蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

カモフラージュ  (bon)

2014-11-29 | 日々雑感、散策、旅行

 この言葉、あまり使われることも少ない難しい言葉だと思いますが、けっこういろんなところで、思わぬ人も
普通に使っていたりしている、不思議な言葉だと思います。

  しばらく前に、あるテレビでインタビューを見ていると、“私以外にも、カモフラージュしている人も見かけたり・・” 
などと普通に話されていて、ふと そういえば、私がまだ子供の範疇であった頃にも時々耳にしたことを思い出し
ましたので、ちょっと取り上げてみました。

 この言葉、フランス語なんですね。
カモフラージュまたはカムフラージュ(仏: camouflage)とは、周囲の風景に溶け込むことにより、敵の視を欺き、
対象を発見されないようにする方法のことである。 カモフラージュの対象には、戦車・艦船・航空機を始めとする
兵器・兵士のほか、建造物まであげられる。カモフラージュとして代表的なものに迷彩があるが、他にもさまざまな
技術がある。(ウイキペディアより) へぇ~そうなんだ。

               (ネット画像より)

また、大辞林には、

①  武器・車両・兵士などに迷彩を施したり、物をとりつけたりして、敵の目をくらますこと。偽装。迷彩。
 「木の枝で戦車をカモフラージュする」

②  本当のことや本心を悟られないように人目をごまかすこと。 「自らの失敗をたくみにカモフラージュする」

とあり、冒頭のインタビューで使われたり、私が昔 聴いていた意味は、もっぱら ②の人の心に関したものでした。
偽る とか ごまかす などといえば、何となくどぎつく深刻な感じがしますが、カモフラージュ となめらかな響きに
することで “場” を乱すようなこともなく、そう考えれば、重宝な言葉だと思います。 
でも、難しいフランス語ですね。

 戦争で敵の目を欺く他、一般社会での カモフラージュ の活用例としても、次のようなものがあるようです。 
発表前の新型自動車を走行テストする際に、その車種が何であるかを部外者にわからせないための欺瞞として、
外見を他社製車種に似せたり、デザインの鍵となるボディラインを判別しにくくする複雑な縞模様のペイントを用いる
ことがあったり、 あるいは、景観保護の観点から、山間部に置く携帯電話の中継アンテナを木のように見せたり、
焼却処分場の巨大な煙突に空の色や模様を塗り存在感を抑えるといったことも行われていたりしています。
また、気付かれないように監視出来るカモフラージュカメラ(偽装カメラ)というのがあって、防犯カメラのシステムに
使われている例もあるようです。 ただ、この目的のカメラには、逆にカメラを目立たせることによって、本当は、“ハリボテ” なのに、本物のように見せかけて抑止効果を狙ったものもあるようです。

 この他、カモフラージュや迷彩を取り入れたファッションや芸術作品の例も数多くあるというのには、いささか驚きました。

カモフラージュ・ネイル カモフラ・ネイル などと略して言う場合が多いようですが、つまりはネイルアートの一種で、
迷彩柄を取り入れたもののようです。 たとえば、“今年のトレンドのカモフラージュ柄(迷彩)を、ファッションに
取り入れるとなるとちょっと勇気がいる・・という人向きには、指先のおしゃれ カモフラ・ネイルで楽しんでみるのもいいもので・・”

カモフラージュ・アート まるでカメレオンのように、主に人物が、うまく周囲の景色にとけ込んで隠れているように
色彩することで楽しむやりかたです。世界的にも、いろいろとやっている人がいるそうです。
よく見なくてもバレバレのものもありますが、中にはまるで溶け込んで判別できないような巧みなものもあるようです。
            ネットからの転写です。
                
 

カモフラージュ・アウター 迷彩柄のジャケット

カモフラージュ・スカート 迷彩スカート

カモフラージュ・アイドル これは名古屋を中心に活躍するアイドルグループの名前だそうです。

ここまで来れば、何をかいわんや・・ですが、大辞林②の意味で、ひょっとして、知らず知らずのうちにカモフラージュ
していることは無いか、ちょっと立ち止まって見ることにしましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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COPD  (bon)

2014-11-27 | 日々雑感、散策、旅行

 昨夜のNHKクローズアップ現代で、このCOPDが取り上げられていました。

 大変恐ろしい病気で、WHO(世界保健機構)では、2020年の世界の死亡原因ランキング第3位になると推定している
というのです。(1位は虚血性心疾患、2位は脳血管障害)
原因は、殆ど(90%)が喫煙だということです。 間接喫煙でも油断できないそうです。初期は殆ど気が付かずに
じわじわと進行し、労作をすると息切れが激しくなり、重症になると体全体に影響してくるらしい・・。

そんなことで、少し納得できるように、調べてみました。

 COPDという病名は、あまり知られていないと思いますが(私も初耳でした)、以前、肺気腫、慢性気管支炎
呼ばれていた病気が、統一されて慢性閉塞性肺疾患(COPD:Chronic Obstructive Pulmonary Disease)と
呼ばれるようになった(2001年)そうです。

 ウイキペディアによれば、様々な有毒なガスや微粒子の吸入、特に喫煙などがきっかけになり、肺胞の破壊や
気道炎症が起き、緩徐進行性および不可逆的に息切れが生じる病気である。 多くの場合、咳嗽や喀痰も見られる。』
とあり、2005年のデータでは、世界で患者数は中症以上で8000万人、死亡者数は300万人、日本では、
14,416人で、男性はその8割を占め、死亡原因の10位(男性では7位)となっているという。       

  COPD死亡率(米国)                日本  (いずれもネットから転写しました)
         
 

 これにかかると、『病態の進展に伴い、肺過膨張および閉塞性換気障害、ガス交換障害が進行する。
COPDの初期は無症状であるが、肺過膨張と閉塞性換気障害が進行することにより、換気気流の抵抗が高くなったり
横隔膜を始めとする呼吸筋が力学的に不利な状況におかれるようになったりするため、呼吸のためのエネルギー効率が
低下し、徐々に労作時の息切れが顕在化する。 息切れは、当初は階段や坂道などの昇りで自覚されるが、
平地の歩行、ついで着替えや会話などの日常動作、さらには安静時にも生じるほど重症化する。
息切れによって運動能が制限される状況となるが、呼吸数が増える際に起こる動的過膨張が関与する。
ガス交換障害は病初期は問題にならないが、気管支炎による抵抗の増加と重なる、肺胞の破壊が進むなどして
重症化して低酸素血症となれば、日常の身体機能や臓器機能に影響するとともに、日常活動が制限されるように
なるため、在宅酸素療法(HOT)などの酸素吸入療法が必要である(ガス交換機能が破壊されている上、
換気気流の抵抗が大きくなるため呼吸としてほぼ破綻状態にある)。』
                             (ガス交換:酸素と炭酸ガスを交換する)

 原因は、上にも述べたとおり、喫煙が90%と高率ですが、喫煙者の20~30%がCOPDを発症しており、
高齢者に限ると50%近くになるという。 喫煙以外では、大気汚染、職業上で吸入する粉塵、化学物質(蒸気、
刺激性物質、煙)、受動喫煙なども原因となるそうです。

