蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

伊能忠敬翁  (bon)

2014-06-26 | 日々雑感、散策、旅行

 先日、園芸友の会の郊外例会で、千葉県佐原に行った時、掲題の伊能忠敬記念館を訪問しました。
このくだりについては、先の6月10日のブログ記事 “小江戸佐原と水郷潮来” に記しましたが、その後、
伊能翁に関して、友の会会員のhhayashi氏から、会社の先輩に “伊能忠敬研究会” を主宰するすごい人が
いるとの知らせをいただきました。

この方は、渡辺一郎という方で、51歳で退職し、伊能地図に興味をもたれ、その後の伊能図の詳細を研究・発見する
傍ら、伊能図についてマスコミなどの支援を得て、より広く世の中に浸透させた功績が顕著です。

(参考 http://blog.goo.ne.jp/hibiyaob/c/9b63f80df2d714065e7154f012679a6f )

 

 そんなこともあり、とても書ききれませんが、もう少し、伊能翁についてここで整理してみたいと思いました。
大方の人々は、よくご存知のことと思いますが、もう少し紐解いて 翁の凄まじい向学心と実行力・決断力を
あらたにしたいと思います。
 例によって、ネットHP,ウイキペディアやその他のHP記述から抜き読み的にまとめてみました。

   伊能忠敬翁銅像            伊能忠敬旧宅

          

 

 伊能忠敬(ただたか)は、江戸後期の測量学者として整理されていて、1745年、千葉県九十九里町に生まれ、
本名を神保三治郎といい、満17歳の時(1762年)伊能家に婿養子に入り、一人娘、ミチと結婚し正式に
伊能家を継いだ。 このとき ミチ は21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子1人がいました。
忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、後に三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした。
とあります。

 彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状態だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、
薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直しました。
1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済するなどの功績が幕府にも認められ、
彼は苗字・帯刀を許されました。やがて50歳を迎えた忠敬は、家業を全て長男に譲り、幼い頃から興味を持って
いた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出、江戸幕府天文方 “高橋至時(よしとき)” の門弟となります。

 高橋至時は、この当時の天文学の第一人者でありましたが、まだ弱冠32歳であり、門下生の忠敬は51歳と
20歳も年齢差がありましたが、燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなどはモノともしなかったのですね。
高橋至時も、当初は忠敬の入門を “年寄りの道楽” だと思っていましたが、昼夜を問わず猛勉強している
忠敬の姿を見て、彼を “推歩先生” (すいほ=星の動き測ること)と呼ぶにいたったそうです。
忠敬の方は、巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもしたのです。

 この頃、 “いったい地球の直径はどれくらいなのか” という基本的な疑問があり、地球が丸いということは
わかっていたが、その大きさが分からなかった。 忠敬は “北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる
角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる” 
と提案した。
 この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなるわけで、江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで
距離を測ればどうだろうか、となり、当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要であったため、至時が考えた名目が
“地図を作る” というものだったといわれています。 
幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのでした。(すべて自費)

これが第1次測量となり、東北・北海道南部の測量が開始されました。
1800年閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発しました。忠敬は当時55歳、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、
下男2人を連れての測量の開始となりました

 測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというもの
だったらしい 。当時の記録には “測量隊はいかなる難所もお通りなされ候” とあり、雨、風、雪をものともせず、
海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいったそうです。 昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら
誤差を修正、各数値の集計作業に追われる毎日だったそうです。

 忠敬は続いて第2~4次測量と3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった
地球の大きさの計算に取り組み、その結果は約4万キロで、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と
照らし合わせ、共に数値が一致したことに、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この数値は、
現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだったそうです。
しかし、その喜びの中、至時は無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠し、忠敬は悲しみに追い
やられるのでした。

 半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、その精密さに、幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には
“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ” と幕命が下り、正式に幕府に登用されることとなりました。
彼の測量は正式な国家事業となったのです。

 1805年(60歳)、第5次測量(畿内、中国)のため再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上に
なることもあったという。続いて第6次測量(四国)と第7次(九州1次)、第8次測量(九州2次)と足かけ10年に
渡る測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。 調査が手こずったり、測量隊隊員が死亡したり
さまざまな障害を乗り越えて、ようやく江戸にもどり、1815年最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬は
すべての測量を終えた。  時に忠敬70歳であった。
彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになるのです。測量は、
さらに第9次測量(伊豆諸島)、そして第10次測量(江戸)と続きますが これら二つの測量には、忠敬は
体調不良のため参加できませんでした。 
 各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるためには、地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を
修正する必要があるが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまい、そのまま回復することなく、
1818年、73歳で病没する。 しかし、彼の死を伏せて地図の完成を目指し、ついに、1821年、日本最初の
実測地図 “大日本沿海輿地(よち)全図” が完成しました。
これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が
3枚という、途方もない規模のものだった。

    伊能図部分 渥美半島
           (ウイキペディアより) 

 

忠敬は、遺言にこう残した “私が大事を成し遂げられたのは、至時(よしとき)先生のお陰である。どうか
先生のそばに葬ってもらいたい”。 その願いどおり、上野の源空寺の墓地で、彼は既に200年近くも
恩師の傍らで幸せな時を過ごしているのです。

 

 この当時の日本全土は、まだまだ未開の地であっただろうと思いますが、良くもこれほど長い期間、
来る日も来る日も “測量” と “計算” に明け暮れ、すべてを完成させたその気力、実行力は当時の文明の
程度から考えてみても如何に大変であったかは知る由もない。

ただただ、敬服するのみです。

 

測量方法は、主に “導線法” と “交会法” という2つの方法であるが、これは当時の日本で一般的に
使われていた方法であり、当時の西洋で主流だった三角測量は使用していない。
ただ、忠敬による測量の特徴的な点は、誤差を減らす工夫を随所に設けたことと、天体観測を重視したことに
あるといわれている。

導線法とは、2点の距離と方角を連続して求める方法である。測量を始める点に器具を置き、少し離れたところに
梵天(竹の棒の先に細長い紙をはたきのように吊るしたもの)を持った人を立たせる。そして、測量開始地点から
梵天の位置までの距離と角度を測る。測り終えたら、器具を梵天の位置まで移動し、別の場所に梵天持ちを立たせ、
同じように距離と角度を測る。これを繰り返すことで測量を進めてゆく方法である。

導線法を長い距離にわたって続けると、だんだん誤差が大きくなってくるので、その誤差を修正するために
交会法が使われる。
 交会法とは、山の頂上や家の屋根など、共通の目標物を決めておいて、測量地点からその目標物までの
方角を測る方法である。導線法で求めた位置が正しければ、それぞれの測量地点と目標物を結ぶ直線は
一点で交わるので、この方法で導線法による誤差を確かめることができる。さらに忠敬はこれに加えて、
富士山などの遠くの山の方位を測って測量結果を確かめる遠山仮目的(えんざんかりめあて)の法などを活用している。

また、測量にあたって天体観測を活用することで、観測地の緯度や経度を求めることができるため、
地図の精度を向上することができる。 忠敬は測量中、晴れていれば必ず天体観測をおこなうようにしており、
宿泊場所も観測器具が置けるだけの敷地があるところを指定していた。
主な観測内容は、恒星の南中高度、太陽の南中、日食、月食、木星の衛星食などである

恒星の南中観測とは、観測地点で恒星が南中(真南に来た)したときの地平からの角度を測ることをいい、
この角度と、あらかじめ江戸で測定しておいた角度を比較することで観測地点の緯度が求められる。
しかし、動いている星が南中した瞬間を正確にとらえるのは難しいため彼らは、多い時には1日で20個から
30個の星の南中を観測し、誤差の軽減に努めたそうです。また、日中に太陽の南中を観測することもあった。
これは緯度を求める目的のほか、南中した時刻を確かめて、日食・月食の観測で使う器具を調整するという
目的もあったといいますから、より正確性を求めたのですね。

