから京都・奈良を巡る企画の記事でした。

そんなわけで・・・。

普通、百人一首といえば、小倉百人一首のことで、何で小倉・・というのか?

またまた、無粋な質問で申し訳ありませんが,ちょっとおさらいしておこうと思います。

“小倉百人一首は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて活動した公家・藤原定家が選んだとされる
私撰和歌集である。 その原型は、鎌倉幕府の御家人で歌人でもある宇都宮蓮生(宇都宮頼綱)の求めに応じて、
定家が作成した色紙である。 蓮生は、京都嵯峨野(現・京都府京都市右京区嵯峨)に建築した別荘・
小倉山荘の襖の装飾のため、定家に色紙の作成を依頼した。
定家は、飛鳥時代の天智天皇から鎌倉時代の順徳院まで、100人の歌人の優れた和歌を一首ずつ選び、
年代順に色紙にしたためた。
小倉百人一首が成立した年代は確定されていないが、13世紀の前半と推定される。成立当時には、
この百人一首に一定の呼び名はなく、「小倉山荘色紙和歌」「嵯峨山荘色紙和歌」「小倉色紙」などと呼ばれた。
後に、定家が小倉山で編纂したという由来から、「小倉百人一首」という通称が定着した。”
(ウイキペディアから)

なるほど・・。

小倉山は、京都の嵐山にある標高295mのこんもりとした実在の山なんですね。
ここに山荘があった・・・。
 右手の低いこんもりとした山ですね。


これをカルタとして、いろいろな楽しみ方や競技に発展させたのは何時ごろかわかりませんが、
上の句と下の句をうまい具合に読み札と取り札に配置した、そこに文学的な和歌に加えて、競技てきな面白さ、
さらにいえば武士、僧侶、姫などの絵柄も楽しめるなかなかのものといつも感心しています。

ちょっとだけですが、お正月に遊んだ札をスキャナーで読んでここにアップして見ます。

          

       











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創造都市   (bon)

2013-01-23 | 日々雑感、散策、旅行
先日、何かを見ていた時にフット目に止まりました。そういえば以前にも見たことがあるな。 

この手の言葉(創造・・)は、私の好きなワードで、すぐに具体的に利点とか何かが判明する式のものではなく、
もっと先を見たというか、今じゃなくてもうちょっと先にいいことがある・・なんて、
ちょっと無責任ムードもあるのか、そんなことを企画したり考えたりすることにワクワクするのですね。 
少なくとも昔はしていましたね。 

例えば、30年後の神戸をイメージする委員会(神戸市主催)のメンバになったりして好きなことを発表したり
していました。 私の場合は、情報通信というかいわゆるITを駆使した未来形を提案するのです。 
それで、発表はどうしたか? といいますと、ちょっと奇をてらって、原稿用紙に30年後の街の様子の様な事を
散文調で書いて提出しました。 ハイテクでなくて昔のローテク・・で。


前置きがずいぶん長くかかりましたが、いつものようにネットであちこち調べてここにご紹介します。

札幌市がこの創造都市に参加宣言していますので、その定義みたいなところをちょっと・・。

“文化芸術の多様な表現に代表される創造性を活かし、産業振興や地域の活性化などのまちづくりを進めている都市は
「創造都市(Creative City)」と呼ばれており、近年の都市戦略モデルとして注目されています。”

まあ、大体このような定義で、それぞれの都市の特徴をフィーチャーしながら未来形を取り入れて
活性化を目指しているというところですね。

例のウイキペディアには、創造都市ネットワークというのがあり、
“創造都市ネットワーク(そうぞうとしネットワーク、 Creative Cities Network)は、
2004年にユネスコにより創設されたプロジェクトのひとつ。映画、デザイン、文化、工芸など7つの分野から、
世界でも特色ある都市を認定したもの。「グローバル化の進展により固有文化の消失が危惧される中で、
文化の多様性を保持するとともに、世界各地の文化産業が潜在的に有している可能性を、都市間の
戦略的連携により最大限に発揮させるための枠組みが必要」との考えに基づいている。

2010年までにユネスコに認定されている創造都市は世界で21都市あり、日本からはデザイン部門で
神戸市と名古屋市、工芸部門で金沢市が認定されている。” とありました。

エジンバラ
(ネットから)

金沢卯辰山工芸工房
(ネットから)


また、文化庁では、この創造都市に関して次のような事業を推進している・・というのですが、何とも消極的ではありませんか。
表彰する・・事ぐらいしかできないのでしょうか?