 

 咳、喀痰、労作性呼吸困難などの症状があり、喫煙歴などの危険因子をもつ中高年者では、検査しておくことが
安心です。 スパイロメトリー検査(肺機能検査)というそうですが、肺活量を測定するのと同じで、これの1秒率の値で
判断されます。

           1秒率(%) = 1秒量 ÷ 努力肺活量 × 100

                          1秒量:最初の1秒間で出し切った量

                          努力肺活量:息を努力して吐き出した量

 で、この1秒率が、 

    ・予備軍(0期)咳、痰などの症状はあるが、1秒率が70%以上(正常)

    ・軽症(Ⅰ期)1秒率70%未満かつ1秒量が正常値の80%以上

    ・中等症(Ⅱ期)1秒率70%未満かつ1秒量が正常値の50%以上80%未満

    ・重症(Ⅲ期)1秒率70%未満かつ1秒量が正常値の30%以上50%未満

    ・最重症(Ⅳ期)1秒率70%未満かつ1秒量が正常値の30%未満、あるいは

              1秒量が正常値の50%未満で慢性呼吸不全か右心不全を合併

で判断されます。

 

 では、検査の結果、不幸にしてCOPDに罹っていたら、これはもうお医者のお世話になるしかありませんが、
ならないように予防するにはどうすればよいのでしょうか。
喫煙者は直ちに禁煙するのが一番ですが、受動喫煙もありますから、務めてたばこの煙から回避するのが重要だ
といっています。 禁煙のほか、インフルエンザワクチンや肺炎球菌ワクチンの接種も大切だといっています。

 昨年亡くなった畑仲間のRIN君は、心臓の手術をしてから肺に水が溜まったとかでしたが、煙草をよく吸っていて、
坂道や階段を上る時、
大変苦しそうに息をしていましたし、その2~3年後に奈良に行った時などは、もう平地でも
歩き辛らそうでしたが、もしや、このCOPDではなかったのかと疑われます。

 

 

 

 

 

 

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好きな花  (bon)

2014-11-25 | 日々雑感、散策、旅行

 時代によって、好きな花 というのは違っているようです。もちろんその時代には、まだその花が無かったということも
あるでしょう。 やはり、その時代の人々の価値観というか時代そのものが有している背景というのも影響しているように
思います。

 先日の園芸友の会では、講師先生(工藤忠氏)は、いつもは会員の質問(事前提出)に応えるという形で進行されますが、
今回は会員からの質問は無しで、先生の体験を通じた幅広いお話がありました。

 先生は東京都農業試験所栽培部花卉研究室に長く席を置かれ、その間利島(伊豆諸島)での “サクユリ” の
品種改良に成功されたり、ニホンサクラソウの改良も手掛けられたり、花卉の大きさや開花時期を制御するなどの
産業面での有効薬剤等の開発・実用化に注力されたそうです。 農業試験所を退職された後も、専門学校で教鞭を
とられたり 神代植物園でのベゴニア栽培にも取り組まれていたそうです。

 先生の専門学校教授時代に発表された 『花の好みも世につれて』 と題する記事が紹介され、興味がありましたので、
以下に抜き読み(コピペを含みます)で、ご紹介します。

 

 奈良時代、万葉集4516首の中には、166種類の植物が登場するそうですが、この中から詠まれた植物の数の順に
ベスト10をあげると、ハギ(141首)、ウメ(118首)、がダントツに多く100首を超え、以下、マツ、タチバナ、サクラ、
アシ、ススキ、スゲ、ヤナギ、フジと続いているそうです。 サクラは50首に出現し第5位ですが、ここにはキクが
1首も詠まれていないのは、この時代にはまだ、キクが出現しておらず、平安、鎌倉時代に広く人々の目に触れるように
なったそうです。

 キクは古今集では詠まれるようになり、後鳥羽上皇はキクを愛用し、文様にも用いたことから、皇室の紋章の起源に
なったといわれているようです。 サクラは、ヤナギとともに平安京の街路樹となり貴族の庭にも栽培され、
古今集ではウメとサクラの歌の数は逆転し、サクラがキクとともに最も好まれる花という立場を確立したとあります。

 更に室町時代になると、ただ花を観賞するだけでなく、好きな花へと積極的に品種改良がおこなわれるようになり、
とくに、ツバキは京都の公家が、サクラは鎌倉の武士たちが熱心に品種改良を進めたとか。 また、この時代には
茶道や華道が始まり、花の文化と強いかかわりを持つようになったようです。 
江戸時代に入ると、園芸植物の品種改良が驚異的に発展したそうです。 中でも、ツツジ、シャクヤク、ツバキ、ウメ、
ボタン、キクなどが盛んに品種改良されたとあります。 技術的方法としては、自家受粉、自然交雑の種子を栽培して、
変わりもの、優れものを選んでゆく “選抜育種法” が基本であったといいますから、気の長い話ではあります。

 

 近年に入り、1960年代の日本経済の成長期に入ると、いわゆる “軽薄短小” を反映した、花の世界でも 
“5つのS” という現象が始まりました。 すなわち、スマート、シンプル、スモール、ソフト、センシティブな花と緑に
人気が集まりますが、この現象は現在でも見られるところです。

 ごく最近の一般的な調査では、1983年では、表1のように、サクラ、バラ、キクの順で好きで、1989年の表2では
(調査母体や対象は同じではありませんが)バラ、カスミソウ、キク、ランの順で、カスミソウやランが上位に入っています。
また、先生が講師を務められた花卉の専門家集団の1994年の調査では、表3のようにバラ、カラー、チューリップ、
カスミソウ等であり、プロらしい少し変わった結果が出ています。 好きというだけではなく、販売や贈り物という側面も
入っているのかもしれません。  しかし、先生によれば、4年間330人の調査で、1票も入らなかった主な花に、
シャクヤク、ダリア、ベゴニア、ハボタンなどがあり、重ねの厚い量感豊かなものは若い人たちには苦手なようだと
結ばれています。

表1 好きな花1983年(NHK調査)            

順位

種類

  サクラ

 2

 バラ

 キク

 チューリップ

 スズラン

 コスモス

 ツツジ

 スミレ

 ウメ

10

カーネーション  

                       

               


             

 

 

 

 

表2 好きな花1989年中小企業情報センター調査

順位

   種類

  1

   バラ

  2

 カスミソウ

  3

  キク

  4

  ラン

  5

 シクラメン

  6

 コスモス

  7

カーネーション

  8

  ユリ

  9

 チューリップ

 10

 キキョウ

 

 

 

 

 

 

 

 
表3  好きな花1994年JFTDカレッジアンケート

順位

  種類

 1

 バラ

 2

 カラー

 3

 チューリップ

 4

 カスミソウ

 5

 ヒマワリ

 6

 ガーベラ

 7

 サクラ

 8

 スートピー

 9

 ユリ

10

 グロリオーサ

 

  ところで、私に “好きな花は?” と聞かれれば、何を挙げようかと迷ってしまいます。
あれこれ花の名前を挙げてみて、どれもその時季に美しいそぶりを見せるので、これだと決める花はありませんが、
強いて挙げるとすれば、ハナミズキ、サギソウ、サクラ、レモンの花、スイセンでしょうか・・。