 日食・月食の観測は、観測地点の経度を求める目的でおこなわれた。経度を求めるのは緯度を求めるのに
比べて格段に難しい。 西洋では18世紀の終わりごろに、経度測定方法がようやく確立してきていたそうですが、
当時の日本にはそれらはまだ伝わっていなか経度の測定法として、他に木星の衛星食を利用する方法も試されたという。

主な測量器具について以下に列記しておきます。

距離測定

最も基本となったのは歩測です。
歩いた歩数を元に距離を計算する方法である。1歩の長さがいくら(何センチ)であるかが重要で、しかも
均一である必要があっり、忠敬のそれは、69~70cmとされています。

第二次測量からは歩測の代わりに、間縄と呼ばれる縄や、鉄鎖を使って距離を求めるようになった。第二次測量では麻の縄を使って海岸線を測量したが、縄は伸び縮みして正確な距離が測れなかったので、
第三次測量からは新たに考案された鉄鎖が使われた。鉄鎖が使えないような場所では引き続き間縄が使われたが、
藤づるを編んだ藤縄や、鯨のひれを裂いて編んだ鯨縄を使うといった工夫が加えられたそうです。 

鉄鎖は、両端を輪のように加工した長さ一尺の鉄線を60本つないだ鎖で、伸ばすと長さは十間となるように
構成された。そして、この鉄鎖も間棹で毎日長さを確認していたという。

方位測定

方位の測定は大中小3種類の方位盤および半円方位盤にておこなった。

小方位盤
これは杖の先に羅針盤をつけたものである。羅針盤は杖を傾けても常に水平が保たれるようになっていて、
精度としては10分(6分の1度)単位の角度まで読むことができ、平地では三脚に固定して使用し、傾斜地では
杖を地面に突き立てて使用した。 忠敬はこの羅針の形や軸受けの材質を変えるなどの工夫を加えた。
この小方位盤は主に導線法と交会法において使われた。導線法で使う際には正・副2本の羅針盤を使って
2点の両方から角度を測り、その平均を取るようにしていた。

大・中方位盤
 この方位盤は、脚のついた円形の盤の中央に望遠鏡を設置したものである。円盤には方位を測るための
磁石が取り付けられるようになっており、また円盤の周囲には、角度が分かるように目盛のついた真鍮の
環が組み込まれている。さらに円盤の上には指標板というものが置かれていて、これは望遠鏡と連動して
円盤状を回転できるようになっている。これらの方位盤は、富士山など、遠くの目標物の方角を測るのに用いられた。

半円方位盤
 大・中方位盤と同じように、目盛り付きの真鍮板と方位磁針が付属しているが、半円盤の上に視準器があり、
これを半円盤上で回転させて目標物に合わせることで方角を求めることができる。構造が単純で偏心による
誤差が生じやすいが、細かな方位が求めやすく、持ち運びやすいという利点もあるため、遠くの山などを測る目的で、
第四次測量以降ひんぱんに使われた。

傾斜・高度測定

          象限儀
              (ウイキペディアより)

 

坂道の傾斜や星の高度は象限儀を使って求めた。象限儀の種類としては杖先小象限儀、大象限儀、中象限儀がある。

杖先小象限儀
 2点間の距離を導線法により求めても、その2点間が坂道になっていると、地図に表すとき距離が異なってしまう。
この補正は、はじめのうちは目測で傾斜角を測って補正していたが、第三次測量からは杖先小象限儀を
使うようになった。
測った角度は割円八線対数表と呼ばれる三角関数の対数表を利用して距離に換算したという。

大・中象限儀
 恒星の南中高度を測るための象限儀は、大(長さ六尺)、中(長さ三尺八寸)の2種類が使われた。
構造はどちらも同じである。 大象限儀は江戸に常設しており、全国測量では中象限儀を持ち出した。
この象限儀は、刻まれた目盛りによって一分単位の角度を読み取ることができ、目測を加えると十秒または
五秒程度の単位まで測ることができた。

 象限儀は地面に対して正確に垂直になるように設置しなければならない。そのため設置にあたっては
本体以外に多数の木材が必要となり、全部合わせると、解体して運んでも馬一頭では積みきれないほどの
大きさになったという。

時間測定
 日食・月食が起きた時刻は、垂揺球儀によって求めた。

 垂揺球儀は振り子の振動によって時間を求める器具である。仕組みとしては振り子時計と同じで、
忠敬が使っていた垂揺球儀は現存しており、歯車を組み合わせることで十万の桁まで振動数が表示されるように
なっている。振り子は1日におよそ59,500回振動するので、最大で約17日連続稼働できる。

  

 技術的にも、高度で複雑な上これらの測量器具の精度向上と持ち運びなど、気の遠くなるような作業が
繰り返されて初めての実測日本地図が完成したのですね。現在の日本地図と殆ど正確に描かれていて、
ほんのわずかにズレがある程度でしたね。

 

お疲れさまでした。



 

 

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成田到着ロビー  (bon)

2014-06-24 | 日々雑感、散策、旅行

 今日の夕方、孫娘が海外研修から帰国するというので急遽、成田空港へ行くことになりました。
このところ、10年以上も海外経験が無い身にとって、おまけに成田の到着ロビーというのは、それこそ
殆ど印象にはありません。 出発ロビーだと、期待と自覚などがきっちりしていて割と記憶にもありますが、
到着ロビーは、ただただ “あぁ~、帰ってきた!” の安堵さと心地よい疲れなどで、緊張感もなくスルリと出口へ・・
その後も、ただひたすら帰路に着くという按配でした。 
海外勤務はありません、何度か、国際会議出席や調査案件などの出張程度ですから、そもそも不案内ですね。

 日暮里から、京成の “スカイライナー” に初めて乗りました。日暮里の次は、降りるべき駅の “空港第2ビル”
でした。 この電車は快適でした。料金は安いし、時間は短いし車内もきれいで、乗務員室から前方風景が
車内前面の液晶画面に映し出されていました。 40年近く前には、最寄の駅であった京成 “青砥” 駅は、
当時は平面駅でしたが、ビル3階建て以上の高架になっていました。

           到着ロビーA
                 


 空港ビルでは、国際線到着を目指して足早に行くと、全面に大きな “到着便” の時刻掲示板がすぐに
わかりました。 見ると、定刻が10分ほど早めに時刻変更されていましたが、まだ、“通関中” のサインがあり、
ゆっくりとあたりを見回したり、念のために携帯にメールをしたりしましたが、果たしてメールを見てくれるかどうか
は心配でした。 
出がけの天気予報では、成田市も大雨・洪水警報が出ていましたから、落雷なども心配していましたが、
到着が早まったとありましたから、こちらはひとまずクリアでした。 

 その内メールが来た。 通じたのでした。  しばらくして、無事迎えることが出来ました。
元気な姿で、楽しかったようでホッと一安心でした。  両替所に立ち寄ったあと、孫は、川崎方面なので、
成田エクスプレスで帰ることにしました。 無事に最寄駅で、母親と合流して一件落着となりました。

 傘を持参しましたが、あちこちで大雨が降ったようですが、自宅まで傘のお世話にならずにすみました。 
トータル所要時間は5時間半ほどでした。 雨も災いとならず、無事にお役目を果たすことが出来て、
それなりにホッとしています。 
やはり年齢を感じるとともに、一瞬かなり時代に取り残されたような感じになりました。 
PC相手に、座りながらの世界観ではやはりだめなんですね。

 

 

 

 

 

 

 

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夏至  (bon)