“産業構造の変化により都市の空洞化や荒廃が問題となる中,欧州などでは,文化芸術の持つ創造性を活かした
産業振興や地域活性化の取組が,行政,芸術家や文化団体,企業,大学,住民などの連携のもとに進められてきました。
こういった取組は「クリエイティブ・シティ」として国内外で注目されつつあります。
ユネスコも,文化の多様性を保持するとともに,世界各地の文化産業が潜在的に有している可能性を都市間の
戦略的連携により最大限に発揮させるための枠組みとして,2004年に「創造都市ネットワーク」事業を開始しました。
 文化庁においても,文化芸術の持つ創造性を地域振興,観光・産業振興等に領域横断的に活用し,
地域課題の解決に取り組む地方自治体を「文化芸術創造都市」と位置付け,文化庁長官表彰,
国内ネットワークやモデルの構築を通じ支援しています。”

ようやく最近、文化庁主催で、神戸市、金沢市などが発起人となり、「創造都市ネットワーク日本
(Creative City Networkof Japan)」を設立することになり、国内の創造都市間の連携・交流活動を進めるとともに、
海外の創造都市との交流、国際ネットワークとの連携を進めるプラットフォームになることを目指し、
つい先日、2013 年1 月13 日に横浜において、設立総会と記念シンポジウムが開催されました。



MISIAの曲から・・







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カレー   (bon)

2013-01-22 | 日々雑感、散策、旅行
ウイキペディアを見ると、
「カレー( Curry、カリー)は、複数の香辛料を使って野菜や肉などのさまざまな食材を味付けした料理をいう。
インドとその周辺国で作られていた料理をもとに発展し、現在では国際的に人気のある料理の一つとなっている。
日本では、明治時代にイギリス経由で伝わり独自の進化をとげたカレーライスが国民食と呼ばれるほどの地位を得ており、
日本でカレーといえばカレーライスを指す場合が多い。」とあります。

このカレーについて、またまた受け売りで申し訳ありませんが、いつもの友人H氏からのネット情報に
身近な話題がありましたので、ここに取り上げさせていただきました。(内容無断で一部省略しました。)
 
************************************ 

『カレーの経営学』
       井上 岳久 著  東洋経済新報社 2012/05 192p 1,575円

 序.カレーを知れば、ビジネスの本質がわかる
 1.ハウス食品に学ぶ創業の「秘伝」
 2.カレー業界は経営戦略の宝庫
 3.「バーモントカレー」はマーケティングの教科書
 4.コンスタントにヒット商品を生み出す研究開発の法則
 5.ライバルを撃破する競争戦略
 6.できる会社の財務会計はここが違う
 7.人事制度で社員の連携は図れる

【要旨】日本の大衆的な国民食として、ラーメンとともにカレーを挙げる人は多いのではないだろうか。
実際、日本国民は平均して週に一度はカレーを食べているという。本書では、そんな日本人にとってきわめて身近であり、
さまざまな関連ビジネスを生んでいる「カレー」を題材に、経営学のエッセンスを解説している。
とくに、「バーモントカレー」をはじめとするヒット商品を数多く製造・販売し、業界シェアの過半数を占める
リーダーカンパニーであるハウス食品にスポットを当て、その経営戦略やマーケティング、商品開発や財務会計、
組織・人事制度にまで着目。ライバル企業との競争にもふれながら、成功の要因等に迫っている。
著者は、2007年に閉館した「横濱カレーミュージアム」の館長兼プロデューサーの後、「カレー総合研究所」を設立、
代表を務めている。
  ------------------------------------------------------------

 カレーは辛いものである。そんな常識を覆したのが、1963年に発売されたハウス食品の「バーモントカレー」です。
現在でも単品でカレールウ市場のシェア約3割をキープしているお化け商品。その誕生は確かな消費者調査に
裏打ちされたものでした。

 それまで家庭の食卓では、「大人はカレーライス、子供はハヤシライス」と棲み分けができていました。
けれどもカレーは学校給食で人気を呼び、家でもカレーを食べたいという子供たちの需要は膨張し続けていました。
ハウス食品が調査した結果、家庭では牛乳を入れたり、りんごをすりおろしたりしてカレーの辛さを和らげている
こともわかりました。そうしたニーズを的確につかみ、開発したのが「バーモントカレー」です。

