先日、園芸友の会の郊外例会で、千葉県佐原に行った時、掲題の伊能忠敬記念館を訪問しました。
このくだりについては、先の6月10日のブログ記事 “小江戸佐原と水郷潮来” に記しましたが、その後、
伊能翁に関して、友の会会員のhhayashi氏から、会社の先輩に “伊能忠敬研究会” を主宰するすごい人が
いるとの知らせをいただきました。
この方は、渡辺一郎という方で、51歳で退職し、伊能地図に興味をもたれ、その後の伊能図の詳細を研究・発見する
傍ら、伊能図についてマスコミなどの支援を得て、より広く世の中に浸透させた功績が顕著です。
(参考 http://blog.goo.ne.jp/hibiyaob/c/9b63f80df2d714065e7154f012679a6f )
そんなこともあり、とても書ききれませんが、もう少し、伊能翁についてここで整理してみたいと思いました。
大方の人々は、よくご存知のことと思いますが、もう少し紐解いて 翁の凄まじい向学心と実行力・決断力を
あらたにしたいと思います。
例によって、ネットHP,ウイキペディアやその他のHP記述から抜き読み的にまとめてみました。
伊能忠敬翁銅像 伊能忠敬旧宅
伊能忠敬(ただたか)は、江戸後期の測量学者として整理されていて、1745年、千葉県九十九里町に生まれ、
本名を神保三治郎といい、満17歳の時(1762年)伊能家に婿養子に入り、一人娘、ミチと結婚し正式に
伊能家を継いだ。 このとき ミチ は21歳で、前の夫との間に残した3歳の男子1人がいました。
忠敬ははじめ通称を源六と名乗ったが、後に三郎右衛門と改め、伊能三郎右衛門忠敬とした。
とあります。
彼が伊能家に来た時、家業は衰え危機的な状態だった。忠敬は倹約を徹底すると共に、本業以外にも、
薪問屋を江戸に設けたり、米穀取り引きの仲買をして、約10年間で完全に経営を立て直しました。
1783年(38歳)の天明の大飢饉では、私財をなげうって地域の窮民を救済するなどの功績が幕府にも認められ、
彼は苗字・帯刀を許されました。やがて50歳を迎えた忠敬は、家業を全て長男に譲り、幼い頃から興味を持って
いた天文学を本格的に勉強する為に江戸へ出、江戸幕府天文方 “高橋至時(よしとき)” の門弟となります。
高橋至時は、この当時の天文学の第一人者でありましたが、まだ弱冠32歳であり、門下生の忠敬は51歳と
20歳も年齢差がありましたが、燃え盛る向学心の前では、そんなプライドなどはモノともしなかったのですね。
高橋至時も、当初は忠敬の入門を “年寄りの道楽” だと思っていましたが、昼夜を問わず猛勉強している
忠敬の姿を見て、彼を “推歩先生” (すいほ=星の動き測ること)と呼ぶにいたったそうです。
忠敬の方は、巨費を投じて自宅を天文観測所に改造し、日本で初めて金星の子午線経過を観測したりもしたのです。
この頃、 “いったい地球の直径はどれくらいなのか” という基本的な疑問があり、地球が丸いということは
わかっていたが、その大きさが分からなかった。 忠敬は “北極星の高さを2つの地点で観測し、見上げる
角度を比較することで緯度の差が分かり、2地点の距離が分かれば地球は球体なので外周が割り出せる”
と提案した。
この2つの地点は遠ければ遠いほど誤差が少なくなるわけで、江戸からはるか遠方の蝦夷地(北海道)まで
距離を測ればどうだろうか、となり、当時、蝦夷地に行くには幕府の許可が必要であったため、至時が考えた名目が
“地図を作る” というものだったといわれています。
幕府は蝦夷地はもちろん、東日本全体を測量しても良いという許可を与えたのでした。(すべて自費)
これが第1次測量となり、東北・北海道南部の測量が開始されました。
1800年閏4月19日、自宅から蝦夷へ向けて出発しました。忠敬は当時55歳、内弟子3人(息子の秀蔵を含む)、
下男2人を連れての測量の開始となりました
測量の方法は、歩幅が一定になるように訓練し、数人で歩いて歩数の平均値を出し、距離を計算するというもの
だったらしい 。当時の記録には “測量隊はいかなる難所もお通りなされ候” とあり、雨、風、雪をものともせず、
海岸線の危険な場所でも果敢に突っ込んでいったそうです。 昼は測量、夜は宿で天体観測し、両者を比較しながら
誤差を修正、各数値の集計作業に追われる毎日だったそうです。
忠敬は続いて第2~4次測量と3年間をかけて東日本の測量を終え江戸に戻ると、さっそく本来の目的であった
地球の大きさの計算に取り組み、その結果は約4万キロで、後に至時が入手したオランダの最新天文学書と
照らし合わせ、共に数値が一致したことに、師弟は手に手を取り合って歓喜したという。この数値は、
現在分かっている地球の外周と千分の一の誤差しかない正確なものだったそうです。