2014-06-22 | 日々雑感、散策、旅行

 2014年の夏至は、昨日6月21日(土)がそうだったのですね。

 二十四節気の十番目にあたり、昼夜の長短を基準にした季節の中間点でいうところの “春分” “夏至” 
“秋分” “冬至” つまり、二至二分 の一つです。 1年中で1番昼が長く、夜が短い日ですね。
ちなみに、夏至・6月21日ごろは、昼間が14時間50分で、夜間は9時間25分くらいで、冬至・12月22日ごろは
全く逆転して、昼間が9時間45分で、夜間が14時間15分だそうです。

 天文的には、太陽黄経が90度の時で、今年は6/21ですが、来年は5年ぶりに6/22のようです。
この日、北回帰線上で観測すると、太陽は正午に天頂を通過するのです。そして、夏至の日当日は、
北緯66.6度より北の北極圏全てが “白夜” となり、南緯66.6度より南の南極圏では “極夜” 
になります。 昼の時間が最も長く、夜が最も短いといっても、日の出が最も早く、日の入りが最も遅い
ということとは一致しないのですね。 1年で日の出の時刻が最も早い日は夏至の1週間前ごろであり、
日の入りが最も遅い日は夏至の1週間後ごろであるのだそうです。

 日本では、この季節は “梅雨” の真っ最中ですから、蒸し暑く、鬱陶しいというイメージが強く、
どちらかというと4~5月あたりの “さくら・新緑” のころが、冬から覚めてワクワク、ウキウキする気持ちに
なりがちですが、 ヨーロッパ、とくに北欧などでは、日本とは違って、暗く長い冬が明ける頃で、特別に
喜ばれる日だそうで、各国共に盛大に “夏至祭(ミッドサマー)” などが行われるそうです。
この日は祝日としてお休みなんですね。 一番のイベントは “マイストング(メイポール)” といわれる
夏至柱を立てることです。
「マイストングは “五月の柱” という意味で、豊穣のシンボルです。大きなものでは20 mを超える大木に野の花々やモミの葉などを美しく飾り付けます。自宅の庭に1~2m程の自家製マイストングを立てる家もあります」 という。

 スゥエーデンのメイポール              フィンランドのメイポール
                   

          ノルウエ―の焚火
                  (写真はいずれもネットHPより拝借しました)

 

 

 また、これらの北半球では、歴史的にも 夏至 は収穫を迎える夏の始まりを告げる日という意味から、
植物や人類にとっても繁殖に結び付けて考えられたようです。

 スウェーデン等では、夏至を祝う “ミッドサマーの祝日” から9ヵ月後、子供の誕生が多いといわれていますし、 
クリスマスと並ぶほど大切な季節の行事とされています。

 先日のWCでドローとなったギリシャでは未婚女性がイチヂクの木の下に持ち物を置くことで、“夏至の魔法” 
によって未来の夫の夢を見るとか。  また、ポーランドでは、この日のスラブ民族の祝日に、恋に落ちる男女が
多いとか。イギリスの地方の夏至祭りでは、男性神と女性神の出会いを祝う意味があるらしいとか。 
いろいろとあるようです。

 日本でも、三重県伊勢の二見が浦では、この日、夫婦岩の真ん中から初日が昇ることで、お祭りを行う風習があるといい、尾張地方では、この日に “いちぢく田楽” を食したり、大阪の一部では、
“稲の根がタコの足のように広く張る” ことを祈願して、タコを食べるのだとかいわれていますが、知りませんでした。
関東地方では、新小麦の焼餅を神様に供える、春の収穫祭のような風習もあるといわれています。 
(ネットHPを参考にしました。)

 

 

 

 

 

 

 

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懐かしの再会  (bon)

2014-06-20 | 日々雑感、散策、旅行

  昨日のランチの会は、いつもの散歩などをセットしたコースとは全く違って、少人数ながら銀座界隈に
長時間いました。

 今は九州、福岡市に住む30年ほど前の職場の同僚が上京する機会を作って、わざわざ参加しハーモニカ演奏の
ご披露を得ました。

 夏のようなお昼時、銀座4丁目の待ち合わせで、近くの “バリ島” をイメージしたレストランで、
ワインをお変わりしながらの、かなり長めのランチを済ませ、いよいよ演奏に入りました。
同館別フロアの個室が既に予約してあり、持ち込んだICレコーダー、ピンマイクなどをアンプに接続し、
譜面台は同館のものを拝借して、さぁ、いよいよハーモニカ演奏です。

 彼は、FTRハーモニカフレンズ所属で、既に6~7年、地域の施設などへの演奏慰問で活躍しているセミプロ?
(ボランティア)の腕前である。 昔懐かしいハーモニカといっても、持参されたものだけでも、それぞれ調子の異なる
ハーモニカが何種類かあり、普段は各パートを含めた合奏ですが、今回はソロなので、伴奏用のICレコーダ
演奏に合わせたお披露目でした。  ぶっつけ本番の設定にもかかわらず、予定していた舞台がスンナリ
完成できたのは、幹事が事前に装置などの調査を完了していたからだ。  聴衆者の我々も、タンバリンや、
マラカスで調子を取り、知っている歌は、口ずさむなどして普段とは違った楽しい雰囲気が演出されていました。

 以前、まだぎらぎらしていた頃の職場からは、それはそれで結構楽しい職場でしたが、今日のこのような
場は、全く想像もできなかったことです。 

その場の、状況をビデオ録画しなかったので、再現できませんが、いくつかのシーンの写真をアップします。

    レコーダの伴奏に合わせた一人演奏・・
           

 

       館内の雰囲気
            

 

 

          銀座三越の屋上からの風景
               

        (銀座三越本館9階屋上の風景です。 画面左(写っていませんが)旧服部時計の時計があります。 
草深いところから、少し手前のテーブルでお茶しました。) 

 

 彼が所属する、FTRハーモニカフレンズがこの春、ロータリークラブ地区大会で演奏したビデオを
ここに貼り付けたいのですが、処理がうまく行かず現在工事中です。悪しからず。


           ビデオのスクリーンキャプチャです。(DVDより)

   



 八木のぶおプロの1曲(幅広く活躍されています。)
     





 

 

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海外移住の日  (bon)

2014-06-18 | 日々雑感、散策、旅行

 このように、定められた日があるのですね。
今日、6月18日が “海外移住の日” なのだそうです。
1908年(明治41年)4月28日、本格的な海外移住の第一陣781人を乗せた笠戸丸が神戸を出航し、同年6月18日に
ブラジルのサントス港に到着したのです。
で、この到着した日を記念して、1966年(昭和41年)に総理府(現内閣府)により制定されたとあります。
 『この時、781人の内、沖縄県人は325人と多いのですが、沖縄県は、人口に対する移住者数が他府県に比べて圧倒的に多く、
日本国内でも有数の “移民県” だといいます。近代以降、沖縄からの最初の海外移民は、1899年(明治32)年、
當山久三(とうやま・きゅうぞう)の斡旋によるハワイ移民でした。』 (沖縄公文書館HPより)

また、“なるほど統計学園”(HP)の記述には、外務省統計から引用して、次のように述べられています。

           海外在留邦人数(なるほど統計学園より)
                   

 

            国別上位10在留邦人数(外務省統計データより)
                    

 

  『平成24年10月現在、海外で生活している(3か月以上海外に在留している)日本人は約125万人となりました。
(前年比5.67%増)。
地域別にみると、日本人が最も多く生活している地域は北米(472,835人、37.84%)で、昭和60年以降トップの座を
保っています。以下、アジア(362,022人、28.97%)、西欧(194,878人、15.60%)と続き、これら3地域で全体の
8割以上を占めます。海外在留邦人数を国別にみると、アメリカ合衆国(410,973人)、中華人民共和国(150,399人)、
オーストラリア(78,664人)の順となっています。
 海外移住の皮切りになったブラジルで、近年、永住者の高齢化による減少が続く一方、経済発展著しいドバイ(アラブ首長国連邦)や
ハノイ(ベトナム)では日系企業の進出などにより増加しています。』