 バーモントカレーは単に辛くないだけでなく、美容と健康にも良いというのが母親たちを納得させる材料となりました。
実は発売から売れるまでには時間がかかりましたが、次第に人気商品となり、最盛期にはたった一ブランドで
市場全体の4割強を占めるまでに成長したのです。

 幼稚園児や小学生がいる家庭は、カレーを消費する最大のボリュームゾーンですから、そこにミートしたのが、
まず最大の勝因です。けれどバーモントカレーには、ハウス食品の優位を決定付ける、もっと壮大な戦略が
あったのです。

 通常、家庭の食卓は子供を中心に組み立てられているものです。そして一度一つの味に馴染んでしまうと、
中々別の品には替えられない商品特性がカレールウにはあります。
子供が成長して少しずつ辛くしていくにしても、大きく味は変えられないので、同じシリーズの中で
スイッチすることになります。その「囲い込み」をより確実にしているのが、パッケージの裏側に印刷された
辛さの度数表示で、自然とハウス製品の中だけで移行するように促してあるのです。

 人間の味覚は11歳で形成されるという説もあり、子供時代に食べた味は自分の好きな味として記憶に残ります。
生まれて初めて食べるカレーを「ファーストカレー」と呼びますが、バーモントはそのポジションをガッチリとつかみ、
ハウスファンを一生離さず、次世代へとつなげていく磐石な「ライフサイクル戦略」を行っているのです。

 日本でカレーがこれほどまでに受け入れられたのは、南インド地方の、古来日本人が食べ慣れた「ご飯」にかけて
食べるものとしてヨーロッパを経由して入ってきたからです。
もし北インド地方のナンやチャパティで食べる料理として入ってきたなら、これほどまでにカレーという料理は
日本では受け入れられなかったと思います。
 また日本に入ってきたカレーは、カレー粉で具材を煮込んだだけのシンプルなものでした。
だから日本人の口に合う食べやすい味にアレンジしやすかったといえます。

 カレーが広まっていない国の人に、なぜカレーが好きでないのか聞くと、スパイスが臭いからという答えが
返ってくることがあります。その点、古くから中国との関係が深かった日本人には漢方は馴染み深いものでした。
つまり DNAのレベルで食べ慣れていたものだったのです。

 以上のように考えてくると、人が感じる「美味しさ」の基準には、食べ慣れていることが強く影響している
ことがわかります。家のカレーは、一度使い始めたルウをなかなか変えられないのも、味覚の絶対基準ができる
といわれる11歳の頃に食べたバーモントカレーが圧倒的なシェアを誇っているのもうなずけるわけです。

 カレー商品というと現在はカレールウとレトルトカレーが二大商品です。この二つのマーケティングや
商品開発は微妙に異なります。
 その違いの源となっているのは、ルウとレトルト、それぞれのターゲット層、すなわちそれを欲する消費者層と
シーンの違いです。まずルウでカレーを作る光景を想像してみましょう。それは家族の食事に代表されるように、
大鍋で大人数分を作っている光景です。これに対してお鍋にレトルトパックを入れてカレーを作っているのは、
一人分を作りたい人が圧倒的多数です。

 家庭で作るルウカレーは、お父さんお母さんから子供まで、全員が美味しいと思えるカレーでなければなりません。
そして、家庭のカレーはルウを変えるのが難しい。変えると家族から「今日のカレー、味がいつもと違う」などと
ブーイングを浴びることになるので、お母さんはなかなか冒険ができないのです。
 つまるところ、カレールウの開発は、なるべく大勢の人が長期にわたり美味しいと思える安定志向の商品が
中心ということです。

 対してレトルトカレーはどうでしょう? もしスーパーやコンビニの商品棚に目新しいレトルトがあったら
食べてみたいと思う人が多いのではないでしょうか。しかも、万一それで失敗しても、おいしくない責任を取るのは
自分一人だけです。
 つまりレトルトカレーの開発は、安定志向ではなく、挑戦的な商品も対象になるということです。
だからこそ、全国で1000種類を超えるような膨大な類のレトルトカレーが誕生しているのです。
 こうした個食とファミリー食の違いはカレーに限ったことでなく、食品全般にいえることです。 (中略)
        インドのカレー
         (ウイキペディアより)


