蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

携帯電話・・大きな再編  (bon)

2013-09-30 | 日々雑感、散策、旅行

先日例によって、知人のH氏から送られてきた、情報誌に、掲題に関連した記事がありましたので、
転載させていただきました。

 記事の中に、“4G”の略語がありますが、これは、第4世代移動通信システムのことで、
国際電気通信連合(ITU)が定めるIMT-Advanced規格に準拠する無線通信システムのことです。

 しかし、3.9Gに相当するLTEやWiMAX、あるいは3.5Gに相当するHSPA+などもマーケティング的に
「4G」と呼称されていて、例えば、“docomo LTE Xi”、“au 4G LTE”、 “SoftBank 4G LTE”などがそうです。

 ちなみに、携帯電話の “世代とは”・・・

 1G:音声をアナログ電波で送信する。 2G:デジタル方式で、メールやネットに対応(ドコモだとmova)。 
3G:速度が数Mbps~14Mbpsと高速化(ドコモだとFOMA)。 4G:100Mbpsを目指して開発された次世代機。 です。

以下に記事を転写します。

**************************

 

The Economist 2013/09/07-09/13号

 

     携帯電話・通信業界の大きな再編(p57)

     (The big mobile-phone reset)

【要旨】先日、ベライゾンおよびマイクロソフトによる大型買収が発表された。たびたび再編が行われ、
大きく変化しようとしている世界の携帯電話・
通信業界の動向を整理した。

  ------------------------------------------------------------

 

 結婚生活に例えるなら、それはかなり前から予想されていた離婚と、もうひとつは、そのうち実現するだろうと
長く言われてきた結婚だった。携帯電
話・通信業界再編の話である。

 

 9月2日、米国のベライゾン・コミュニケーションズは、英国のボーダフォンが45%保有していた、米国最大の
通信事業者ベライゾン・ワイヤレスの株
を、現金、株式、債券を含め総額1300億ドルで買い取り、完全子会社化した。

この買収額は、業界史上2番目の規模である。

 

 その翌日、マイクロソフトがノキアの携帯電話事業を38億ユーロ(約50億ドル)で取得した。
同社はノキアに特許使用料として17億ユーロを支払うほ
か、15億ユーロの融資も行うとのことだ。
かつて世界最大の携帯電話メーカー
だったノキアは、2011年のマイクロソフトによるインターネット電話会社
カイプの買収金額よりも低い価格で買収されることになる。マイクロソフトへ移籍する 32000人の従業員のなかには、
ノキアの最高責任者で、以前はマ
イクロソフトに勤務していたスティーブン・エロップも含まれる。
エロップ
は2年前にノキアの将来をマイクロソフトのオペレーティングシステムにゆだねた張本人だ。
その彼を、1年以内にもマイクロソフトの最高責任者を退く予定のスティーブ・バルマーの後継者に押す声が上がっている。
ソフトウェ
ア販売の巨人マイクロソフトは、携帯電話・通信の世界でも諦めていない。

7月に発表された組織改編計画では、モバイルコンピューティングに注力し、「デバイスとサービス」の会社に
生まれ変わると、バルマー CEOが宣言した。

 

 中国メーカーを除き、主要な通信事業者は携帯電話端末機の生産を諦めた。端末機メーカーは、
グーグルのアンドロイド、アップルの iOS、そして引き離されて3番目につけるマイクロソフトのウィンドウズという
3つの“エコ
システム”に整理統合された。そして通信事業者は、来たる統合の波に向け、準備を整えている。

 

 大手通信事業者のうちネットワークの構築と端末機生産の両方を行っているのは、ファーウェイと ZTEの中国企業のみだ。
2社とも、今後も両事業を
継続するだろう。ファーウェイの役員である Chen Lifangは、「大半の取り組み」は
売上と利益の大半を占めるネットワーク設備への投資に費やされる
が、「デバイスは非常に重要である」と述べる。

 

 マイクロソフトのノキア買収で、同社の携帯電話端末生産事業への意気込みは以前よりも明確になった。
ノキアはすでに、 Windows Phoneの80%以上
を生産している。スマートフォン市場でウィンドウズは、多数のメーカーが
使用しているアンドロイドやアップル製品のみで起動する iOSに大きな差をつけられている。
ゲーム機のXboxを除き、これまでマイクロソフトのデバイ
スの売上は芳しくない。ノキアブランドを掲げた携帯電話で
追い上げていけ
るかは不透明だ。

 マイクロソフトは、アップルのように他の携帯電話メーカーが自社のOSを使用するのを禁止することはしないと述べている。
ファーウェイによれば、
この件を保証するとすでに同社から連絡があったという。

 また、ノキアと同じくかつて高い人気を誇ったカナダのブラックベリーは、現在ではウィンドウズのデバイスにも
追い抜かれており、身売りが取り沙汰
されている。ブラックベリーの買収に興味があるか問われたファーウェイだが、
同社幹部によると「その予定はない」という。

 

 通信事業に関しては、方向性がより定まってきた。少なくとも米国では、ベライゾンとAT&Tが市場を占めている。
ベライゾンは、長年求めていた収益
率の最も高い資産を手に入れた。これで通信サービスに加え、
ネットワークを活用し、ブロードバンドと携帯電話を組み合わせて販売することも可能となる。

 

 ベライゾン・ワイヤレスを手放したボーダフォンにも、投資に費やす資金は十分にある。
まずはヨーロッパが米国に大きく遅れをとっている4Gネット
ワークの構築に、60億ポンド(約94億ドル)の投資を計画している。
2017年
には、同社がサービスを提供する5ヵ国において4Gカバー率は90%に達する見込みだという。
より高速なネットワークは、新規顧客の獲得と維持に貢献
するだろう。
またベライゾンやAT&Tがすでにアメリカで行っているように、
料金の値上げも可能だ。

 