 

 現在では、企業関係の方々のほか、個人で積極的に選定した国や地域への移住が普通に行われていますが、
少し前にテレビで放映していた移住初期(ブラジル)の模様を描いた番組などでは、それは大変な苦労を強いられたそうでした。
長い年月のうちに、その努力の蓄積などによって今日の位置づけがあるのでしょうね。

 私のような “マルドメ” 人間などは、外国の文化や景色などには感動しても、病気になった時などを想像すると
とても不安に思うのですね。  グローバル化に乗り遅れている・・・。
 

 話はまたく変わりますが、北原ミレイさんが歌っている “石狩挽歌” (作詞:なかにし礼、作曲:浜圭介)の歌詞に、
♫~沖を通るは、笠戸丸~♫  というところがありますが、あの笠戸丸は、ここでいう笠戸丸と同じであるようですが、
この歌の中では、北海道方面で蟹工船として使用されたものであろうとされています。

             笠戸丸
                (ウイキペディアより)

 

 さらに、余談ですが、6月18日は、“おにぎりの日” でもあるそうです。

石川県鹿西(ろくせい)町(現:中能登町)の竪穴式住居跡の遺跡から、日本最古のおにぎりの化石が発見されたことで、
鹿西町が “おにぎりの里” としての町興しのために制定したのだそうです。(なぁ~んチャッテ!)

 

 

 

 

 

 

 

 

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ブラジル  (bon)

2014-06-16 | 日々雑感、散策、旅行

3日前に、ワールドカップがキックオフしました。

 楽しみにしていました、日本―コートジボアール戦は時間帯も良く、テレビ観戦された方も多かったのでは
ないでしょうか? 

幸先よく、先取点を取りながら、惜しくも逆転されてしまいましたが、これからしばらく楽しみが続きます。

 友人のH氏からの配送記事に、このブラジルに関する話題が寄せられており、そのタイトルも
“ブラジルにおけるW杯およびオリンピック開催の真の意味” という、まさに現今のポイントを指摘している
記事でしたので、転載させていただきました。

 次回2016年オリンピックの開催が決定しており、今開催されているW杯と・・、これまでとは違った、
大きなイベントとして注目を集めているブラジルは、今回の、W杯開催に対して、大規模な反対デモが繰り広げ
られていたり、必ずしも経済基盤や教育などの社会インフラが整っていないことを露わにしています。

 BRICsの名称で脚光を浴びて既に久しいけれど、新しい世界経済の発展をけん引する国の一つ、
ブラジルの側面をこの機会に見直してみるのも、良いタイミングかも知れません。

                          (ウイキペディアより)


以下、記事を転載します。

******************************

Dialogue online 2014/05/13(http://dialoguereview.com/

   ブラジルにおけるW杯およびオリンピック開催の真の意味

      (The reality of Brazilian World Football Cup and the Brazilian Olympic Games)    
             By David Woods

 

【要旨】オリンピックのような大きな国際スポーツイベントを開催し、大会を滞りなく終えることは、いまや
先進国の仲間入りを認めるためのいわば踏
み絵のようになってきている。だが、今月のサッカーワールドカップ、
そし
て2016年のリオデジャネイロ五輪の開催を控えるブラジルにとって、両大会の誘致はほんとうに
必要だったのだろうか。 世界、とくに西欧諸国は、自分
たちの価値観に見合うかたちでの大会成功を
求めてはならない。 むしろ私た
ちは、南米の指導者たちが見せる新しいリーダーシップに注意を払うべき
のではないか。ダイアローグ誌編集委員が提言する。

  ------------------------------------------------------------

  ブラジルが2016年夏季オリンピック大会の開催国に決まった日は、南米諸国にとって重要な、記念すべき日
となった。それまで、広大な南米にあるい
ずれの都市にも、こうした重要な世界的イベントを開催する機会は
与えられ
てこなかったからである。

  ブラジルにとって、オリンピック開催は大きな名誉と責任を意味するものだった。リオデジャネイロ開催が
決まった時、当時のブラジル大統領、ルー
ラ・ダ・シルヴァは感極まり、涙を流した。そしてその日、多くの
ブラジル
国民も大統領と同じように自宅のテレビ前で涙したのは間違いない。 

 オリンピックの開催国に選ぶことはまさに、ずっと搾取され、無視され続けてきた地域や国に対し、世界が
発言権を与えようと決めたときに取られる
手法だ。ブラジルがいかに搾取されてきた国であるかについては、
その歴史
を見直せばわかる。

 トルデシリャス条約を起点にブラジルの歴史を振り返る。1494年に締結されたトルデシリャス条約は、
ローマ教皇が引いた境界線に基づき、スペイン・
ポルトガル両国の間でそれぞれが世界のどの地域に進出、
領土支配していく
かを定めるものだった。この時点では明らかに誰もブラジルの豊かさに気づ

いていなかった。
そもそもコロンブスが西インド諸島に到達したのは、条約
締結のわずか2年前のことだ。

 1532年、マルチン・アフォンソ・デ・ソウザがブラジルで初めてポルトガル人入植地を築いた。彼は原住民を
強制労働させ、ポルトガルがヨーロッパ
全土に輸出する資源を奪い取っていった。金、銀といった鉱物資源、
それに
チョコレートやトウモロコシといったものである。 

 搾取されたのは資源だけではなかった。豊かな現地文化が踏みにじられ、カトリックの慣習が強要された。
当時のヨーロッパではアメリカ大陸は悪の
大帝国と考えられていた。新世界がもたらした財宝の輝きへの興奮と
相まっ
て、異教信仰を排除する狂気もはらんだ伝道精神が現地の文化と習慣を破壊していった。 

 1703年、ポルトガルはイングランドとメシュエン条約を締結。これが英国商人たちがブラジルの地に入り込む
きっかけとなった。メシュエン条約締結
によってポルトガル産ワインは英国で優遇されるようになった。  しかしその一方でポルトガルはブラジルの市場を英国の製造業者に開放せざるを得なくなったのだ。
その結果、ブラジルにおけるポルトガルの製造業者は競争力を
失っていく。しかも、ポルトガルに輸入される
英国産毛織物の対価として、
英国はポルトガル産ワインでなくブラジル産の金を要求した。

  20世紀に入ってもブラジルが外国から支配される傾向に変わりはなかった。共産主義国と化していく
南米諸国に対抗するため、米国はCIAを通じてコンド
ル作戦を支持する。コンドル作戦とは、ブラジルを含む
南米各地の右派独裁
政権が公式に携わった情報収集活動と、敵対者の暗殺を含む政治的抑圧およ
テロ活動である。
 

 ブラジルは1964年から1985年まで軍事政権下にあった。ジョアン・グラール率いる左派政府と敵対する
武装勢力がクーデターを起こしたことで始まっ
た軍政は、ジョセ・サルネイが民主主義的手続きを経て
大統領に就任するま
で、21年間続いた。 

 1980年2月には、学者や知識人、組合リーダーたちによる急進的な左派政党、労働者党(Partido dos
Trabalhadores: PT)が結成された。 このPT党首
だったルーラ・ダ・シルヴァが2002年の選挙で勝利を収め、
翌年大統領に就
任した。

 ルーラ大統領は2期8年間政権の座にあったが、1期目の4年間で、2000万以上の人々を極貧層から
脱却させ中流階層へと押し上げる政治モデルを作
り上げ、ブラジルを世界第8位の経済大国へと成長させた。 