 昭和30年代初め、カレー業界はまだ、家族経営レベルの会社が全国各地にひしめいている状態でした。
この時期に、ハウスが「うちはカレー粉の会社だから」と固執して、インスタントカレーやカレールウなどに
手を拡げなければ、今でも家の隣に小さな工場があって、親子で細々とカレー粉を作っているような会社だったかもしれません。
 終戦後の復興期までのカレー業界は、多くのメーカーがどんぐりの背比べをしている状況でした。
そこから時代の流れに乗って、臨機応変に対応した数社が抜け出し、現在の大手として勝ち残ってきたのです。

 ハウス食品には、こんなエピソードもあります。
 数年前、小麦粉の価格が上昇して、メーカーが自社商品の値上げを迫られたことがありました。
メーカーの選択としては(1)価格を上げる(2)量を減らして価格を据え置く、の二つが考えられるわけですが、
一般的に消費者は値上げを嫌うので、多くの企業が(2)を選択しました。
ところがハウス食品が取ったのは(1)の値上げだったのです。

 実はそれまでの調査で、消費者はあまりパッケージの裏の調理法を読まないことがわかっていたからです。
カレールウの内容量を減らせば、当然お湯の量も従来より減らした記載になるのですが、多くの購入者は
それを読まずに、いつもの分量で調理をしてしまう可能性が高いのです。
そうするといつもより薄めのカレーができてしまい、美味しくないイメージを与えてしまう
という、
そちらのリスクを回避する方をハウス食品は選択したのです。
そこにはハウス食品という企業のプライドも窺える気がします。
 結局この判断は正しかったようで、売上に大きな影響はなかったそうです。


コメント: 安定志向で「定番」が存在するルウと、新しい挑戦ができるレトルトの、二つのターゲットを持っていることが、ハウス食品をはじめとするカレー業界の大きな強みなのだろう。ルウというベースがあるから、他種の商品展開が思い切ってできる。価値観が多様化する現代にあって「定番」を持っているというのは、きわめて幸運なことといえる。バーモントカレーのような、人々の習慣や文化に根ざした定番商品を持ちえない業界の場合は、現代人に「習慣」をつくり出すような商品展開が有効なのではないだろうか。

Copyright:株式会社情報工場



シタールの演奏







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先祖がえり   (bon)

2013-01-21 | 日々雑感、散策、旅行
アルジェリアでは大変なことが起こってしまいました。
日本政府も日揮も総力を挙げて安否確認をしていますが、厳しいといっています。 
このような人がまだまだいるんですね。


こんな時になんですが、園芸友の会のノートを見ていましたら、「先祖がえり」が目に止まり、ちょっと調べてみました。


学研の“国語大辞典”では、「先祖にはあったが、現在では一般に見られない形質が突然ある個体に現れること。」 
とありましたが、 植物に限定してみると、
ネットでは、「先祖返りとは、交配や突然変異をして品種が改良された植物が、交配前の品種に戻ってしまう
ことを言います。」とある。  この場合の交配とは、人為的に交配させたものや、自然に交配したものも含んでいる。

例えば、斑入りの葉っぱを特徴にもつ植物が交配して種ができ、その種から成長する植物の葉っぱが斑入りでなくなり、
元来の緑葉に戻ったりするのも先祖返りのひとつです。

もともと、斑入り植物は、緑一色の葉っぱを持つ植物が、突然変異で葉緑素を一部なくした状態のもので、
このような自然界の突然変異株を選抜して人工栽培し、斑入り品種として流通してきたものが、斑入り植物のルーツなのです。 
もともとが緑一色の植物ですから、「先祖返り」とは、斑入りがなくなり、あるいは斑入りでない葉が出現して、
それが優生なので、劣性の斑入り葉が減っていき、最後には緑一色の植物に戻ること、またその経過をいいうのだそうです。

だから、先祖返りを見つけたら、すぐに緑一色の葉を取らなきゃいけない。枝全体が緑色になっている場合は、
枝ごと切り取る必要があるといいます。

緑一色の葉は斑入り葉よりも強健ですので、斑入り葉が駆逐されてしまいますので、見つけたらすぐに
緑色の葉を摘み取る必要があるのです。

先祖返りは、ほぼすべての斑入り植物にありうる現象だそうです。



これと似た現象に「枝変わり」とか「葉変わり」というのもあります。

枝変わりとは、「植物にみられる突然変異のひとつで、一部分だけ枝葉、花、果実が
他の部分と違った性質になって、子に伝えられていくもの。
これにより新しい品種が得られた例が果樹に多い。花の例では、もともと花の色が赤であるのに、
一枝だけは白い花が咲くような状態。」