 ボーダフォンは他にも、ドイツ最大のケーブルテレビ会社であるカベル・ドイチェランドを買収したばかりだ。
競合するブロードバンド会社やケーブ
ル会社はマルチサービスの一環として格安料金で携帯電話のパッケージを提供しており、
ボーダフォンもスペインやイタリアなど英国以外でも、携帯電
話事業を超えた進出を狙っているのかもしれない。
一方、ボーダフォン自体
が買収される可能性もある。AT&Tはヨーロッパに目をつけている。
ベライゾ
ンとボーダフォンの提携が解消された今、ボーダフォン買収は以前に比べて複雑ではなくなっている。

 

 他の通信事業者たちの間でも、細分化されたヨーロッパの市場を統合しようとする動きがみられる。
買収や売却といった話題が豊富な9月はじめだっ
たが、このトレンドはしばらく続きそうだ。

 

コメント: 最近のスマートフォンユーザーには、PCの延長というよりも、携帯電話の発展型として認識する層の方が
圧倒的に多いのではないか。モバ
イル分野でマイクロソフトが苦戦している一因には、おそらくそれゆえに
ウィ
ンドウズというブランドが通用していないこともあるのだろう。
今回のノキ
ア買収は、二つのブランドが共倒れになる可能性もある両刃の剣だと思う。

そうならないためには Windows Phoneをより魅力あるOSに磨き上げるべきであり、買収はその覚悟の表明と
捉えることもできる。

 

Copyright:株式会社情報工場

 

ソフトバンク世界3位の携帯会社へ (mak)

昨年10月にソフトバンクが米国3位の携帯事業会社のスプリントネクステルを買収するとのニュースが突然報じられ、度胆がが抜かれたが、既に買収取引は完了されている。産経新聞記事は上記色文字部をクリックすると見れます。

下記は記事の一部の抜き書き部:

「国内の携帯電話市場の大きな伸びが見込めない中、ソフトバンクはスプリントの買収をきっかけに、海外での携帯電話事業を本格展開する。ソフトバンクの孫正義社長は同日、都内で記者会見し、「(米国の携帯電話市場は)上位2社の寡占状態で、挑戦者にとってまたとないチャンス。日本でしたことを再現できる」と米国市場の開拓に自信を見せた。

 米国の携帯電話市場は、契約数がともに1億を超えるAT&Tとベライゾン・ワイヤレスが2強を形成。3位のスプリントは赤字が続くなど苦戦を強いられている。しかも、高速データ通信サービス「LTE」の投資負担がかさみ、携帯各社の収益を圧迫している。ソフトバンクはスプリント買収で米国にも事業基盤を構築、スプリントの競争力の向上を目指す。」



 

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今年のススキです。  (bon)

2013-09-28 | 花鳥風月

 このようなものを、なんでブログに上げるの・・?

まぁ、そうですね。 普通はなんてことないですし、どこにでもあるし、
蓼科あたりには嫌というほど繁っていますし・・。


 ここにアップしたのは、もう10年以上我が家のベランダの植木鉢で育ってきたのです。
だから、どうなの? いやそれだけなんです。

 タカノハススキというのですが、12年前に3株購入して、毎年このように靡いています。
冬場は、地際で刈り込んでいますから何も出ていませんが、春先から青々と葉が伸びて来て、
今頃になると背が高く、穂を靡かせるのです。
このススキは、地上20m位のところで咲いている計算です。

     


 彼岸花。
 これも、埼玉県では “巾着田” などでは、一面群生していて観光スポットにもなっています。
夏ころまでは青々とした葉っぱがたくさん伸びていますが、それが、瞬く間に枯れてしまい・・どうしたかな? 
思っていると、す~っと花軸が伸びて、先端に花が付きます。
忌み嫌う人もいますが、この花、変わっていますよね。対象的な花ですが、形が・・。
あぁ、そういえば今年は、サギソウは全滅でした。 暑かったのでしょう。夜も・・。残念です。
来年は、何か対策を取りたいと思っています。

     鉢植えのヒガンバナ
     

 

 菊です。 管物とか、何とかの大輪の菊でもなく、名前が通った種類でもなさそうですが、
春に苗を求めて今この花に出会っているところです。
 この夏のベランダは、暑すぎた感じですから葉が焼けたり、キクにとっては、花どころではなかったのかもしれません。
それでも、このようにアップに取るときれいですね。

     


 もう一つ、名前が分からないのですが、小さな白い花がところどころに咲いています。
もらい物ですが、その人も名前をご存じなく、図鑑をめくってみましたが、見当たらないのでした。

     名前が分からない白い花
       

 

 先の(ブログの)、みかんを一つ “もいで” きました。 あと8個は、まだ木に残してあります。
この後、食してみました。 皮は大変薄く、香りが強く甘みもあって引けを取りません。
ベランダでもちゃんと出来るんだ。  後の8個が楽しみです。

     

 

 

 

 

 

 

 



 

 

 <!-- 枯葉 -->

 

 

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朝ドラ   (bon)

2013-09-27 | 日々雑感、散策、旅行

 NHKの朝ドラ“あまちゃん”は結構な人気を続けているとか・・。
あの、出だしの音楽もユニークで、子供はもちろん、ネコまでが興味を示すそうですね。

 

 9月30日(月)から次の朝ドラ “ごちそうさん” が始まるそうですが、
この背景に私がかって所属していた運動クラブ “ボート部” の選手(現役)たちが出るという。

 いつ頃? どのような形で?・・などは、放送前なので語れないとか。
 

なぁ~んだ! ということになるかもしれませんが、いまは、ちょっと興味をもって
放送開始を楽しみにしています。


     エイト (当時、手前から3人目の席(7番)を漕いでいました。) 
        (HPから転写しました) 

 
 

 そういえば、1995年の大阪からの朝ドラに “走らんか” がありましたが、
あの時は、わが母校が舞台として、なつかしいセーラー服が登場していましたね。

 もう、18年も前のことになるんですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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あきれた・・!  (bon)