 オリンピック開催決定は、同大統領への “成功報酬” ともいえる。ブラジルの世界に対する影響力が
認知されただけでなく、ブラジル大統領が示した
新しい指導者モデルが世界に認められたことの証しとなるもの
だからだ。大
統領が示したのは、貧困層の救済に目を向けるという南米独自の新しい政治モデルである。

  だが、オリンピック開催の決定によってブラジルが世界から認められたことは、同国にとって真に意義ある
ものだったといえるのだろうか。オリンピッ
ク開催の責任を負うブラジル国民はどう思っているのか。ブラジル
国民によ
る直近の抗議行動をみていると、彼らはオリンピックやワールドカップの開催国であることを
名誉には思っていないようだ。それどころか、実は正反対
ではないだろうか。 

 ブラジルにとってオリンピックやワールドカップの開催とは、(国外からの無言の)強要を意味する。すなわち、
同国はこれまで経験したことのない
現代的な方法でイベントを作り上げなければならず、しかも近年のオリン
ピッ
ク開催国である英国や中国、オーストラリアと同じレベルの社会インフラ、金融、組織管理能力などが
世界中から期待されている、ということだ。
 

 さらに言うならば、ブラジル社会でも自分たちと同じようなマネジメントやリーダーシップが活用されるべきという
先進国の目線こそが押し付けであ
り、無用の期待ではないか。マネジメントやリーダーシップは、ブラジルに
とって必ずしも正しいモデルではない。

 ルーラ大統領は元来、ワールドカップやオリンピックの開催はブラジル国内の貧困層に教育機会と基本的な
保健インフラを与えるきっかけとなる、と
いう考えを抱いていた。しかし、イベント開催にあたって国際社会が
ブラジ
ルに押し付ける期待は、こうしたルーラ大統領の考えを支持するものとはいえない。 

 ルーラ大統領と、史上初の南米出身ローマ教皇であるフランシスコ教皇(本名ホルヘ・マリオ・ベルゴリオ)の
間には類似点がある。フランシスコ教皇
を見ていると、カトリック教会のような西洋形式の世界的組織の中に
おいて、
リーダーシップのあり方が変化しているのを感じることができる。 

 フランシスコ教皇は、カトリック教会は社会の極貧層にこそ優先順位を置くべきだと公言。自身初の使徒的勧告
「Gaudium Evangelii(福音の喜び)」
のなかでは、教会はこれまでの官僚的で教義的なモデルから、
信者や若者に
開かれた社会的なモデルへ必ずや移行しなければならない、としている。 

 私たちは、南米の指導者たちが(従来の西欧社会の価値観とは異なる)新しい考えを持ち、世界の政治に
影響をもたらすことを受け入れるべきだ。そ
して、現地の規範やリーダーシップのあり方にそぐわないかたちで
国際イベ
ントの開催を押し付けるのをやめよう。(西欧的価値観である)責任やマネジメント、リーダーシップ
といったものを強制することのないよう、十分に
注意を払うべきなのだ。

 

コメント: 我々は、ここしばらくの商業主義的なオリンピックのかたちに慣らされ過ぎているのかもしれない。
オリンピックやW杯を純粋なスポーツイ
ベントとしてみれば、ことさらに立派なスタジアムなどは必要ない。
フェア
な競技ができる最低限の施設と、治安の維持ができてればいい。開催国がアピールすべきは、経済的に
豊かになった国の姿ではなく、その国の伝統的な
文化や産業の“質”なのではないだろうか。それが開催“後”に、
観光や輸
出に良い影響を及ぼし、国民の生活を豊かにすることにつながるはず。本記事の言うように、
開催国以外の国は、これまでの五輪やW杯につきまとうステ
レオタイプな価値観を押しつけるべきではない。
多様性を受け入れる視点が
重要なのだろう。

Copyright:株式会社情報工場

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My PCのいたずら?  (bon)

2014-06-14 | 日々雑感、散策、旅行

 結果的に、何も起こらなかったように正常に使用できるようになりました。

ご心配いただきました方々には、誠に申し訳ありませんでした。 

 こんな風ですから、経緯とかもあまりご参考にならないと思いますが、この3日間のいきさつなどを、
簡単に記しておきます。 
でも、どうしてこんなことになるのでしょうか?

 アナログ時代の電気製品、特に昔のラジオなどでは、雑音が出たりして、聞こえなくなると、箱の側面を
ポンとするなどすれば、また回復したりしたものですが、デジタルなら、一度おかしくなれば、どこをどうしようが
梃子でも動かない・・そんな融通の利かないものと思い込んでいますし、事実そうだと思います。 
ところが今回は、特段の修理などはしないうちに回復したのです。 
昔の職場で、このように不具合が一旦は認められたのちに、修理的なことをしないのに回復することを
“TCC” といっていましたね。Test come clear.
 

 それで、どうだったのか?

 午前中まで普通に使用して、一旦電源を切りPCから離れました。 食後、PCを立ち上げたら、
“接続できません” のメッセージが出て、ネットもメールも出来ませんでした。 メッセージのポップアップ画面の
下には、 “ケーブル類の接続は大丈夫か?” みたいなコメントがありましたので、ローゼットのところから、
蜘蛛の巣?状の配線を辿りながら、コネクター部分などをつまんでみたり・・一応確認しました。
もう一度立ち上げても “同じ状態” でした。

 たまに、ネット接続した時に、“この画面は応答しておりません” みたいなメッセージが出ることがあり、
この場合、http://192.168.・・・などを入力して、初期設定すると1分後に正常に接続することがあるので、
それをやってみました。 結果は同じ(ダメ)でした。

 お手上げとなり、プロバイダーに電話して、リモート操作で診断してもらいました。
これも初めてのことで、言われるままに、対応していましたら、ワイファイ(無線)のPC側の受信機能が
うまく働いていないとのことで、LANケーブル接続にしてやってみるととこれはうまく接続できた。
なるほど・・! ホッとしながら、感心していました。
書けば、これだけのことですが、ここまでで、2時間くらいかかりました。

              私の(問題の)PCです。
                 (昨年、紅マドンナで・・)


 丁重にお礼を言って、電話を切ってからも、何となく “そっと” 扱うような感じになり、恐る恐るメールなどを
処理しました。 この時、メール(アウトルック)を立ち上げると、一瞬 “Normal何とかが破壊されいて、
読みだせません・・” ような、ポップアップ画面が出て、“ドキッ”。 しかし放っておくと、画面は消えて、
メールは立ち上がりました。普通に使用できたのです。

 まだ、続きます。 報告資料があったので、それを立ち上げ完成させようとしましたら、
“全文書対象のNormalテンプレートに影響する変更が行われています。” “変更を保存しますか?”
何のことか全く不明で、適当に保存したり、しなかったり・・を 何度も繰り返す羽目になりました。
ワードを見ると、“ファイルNormalは、内容に問題があるため開けません。” “このNormalは破損しています。” 
“この機能を正しくinstallするには、MSXML6.0が必要です。セットアップを実行して、修復をクリックし、
コンポーネントを回復してください。”  ますます深みに入り込んでしまったようです。

 ワイファイ環境が問題で、なぜ? ワードがおかしくなったのか? とうとう、マニュアルを見たり、
Q&A集を開いたり、谷底でうろうろしているような感じでした。
屋外は長雨が続いている・・。 マニュアルに出ている、マイクロソフトに電話してみたが、何となく要領を
えないままそれも止めました。

 余り関連性はないと思いながら、ウインドウズを “セーフモード” で立ち上げてみる。
変化はない。 ついでに、“BIOSの設定を購入状態に戻す。” をやってみました。

 回復は、ほど遠く、思案も出来ず~とりあえず電源を切って、そういえば戸外の雨は止んでいる・・
まぁ、ネット接続だけでも出来ているから・・と諦めました。 パソコンショップに持って行くことになるな・・
などと思いながら ベランダの花などを見たりして気を紛らわせました。
それにしても、報告書があるが、これをどうしたらよいものか?