ウイキペディアでは、
「枝変わり(えだがわり、bud sport)とは、植物のある枝だけに関して、新芽・葉・花・果実などが、
成長点の突然変異などによって、その個体が持っている遺伝形質とは違うものを生じる現象である。
動物であれば、体細胞の突然変異が新たな個体に反映することはまずあり得ないが、植物では成長点から先舳先へと
体が作られてゆくため、変異しなかった部分と区別され、形質として固定する可能性がある。」・・・(この、動物と植物の体細胞の仕組み・違いについて別途勉強してアップしたいと思います。)

枝変わり コニファの例
 (ウイキペディアから)


葉変わり(はがわり)
植物の一部の葉に生じた突然変異なんだそうで、その葉っぱだけがまわりと違ったのが出る・・というのですね。


先祖がえりで、もう少しネットを見ていたら、読売オンラインに次のようなくだりがありましたので部分掲載します。

「“先祖返り”の鍵をこじ開ける  山中伸弥・iPS細胞研究所長らが開発した
iPS細胞には、そうした問題がない。私たちの体を形作る60兆個の細胞は、受精卵から発生が進む過程で、
それぞれ心臓や肝臓、目などの細胞に変化し、その後は他の細胞にならないよう指令が出される。
専門の細胞になった後は、“先祖返り”しないように遺伝子に鍵がかけられるのだ。

 だが、山中所長らは、鍵を開ける遺伝子があると信じた。ES細胞だけにあり、ES細胞が別の細胞に変化した後は
働かなくなる遺伝子を探した。
それは数百個あった。24個まで絞り込んで、その遺伝子すべてをマウスの胎児の細胞に入れ込むと、
ES細胞に似た細胞ができた。 
次に、加える遺伝子を1個ずつ減らしていくと、4遺伝子が組み合わさった時に鍵が開くとわかり、
iPS細胞の開発につながった。」と。








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春を待つツタンカーメンのえんどう苗  (bon)

2013-01-20 | 花鳥風月
このところお天気続きですが、気温が低いのかベランダの雪はまだ融けずに残ったままです。
二十四節気の「大寒」を迎えてやはりこのところ関東も一段と寒さがましているようです。


 昨年、本来ならば10月下旬頃にたねまきをする予定でいましたが、畑の“植えるべき場所”が定まらなかったのと、
大規模修繕工事が佳境時期でもあったりで、ついそのタイミングを逃してしまいました。
しかたなく、11月に入ってから、室内でポット播きしました。

一週間くらいしますと,ほとんどの豆が発芽してくれました。
しかし、このまま室内に置いておくと、ソラマメの時のように“徒長”し過ぎてしまいますから、
ポットなので寒くはないか・・?と心配でしたので、発砲スチロールの手ごろな箱にビニールポットをみんな(9個)いれて
室外に放置しておきました。

 先日の雪も被り、その後発泡スチロールに水が溜まっていて、それがこの寒さで氷が出来て、
氷のあいだから芽が伸びている状態でした。

 氷はみんな取り払って、直接雨のかからない、風も直接当たらない「貴賓席」のような感じ
のところに置き換えました。

寄り添うツタンカーメンのえんどう



 春、暖かくなれば、市民農園かベランダのプランターに植え替える予定でいます。
これで、うまく行けば、たくさん収穫出来るかも・・。
そうなれば、来年用の種を少しお分けできるかもしれません・・・などと、気の早い皮算用をしてしまいました。


大鵬は、数々の記録を残して逝ってしまいました。3年前の今ごろ流氷を見にオホーツクに行った折に、
大鵬記念館を見ました。





Nicoletta Mamy Blue



Pop Topsが大豆(Oh Mamy)を欲しいと泣き叫んでますよ。




I may be your forgotten daughter
who wandered off at twenty one
it's sad to find myself at home
たぶん私はあなたの忘れられた娘です。
あなたのもとを21歳で出て行ったけど
悲しいです 今家に帰って来て。。