2013-09-26 | 日々雑感、散策、旅行

 何がって?  JR北海道ですよ。

 このところ、頻繁に記者会見の映像を見させられていますが、対応している鉄道事業本部長(常務)の
言葉や目線から全く真実味が感じられない。 
というか、背景に“言えないもの”があって、苦しい対応の矢面に立たされている・・そんな意識が充満している
感じですね。  官僚的というか、お客不在の意識、子供じみた論理・・。

 19日に脱線事故を起こし、異常の緊急報告書を国交省に提出し、97か所にわたって レール幅が基準より
広がっていたことを明らかにした。
これ以外にはありません・・といったその口から、今度は社内チェックで、さらに170か所に幅広が見つかり
計267か所に問題があったと説明した。
“一度言ったことを覆すことは、信頼を失うことになるが・・”などと前置きしたその姿には、問題の本質が
完全に見失われてしまっている。 既に安全輸送の信頼が失われているとうのに。
これが、安全輸送を基本とする大会社の役員なんだ。 
記者会見する頭上に、社是が書かれた額が空しく映っていました。

 

 平成23年5月の石勝線の事故で多くのけが人を出した。また6月には列車脱線火災事故を起こし、
その後も事故が多発したことにより、国交省から指示を受け、23年9月に“安全報告書”が提出されています。

 その冒頭にあるJR北海道の安全にかかわる基本が掲げられているので、部分をそのまま転載します。

 <安全報告書部分> (転写しました。)
     

 

延々と24ページにわたって報告書は綴られていました。

 

今回の問題は、事故が多発し、調査した結果が レール幅が基準を上回って広い箇所が多数出て来た・・
こともそうですが、そのことが記録(指摘)されていながら長期間放置されていたということですね。
なぜ、このようなことになっていたのか?

 

 何と空しいことか・・。  どこかおかしい。  こんなことがあっていいのだろうか。
民営化後の経営問題を補う措置が、次第に経営体質や自らの業務意識を干からびたものに変えていったのかもしれない。
経営者は自ら責任を取り、一刻も早くこの体質を改めてほしい。






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あれから3年   (bon)

2013-09-25 | 日々雑感、散策、旅行

 ブログ「蓼科浪漫倶楽部」を開設してから、昨日で早や、まる3年が過ぎました。

 ブログ開設以来1096日が経過しました。 スタートは、2010.9.25でした。
最初の画面は、“蓼科農園” で楽しくやっている記事で、その3日後の28日には、
今は亡き林“秀ちゃん”が、元気に復帰したメールを紹介しながらの記事でした。こんな時があったのですね。

 この当時のブログを見ると、記事そのものが短く、どのように掲載すれば良いか・・などを模索しているようです。
 “このブログのコンセプトは何か?”など、大声で議論したりもしていましたね。
そう考えると、月日が経つのが早くも感じる中に、結構時間が経過しているなぁ~とも思えるのですね。

 これまでの累積訪問回数は 143,130 IP、累積ページ閲覧数は 529,354 PV  と記録されており、
あぁ、すごい数だナと思いますが、これが多いのか、少ないのかはそれほど問題ではなく、果たして
このブログがどのような形で、読者の中に息づいているか?・・なんて、大げさかもしれませんが、
その時々の記録の中に、確かな想い出として楽しく蘇ることが出来たら望外の喜びでしょう。
時には、時代の話題がそうであったことも思い起こさせてくれたり、気になっている事柄が明快になったり、
経済動向や、世界の出来事などを知る・・ありがたいメディアには違いありません。

 時に、全く見知らぬ方からのコメントが入ったりもしました。大変ありがたく、うれしいことです。
このコメントが長く継続しながら、話題がどんどんと発展して新しい世界?が開けたこともありました。
 どこかの学生さんから、調べものの中で、わがブログの記事が大変役に立った・・とお礼のコメントをいただいたこともありました。

 開設1年目、364日目にも記事アップされていて、その時の訪問者、閲覧数は、それぞれ 47,697 IP、 170,114 PV ですから、まあ順調に推移しているとみていいのでは・・。
あるいは、それほど伸びていないとみることも出来、読者が定着している?とも考えられますね。

 

 この先、いつまで継続されてゆくか定かではありませんが、出来る限り継続してゆきたいと念じています。

 ブログ「蓼科浪漫倶楽部」をご覧くださっている皆様に心より感謝申し上げます。


懐かしい映画音楽の数々をお楽しみください。

 

<!-- 映画音楽 -->

 

 

 

 

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孔の科学   (bon)

2013-09-23 | 日々雑感、散策、旅行

 ちょっと変わったタイトルで何かな?と思われるかもしれませんが、“アナ”の働きについて、
いつも来る会報に記事が掲載されており、なるほど・・ と面白く拝読しましたので大筋をご紹介します。 
本記事の著者は、北川進氏(京都大学大学院教授、工博)です。

 

 原題は、“小さな空間のサイエンスとテクノロジー” というちょっと長めのものですが、
要は人類の発展に大きく貢献してきた “物質” および “生命” の科学の根幹は、原子や分子にあることは
言うまでもないが、これらの分子の合成化学は、すなわち “原子から組まれた骨格” であり、その骨格体として発展してきた。
 しかし、著者は、“骨格” ではなく、原子や分子が囲む、あるいは仕切る “空間” に着目した。
いうなれば、分子やイオンが活躍する空間の科学に取り組んできたという。 
   もう少し我慢して、先に進んでみてください。

 著者によれば、“”という字は世界最古の漢字字典に収録されており、“あな”という概念が
既に2000年前から文字で表されていたそうで、代表的な多孔性材料である活性炭は、古代エジプトにおいて、
医療用に用いられたとかが、パピルスに記述されているという。
活性炭は現在においても水の浄化などに幅広く用いられているが、その歴史は3000年にわたり、
近年の新しい発見として“ゼオライト”があり、これまで石油産業をはじめとして人類の生活に不可欠のものとして
長年にわたり利用されてきている。