 そんなことを思いながら、夕食を済ませて、テレビなどを見て、極力PCに近づかないようにしていた感じでした。

 

 でも、気にはなるので、もう一度覚悟を決めながら、PCのスイッチを入れました。
メールを立ち上げる時に出ていた、メッセージが出ないことに気が付きました。 あれッ、と思いながら、
メールを済ませ、ワード(作成済みの文書)を読み出して見ましたら、これまでダメだったのに、
スッと文書が読み上がって来るではないか! そうそう、こうでなくちゃいけないのだ。
恐る恐る、他の文書も読みだしたり、書き込みをしたり。 異常なしだ。 いったいどうしたというのだ・・! 
でも、使用できるようになったのだから、ありがたいと感謝すべきなのでしょうね。 腑に落ちないまま、
でも使用できることにホッとしたのです。

 今日になって、無線(ワイファイ)環境に戻してみました。 慎重に、LANケーブルを外しました。 
なんということもなく、ネットは正常に動作しています。

 これって、一体なんだったのか?? こんなことってあるのだろうか?

 

 

 

 

 

 

 

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つばめ水仙  (bon)

2014-06-12 | 花鳥風月

 そぼ降る長雨の中、真っ赤なちょっと変わった形の花が咲いています。

ツバメ水仙”と呼ばれる花です。 花が “ツバメ”  に似ているところからこの和名が当てられているとか。 
ヒガンバナ科の 学名 スプレケリア・フォルモシッシマ(Sprekelia formosissima)といいます。 
原産地はメキシコとあり、なんだか難しそうな名前ですが、球根を植え付けてから1か月くらいで咲きました。
(超、カンタン・・!?)

             ツバメ水仙
                

 

 昨日から、PCの調子が悪く、“ネットワーク接続ができません” のメッセージが出て、あれこれやってみましたが、
結局、サポートのお世話になりました。 PC側のワイファイ受信がうまくいっていないとのことから、
LANケーブルで接続してOK。 ここまでで2時間くらい過ぎてしまいました。
これで一安心・・と思いきや、ネット接続はうまくいったのですが、今度はword、PPTが開けないのです。 
これまでに作成した文書なども開けない・・。 あれこれやって見たりしましたが、昨夜は、諦めてこれまでとしました。 


 今日、朝からこれに取り組んで、マニュアルを見たり、何時間・・休み休み雨の間中格闘していたのでした。 
 ちょうど雨が止んだので、しばらくPCから離れることにして、ベランダへでました。 
雨上がりに、一輪きれいに咲いていましたのでパチリ・・。 ついでに、近くに咲いている今頃の “るりふたもじ” の姿も収めました。

 しばし気を取り直して、ブログアップしてみました。

             今頃の ルリフタモジ です。
                 


 文書機能の回復はいつごろになることやら・・・    


 

 

 

 

 

 

 

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小江戸佐原と水郷潮来  (bon)

2014-06-10 | 日々雑感、散策、旅行

 梅雨の晴れ間の今日(6月10日)は、水の都佐原の舟めぐりと潮来あやめ祭りに行ってきました。
園芸友の会の年に一度の郊外例会でした。

 昨夜の激しい雷雨は嘘のように、今朝は上がっていて浜松町を9時半にバスで出発した時には夏の太陽でした。

 190年近く続く、佐原の酒造を見学した後、商業都市 “佐原” の蔵造りの街を散策しました。
中心を流れる、幅の狭い運河のような小野川を 舟めぐり しました。 時代劇に出てくるような、江戸時代
そのままの 船着き場 や重厚な蔵造りの屋敷を舟から柳越しに見る風情は,
川風に吹かれしっとりと情緒に
溢れていました。

             佐原舟めぐり
                

 

 佐原といえば、有名な “伊能忠敬” がありますが、川沿いの伊能忠敬記念館には、実際に使用された、
測量器具や、天体観測のための望遠鏡など多数の実物展示、そして、測量方法や作図などの解説を読むにつれ、
膨大な量の地図をよくも作り上げたものだと感嘆せずにはおれませんでした。まさしくその偉業に圧倒されました。

              伊能忠敬記念館
                

 

 お昼を済ませて、一路 潮来あやめ祭りへ。 歌で知られた “潮来花嫁さん” や “潮来笠” をあしらった
モニュメントがあり、水郷を手漕ぎ舟の観光が人気を呼んでいました。 私たちは、エンジン付きの舟でしたが、
船頭さんは、すれ違う “櫓舟” を見ると、“ぎっちら” が来た・・などといっていました。

 あやめ祭り                      十二橋めぐり
   


 あやめは、既に時期が終っているようで、一面、“花しょうぶ” の見ごろでした。あやめ、カキツバタは、
5月上中旬くらいまでに終わるようです。

 今回は、佐原も潮来も狭い範囲の地域だけでしたが、一度行ってみたかったところでした。
まだまだ昔が残って、その昔は大変栄えた様子が伺え、良い想い出がまた一つ出来ました。 
 東京は夕方5時頃一雨あったようですが、私たちは雨に遭うこともなく楽しい一日を過ごしました。

 

 

 

 

 

 

 

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当事者意識  (bon)

2014-06-08 | 日々雑感、散策、旅行

 この、“当事者意識” という言葉には、大変印象深い記憶があります。

 ‘89か‘90頃、会社の新しい組織(提案営業部門)に所属していた頃の幹部研修にこの ”当事者意識開発研修
というのを受講したのです。
 トレーニングスタイルでいいといわれ、なんでも成田あたりのホテルに4泊くらいした、初めてのユニークな
研修でした。  とにかく自分自身を見つめる、反発心を起こさず 素直に受容する、他人からの眼による
自身の長所・短所をグループで20以上列挙する・・・など、徹底して自己を空にする。
そして、業務上、組織上などの問題点、懸念事項をとことん突き詰めて行くと、それは結局 自身の問題に
帰着してくる・・など、初めての経験でした。 
受講後は、社内での相互の意思疎通は、かなりスムーズになったように思いましたね。

 前置きが長くなりましたが、先ごろ、いつもの H氏から ”当事者意識に欠ける企業幹部たち” と題する
情報記事が送られてきました。 記事は、当事者意識がいかに大事であるか、そのための上層部のあり方等
について、その必要性が述べられていますが、 だからどうする・・! とまでは、当然ながら自身で考えなさい
というに留まっていますが、全くその必要性は理解できるのです。


 私が受講したユニークな研修は、㈱日本研修センター代表取締役の武島一鶴氏(昭6年生、上智大学
文学部哲学科卒、神学研究科卒、 昭37世界平和記念聖堂(広島)主任司祭などの経歴で、昨年平成25年
他界される。)が、 革ジャンを着て、女性助手を一人伴った小柄ながら態度の大きい講師でした。
私たち受講生は、それぞれの担当部門を率いた大将気取りの事業部長クラス10名ほどで、理屈や信念を
曲げない口から先に生まれたようなツワモノぞろいでしたが、研修3日目にはみんなメロメロ、ヘロヘロに
なっていたようでした。  先生とは、研修後のお付き合いも、しばらく続いたものでした。

             くちなし
                (記事と無関係です。)

 

 それでは、送られてきました記事を以下に転記させていただきます。

****************************

Dialogue MAR/MAY 2014号(p76-79)

『当事者意識に欠ける企業幹部たち』 

(Getting stuff done at work: The village strategy for execution)