 

 今日は、どんよりとして、一日中小雨が降る寒い日でした。

            小田原城 菊花展より
                  
 

 

 

 

 

 

 

 

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ベランダの小さな秋  (bon)

2014-11-23 | 花鳥風月

といっても、もう晩秋、今日は11月も23日です。 勤労感謝の日、昔(昭和21年までは、新嘗祭)で3連休のなか日です。

齢を取ると月日の過ぎるのが早く感じるのはなぜでしょうか? 
来し方のいろいろが、それだけ多く、頭の中や体に埋め込まれていて、思いがめぐる・・また、それらが種となって
関連する事柄に飛び火したり、潜在的にあれこれと半ば無意識的に気が巡るためなのでしょう。

 ま、そんなことはどうでもよく、今年も小さなベランダの秋も終わろうとしています。
鉢植えの花木は春先には、それなりの花を咲かせ、葉も繁り、暑い過酷な夏の盛りを耐え、今、静かに紅葉を
楽しませてくれる・・ 毎年この繰り返しを誠実に守ってくれている。
人とは違って、その繰り返しの中のいろいろをどこかに偲ばせて記憶することは無いのでしょうね。いや、ひょっとして
記憶しているのかもしれません。 花付きが、その年によって違うとか、先祖がえりのような葉っぱや枝が出たりする
ことがあります。 植物は、動くことができない。 生命維持のためには、根と葉がその任に当たり、種の保存には、
花を咲かせ、虫を寄せ媒介させる術、そしてそのタネを鳥などによって遠くに運ばせている。 胞子のように、
風の力をかりたり、種子に羽を付けたのもあります。

 よく、ランなどの栽培で、水やりを極端に少なくして、ランを追い込むと、ランは “もうこれまでか” なんて思って、
必死に子孫を残すために花を咲かせるのだ、と聞くことがありますが、一般にそうなんですね。水も肥料も十分すぎると、
いわゆる “栄養成長” で、葉っぱばかりが大きく育ち花の姿が見られないといった現象が起きるのですね。

最近も、豊かさの陰で、小型犬が大量に捨てられていたり、メガソーラーの送電線の純銅が何トンも盗まれたり、
僅か3歳の女児が衰弱して死亡したが、胃からは、ローソクやタマネギの皮などが出て来た・・など、誠に痛ましい、
許しがたい事件が後を絶たたず、やるせない思いが引きずられます。

こんなことを思いながら、風もなく良いお天気なのでいくつかの花木の今をパチリとして、載せてみます。

 めぐすりの木                        さくら
    
 

どうだん                           さざんか
    

 

来年用に、ポット播きしました、ツタンカーメンのえんどうです。少し芽が出ています。
                    


 

定番
 

 

 

 

 

 

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師走選挙  (bon)

2014-11-21 | 日々雑感、散策、旅行

  今日21日の午後、衆院本会議で、衆議院が解散されました。

いつも思うのですが、“衆議院を解散する” の後、議員さんたちが、うれしそうに “バンザーイ” を三唱しています。
何が一体万歳なのか?  政治に空白を作り、多くの人とお金を使って、選挙が行われるのです。 国民にとって、
何が良いのか
わからないのですね。 とくに、今回の解散は、その理由や、タイミングに納得が得られ難い “独断解散”
みたいな感じがしています。

トランプゲームに喩えたりして恐縮ですが、場に出ているカードを “流して” すべて取り換える、そんな感じすら
しているのです。 
そうすることが有利だから・・そう判断するからなんですね。

 

 数々の法案を、かなり無理無理な法案も押し進めながら、一方で景気動向が今一つ読み通りに行かず、
このまま突き進むことは
必ずしも得策ではない、 ここは、すべてを “流して” 取り換える戦方が有利と判断されたの
でしょう。 内閣支持率は11月で、
44%あり、最大野党の民主も小選挙区の候補者擁立が進んでいないようだし、
第3極と言われた、みんなは瓦解し、維新の会も
既に分裂、 民主・維新の調整も難航・・ 野党がこんな状態だから
怖くない。

2年前の衆院選では、小選挙区で43%の得票率の自民が、約8割の議席を獲得しました。 自民圧勝の一因は、
非自民票が
分散したからとあります。 今回もまさしく同じような図式にあるようです。 
ただ、自民にしても、かなり無理筋な政策を押してきていますから、自民離れも起こるかもしれませんが、
大勢は確保できると
読んでいるのでしょうね。

 今日のテレビなどでは、力強い政策や政治路線をうたうのではなく ただただ生き残り戦術に明け暮れた
身の置き所を探る議員集団、
付和雷同議員が映し出されていました。

 

 センセイ方が走り回る師走となり、街は騒がしくなりますが、この結果に “勝った、負けた” ではなく、どのように
することが、
景気の向上が図れるか、短期・長期の政策をみんなで真剣に考えていただきたいものです。

 

 政治、政界に全くご縁の無いノンポリが、的はずれなことを書いて恥の上塗りをしているのかもしれませんが、
何となく国民不在の
解散劇のように思いましたので・・。

 

 今日は、午後から園芸友の会で日比谷へ出かけてきました。友の会のご報告は、別途記事アップしたいと思います。

 日比谷公園のつわぶき                     大手町方向を見る
   

 

 

 

 

 

 

 

 

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小林一茶  (bon)

2014-11-19 | 日々雑感、散策、旅行

 
 消費税率10%への引き上げを1年半先延ばしすることを決め、国民に信を問うとして、21日衆院を解散すると、
昨夜の首相記者会見で表明された。  先延ばし・解散はしばらく温めていたことなのだろう。 
名前を覚えられない程の多数野党がぶつぶつとつぶやいているだけの、独断与党が大見得を切った感じがします。

 この10日に、文化勲章受章俳優、高倉健が惜しまれながら83歳の生涯を終えました。

 さて、掲題の小林一茶は、1827年11月19日に65歳の生涯をとじました。

 一茶は、江戸時代を代表する俳諧師の一人で、その作風は、自然でやさしく世に広く親しまれています。
本名を小林弥太郎といい、1763年、長野県の北部、柏原宿(現信濃町)の農家に生まれましたが、3歳のとき
母がなくなり、8歳で新しい母をむかえ、継母に馴染めず、15歳で江戸に出、奉公先を点々としながら、
20歳過ぎころから、俳句の道をめざすようになったそうです。

                                  (ウイキペディアより)
 

 一茶は、郷里に帰って(39歳) 父の看病をしましたが敢え無く亡くなり、その後12年もの間継母・弟との財産争いが
続いたとのことです。 しかしこの間、一茶は江戸での俳句の研鑚の功あって俳人としての評価は高まっていったのでした。

 50歳のとき、再び故郷に帰り、長年の遺産相続も和解でき、落ち着いた生活を過ごし、52歳の一茶が24歳
年が離れた嫁(28歳)を迎え3男1女をもうけますが 、いずれも幼くして亡くしています。 妻も37歳の若さで亡くなり、
その後再再婚しますが、1827年の大火に逢い母屋を失い焼け残った土偶で生活するようになります。
その年の11月19日に土偶の中でその生涯を閉じたのです。