 しかし、これら多孔性材料は、高温で焼成させる処理が必要であり、しかも、望みの“孔サイズ”、“形”を
設計して作ることは難しいという。 さらに、ナノスケールで人の手で逐一作り上げることは不可能である。
そこで、この多孔性材料をナノスケールで構成するに当たり、特に“化学”の力が必要になる・・というのです。
 

 前置きみたいな、部分がずいぶん長くて申し訳けありませんでした。
以下の部分が、専門的で難しく必ずしもストンと理解できませんが、“目からウロコ”みたいな感じで読めるのですね。


 例えば、構造情報として“柱材”は、直線構造、“天井材”はパネル状・・という風に作っておき、
それをコネクタ―の金属イオンと溶媒に溶解させ、液体中に均一に分散させ、配位結合が接着剤にとなって
自動的にお互いを認識して結びつき、多数の空間を持つ骨格体が出来る・・という具合である。
このようにして、一例として“孔”の断面が1ナノメートル程度で、個体(結晶)のサイズが、一辺が1マイクロメートル
とすれば、この個体の断面には100万個(1000×1000)の孔が出来上がることになる。
しかも、焼成するなどのエネルギーを消費するプロセスを経ない優れものである。

 この従来材料にない全く新しいタイプの多孔性材料は、環境、エネルギー、バイオ課題に密接にかかわる
気体分子を自在に捕獲、貯蔵、変換する新しい材料として研究が進められている。 


 米国発のシェールガス(メタン)革命、・・このブログにも“mak”の論文がある・・が大きな話題となり、
先の米国についでカナダからも輸入するとの発表があるなど、身近なものとなりつつある。
これらメタンを大量に、安全に貯蔵できる計量な材料が今こそ求められており、タイムリーなものとして
天然ガス車の燃料タンクなどに実用化される日も近い・・というのだ。

 また、他にも大きく期待されている分野があるという。
“20世紀の初め、世界の人口は10億人程度であり、このとき、「1800年代の最高の技術、道具を使い、
耕されている土地すべてを使って作物を生産しても、40億人以上を養えない」と言われた。
しかし、現在の世界人口は70億人であり、当時の予想から言えば30億人は飢えているはずである。
これを覆したのは「窒素肥料」であり、これを工業的に生産する化学が人類に貢献したのである。”

“さらに、将来を見た時に、「空気」や「水」などどこにでもある資源を使うサイエンスを発展させることが重要であろう。
その道具として、「多孔性材料」が期待されている”と言っている。

 特にどこにでもある資源・・気体を材料にする化学のために、その“分離” “貯蔵”“変換”して有用なものに
変えて行く、すなわち気体を自由に操つる“ガスサイエンス&テクノロジー”に、この多孔性材料は不可欠である・・
と結んでいます。 

 

 ちょっと難しかったですが、このような分野から将来を見た重要な研究が進められているのですね。

 

 

  

 

 

 

 

 

 

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錦蝶(キンチョウ)  (bon)

2013-09-21 | 花鳥風月

蚊取り線香のキンチョウと同じ発音ですが、こちらは植物の名前です。

ベンケイソウ科、カランコエ属の多肉植物です。 マダガスカル原産だそうです。
円筒形の葉の淵にはぎざぎざのトゲのような突起があり、この葉の先端には“不定芽”を付け、
そこから新しい芽が出てくるという変わりものです。

       錦蝶
      (ネットより拝借)

 

    花が咲いたところ
      (こちらもネットから拝借しました。)

 

 

 昨日は、園芸友の会例会でした。
その時の話題として「草花の名前」について、数名の方の発表があり、その中に名前が分からなかったが、
いろいろと調べてやっと判明した中の一つということで、出席者に“その葉”をおすそ分けいただいたのでした。

 

 一夜明けた今日、早速、6号鉢に植えるのではなく、“置いて”みました。
これで芽が出て、ちゃんと育つのだそうです。
花が咲きましたら、このブログでご報告したいと思っています。

 

いただきものの“葉っぱ”                           置いた(植えた)ところ
   

 

 ついでに、少し調べましたら、類似種に“不死鳥”というのと“不死鳥錦”、“黒錦蝶”があり、
それぞれ少し葉の幅が広めとか、腑が入らないとか・・あるそうです。

 今まで全く知らなかった草花も、このように解説付きでスポットを当てると覚えやすいですね。

 

この曲を聴くと、高校に入学したころを思い出します・・。

 

 

 

 

 

 

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中秋の名月  (bon)

2013-09-19 | 日々雑感、散策、旅行

今夜、9月19日は中秋の名月です。旧暦8月15日つまり十五夜の月なんですね。

今夜の名月はまさしく「満月」なんです。  満月の瞬間は、午後8時13分だったのです。

“十五夜なんだから、満月に決まっている。” ・・訳ではないのですね。
お月さんが満ち欠けする周期は、約29.5日なので、十五夜(その半分)といっても、少しずつずれていますから
中秋の名月は必ずしも満月とは限らないのですね。
それが今夜は、満月なんです。しかも、全天快晴ですから言うことなし・・。
次に中秋の名月が満月となるのは、8年後2021年だそうです。(オリンピックより1年後) 

      満月
          (ネットより拝借しました。)
 

 


 旧暦の「秋」は、7月~9月を指していますから、そのちょうど真ん中 8月15日が「中秋」なんですね。

月月に、月見る月は多けれど、月見る月はこの月の月(詠み人知らず)” 

ここに、月という漢字が8つあります。・・“8月”    なぁ~んチャッテ!