しかし、その喜びの中、至時は無理を重ねたため病に倒れ、翌年39歳の若さで永眠し、忠敬は悲しみに追い
やられるのでした。
半年後、11代将軍家斉に東日本の地図を披露し、その精密さに、幕閣は息を呑んだ。そして忠敬には
“続けて九州、四国を含めた西日本の地図を作成せよ” と幕命が下り、正式に幕府に登用されることとなりました。
彼の測量は正式な国家事業となったのです。
1805年(60歳)、第5次測量(畿内、中国)のため再び江戸を出発。今度の測量隊は時に100人以上に
なることもあったという。続いて第6次測量(四国)と第7次(九州1次)、第8次測量(九州2次)と足かけ10年に
渡る測量は、体力が衰え始めた忠敬には過酷だった。 調査が手こずったり、測量隊隊員が死亡したり
さまざまな障害を乗り越えて、ようやく江戸にもどり、1815年最終測量地点の東京・八丁堀で、忠敬は
すべての測量を終えた。 時に忠敬70歳であった。
彼が15年以上かけて歩いた距離は、実に4万キロ、つまり地球を一周したことになるのです。測量は、
さらに第9次測量(伊豆諸島)、そして第10次測量(江戸)と続きますが これら二つの測量には、忠敬は
体調不良のため参加できませんでした。
各地の地図を一枚に繋ぎ合わせるためには、地球は球面なので、地図という平面に移す場合の数値の誤差を
修正する必要があるが、既に高齢になっていた忠敬は肺を病んでしまい、そのまま回復することなく、
1818年、73歳で病没する。 しかし、彼の死を伏せて地図の完成を目指し、ついに、1821年、日本最初の
実測地図 “大日本沿海輿地(よち)全図” が完成しました。
これらの地図は3万6000分の1の大図が214枚、21万6000分の1の中図が8枚、43万2000分の1の小図が
3枚という、途方もない規模のものだった。
伊能図部分 渥美半島
(ウイキペディアより)
忠敬は、遺言にこう残した “私が大事を成し遂げられたのは、至時(よしとき)先生のお陰である。どうか
先生のそばに葬ってもらいたい”。 その願いどおり、上野の源空寺の墓地で、彼は既に200年近くも
恩師の傍らで幸せな時を過ごしているのです。
この当時の日本全土は、まだまだ未開の地であっただろうと思いますが、良くもこれほど長い期間、
来る日も来る日も “測量” と “計算” に明け暮れ、すべてを完成させたその気力、実行力は当時の文明の
程度から考えてみても如何に大変であったかは知る由もない。
ただただ、敬服するのみです。
測量方法は、主に “導線法” と “交会法” という2つの方法であるが、これは当時の日本で一般的に
使われていた方法であり、当時の西洋で主流だった三角測量は使用していない。
ただ、忠敬による測量の特徴的な点は、誤差を減らす工夫を随所に設けたことと、天体観測を重視したことに
あるといわれている。
導線法とは、2点の距離と方角を連続して求める方法である。測量を始める点に器具を置き、少し離れたところに
梵天(竹の棒の先に細長い紙をはたきのように吊るしたもの)を持った人を立たせる。そして、測量開始地点から
梵天の位置までの距離と角度を測る。測り終えたら、器具を梵天の位置まで移動し、別の場所に梵天持ちを立たせ、
同じように距離と角度を測る。これを繰り返すことで測量を進めてゆく方法である。
導線法を長い距離にわたって続けると、だんだん誤差が大きくなってくるので、その誤差を修正するために
交会法が使われる。
交会法とは、山の頂上や家の屋根など、共通の目標物を決めておいて、測量地点からその目標物までの
方角を測る方法である。導線法で求めた位置が正しければ、それぞれの測量地点と目標物を結ぶ直線は
一点で交わるので、この方法で導線法による誤差を確かめることができる。さらに忠敬はこれに加えて、
富士山などの遠くの山の方位を測って測量結果を確かめる遠山仮目的(えんざんかりめあて)の法などを活用している。
また、測量にあたって天体観測を活用することで、観測地の緯度や経度を求めることができるため、
地図の精度を向上することができる。 忠敬は測量中、晴れていれば必ず天体観測をおこなうようにしており、
宿泊場所も観測器具が置けるだけの敷地があるところを指定していた。
主な観測内容は、恒星の南中高度、太陽の南中、日食、月食、木星の衛星食などである
恒星の南中観測とは、観測地点で恒星が南中(真南に来た)したときの地平からの角度を測ることをいい、
この角度と、あらかじめ江戸で測定しておいた角度を比較することで観測地点の緯度が求められる。
しかし、動いている星が南中した瞬間を正確にとらえるのは難しいため彼らは、多い時には1日で20個から
30個の星の南中を観測し、誤差の軽減に努めたそうです。また、日中に太陽の南中を観測することもあった。
これは緯度を求める目的のほか、南中した時刻を確かめて、日食・月食の観測で使う器具を調整するという