 代表的な句をいくつか挙げてみます。

          大根(だいこ)引き大根で道を教へけり

          めでたさも中位(ちゆうくらゐ)なりおらが春

          やせ蛙(がへる)まけるな一茶これにあり

          雀の子そこのけそこのけお馬が通る

          蟻(あり)の道(みち)雲の峰よりつづきけん

          やれ打つな蝿(はへ)が手をすり足をする

          名月をとってくれろと泣く子かな

          これがまあ終(つひ)の栖(すみか)か雪五尺

          我ときて遊べや親のない雀

 正岡子規によれば、「俳句の実質に於ける一茶の特色は、主として滑稽、諷刺、慈愛の三点にあり。」と述べていて、
幼少期を過ごした家庭環境から、いわゆる「継子一茶」、義母との間の精神的軋轢を発想の源とした自虐的な句風を
はじめとして、風土と共に生きる百姓的な視点と平易かつ素朴な語の運びに基づく句作が目を引くとされています。

 また、残された一茶の日記の記述から、“結婚後連日連夜の交合に及んでおり、妻の妊娠中も交わったほか、
脳卒中で58歳のときに半身不随になり63歳のときに言語症を起こしても、なお交合への意欲はやむことがなかった。” (ウイキペディアより)

という御仁でもあったそうです。

 俳句からとてもそのようなことを想像することはできませんが、そのようなことをわざわざ日記に記すというのも
信じがたいところです。 ネット記述(コムリンンク)によれば・・

      六 晴  キク月水 弁天詣デ
      七 晴  菊女赤川(実家)ニ入ル
      八 晴  菊女帰ル 夜五交合
      九 晴  田中希杖ヨリ一通来ル、去ル五日、沓野ノ男廿二、女廿三、心中死ス
     十二 晴  夜三交
     十五 晴  婦夫月見 三交 留守中、木瓜(ぼけ)の指木(さしき)、何者カコレヲ抜ク
         十六 晴  白飛ニ十六夜セント行クニ留守 三交
        十七 晴  墓詣 夜三交
        十八 晴  夜三交
          廿 晴  三交
        廿一 晴  牟礼雨乞 通夜大雷 隣旦飯 四交

あぁ、すごいことですね。

 一茶記念館(新館) (一茶記念館HPより)    野尻湖  
      (ネットより)

 

 学生の頃、野尻湖畔でキャンプをした時、黒姫駅方向に行ったところに一茶の生家や記念館がありました。

 

 

 

 

 

 

 

 

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蓼科農園畑じまい2014  (bon)

2014-11-17 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

 自然の恵みと楽しさを与えてくれた蓼科農園、今年最後の訪問 “畑じまい” は、好天のうちに無事終了しました。

 2014.11.14~16は、お天気には恵まれたものの、今年一番の冷え込みとあって、ひと気のないK邸の室内温度は
僅か3℃を示しており、まさしく冷蔵庫のような冷気に包まれていました。
ストーブ、床暖・・で、室内はたちまち暖かい快適さを取り戻せましたが、戸外は日向以外は早や冬真っ最中でした。

 そんな中、予定している行程を分担して手際よく進めました。残っていた里芋の収穫、黒豆の収穫、芋ガラの整理、
カボチャ周りの整理などをして、マルチ、防草シートのはがし作業の順でした。 
バジル、黒豆の枯れ枝、芋ガラなど燃えるものは出来るだけ燃やし大きな炎を上げていましたが、最近は都会では
出来ない光景でした。 Makは、鹿児島ゴルフから直行してくれたので、戦力ダウンをまぬかれて順調に終了できました。

               うっすらと雪化粧の北横岳とピラタスの丘 
                    

 

 黒豆を囲っていたネットを撤去             みんなで黒豆の収穫

    


             芋ガラなどを燃やす
                    


                 整理が完了した農園全景(白いカバーは、タマネギとにんにくです。)
    

                  今年も頑張りました。
                     

 

 冷えきった手足を、温泉に沈める時、じわ~っと温まりながら、筋肉の解れを感じ、今日一日の仕事の達成感に
ささやかな至福を味わうのでした。

今年一年の蓼科農園に感謝して、作柄、種類などの反省をしながら、早くも来る年の作物の選定や時期、肥料などの
計画に話題が弾みながら、幕となりました。 

 帰路の中央道は、秋の日曜日も重なって事故による渋滞が3か所もあり、2時間近く長くかかりました。
今年一年、ご参加くださった皆様、畑ブログにお付き合いくださいました皆様に感謝申し上げます。
ありがとうございました。

 

 好評オートスライドをどうぞ~ (約3分です。)

 





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気象予報士  (bon)

2014-11-13 | 日々雑感、散策、旅行

 この制度は、1993年に気象業務法改正に際して予報担当者の技能試験(国家試験)を行い新たな資格として
創設されました。 これにより、気象予報士は続々と誕生し、テレビなどでの気象情報コーナーで頻繁にお目にかかる
こととなりました 。しかし、合格率はわずか5%という難関ですから相当なものですね。 
お陰様で天気予報も昔よりはかなり分かり易く、その原因や過去との比較など、内容に広がりがあり、また、
説明のための表現も工夫されていていつも楽しく見ています。

 NHKでは、月~金、“おはよう日本” では、かわいらしい 渡辺蘭さん(1983生まれ、桐朋学園大学音楽学部 
タレント、フリーアナ)が、毎朝、衣装や傘、マフラーなどの小道具を使った季節感、天候に合わせた身なりで
解説されているし 、土・日・休日には、関西(西宮)在の 南利幸さん(1965生まれ、広島大・同大学院 気象協会)が
東京スタジオから、毎回気候の分析的な解説と共に楽しい口調で、一つのコラムを受け持っておられます。
“~~の見込みです”  という語尾を頻繁に使われ、アドリブ、ダジャレを交えたユニークな解説です。

 また、夜7時のニュース “ニュース7” の気象情報では、寺川奈津美さん(1983生まれ、慶應義塾大学理工学部
応用化学 NHK契約) が、まじめなテンポ良い口調で解説されています。 先端に丸い球が付いた長い指示棒で
天気図を示しながらの説明振りが、身体を前にリズミカルに曲げながら話されるので、我が家では、当初
“キツツキ”などと(失礼)
親しみからそう呼んでいました。

 この寺川さんの講演録が、先の会報別冊に掲載されていました。 
“気象キャスターの仕事” と題するこの講演で、自身の経験と日頃の気象予報に対する取り組みなどが述べられています。

 『テレビの天気予報は、その番組を担当する気象キャスターが出したものではなく、気象庁が出した予報です。
ですから本来、気象キャスターには気象予報士の資格は必要ありません。 しかし、わたしたちNHKの気象キャスターは
皆、気象予報士の資格を持っています。 その役割は何かというと、気象庁の出す、いわば “答え” とも言える
気象予報が、どういう経緯で導き出されたのか、視聴者の皆さんに分かり易く伝えることにあると思います。・・』 
また、地域の調査や取材などに出かけたり、災害現場にも行き、直に接した感想などにも触れられています。
『さまざまな災害現場を見て痛感したのは、どれだけ人間の手が加わっても、“災害の起こりやすい場所は変わらない”、
“自然の力には到底かなわない”、 “だからこそ、常に謙虚な姿勢が必要だ” ということです。』・・
 