 

 夕方から、パーティーに出かけてきました。50周年記念の集まりは、これまでいくつかありましたが、
今夕のが最後の50周年です。 
入社50周年というか、社会人50周年というか、それにもうすでに入社した会社は卒業して、今は誰も籍を置いていませんが、
とにかく、入社年次が同じである人たちが50周年をお祝いしたのでした。
 入社したビル(本社)の隣り(正しくは隣の隣)の帝国ホテルが会場でした。
事務、技術、研究の約70名が集まり、本当に懐かしい人々と久しぶりの語らいは、
当時の様々な想い出とともに新しいエネルギーが満ちてくるような感覚がありました。

 同期生は、“ライバル”かも知れませんが、そんなことを感じることもなく大変良き時代を過ごして来たものだと
今さらながら思うのでした。
 

今宵、私が見た月は、満月を少し過ぎ、十六夜までには少し間がある・・そんなお月様でした。

 

  

 

 

 

 

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蓼科浪漫倶楽部かぼちゃ・スイカ祭り  (bon)

2013-09-17 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

 まだまだ日射しが強く残暑が感じられる中にも、さわやかな肌に心地よい秋風を実感する9月13日(金)~16日(月)、
かぼちゃ・スイカ祭り”の楽しい集いがありました。

 我が蓼科農園の周囲には、一面鮮やかな黄金色に実った稲穂に埋め尽くされたの田圃が見事な景観を演出していました。

     黄金色の田圃
      

 

 先月(8月)きれいに整理した農園は、雑草に覆われていました。
お目当ての“かぼちゃ” “スイカ”は大豊作で、みんなの期待に応えてくれていました。

     かぼちゃ
      

     スイカ
       



 今回は、もう一つのイベントが待ち構えていたのでした。 
我が浪漫倶楽部の拠点である「K邸」のウッドデッキが一部腐食による“不同沈下”を起こしていたことから、
仲間のM君が詳しく調べて不良個所全て取り外したところを修復することでした。
強度、安全、美観すべてを優先した設計、修復工事は、思ったよりは難しい部分がありましたが、何とか進捗しました。
(完成は次回予定)

      修復中のウッドデッキ
      
 


 折からの台風18号は、4日目の朝、中部地方に上陸し、京都桂川など増水による大きな被害を残し、そのまま我が
農園近くを通過して日本を縦断する形となりました。畑作業の中断や帰路の道路、電車などに直接影響がありました。

 そんなアクシデントもありましたが、何とか9月バージョンも無事終えることが出来ました。
みなさん大変お疲れさまでした。

 

 

 

 お待たせしました。沢山の写真によるオートスライドです。(約8分)

     

 

 

 

 

 

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みかん  (bon)

2013-09-09 | 花鳥風月

 子供の頃、冬になるとコタツの上に、黄色い “みかん” が山に積まれていると、何となくうれしい豊かな気分になったものでした。 
素手で剥いてすぐに食べられる みかん は、手軽でおいしくて おまけにビタミンCなどが多いというから、うってつけの食べ物でした。
今は、そんな “みかん” も苦しいピッチングを強いられているようですね。

 ベランダの小さな鉢植え “みかん”  は、3年もので我が家に来たので、そろそろ15年くらいになります。
その鉢植え みかん に、今年は9個も実が付いています。
昨年は、1つでその前の年は2つでしたから、突然変異?です。
このところ異常気象が続いていますから、我がベランダにも異変が起こっているのでしょうか? 
まぁ、しかしうれしいことです。 
 まだ、青く、硬いですが来月にもなれば、黄色く色づいて食することが出来るかも・・。楽しみです。

    今の状態です。
       (この写真では、7個が見えています。)

 

 この“みかん”が我が家に来た頃は、花木や草花などをベランダで始めた頃で、 2つも通販の月極め頒布会に入ったりして、
毎月2鉢ずつ1年間楽しんでいました。  実の成る物では、このみかんの他、レモン、ゆづ、さくらんぼ、柿、茱萸・・など、
花物では、山茶花、梅、沈丁花、藤、馬酔木、サルスベリ・・などの2系統でした。
さらに、これが終ると、再び盆栽仕立ての変わりものを頒布会で・・。  おまけに、ホームセンターなどで欲しいのを購入したりして
いましたから、たちまちベランダが賑わったのでした。
 これらは、その内枯れてしまったり、昨年の大規模工事の時点で処分したりして現在は、沈静化しております。


 ところで、あの、お馴染みの“みかん”について、この際、ウイキペディアで少し調べてみました。

 “甘い柑橘ということから漢字では「蜜柑」と表記される。 代表的な温州ミカンの「ウンシュウ」は、柑橘の名産地であった
中国浙江省の温州のことで、名産地にあやかって付けただけのことで、中国の“温州”原産ではなく 日本の鹿児島県が
原産と推定されている”んですね。

 

産地をデータで見ますと・・

     都道府県別収量割合(平成23年、農水省)
      

 

 和歌山、愛媛、静岡3県で、全国の半分を占めているのですね。

 “柑橘の原種は3000万年前のインド東北部のアッサム地方近辺を発祥とし、様々な種に分化しながらミャンマー、タイ、中国等へ

広まったとされる。 中国では古くから栽培が行われており、戦国時代に完成したとされる。
文献『晏子春秋』には「橘化為枳」(橘、化して枳と為る。境遇によって元の性質が変化するという意)との故事が記されている。”

“日本にはタチバナと沖縄にシークヮーサーが原生していたが、3世紀の『魏志倭人伝』には「有薑橘椒蘘荷不知以爲滋味」
(生薑(ショウガ)、、山椒、茗荷があるが、それらを食用とすることを知らない)と記されており、食用とはされていなかったと
考えられる。” だそうで、これは驚きですね。

“日本に最初にミカンが広まったのはキシュウミカンだそうで、肥後国八代(現熊本県八代市)に中国浙江省から小ミカンが伝り、
高田(こうだ)みかんとして栽培され、それが15 - 16世紀ごろ紀州有田(現和歌山県有田郡)に移植され一大産業に発展した。
江戸時代の豪商である紀伊国屋門左衛門が、当時江戸で高騰していたミカンを紀州から運搬し富を得たことでも有名である。
また江戸時代初期、徳川家康が駿府城に隠居したとき、紀州からキシュウミカン(ホンミカン)が献上され、家康が植えた
この木が静岡地方のみかんの起源とされている。”