目的もあったといいますから、より正確性を求めたのですね。
日食・月食の観測は、観測地点の経度を求める目的でおこなわれた。経度を求めるのは緯度を求めるのに
比べて格段に難しい。 西洋では18世紀の終わりごろに、経度測定方法がようやく確立してきていたそうですが、
当時の日本にはそれらはまだ伝わっていなか経度の測定法として、他に木星の衛星食を利用する方法も試されたという。
主な測量器具について以下に列記しておきます。
距離測定
最も基本となったのは歩測です。
歩いた歩数を元に距離を計算する方法である。1歩の長さがいくら(何センチ)であるかが重要で、しかも
均一である必要があっり、忠敬のそれは、69~70cmとされています。
第二次測量からは歩測の代わりに、間縄と呼ばれる縄や、鉄鎖を使って距離を求めるようになった。第二次測量では麻の縄を使って海岸線を測量したが、縄は伸び縮みして正確な距離が測れなかったので、
第三次測量からは新たに考案された鉄鎖が使われた。鉄鎖が使えないような場所では引き続き間縄が使われたが、
藤づるを編んだ藤縄や、鯨のひれを裂いて編んだ鯨縄を使うといった工夫が加えられたそうです。
鉄鎖は、両端を輪のように加工した長さ一尺の鉄線を60本つないだ鎖で、伸ばすと長さは十間となるように
構成された。そして、この鉄鎖も間棹で毎日長さを確認していたという。
方位測定
方位の測定は大中小3種類の方位盤および半円方位盤にておこなった。
小方位盤
これは杖の先に羅針盤をつけたものである。羅針盤は杖を傾けても常に水平が保たれるようになっていて、
精度としては10分(6分の1度)単位の角度まで読むことができ、平地では三脚に固定して使用し、傾斜地では
杖を地面に突き立てて使用した。 忠敬はこの羅針の形や軸受けの材質を変えるなどの工夫を加えた。
この小方位盤は主に導線法と交会法において使われた。導線法で使う際には正・副2本の羅針盤を使って
2点の両方から角度を測り、その平均を取るようにしていた。
大・中方位盤
この方位盤は、脚のついた円形の盤の中央に望遠鏡を設置したものである。円盤には方位を測るための
磁石が取り付けられるようになっており、また円盤の周囲には、角度が分かるように目盛のついた真鍮の
環が組み込まれている。さらに円盤の上には指標板というものが置かれていて、これは望遠鏡と連動して
円盤状を回転できるようになっている。これらの方位盤は、富士山など、遠くの目標物の方角を測るのに用いられた。
半円方位盤
大・中方位盤と同じように、目盛り付きの真鍮板と方位磁針が付属しているが、半円盤の上に視準器があり、
これを半円盤上で回転させて目標物に合わせることで方角を求めることができる。構造が単純で偏心による
誤差が生じやすいが、細かな方位が求めやすく、持ち運びやすいという利点もあるため、遠くの山などを測る目的で、
第四次測量以降ひんぱんに使われた。
傾斜・高度測定
象限儀
(ウイキペディアより)
坂道の傾斜や星の高度は象限儀を使って求めた。象限儀の種類としては杖先小象限儀、大象限儀、中象限儀がある。
杖先小象限儀
2点間の距離を導線法により求めても、その2点間が坂道になっていると、地図に表すとき距離が異なってしまう。
この補正は、はじめのうちは目測で傾斜角を測って補正していたが、第三次測量からは杖先小象限儀を
使うようになった。
測った角度は割円八線対数表と呼ばれる三角関数の対数表を利用して距離に換算したという。
大・中象限儀
恒星の南中高度を測るための象限儀は、大(長さ六尺)、中(長さ三尺八寸)の2種類が使われた。
構造はどちらも同じである。 大象限儀は江戸に常設しており、全国測量では中象限儀を持ち出した。
この象限儀は、刻まれた目盛りによって一分単位の角度を読み取ることができ、目測を加えると十秒または
五秒程度の単位まで測ることができた。
象限儀は地面に対して正確に垂直になるように設置しなければならない。そのため設置にあたっては
本体以外に多数の木材が必要となり、全部合わせると、解体して運んでも馬一頭では積みきれないほどの
大きさになったという。
時間測定
日食・月食が起きた時刻は、垂揺球儀によって求めた。
垂揺球儀は振り子の振動によって時間を求める器具である。仕組みとしては振り子時計と同じで、
忠敬が使っていた垂揺球儀は現存しており、歯車を組み合わせることで十万の桁まで振動数が表示されるように
なっている。振り子は1日におよそ59,500回振動するので、最大で約17日連続稼働できる。
技術的にも、高度で複雑な上これらの測量器具の精度向上と持ち運びなど、気の遠くなるような作業が
繰り返されて初めての実測日本地図が完成したのですね。現在の日本地図と殆ど正確に描かれていて、
ほんのわずかにズレがある程度でしたね。
お疲れさまでした。