              (気象庁HPより)

  

 これらの方の他にも大勢の気象予報士の方がおられ、毎日楽しく拝見していますが、ここでは、上記お三方に
絞らせていただきました。

 

 明日14日(金)から、今年最後の蓼科農園に行って来ます。
今回は、“畑じまい” で、残っている作物をすべて収穫して畑をきれいにして、大型耕運機が掛けられる状態に
整地するのです。 かって、数年前の畑じまいでは、突然、粉雪が舞い、寒さで震えたことがありましたが、
今回は、予報では良いお天気だそうですが、山地なので、どのようになるのでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

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映画のこと  (bon)

2014-11-11 | 日々雑感、散策、旅行

 寅さんでお馴染みの、山田洋次監督のブロンズ胸像が、先ごろ葛飾柴又の “山田洋次ミュージアム” で除幕された
との報道がありました。 
寅さんシリーズは、ファンの一人で先月まで毎土曜日夕にBSでやっていましたので、楽しんでみていました。

 折しも、手元に届いた会報に、山田洋次監督の寄稿文が掲載されていました。 
会報には、この他、東宝の相談役・前社長の 高井英幸氏 の講演録もありましたが、来年(2015年)が映画誕生
120周年にあたるということなんですね。

 1895年12月にフランス人 リュミエール兄弟がパリのオペラ座そばの建物の地下サロンで、スクリーンを張り、
約100席の椅子を並べて映写機を設置し、1分弱の “シネマトグラフ” と呼ばれる映画を数本、有料で初めて
観客に見せた。 これが映画の誕生だったのですね。 キーワードは、“映写機” と “有料” なのだそうです。 
一方、エジソンもこれより早い時期に、アメリカで映画を開発していましたが、 箱型で、コインを入れてのぞき穴から
動く写真が見られる “キネトスコープ” というもので、“映画” が誕生したとは言われていないのですね。

 日本では、1897年(明治30年)といいますから、誕生から2年足らずで早くも導入され、大阪難波の “南地演舞場”に
スクリーンを張り、入場料を取って最初の映画興行が行われたそうです。

 誕生頃の映画は、もちろん映像だけで、列車が駅に到着するシーンだけの作品だったそうですが、迫ってくる機関車に
当時の観客は驚いて総立ちだったといいます。

 

 山田洋次監督の寄稿文は、「フイルムよさらば」 と題する、それほど長いものではありませんが、“カチンコ” という
映画の撮影の時に、フイルムをスタートする最初に映すアレのことから始まっています。 やはり、長年親しんできた、
監督ならではの愛着ではないでしょうか。 

               カチンコ
                  (アマゾンショップページより) 


 部分的に拾い読み(コピペですが)をしながら歴史の移り変わりを見てみたいと思います。

 『さて、映画のシンボルマークにもなっているこのカチンコが今、制作現場から消えようとしている。なぜかというと
今日の映画は殆どがフイルムを使用せずデジタルカメラによって撮影されているからである。』・・
『映画は機械に跨った芸術だ、という昔の人の言葉があるが、映画はまさに科学技術の落とし子のようにして、
今から120年前にフランスで誕生した。 最初は、歩いている人や走る機関車を写しただけの見世物だったが、
映像が動くというだけで観客は驚嘆にて入場料を払って小屋に殺到した。 しかし、この見世物が人間の感情を
豊かに表現する芸術に進化するのに長い年月を必要とはしなかった。 その20年後には喜劇王チャプリンが続々と
コメディフイルムを世に出して 世界中を笑いと涙で溢れさせ、映画は人間の心に感動を呼び覚ましうる芸術である
ことが立証された。 以後20世紀の科学技術の進歩は映画芸術に大きく貢献する。 初期のサイレント映画は
トーキーとなり、白黒フイルムがカラーになって、かの “風と共に去りぬ” の美しい画面が世界中の映画ファンを
熱狂させたのは1940年代であり、ハリウッドの映画産業は鉄鋼や自動車と並んでアメリカの基幹産業となった。
“ゴジラ” で代表される特殊撮影は映画の新しい表現ジャンルだが、コンピューターの時代になるとCGの技術が
発達して “ジュラシックパーク” のような、この世に存在しない生物をリアルに描くことが可能になる。』
『このように映画創造の現場で表現者たちがより豊かな表現を、という願いに科学技術が応える形で映画の表現力は
日進月歩で発展してきたのだが、さて今日のデジタル化はわれわれに何をもたらしたのか?』

 監督は、さらに話を進めて行くのですが、デジタル化によって観客を更に喜ばせることになったかというとそうではない
というのです。 今日の映画館の9割はフイルムで上映していないのに、そのことに気付く観客はほとんどいないし
製作者が見ても見分けることは難しいらしい。 彼はこのように言っています。
デジタル化は 『フイルム運搬の費用が劇的に安くなったこと、つまり興行における経費の面でデジタル化は大きく
プラスした。・・フイルム現像費用も大幅に削減された。データをコピーすればいい。』 『映画のデジタル化はより豊かな
表現を目指してということよりも効率化、より大きな利潤をという目的のために急速に進められたように僕には
思えてならない。』  『カンヌ、ベニス、ベルリンをはじめとする国際映画祭も今はデジタル上映が殆どである。・・
今年のベルリン映画祭に出品した僕の作品もフイルムで撮影したのをデジタルデータに移し替えての上映だった。』
『ぼくは、フイルムの奥行きのある味わいが好きだし、黒の発色はデジタルよりカラーフイルムの方が断然勝れている。
だからまもなくクランクインする次回作もフイルムで撮影する予定だ。』

 

 これらのくだりを読んでいるうちに、20年ほど前に、サンフランシスコからオークランドベイブリッジを渡ったすぐのところ
エメリーヴィルにある “ピクサー(Pixar)” という映画(アニメ)制作会社を訪問したことが想い出されました。 
ちょうど、“トイ・ストーリー” の発表直前のようでした。 デジタルそのもので、当時の先端を行っていて、
大量のデータを処理する “レンダリング” 装置なども開発されていました。 同じ頃、アポロ13号を制作した会社
(Imagine Entertainment)にも訪問しましたが、いわゆる特撮の流行で、実写とCGの合成映像を体験したりしました。 
案内してくれた制作担当者は、“デジタルよりもフイルムの方が「Rooks」があっていい。” といっていたのを思い出します。

 

 

 

 

 

 

 

 

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イスラム国  (bon)

2014-11-09 | 日々雑感、散策、旅行

 今日(11/9)の読売朝刊に、対 “イスラム国” 支援強化として、米軍のイラク派遣を倍増すると、オバマ大統領が
承認したと報じられていました。
 記事によれば、米軍は、これまでに1600人の派遣が承認済みであり、今回の倍増(1500人)で、合計3100人となる。 
イスラム過激派組織 “イスラム国” と戦うイラク軍等の部隊の訓練や作戦面での支援をするためだそうです。
米軍は、首都バクダッドと北部アルビルに、イラク軍との共同作戦センターを設置し、新たな攻勢地域であるアンバル県などに支援拠点を置く・・とされていました。