“明治時代に入ると、以前よりミカン栽培に力を注いできた紀州有田はもとより、静岡県や愛媛県等でもウンシュウミカンの栽培が
本格化する。北米や朝鮮にも輸出されるようになり、日本国外への展開も始まった。
昭和初期にはナツミカンやアメリカから輸入されたネーブルオレンジ等も広く栽培され、柑橘市場の成長は最初のピークを迎える。
そのまま高度経済成長の波に乗り、ミカン栽培は飛躍的な伸びを見せる。

それが、1980年代からの日米貿易摩擦の中で1991年にオレンジの輸入自由化が始まり、円高も相まってオレンジの輸入が
増大する一方で主に北米向けに行われていた輸出は途絶え、ミカン栽培は危機を迎えた。
加えて、農家の後継者不足や果樹消費の多角化等、日本のミカン栽培は様々な問題を抱えている。”

   1世帯当たり年間購入量と支出金額推移(総務省)
      
 

 みかんの生い立ちから、その歴史を垣間見ましたが、そういえば、最近、この温州ミカンの他に、いろいろな新しい種類が
店先に並んでいますね。 “デコポン”、“河内晩かん”、“清美オレンジ”、“はるみ”、“セトカ”・・などなど~。


 

 

 

 

 

 

 

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朝、5時の虹   (bon)

2013-09-08 | 日々雑感、散策、旅行

朝5時の2時・・?  いや、虹です。

今朝、5:18~5:28頃、南南西30℃くらいのところに、はっきりとした虹が出ていました。
出てから、しばらくすると最初の虹の左横にもう一つ、ややうすめの虹が出てきました。

肉眼では、はっきりときれいな色に見えますが、カメラを通すと、光が弱いために

なかなかきれいには写せませんでした。
そんな画面ですが、ご覧ください。

 南南西30℃あたり・・の二重虹                 拡大したところ・です。
   

 

今朝の5時頃・・といえば、起きておられる方も多かったかもしれませんね。
なので、この虹を肉眼で見られた方もおられるかもしれません。

2020年オリンピック・パラリンピック開催地が決定した瞬間、二重虹がピークでした。 

  決定に沸く、駒沢体育館
         

   招致活動・・ご苦労様でした。

 昨日の早朝、5時過ぎには市民農園にいました。 ダイコン・・青首と三浦大根の種を蒔きました。
少し前に、掘り起こして石灰をまいておきましたので、昨日は、畝つくりと、種まきでした。
2週間ほど前には、ブロッコリー苗を5株植えましたので、いよいよ冬野菜シーズンの準備です。
後の計画は、ホウレンソウ、シュンギクなどの葉物・・にしようかな? と思っています。

という訳で、連日早朝に目覚めて・・長い一日を過ごしています。  

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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八重の桜、襄の梅  (bon)

2013-09-06 | 日々雑感、散策、旅行

 先日届いた“会報”に、このタイトルの講演記事が掲載されていました。
講演者はこの春、同志社大学神学部をリタイアされた 本井康博氏という方です。
この講演は、今年4月にあったといいますから、ちょうどNHK大河ドラマ“八重の桜”が始まっていてタイムリーなお話だったのですね。

 それで、今年の大河ドラマが、なぜ“八重の桜”か?という切り出しで始まっているのです。
つまり、なぜ、NHKは無名の八重を大河ドラマの主人公に据えたのか? と。
 

 NHKには、全国40を超える自治体から、大河ドラマの主人公に取り上げてほしいとの陳情合戦が繰り広げられているそうで、
それというのも、取り上げられれば数百億円の経済効果があるというのです。
例えば、三重県は「藤堂高虎」、長岡京市は「明智光秀と細川ガラシャ」 福島県は、初代会津藩主の「保科正之」・・という具合に。
福島県には、ほかに超有名な八重と同世代の「野口英世」がいる。

 そんな中で、NHKが大河ドラマの選定も大詰めに近づいた頃、2011年3月11日、東日本大震災と福島原発事故が起こった。
“単なる娯楽番組を制作している場合ではない。” “一番痛みつけられた福島、ひいては東北全体に勇気と元気を送る
番組にしなければいけない” NHKはおそらくそう方針転換をしたのではないかと、講演者は推定している。

 しかし、復興のシンボルを選ぶメッセンジャーとして福島県人を抜擢したいならば、会津の人々が一番売り込んでいた
「保科正之」を選べばよかったし、世界的に知られる「野口英世」もいたはずなのに、落選して無名の「八重」になった。

 NHKのこの決定を、講演者はこう推論している。
「なでしこジャパン」の活躍が、3.11後の日本にどれほど勇気と励ましを与えたかを鑑み、女性パワーに着目し、
主人公を女性にしたのではないかと。

 しかし・・と氏は、なおも続けます。
“大河ドラマの主人公を女性としても、八重だけではなく、時代を明治に限定しても少なくとも5人いる。” といっています。
つまり、幕末のジャンヌダルクと呼ばれている「中野竹子」や会津国家老の家柄の娘で、岩倉使節団に随行して日本最初の
アメリカ留学生、後に大山巌と結婚した「山川捨松」は、ダンスも得意で“鹿鳴館の花”ともよばれた女性。
3人目は、幼児教育・女子教育の先駆者として知られる「海老名リン」がいて、その他、“小公女”の名訳で知られる「若松賤子」、
日本のナイチンゲールと言われた「瓜生岩子」ら計5人いる。

 

 大河ドラマの主人公を争ったと仮定して、なぜ「八重」が選ばれたのでしょうか? 
氏の推測は、「不堯不屈」「信念」「先見性」という言葉がぴったりの八重の性格を挙げています。
さらに、数年前にNHKが歴史番組で新島八重を取り上げた際、大変な好評を博したことにも起因していると思われる・・
と結んでいます。