You, you are not around.
ママはいない。


If I could only hold your hand
and say I'm sorry yes I am
I'm sure you really understand
ママの手を握れたらいいのに。
そして ごめんなさいと言えたらいいのに。
きっと ママはわかってくれると思う。


oh, ma, where are you now?
ああママ どこにいるの。

The house we shared upon the hill
seems lifeless but it's standing still
and memories of childhood days
fill my mind
私たちがいた丘の上の家は
人影もなく ただ立っているだけ。
そして子供時代の思い出で
私の頭はいっぱいになる。

I've seen enough of different lights
seen tired days and lonely nights
and now without you by my side
I'm lost
how can I survive.
うんざりするほど明かりを見て来た。
昼は疲れて夜は孤独。
そしていまママは私のそばにいない。
私は迷子になっている。
どうやって生きて行けばいいの?

Nobody who takes care of me
who loves me
who has time for me
the walls look silent at my face
だれも私の面倒を見てくれない。
私を愛してくれない。
私に時間をくれない。
壁が黙ってボクの顔を見ているだけ。

oh Ma
so dead is our place.
ああママ 私たちの場所はなくなってしまった。

The sky is dark
the wind is rough
and now I know what I have lost
the house is not a home at all
I'm leaving
the future seems so small.
空は暗く
風は吹き荒れて
今 わかった 私のなくしたもの。
この家には一家団欒なんてない。
私は出て行く。
未来なんてちっぽけみたい。


Ou es tu, ou es tu mamy blue
Oh mamy blue

どこにいるの どこにいるの マミー ブルー
オー マミー ブルー





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スカイツリーの照明   (bon)

2013-01-19 | 日々雑感、散策、旅行
東京スカイツリーのライティングデザインを担当した若きデザイナー(戸恒浩人氏)の苦心話しが、
先の会報に語られていましたので、抜き読みでご紹介したいと思いました。

これまでもそう思っていましたが、何事によらず“そのことを語ろう” “企画しよう”などと思った時には、
やはり、そのことの「本質」を見極めて、その上で何かを始める・・というのが“スジ”なんですね・・。

 それでは、彼の苦心談を・・・

 デザインで目指したもの  
彼は、常々“建築物のライトアップは、その建物が立つ土地ならではの意味を持つべきだ”と考えていたという。
まず「江戸」というキーワードを根本に据えることとしたそうだ。

 では、そこに映し出される「江戸」とは・・? あれこれ考えた末、「心意気」と「美意識」を軸にすることにした。
心意気とは、“ちゃきちゃきの江戸っ子” “宵越しの銭はもたない”と表現される感性や競い合う人々の
エネルギーが生む気分のことです。
美意識とは、かって江戸では版画・錦絵・浮世絵など優れた芸術が数多く生まれ、今日でも最先端のデザインや
ファッションを発信し続けている。これらを「粋」と「雅」で表現することにしたのだ。

 心意気の「粋」 
イメージしたのは、お祭り好きの江戸っ子が褌をして法被を着ている姿です。

一方の美意識の「雅」は、気品ある江戸紫を用いた。 
粋とは対照的に、柔らかで優雅な印象を狙って、和服姿の女性がこちらを向いてすっと立ち、着物の裾が広がっている
イメージです。 第一展望台を和服の帯に見立てているのだそうです。

時を刻む光 
「過去100年・未来100年というが、先人から未来の子孫まで連綿と受け継がれて今の私たちが生きている・・
その大切さを、ずっと変わらなく進み続ける時間を感じさせる光で表現したいと思いました。」
哲学的ですが、素晴らしいですね。

 「夜の富士」でありたい   
「ビルとビルの合間にツリーの上半分が夜の富士のように浮かんで見えれば、江戸の原風景を東京の夜空に再現することになるのでは・・」

 全部を照らし出さないライトアップ  
やはり“省エネ”というのも重要で、エネルギー効率の良い蛍光灯を使うなど、ハード面での省エネもあるが、
これに加えてデザインというソフト面での省エネも考えて、「デザインのエコ」と名付けた設計を模索した。
ではどうすればよいか・・? 日本古来の光の文化にその答えを探し、
「陰翳礼讃」という谷崎潤一郎の言葉に出会ったという。


いよいよ照明設計  
ここからが現実的な、技術的苦労が続く。 
光源の設計を開始した2008年当時、LEDはまだ暗く光も悪く、住宅内をようやく照らせる程度だった。 