 ミヤンマーで12日に開催される “ASEAN” (東南アジア諸国連合)首脳会議で、採択される声明に
「イスラム過激派組織 “イスラム国” について、放置すれば中東だけでなく、世界の脅威」と非難する文言を盛り込む
方針が固まったそうです。 ASEAN各国が危機感を強めるのは、イスラム国の過激思想に共鳴する若者らが
インターネット上などで勧誘に応じ、現地に渡航しているためで、 米軍によると、アジア太平洋から約1000人が
イスラム国への参加を目的にイラクに向かったとしている。 約2億人のイスラム教徒を抱えるインドネシアでは、
新興イスラム過激派組織が勧誘を行っているという。 

 19年前の地下鉄サリン事件(1995年)で、その脅威を見せつけたオウム真理教に、大勢の高学歴を持つ有能そうな
若者が入信していたことを思い出しました。 このような思想になぜ共感するのか全く理解ができませんでしたが、
今また、インターネットなどにより、より広範囲に世界的に、より早く勧誘する手段を使用するこれらの組織の恐ろしさに
マサに直面しているのです。

 イスラムについて、聖典コーランという名前とメッカに向けた礼拝、豚肉を食さない、ラマダンがある・・など
断片的な言葉くらいしか知らない身として、このような記事をアップするなど、身の程をわきまえない 誹りを覚悟して
いますが、先日、少し以前ですが、例のH氏から配信された記事に触発されて、今日的な大問題に注目してみました。

 ネット地図を少し加工して、以下に掲載させていただきました。
                    (ネット地図を加工しました)

 

それでは、配信されました記事をコピペします。

********************************

 「イスラム国を知っておく:スンニ派不満分子を取り込み石油と恐怖で支配地域拡大」
          池田 明史(東洋英和女学院大学学長)
             週刊エコノミスト(http://www.weekly-economist.com/)2014年9月30日号 p46-48

【要旨】米国に続き英国も空爆に参加することが議会承認されるなど、ますます大規模な国際紛争に発展しつつある
イスラム国問題。
 イスラム国とは、
シーア派とともにイスラム教二大宗派の一つであるスンニ派が、最高指導者カリフのもとに
樹立しようとしている国家だ。その勢力範囲はイラクとシリ
アの北部地域に広がっている。油田地帯を制圧している
ことや、異教徒・異
宗派への容赦ない攻撃、欧米の人質に対する残虐な行為などから国際社会からの激しい
非難の的となっている。本記事は、そのイスラム国をめぐる現状
と、これまでの経緯をわかりやすく整理して解説。
その勢力範囲の拡大には
限界が見えていることなどを踏まえた今後の動向と、それに対して国際社会はどのような
考え方で対処していくべきかを論じている。
筆者は、中東現代
政治、紛争研究を専門とし、2014年4月から東洋英和女学院大学学長を務めている。

  ------------------------------------------------------------

  イスラム国は、アルカイダの唱えるカリフ(スンニ派イスラム最高指導者)復興の主張に共鳴し、2003年の
イラク戦争によってサダム・フセイン体制打
倒後のイラクに進駐したアメリカ軍に対する攘夷主義的な武装抵抗運動から
出発している。  「イラク・イスラム国家」建設を掲げた彼らは、国外のアルカイダ系武装勢力を呼び入れ、
また国内ではサダム・フセイン体制下で享受
していた既得権を剥奪されて不満を募らせていたスンニ派諸部族と結んで、
06年ごろは暫定政権を脅かすほどの勢力を誇示した。しかし、国外からの活動分子のふるまいに対する反発や、
イラク暫定政府がスンニ派の懐柔・取り
込みといった融和政策に転じたために行き場をなくし、北西部のシリアとの
国境近辺に押し込められていたのである。

  その彼らがここ数年で勢いを盛り返し、いまやイラク中部から北西部にかけて全領土の3分の1に及ぶ地域を
影響下に置き、さらにシリア領内にも進
出して北東部を中心に支配地を広げている。要因は大きく二つ挙げられるだろう。

  第一は、暫定政権を引き継いで新生イラク最初の正式政権となったヌーリ・マリキ内閣が、あからさまなシーア派
優遇路線に終始してスンニ派の疎外意
識を格段に強化してしまったことである。
 第二の要因は、シリア内戦である。11年の内戦勃発時には単純な構図であったが、その後反政府側の分断・分裂に
よって複雑怪奇な状況が生まれた。 イ
スラム国は、そこに付け込む格好で13年以降北部シリアに勢力を伸ばし、
ルコとの国境一帯の支配をクルド人勢力や他の反政府勢力と争いながら地歩を固めていった。

  イスラム教スンニ派の極端な解釈に立って、異教徒・外国人の排撃を呼号して武力闘争を展開している点では、
現今のイスラム国も、母体となったア
ルカイダや西アフリカのボコ・ハラム、ソマリアのアル・シャバブ、あるいは等しく
シリア内戦を戦うヌスラ戦線など他のスンニ派過激勢力も同じである。

  6月末に自らカリフを名乗ってイスラム国の樹立を宣言したアブ・バクル・アル・バグダディは、その支配を
東地中海(レバント地方)一帯に拡大して
全世界のスンニ派ムスリム人口を指導し、異教徒・異宗派に聖戦を挑む
との
構想を明らかにした。一方で、イラクではモスルまで進撃し、シリアでは東部デリゾールまでを制圧し、
いずれも相当規模の油田と製油施設を支配下に
置いた。他の諸運動が「点と線とを結ぶ」遊撃的な戦闘に終始する
ばかりであるのに、イスラム国は明らかに「面の制圧」を目指した軍事作戦を展開している。

  統治よりも戦闘(つまりテロ攻撃)を重視している他の過激派と異なり、イスラム国は、「カリフの下の統治」を
優先させているかに見える。支配地
域においては、ムスリム男性を徴兵し、イスラム国に従う異教徒・異宗派からは
人頭税(ジズヤ)を取り立て、反抗する勢力を組織的に殲滅するという
形で、彼らなりの実効支配を展開している。

  それを可能にしているのは、日量で3万~4万バレル程度と推計される石油密売収入と、イラク、シリア両国政府が
イスラム国の存在を否認している
がゆえに、イスラム国の版図に含まれる自治体に対してなお公務員・教員などの
給与を支払っているという逆説による。ことさらに残虐さを見せ付ける
のは、イデオロギー上の自己主張による以上に、
イラクのサダム・フセイン
体制やシリアのアサド政権が残した「恐怖による支配」の成功事例に倣うという側面が
強いように思われる。

  カリフ本人の出自はバグダッド近隣であり、イスラム国が土着的社会基盤を持つ「本領」はイラクのスンニ派居住圏で
ある。その意味では、その拡大
はほぼ限界線に到達している。イラク北方や中南部以南はシーア派民兵の本拠地である。
スンニ派地域での作戦には戦意が見られなかったこれらの民兵
諸派も、彼らの本拠地の侵犯に対しては政府軍と並んで
死守の構えを示して
いる。シリアにおいても、イスラム国の統治を進んで受け入れているのは、北東部のイラクとの
国境沿いに点在するスンニ派地城に限られている。