 後に再婚することとなる「新島襄」について、むしろ講演者にとっては同志社大学創設の基となった人ですから、
より詳細なお話となっています。

 襄が宣教師として帰国して、キリスト教系大学を設立することを目指し、先ずは、横浜か築地が浮かんだかもしれませんが、
アメリカン・ボードの日本における拠点は、大阪、神戸だったという。 大阪府知事は難色を示し、神戸かと思われましたが、
結局は当時京都府の顧問をしていた八重の兄である「山本覚馬」が協力を約束して、自ら購入していた旧薩摩藩邸跡地を
学校用地として新島に譲渡し、新島と連名で「私塾開業願」を文部省に提出したとあります。
このくだりは、先週のドラマで展開されていましたね。

 1875年「同志社英学校」が設立されましたが、当時大学は、東京に一つあるだけの事でしたから、新島は私立大学創立を夢見て、
募金活動に奔走している途中で倒れ、1890年46歳の若さで帰らぬ人となりました。
亡くなったわずか4日後には、この活動に刺激を受けた「福澤諭吉」の慶應義塾大学部が東京三田で発足したのですね。


 ドラマの「八重の桜」は、“桜は被災地にもきっと来ます。桜は必ず咲きます。”というエールの意味で復興のシンボルとして
タイトルに“桜”を入れたのであって、そこに主人公の名前を重ねたらたまたま“八重桜”となったという落ちです。

 一方、新島は、“梅”が大好きで、“同志社の花=梅” と言われており、学生会館を“寒梅館”といい、学内茶室を“寒梅軒”と
いうのだそうです。 悪い条件を克服して開く“梅”の姿に新島は大変共感を抱いたといいます。

 講演者は、“NHKは、桜ではなく、敢えて風雪を侵して、笑って咲く梅は、まさしく復興を目指す東北への応援歌シンボルとして
八重を描こうとしている”のではないかと結んでいます。

 

 

 

 

 

 

 

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築地界隈   (bon)

2013-09-04 | 日々雑感、散策、旅行

昨日、9月3日も朝から良いお天気で日中は34℃まで上がったようです。

ランチの会は、築地本願寺の“酔芙蓉”が見ごろだということで、ここをお目当てとしました。 
が、なんと暑さのせいか、花はわずか一輪だけ・・。 
蕾はまだちらほら見えるから既に時期遅しでもないはずなのに・・拍子抜けの感じとなりました。

 築地場外市場をとおり、ランチを済ませて、奥にある“波除神社”を見ました。
周囲の建物に圧迫されそうな小さな境内ながら本殿にはローソクの明かりが見え、それなりに人が
訪れているようでした。  ここ、波除神社の由来は、 “明暦の大火(1617年)後、築地の埋め立て工事が行われたが、
荒波の影響で工事は難航した。 そうしたある晩、光を放ち漂う御神体が見つかり、これを(1659年)、
現在地に社殿を建て祀ったところ、その後、波が収まり工事が順調に進んだといわれている” とか。
 以前お正月にお参りに来たことがありましたが、大層賑わっていました。

  酔芙蓉一輪               波除神社
  


 酔芙蓉が一輪だった築地本願寺は、インド風の建築ですが、浄土真宗本願寺派(いわゆる“お西さん”)
京都西本願寺の「別院」として延宝七(1679年)に再建され、“築地御坊”と呼ばれていたそうです。

 もともとは、元和三(1617年)、創建当時は浅草近くの横山町に第十二代宗主(門主)准如上人に
よって建立され、“江戸浅草御坊”と呼ばれていましたが、明暦三(1657年)のいわゆる
“振袖火事”で有名な大火で坊舎を焼失した。 幕府の区画整理のため旧地への再建が許されず、
その替え地として下付されたのが八丁堀の海上でした。 そこで、佃島の門徒が中心になり、
本堂再建のために海を埋め立てて土地を築きその地名も“築地”と呼ばれるようになったとか。

    築地本願寺
      

 

 勝鬨橋を右に見て、晴海通りを横切ろうとしたその交差点に、“軍艦操練所跡”の説明版がありました。
幕末ものに良く出てくる話で、「あぁ、ここがそうだったのか・・!」なんて思いながら、説明を読んでみると、
“黒船来航後に幕府海軍の建設に乗り出した江戸幕府は、最初の本格的な海軍教育機関として、
1855年(安政2年)に長崎海軍伝習所を設置したが、その2年後に長崎に続いて、江戸の築地にあった
講武所
の中にも海軍教育部門を設けることにし、1857年(安政4年)に、軍艦教授所が開かれた
その後、長崎は閉鎖されたため、軍艦操練所は以後の幕府海軍教育の中核施設となった” そうです。

     軍艦操練所跡
       

 

 隅田川沿いに、聖路加方面にしばらく歩くと高く聳える “St. Luke’s Tower” のオフィスビルに出て、
佃大橋の手前まで来ました。すぐ前が“佃島”ですが、
佃島は、今は“大川端リバーシティ21”と呼ばれる
大規模住宅群が立ち並んでいますが、歴史的は、その昔、“徳川家康が関東へ下降する1590年に、
摂津国佃村(現在の大阪府大阪市西淀川区佃)の漁夫33人が江戸に移り、1645年に元々あった
名前のない砂州に百間四方の土砂を埋め立てて拡張し、築島して定住することとなったのが始まりという。
この島を故郷にちなんで「佃嶋」と命名した”とか。 あぁ、そうだったのか、“大阪の佃村が・・”。

 佃島の住宅ビル群                    渡し場跡
   

 話のついでに、築地市場はいつ頃から? 
そういえば、現役の頃、太田市場開場に絡んで、システム支援をしていた頃に知り合った築地の仲卸店(ひもの)の
システムを若手社員に担当させたことが思い出されて来ました。
そんな築地市場は、 “江戸時代から東京の食品流通を担ってきた日本橋魚河岸をはじめとする市場群が、
1923年(大正12年)9月に起きた関東大震災で壊滅したのを受け、12月、隅田川や汐留といった水運、陸運に
恵まれていた旧外国人居留地(築地居留地)の海軍省所有地を借り受けて臨時の東京市設魚市場を開設したのが、
築地市場の始まりである。” そうで、1935年(昭和10年)に現在の位置に東京市中央卸売市場が開設されたのだそうです。

そういえば、築地移転の話はどうなったのでしょうか?