       By Liz Mellon and Simon Carter

 

【要旨】大企業などが社内改革や事業見直しなどを外部のコンサルティング会社に依頼するのはもはや
当たり前のことである。しかし、そこで提案され
る企業戦略に対し、社員たちは当事者意識を持つことができているだろうか。

本記事では、企業の上位0.1~0.2%にあたる最上層幹部たちでさえ、関心を持つのは各人が担当する
事業分野についてのみであり、企業全体を見渡すこ
とができていないと指摘。重要なのは、幹部たちが
個人プレーに走らず、自
分たちは自社の事業内容全般に重大な責任を持つ一団だと自覚することだと提言する。
共同筆者のLiz Mellonはダイアローグ誌の編集委員会委員長。 
Simon Carterはバクシー社(デンマーク)の
前CEO。ロンドン証券取引所に上
場する企業のうち時価総額で上位100銘柄に入る(FTSE100)複数の
企業のア
ドバイザーを務めている。

  ------------------------------------------------------------

  企業が戦略立案に関するアドバイスやコンサルティングを受けるのに費やす金額は年々増加傾向にある。
2013年、全世界でコンサルティング料として
支出されたのは総額4150億ドル、そのうち約500億ドルが
戦略コンサルティン
グ費用だった。

 また、社の将来計画を立てるために役員たちが集まる会議や会合のセッティングにかかる費用、戦略立案に
関するトレーニングコースの導入コスト、さ
らに戦略計画に関する書籍の購入代金なども含めると、相当な額に上るはずだ。

  しかし、世界的なコンサルティング会社・マッキンゼーの調査では、システム改革や企業文化改革といった
あらゆる“改革”戦略の70%は失敗に終わ
るという。 企業改革について『ハーバード・ビジネス・レビュー』が
2011年
度に取り上げた記事をまとめたところ、全体として従業員の95%は自社の企業戦略について理解して
いなかった。また、改革戦略の90%は目標とした成
果を上げられずに終わっており、なかでも70%は実行の
段階で失敗していた
ことがわかった。つまり、企業戦略にかけられるコンサルティング費用500億ドルのうち、
350億ドルは無駄になっているということだ。これはいったいなぜなのか。

  その原因として、ビジネスリーダーたちが戦略の形成に重きを置きすぎており、それを実際に遂行するために
必要なことについてまったく考慮できて
いないことが考えられる。戦略を実行に移すのは簡単なことではない。
戦略
の遂行に関してもまた、“戦略”が必要なのだ。

 我々はかつて、7万人以上の社員を抱えるある国際銀行のトップ80人の役員と深く関わって仕事をした
ことがある。まず驚いたのは、彼らが自社につ
いて三人称(その銀行が行っている○○は……、その銀行は
こう主張してい
る、等)で語ることだった。いったい彼らの銀行である以外、誰の銀行だというのか。
 2013年末に同銀行のトップであるCEO同席の上、この役員たちと戦
略の見直しを行ったときも、彼らの
口振りは変わらなかった。上層幹部たち
が自社を三人称で呼び、目前の課題についてまるで管理が不可能
かのように
言い立てることに、CEOは大きな不満を示していた。 

 戦略を実行に移す際の最も基本的な課題がここにあると思われる。つまり、最上層幹部たちには当事者意識が
決定的に欠けているのだ。

 本記事では、企業の上層幹部のことを「村人」と呼ぶことにする。一企業における彼らの人数が、一般的な
「村」の住民の数とだいたい同じだからだ。
ロビン・ダンバーをはじめとする人類学者たちによると、人間が
維持できる
社会関係に最適な個体数は、小さな村と同規模の、150人程度だとされる
(「ダンバー数」と呼ばれる概念だ)。
ダンバーによれば、グループの規模
がこの人数を超えると、関係は不安定になり、壊れ始めるという。

 企業の規模、特性、また地理的な条件によってここで言う「村人」の実際の数は異なるが、企業のなかの
「村人」の数は一般的に約100人だ。例えば、
シスコシステムズは約70人、リオ・ティントは120人、ウィット
ブレッド・グ
ループは40人、ジャガーランドローバーは160人。いずれも企業の上位0.1~0.2%にあたる。

 この100人程度で構成される「村」の役割は重要だ。「村人」たちが、自分たちを一つのコミュニティとして捉え、
企業全体のために意を合わせて行動
しないかぎり、不要な内部抗争によって企業価値は損なわれていく。
最悪の
場合は、企業の存続さえ危ぶまれる。

  たとえどんなに素晴らしい戦略が立案されようとも、そもそも最上層幹部たちで構成される「村」で行き詰まって
いては、それを実行に移す機会は訪
れない。 

 戦略を実行に移すにあたっての問題の根源とされるものは、時とともに変化している。我々の長年の
調査結果から、現代企業が取り組む戦略実行にお
けるボトルネックが、確実に上のレベルへと移行している
ことがわかっている。

 かつてビジネスの専門家たちは、企業の組織ピラミッドの下位にいる反抗的な社員たちが成長の足かせに
なると指摘した。20世紀の最初の70年ほどは、
ビジネス上の障壁は、例えば怠慢な社員であり、彼らを管理する
マネージャー
が必要だと考えられた。 

 しかし1980年代になると、非難の矛先はマネジメント層のうち中間管理職に向けられていく。それまでは
企業をまとめる重要な役割を担っているとさ
れたのが、一転して、中間管理職こそが上層部が立てた戦略を
うまく咀嚼し
て実行に移すことのできない障壁と捉えられるようになったのだ。

 中間管理職の削減は、短期的にはコストカットのメリットがあるかもしれない。だが、中間管理職を削減する
ことで(障壁が減り)、戦略実行におい
て何らかの改善がみられるという証拠は何もない。

 我々の研究では、一般社員でも中間管理職でもなく、上層部(「村人」たち)に戦略実行に対する当事者意識が
欠けていることが、戦略が早期に行き
詰まる要因であることがわかっている。現代では、戦略を実行する上での
な障壁は、最も上のレベルへ移っているのだ。

  多くの企業の「村人」たちの間で、共同責任や説明責任といった感覚がまったく見受けられない。彼らは、
自分たちが一団となることで発生する力につ
いて理解していない。本来は企業のため、幹部たちは心を
一つにして行動し
なければならないはずである。しかし彼らは主に個人単位で動く。自らのチーム、
自らの領域において責任を果たしているだけなのだ。

 幹部たちの意識を変えるために、まずは彼らが集まる頻度を上げる必要がある。年に一度、戦略見直しの
ために2、3日集合するだけでは、真のコミュ
ニティを構築するには不十分である。

 幹部たちの間に集団意識が芽生え、心を一つにして戦略を実行に移そうというメンタリティが生まれなければ
ならない。それがうまくいけば、企業が
前進するために必要なことは何か、そのために自分たちはそれぞれ
どんな役
割を果たせばよいのか、といった意識を互いに共有しようとする感覚が磨かれるはずだ。

 戦略立案には幹部たち自らが取り組む必要がある。そこで自分の意見を述べれば、当事者意識が生まれる。
さらにその意見が考慮され、戦略に反映さ
れれば、その戦略は“自分のもの”だと感じられるようになる。
「実現した
い」という強い思いを抱くようになるはずだ。

  さらに幹部たちは、「企業全体のために」という気持ちを持つ必要がある。現在多くの企業では、幹部たちの
評価は、各人が管轄する事業分野で上げた
成果によってなされている。これでは、自己中心的な行動を
呼び起こしてし
まう。個人的な成果だけでなく、いかに企業全体の成果に結びつくための努力をしたかを
きちんと評価する仕組みを作らなければならない。
 