  寸断されたシリア北部から中北部の間隙を埋める形で進撃したイスラム国の主力は、外国人義勇兵の部隊と
見られる。イラク人将兵主体のイラクにお
けるイスラム国軍事力とは対照的に、シリアではチェチェン人その他の
外国
人司令官が混成部隊を率いる例が珍しくない。

  12,000人に上るといわれるイスラム国外国人兵士の出自は、多くがスンニ派アラブ圏だが、欧米からも
ムスリム系移民の若年層が戦列に加わりつつあ
る。その総数は3,000人を超えるとされ、国籍はフランス700人、
イギリス400人、
ドイツ250人、アメリカとカナダかそれぞれ100人などとなっている。
フェイ
スブックやツイッターなどSNSを通じた英語による募兵キャンペーンの成果であろうが、これに応じる若者たちの
動機は、文字通り「神の召命」と捉える
者から現実社会への復讐や逃亡、あるいは単純な冒険欲求まで、実に
さまざ
まである。

  かつて「国際階級闘争」を呼号して国内外でテロやハイジャックを繰り広げたイタリアの「赤い旅団」や、日本赤軍などの
現象のイスラム版を想起す
れば、なぜ「怒れる」あるいは「孤独な」若者たちがイスラム国に吸引されるのか、
わかりやすいかもしれない。
 欧米各国の政府は、英米人人質の「処刑」などの残虐行為が、自国出身のこうした義勇兵の手による犯罪だとの
事実を突きつけられて戦慄を隠せない。
その彼らが再び自国に帰還あるいは潜入して大規模テロを引き起こす
可能性
は捨てきれないからである。

  いずれにせよ現在、イスラム国は国際社会全体にとって「いま、そこにある脅威」としてその動向に深刻な懸念が
向けられている。最大の問題は、し
かし、国際社会の側にイスラム国を生んだ中東アラブ・イスラム世界に対す
中長期的な戦略が欠けているところにあろう。 オバマ演説では、イスラム
国支配地域(とりわけシリア)への空爆の
拡大とイラク政府軍や自由シリア
軍など現地連携勢力への武器兵站供給・訓練といった間接支援、さらには
邦諸国との情報共有といった具体的な施策を示した。「敵の敵は味方」という論理によって、つい最近まで
反目していた諸勢力がイスラム国を共通の撲
滅対象として暗黙裏の連携を見せ始めているのも事実である。
しかしそれは
どこまでも、対症療法的な作戦方針であり戦術的な達成目標にすぎない。

  「アラブの春」でいったんは膨らんだ期待がその後の内戦や混乱で急速にしぼみ、閉塞感が蔓延する中東各地の
状況をどのように収拾するのか。「自
由で寛容なイスラム世界の実現を目指す」といいながら、「いかにして」と
疑問には答えぬままである。この点について戦略的な展望を示せない限り、
イスラム国が国際社会の喉元に
突きつけているやいばを外すことはできない
であろう。
         (週刊エコノミスト購入リンク http://www.weekly-economist.com/

 コメント: イスラム国問題で注目、注意すべきは欧米の若者たちのイスラム国側の義勇軍への参加だ。
本記事にあるように「現実社会への復讐や逃亡、
あるいは単純な冒険欲求」という動機が真実であるならば、
それは宗教やイ
デオロギーが、それらとは無縁の行動モチベーションに恰好の場を与えているという構図になる。
これは、かつてのオウム真理教、さらには国家宗教が
国民を戦争へと導いた構図とよく似ているのではないか。
現代ではSNSがそれ
を媒介するおかげで、世界規模での動きに発展している。これまでの民族や宗教の対立による
紛争・テロよりも複雑になっていることに留意して解決へ
の糸口を探っていくべきだろう。
     Copyright:株式会社情報工場

 

 

 

 

 

 

 

 

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日本酒  (bon)

2014-11-07 | 日々雑感、散策、旅行

 北の国から初冠雪の便りや各地で紅葉が見ごろとなる季節を迎えると、それほど呑み助でない身にも、
日本酒が恋しい季節となりました。

 酒は静かに飲むベかりける~  ですが、純米酒、大吟醸、生酛、山廃仕込・・など、日本酒にからむいろんな言葉が
ちょっと気にもなっていましたので、この際キチットしてみたく、野暮を承知でネット検索となりました。

 吟醸、大吟醸は、お米の精米度合がちがうことは知っていましたが、検索してみると、あるはあるは~
殆どが耳で聞いた言葉や普通の言葉ですがそれぞれに意味があり、使い分けられているのです。

 酒税法では、“清酒” とは、次の要件を満たした酒類で、アルコール分が22度未満のものをいう と定義
されています。

  1. 米、米こうじ及び水を原料として発酵させて、こしたもの
  2. 米、米こうじ、水及び清酒かすその他政令で定める物品を原料として発酵させて、こしたもの
  3. 清酒に清酒かすを加えて、こしたもの

なお、以上のほか、“その香味、色沢その他の性状が清酒に類似する”混成酒である合成清酒や、どぶろくなど一部の
 “その他の醸造酒” も日本酒に含まれる とあります。

                (日本酒造組合中央会HPより)
 

 お酒(清酒)は、普通酒と特定名称酒とに分類されます。普通酒とは、特定名称酒以外の一般に流通している
清酒であり、特定名称酒とは、清酒の要件を満たしたもののうち、原料や製法が一定の基準を満たし、国税庁告示に
定められた特定の名称を容器又は包装に表示した清酒を特定名称酒という とありますが、何か持って回ったような
記述ですね。分かり易く言えば、次の名称で呼ばれている清酒がそうなのです。

すなわち、本醸造酒、特別本醸造酒、純米酒、特別純米酒、吟醸酒、純米吟醸酒、大吟醸酒、純米大吟醸酒 
なのです。 いろいろありますが、大きく言えば、純米連合と非純米連合に区分され、純米は、お米と米こうじだけで
造られ、そうでないのは、お米と米こうじ+醸造アルコールで造られているのです。 醸造アルコールというのは、
濃いめの焼酎で、雑菌などを防ぐ防腐剤の役割なんだそうです。 製法から言えば、普通酒は、非純米酒の方に
分類されます。 
また、好き好きがありますが、吟醸や大吟醸は、折角のフルーティーな香りが壊れてしまうので燗酒には向かないようです。

これらの区分を以下の表にまとめました。

 

 そして、酒母造り つまり酵母を増やす行程(杜氏・蔵人言葉では“立て(もとだて)”という)に大きく分けて
(きもとけい)と速醸系(そくじょうけい)の2つがあって、その生酛系の酒母造りの中に、現在大きく
生酛(きもと)と山廃
(やまはいもと)のやり方があるのですね。