 聖路加の横に、「あかつき公園」があり、この周辺には、記念碑的なところがたくさんあって、それらをすべて見て回ることにしました。

 シーボルトの胸像がありました。 よく読んでみると、彼自身がここに住んでいたわけではなく、
“彼は、1823年、鎖国時代の日本の対外貿易窓であった長崎の出島のオランダ商館医でしたが、
その娘「楠本イネ」が築地に産院を開業したことで、また明治初期から中期にかけてこの一帯に外国人居留地が
設けられていたことから、ここに彼の胸像を建てた”そうです。


続いて、“慶應義塾発祥の地記念碑”がありました。 へぇ~こんなところに・・と思いました。
“慶應義塾の起源は、安政5年(1858)の冬、福澤先生が中津藩奥平家の中屋敷内(江戸の築地鉄砲洲)に開いた
蘭学塾に由来し、昭和33年(1958)義塾創立百年記念事業の一つとして、この記念碑が建てられた”。 
並んで“解体新書”の記念碑もありましたが、これは偶然であったらしく、その昔、 (1771年)前野良澤、
杉田玄白、中川淳庵らが集まって、オランダの解剖書『ターヘル・アナトミア』を苦労しながら解読した場所が
やはりこの地であったそうで、義塾の記念碑とともに日本洋学発祥の地記念碑として昭和34年に
日本医史学会・日本医学会・日本医師会の連名により、そこに建てられた・・というのです。

 シーボルト                       日本洋学発祥の地
   


 “聖ルカ通り”を築地方向に戻ると、道路際に“浅野内匠頭邸跡”を見つけました。
浅野家上屋敷があったところで、1667年にあの“忠臣蔵”で有名な浅野長矩がここで生まれたとありました。
もともと、赤穂藩が築地の地に江戸上屋敷を構えたのは、明暦3年(1657)のことなんだそうです。

      浅野内匠頭邸跡
       


 ところで、聖路加は、“せい”ではなく正しくは“せい”なんだそうです。
“新約聖書の福音書の一つである『ルカによる福音書』の著者とされる聖人ルカの漢字表記に由来する。” とあります。 
“せいろか”の読みも定着してはいたが、近年では、関係のうちでは積極的に正式名 “せいるか” を用いているそうです。
 “St. Luke” なんですね。

 

 暑い、お昼時の一番暑い中を、2時間近く歩き回って、たくさんの記念碑などに触れ、それも割合関心のある
歴史ものでもあったので、頭の中が充満して、暑さも手伝って少々フラフラ気味となりました。

 涼しいところでお茶しながら、これらを振り返りながら、さらにいろんな出来事に話は飛びながら
手近な史跡めぐり?に充実した一日でした。ちょっと盛りだくさんになってしまいました。 




 

 

 

 

 

 

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岡倉天心  (bon)

2013-09-02 | 日々雑感、散策、旅行

9月2日は、岡倉天心の命日にあたる。1913年(大正2年)9月2日没とあります。

生まれは1863年ですから、今年は生誕150年、没後100年となります。

ウイキペディアには、
“福井藩の武家の子として横浜に生まれる。東京美術学校(現・東京芸術大学)の設立に大きく貢献し、
また日本美術院を創設した。近代日本における美学研究の開拓者で、英文による著作での美術史、
美術評論家としての活動、美術家の養成といった多岐に渡る啓蒙活動を行い、明治以降に於ける
日本美術概念の成立に寄与した。” とあります。

   岡倉天心
      (ウイキペディアより)

 

 さらに要約して行きますと・・ “福井藩が横浜に開いた商館の貿易商となり、その商店の角倉で生まれたことから、
天心は当初「角蔵」と名付けられた。(後に覚三と改名)。 英語塾で英語も学び、東京開成学校に入学、
ついで1877年(明治10)新設の東京大学に進み、政治学、理財学を学び、また、アメリカ人教師
アーネスト・フェノロサについて哲学を学び、80年大学を卒業後文部省出仕となる。”

“22~23歳の時、東京美術学校設立のため、欧米視察旅行後、彼が幹事として就任し、東京美術学校(現・東京藝術大学美術学部)は1889年(明治22年)に開校した。翌(明治23年)、東京美術学校第2代校長となり、27歳のこの頃が最も活動がさかんであった。同校での美術教育が特に有名で、福田眉仙、横山大観、下村観山、菱田春草、西郷孤月らを育てたことで知られる。”

 “岡倉の強力な支援者である、明治を代表する文部官僚で男爵の九鬼隆一の妻と恋に落ちる。
その時、岡倉は25歳であった。彼女は、妊娠していたが夫隆一と別居し、のち離縁してしまう。
生まれた子は、有名な哲学者九鬼周造である。 
彼はのちに、子供の頃訪ねてくる岡倉を父親と考えたこともあったと記している。”

 1898年(明治31年)、東京美術学校を排斥され校長を辞職し、博物館からも身を引いて野に下り、
橋本雅邦(がほう)、横山大観、菱田春草、下村観山らと日本美術院を上野谷中に創設した。
その後、1906年に日本美術院を茨城県五浦(いづら)へ移し、大観、春草、観山らと住む。
現在同地に、“茨城県天心記念五浦美術館”がある。
     (ネットより)


1911年ハーバード大学からマスター・オブ・アーツの学位を受けた。

墓所は豊島区駒込の染井墓地にある。

アメリカでのエピソードとして、現地人から冷やかされた時のやり取りだそうです。

"What sort of nese are you people? Are you Chinese, or Japanese, or Javanese?"

"We are Japanese gentlemen. But what kind of key are you? Are you a Yankee, or a donkey, or a monkey?"


 

 

 

 

 

 

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