一番の問題は、江戸紫の発色でした。 色のついた光は、ランプの上にガラスフィルターを載せて作るのですが、
煌々と光る白色ランプの上に紫いろのフィルターを載せると、まるで蓋をしたかと思うくらい暗くなってしまう。
人工照明は太陽光と違い、光のスペクトルが限られているからだそうです。
江戸紫の色も悪く、意図したとおりに出なかったという。

 (ネットから拝借しました。)                 


オールLED化への挑戦  
そんな時、4ワットの紫色のLEDを試作したというメーカが現れ、わずか4ワットながら空間が美しい紫色に
染まったという。 LEDは遥かに少ないワット数で明るさが出せる上、原理的には永遠に点灯する。
スカイツリーの照明はオールLEDで行こうと決心した。

各メーカの間でLEDの開発競争が始まった。 当初、3m先までしか届かなかった光が、10m、50m、200mと
届く距離が徐々に伸びて、最終的には600mも光を飛ばすことに成功した。
スカイツリーの開発競争で、普段なら3年かかるところを1年で出来た。
日本には、技術があり、根性があり、夢を実現する実行力があると・・感銘を受けたとあります。

CGシミュレーションによる光の検証  
通常なら建築物が完成した後、現場でスポットライトを動かしたりして最終的に照明デザインを完成させるのだが、
スカイツリーの場合は、照明効果を現場で確かめられないため、今回初めてCGシミュレーションを採用した。

約2000個の照明器具をCG上のスカイツリーに設置し、灯数や配置や角度を様々に変えてツリーを照らす試みを繰り返したという。 
また、スカイツリー周辺は住宅地なので、敷地内から光が漏れないよう厳密に制御する必要もあった。

事前検証から完成まで  
CGシミュレーションだけではやはり不安だったそうで、まだ、500mに到達する前に一度点灯実験をした。 
その後、2011年クリスマスと年末には、634mに到達してから初めてのライトアップをした。 
2012年3月には、赤、ピンク、群青などさまざまな色による照明テストを行った。

 スカイツリーは、「粋」の水色と「雅」の紫色以外にも、イベントに合わせて様々な色でライトアップできるのです。
   (**以上、記事の抜き読みとして記載しました。**)






クリマスシーズンの限定バージョンもきれいですね。

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雲の上団五郎一座   (bon)

2013-01-18 | 日々雑感、散策、旅行
久しぶりに昨日、BS映画劇場で掲題の映画を見ました。

一座の座長にはエノケン(榎本健一)、ほかにアチャコ(花菱アチャコ)、フランキー堺、三木のり平、
清川虹子、北川町子・・など懐かしい・・というよりは、それを通り越した彼方の人々の演じる喜劇を
楽しく見ることが出来ました。原作は、あの森光子を発掘した菊田一夫です。


この映画、1962年に公開されたといいますから、50年前ですね。
ちょうど入社したころですから・・自分と引き比べてみると・・・そんなに古くない?? とも思えるのは不思議な感じですね。
 アチャコはこの時65歳、エノケンは58か59歳だそうですから、昔の感じがするのかもしれません。
ちなみに、フランキーは33歳、のり平は37歳だったのだそうです。

三木のり平なんかも本当に喜劇役者ですね。この人、日大法科卒業なんですね。
筑波久子に至っては慶応法科中退(肉体映画ばかりで物議をかもし中退)だそうです。
水谷良重、高島忠夫なんかもチョウ若いでした。 
三木のり平は、本名、田沼則子と書いてタヌマタダシというんだそうですが、女性と間違われて、
召集令状が届いたのが終戦5日前だったとか・・。
なんで“のり平”かといえば、プログラムの印刷の時に“則子”を“則平”と間違えてしまったことから~なんだそうです。
ハィ。


 大島渚監督は、とうとう他界しましたが、当時ヌーベルバークと騒がれたり映画界に“第3の波”をもたらしたと評判でした。 
テレビなんかでも、マジに怒っていたりするので印象は良くありませんでしたが・・社会批判組の骨のある監督でしたね。


 またまた、昨夜の国谷さんの番組(クロ現)では珍しく、映画監督木下恵介監督を取り上げていました。
木下恵介監督の作品が世界3大映画祭で公開されるという。
戦争、差別、貧困などを取り上げていることが現在にも当てはまるというのだ・・・。


“二十四の瞳”“カルメン故郷に帰る”・・など名画が多かったです。








藤山一郎とエノケンの聴き比べ






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