 「村人」たちは理性だけでなく、もっと心からの衝動で動く必要がある。自社の企業戦略を頭で理解するのと
同時に、そこにコミットしようとする気
持ち・感情の強さが求められるのだ。強い気持ちで当事者意識を持てば、
動にもつながる。

 「村を動かすこと」は、企業が戦略の実行を成功させるために最も重大かつ重要、そして最も難しい最初の一歩なのである。

 

コメント: たとえ、本記事で言う「村人」たちが当事者意識を欠き、己の専門領域に特化した仕事しかしなくても、
トップが強力なリーダーシップを
発揮すれば、戦略はスムーズに実行されるだろう。トップに、それぞれの
門家たちを道具として使い、その行動を統合する力があればいい。だが、おそらく100人以上の専門家たちの
力を巧みに統合できるトップはそれほど多く
ないのではないか。本記事で主張されているように、上層部が
コミュニティ
として機能するようになれば、そこまで強力なトップは必要なくなる。いわば上層部には、リーダー
シップのみならずフォロワーシップも求められてい
るということではないだろうか。

 Copyright:株式会社情報工場

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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眼蔵会  (bon)

2014-06-06 | 日々雑感、散策、旅行

 眼蔵会(げんぞうえ)とは、福井県永平寺で毎年芒種の頃(6月初め)に開催される“正法眼蔵”の講読会(勉強会)
のことです。
その第1回は明治38(1905)年といいますから、相当古くから連綿と続けられているのです。

 正法眼蔵(しょうぼうげんぞう)は、鎌倉時代初期(1200年~)の禅僧である道元禅師(曹洞宗の開祖)が
著した87巻に及ぶ仏教思想書で、物事の本質的な事柄を記述したもので、
“心身、自己の真実の姿、本来の天然無為のありようの事” とあります。
まぁ、物事の神髄、自己そのものを見つめる真実追及の書であり、これを紐解いて勉強するというのが、
眼蔵会なのですが、ここで、禅宗のことや道元禅師ことを述べるつもりは全くありません。

         眼蔵会風景(ネットHPより)
               


 私が会社人であった頃、“正法眼蔵を読め” とか、禅の語録である “脚下照顧(きゃっかしょうこ)” や
“直指人心(じきしにんしん)” などを教わったことを想い出したのでした。
物事の真理、とくに人の考え方の基本を見つめなおす事柄に示唆を与え、ビジネスにおいても、その組織の
運営においても “それら物事の原点” を改めて理解し、行動すべしとの自身の精神的立脚点と今後の
進むべき方向性を判断するための一つの指導要素であったのでしょう。
 

 “正法眼蔵” の第一巻「現成公案」からの一節が紹介されているブログがありましたのでここに引用させて
いただきました。(http://spacenowhere.com/blog/
 

『仏道をならふといふは、自己をならふ也

 自己をならふとといふは、自己をわするるなり。

 自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。

 万法に証せらるるといふは、 自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり。

 悟迹(ごせき)の休歇(きゅうかつ)なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ。

 人はじめて法をもとむるとき、はるかに法の辺際を離却せり。

 法すでにおのれに正伝するとき、すみやかに本分人なり。』

 

 先ほどの、禅語のb“脚下照顧” “直指人心” についても以下に引用しておきました。

脚下照顧

 自分の足元をよくよく見よという意。もと禅家の語で、他に向かって悟りを追求せず、まず自分の本性を
よく見つめよという戒めの語。転じて、他に向かって理屈を言う前に、まず自分の足元を見て自分のことを
よく反省すべきこと。 また、足元に気をつけよの意で、身近なことに気をつけるべきことをいう。
「脚下」は足元の意。転じて、本来の自分、自分自身。「照顧」は反省し、よく考える、また、よくよく見る意。
「照顧脚下しょうこきゃっか」ともいう。』
 

直指人心

 直指人心とは、「直ちに人の心を指す」ということですが、人の心つまり人心と仏心とは、本来別の心では
ありません。 私たちの心の中には、もともと仏心が具わっているのです。

この事実を忘れているために、私たちはあれこれと迷ってしまうのです。そこで、直指になるわけです。
教育・思索とかいった、もってまわった方法を取らずに、一直線に「自分の心が仏心にほかならない」と指し示す
のが直指なのです。 無性である真実の自己、自分の心の中にある仏性を直ちに観てとれといわれるのです。
文字や頭で理解するのではなく、直截的かつ独自の方法で導くのです。このように、人間の本性つまり仏性を直指させる、直接体験させる方法を禅宗ではとりますが、これを直指人心といいます。

 禅宗の特色とされる4つの言葉「不立文学・教外別伝・直指人心・見性成仏」のひとつ。直指とは、
喩えや因縁などの方便を用いずに、言葉や文字に頼らず、端的にそのものを指し示すことであり、
この場合には、人の心そのものを直指すること。』

 

 また、余談ながら、こういう見方もされているのですね。

『正法眼蔵という、著書を学ぼうとしてしまう。
現成公案という、何か特別な教え、仏道らしいものがあると思ってしまう。
そうではないのです。
正法眼蔵、現成公案とは、この心身、自己の真実の姿、本来の天然無為のありようの事です。
あらゆる経典は自己の真相の説明書です。そのように学ぶべきものなのです。
自己を知る本当の手がかりがそこに記されているのです。』と。

 

むずかしいですね。   

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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蓼科農園 大合宿2014  (bon)

2014-06-04 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

今年の大合宿は、5/31~6/3の全日良いお天気の4日間でした。

このところ雨が無いのか、畑の土は、パウダー状にサラサラに乾いていて、追肥、除草作業には好都合でしたが、
作物(前月植えたジャガイモなど)にとっては、すぐにでも水が欲しそうでした。 
また、作業中に砂塵を吸って喉を痛めた人もいました。 
作業期間中には、pooky式取水装置により、
出来るだけたくさんの水を補給しました。

        除草など・・
           

 

 大阪方面からも3名の参加を得て、合計8名による大合宿でした。
メインの作業は、東京練馬で育苗した苗たち(トマト、ナス、カボチャ、スイカ、バジル、キャベツ、ブロッコリーなど)を
植え付ける事でした。
蓼科農園は、標高が1,000mと高く、気温が低いのと遅霜の心配があるため、あらかじめ苗を作っておく
ことにしているのです。 これらの苗の植え付け後には、たっぷりの水が欠かせないのですね。

 先月植えつけたジャガイモは、少しバラツキがあるものの大体順調に成長していて、これらには、除草と追肥をし、
さといもは、ところどころ目が出ている程度でしたから、軽く除草する程度にしました。 
冬越しした玉ねぎ、にんにくは、丁寧に除草をしてあげました。
 サツマイモの苗は、現地調達(100本)しました。 船底式に植えつけましたが、翌日はまだ水を吸い上げ
られないため、苗はぐったりとしています。 例年のことなので、心配せずに期待しています。
 

 黒豆(青いネット2畝)と向こうの寒冷紗の中は、キャベツ、ブロッコリー
               


                完成・・!
                   

 

 K邸の、ウッドデッキ工事は、昨年に完成していて、新しく木製のテーブル、ベンチが今回完成しました。
テーブルは、昨年に出来上がっていましたが、今回、塗装(クリアニス仕上げ)を施し、乾燥・サンドペーパ掛けで
完成しました。  また、ベンチは、大・中2脚作成し、これで予定のものはすべて出来上がりました。
大阪のMさんの素人離れした腕前をいかんなく発揮された作品です。  ご苦労様でした。

 

 皆さん、暑い中のフル作業・・お疲れさまでした~。
                   

 



お待たせしました。オートスライドをお楽しみください。(約4分)

 

 

 

 

 

 

 

 

コメント (3)
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