(きもと)というのは、最も古くから続く製法で、乳酸菌を空気中から取り込んで乳酸を作らせ、雑菌や野生酵母を
駆逐する方法である。
酒母になるまでの所要期間は約1か月と所要期間が長いのは、工程が多く手間が掛かるのと、醗酵段階も
完全発酵させるからだそうです。時間や労力が掛かるので敬遠される傾向にありますが、しっかりとした酒質となるため、
伝統の復活のために取り組んでいる酒蔵も増えてきている。

しかし、腐造や酸敗のリスクが大きかったことから明治42年(1909年)に国立醸造試験所(現在の独立行政法人
酒類総合研究所)によって山廃酛が開発された。

山廃(やまはいもと)とは、生酛系に属する仕込み方の一つで山卸廃止(やまおろしはいしもと)の略で、
“山卸” とは米と麹と水を櫂で混ぜ、米を楷棒ですりつぶす作業のことで “酛すり” といわれますが、この重労働を
廃止した製法で醸造した酒のことを山廃仕込み(やまはいしこみ / -じこみ)あるいは単に山廃(やまはい)という。

 

 ところで、日本酒の日というのが制定されています。
このブログで、“日本酒の日” のタイトルで記事アップ(2013.10.1)していますが、まさにこの日、10月1日が
そうなんですね。 記事では、その由来などについて述べていますのでご覧ください。

 今日は、二十四節気の “立冬” です。 今夜あたりは、熱燗でキュッとやってみますか!  

 

 

 

 

 

 

 

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市民農園の秋  (bon)

2014-11-05 | 花鳥風月

 昨日は、午前中1時間半、午後1時間あまり市民農園で作業をしました。

 懸案になっていました “玉ねぎ” の苗を植え付けました。 畝は、もう1か月も前に苦土石灰をいれて用意していましたが、
まだ早い・・ということでそのままにしていました。

 この畝に肥料を混ぜ込んで、マルチを掛け、Pookyが近くの農家から苗を求めてもらった玉ねぎを、植えました。
自分でも種を蒔いて育成した苗も合わせて、計50のマルチ穴に植えました。
マルチ穴には、2~3本の苗を植えたところもあります。 

 穴あきマルチは、先日の蓼科農園収穫祭の折に、少し(5m)頂戴したものを使いましたので、小さい面積ですが、
それなりに本格的な感じが出ました。 

 しかし、植えつけた苗が、ピンと立たずに、マルチの上に寝そべっているので、これで大丈夫なのか? と
心配しています。
 この畝の隣にもう一つ畝を作って、石灰と肥料を入れて、春菊などの葉物用に準備しました。

     植えつけた玉ねぎ (向こうは、葉物用の畝です。)
           


                    元気なダイコン(手前:青首、奥:三浦)
                           

 

 大根に追肥をし、周りの除草を少ししただけなのに、これだけの時間がかかりました。 
蓼科の畑に比べると、それこそ猫の額(15㎡)ですが、腰は痛いし、やはり疲れました。
作業が終わって、少し熱めのお風呂につかる時、それでもなにか充実したような気分が湧いてくるのでした。 
湯上りに冷たいビールを飲みながら、まだ明るい窓外には、大山(おおやま)が遠くに見えて、ささやかな
満足感を覚えた一日でした。
 

                        
                    
                早や実が出来ていたブロッコリー
                                             

 

                                             ベランダ(プランター)で収穫しましたショウガです。
                                                          


 <追伸> 今日は、閏9月の十三夜(のお月さま)ですが、あいにく関東地方は曇り空のようですから見ることが
できないかもしれません。 
 13歳のお月様は、毎月ありますが、昔から、中秋の名月(旧8月15日)の次の月(旧9月)の十三夜の月を愛でる
習慣がありましたが、その旧9月が、今年は171年ぶりに閏9月としてもう一度あり、したがって十三夜(の月)も
もう1回(合計2回)あるというのです。 カレンダーで確認されると、旧13とか旧閏9月とか書いてあるのが分かります。

 

 

 

 

 

 

 

 

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インド市場  (bon)

2014-11-03 | 日々雑感、散策、旅行

 マーケティングとは、ウイキペディアによれば、
『企業や非営利組織が行うあらゆる活動のうち、「顧客が真に求める商品やサービスを作り、その情報を届け、
顧客がその商品を効果的に得られるようにする活動」の全てを表す概念である。』と述べられています。
 ちょっと難しいですが、私が以前から思っていた、部分的かもしれませんが、ここに簡単なお話を述べてみます。

お話し1、電灯が無い時代、ランプで明かりを取っていた人たちに、新しく開発された電灯(この場合電池式)を
売る時、相手(顧客)に対して、電灯はランプよりも何倍も明るいといって訴求するか、明るさはランプで十分だ
としている相手には、明るさよりもむしろ電灯は“煤”が出ませんよ と訴求するか、顧客の反応はまるで違ってくる。
つまり顧客が何を望んでいるかを見極めて訴求しないと、反応は得られない。

お話し2、材料も品質も申し分ない “まんじゅう” をお客に進める時、品質・価格・栄養などをいくら強く表現しても、
そのお客様は、今しがたケーキを食べて、
むしろ渋めのお茶か、コーヒーが飲みたいかもしれない。
甘い“まんじゅう” 
は、今はお呼びでない。

 

こんな話でお時間をいただきまして、申し訳けありません。
いつもの、H氏から配信された記事の中に、大変分かり易いインドでの事例が紹介されていますので、
ここに再掲させていただきました。

 記事に入る前に、ヤマハHPから、インド会社について簡単にご紹介します。
 1985年インド進出、2001年現地法人化、2008年三井物産と合資現在に至る。
India Yamaha Motor Pvt. Ltd. (IYM)

          婦人向けスクーター(代表車)   (下図、ヤマハHPより)
                    

                  現地法人       二輪車出荷台数 
                      

 

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 『インドでつくる! 売る!』

   ‐先行企業に学ぶ開発・生産・マーケティングの現地化戦略
                 須貝 信一 著   (実業之日本社 2014/03 224p 1,600円)

  1.インド進出環境と進出計画
  2.インド市場と製品投入の戦略
  3.インド市場と販売戦略
  4.製品とブランド開発の失敗事例に学ぶ
  5.生産と開発の現地化
  終.日系企業インド進出の展望

 【要旨】中国に次ぐ世界第2位の人口を有し、成長めざましい新興国BRICsの一つとして10年ほど前から
とくに注目を集めてきたインド。若い人口構成と、
成長の余地のある貧困層が存在する魅力ある市場もターゲットに、
日本をは
じめ多くの外資が進出を図っている。本書では、製造業を中心とする数社のインド戦略の事例を紹介。
価格戦略、ブランド開発、プロモーションなどの
各論も含め、いかに競争優位を形成する現地化戦略をつくり、
実行していく
べきかを論じる。その重要なポイントは、単に「安くて良いもの」をつくり売るだけでなく、インド人が
知覚する“価値”に留意することだという。著
者はインドビジネスの調査・コンサルティング、情報提供を行う株式会社
クストマーケット・リサーチ代表取締役。

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 ●女性向け商品投入のために社会変革をも促したヤマハ発動機

  インド市場を二つの言葉で表現するならば、「多様性極まる複雑な社会」と「貧しさ」である。より重要な要素は
「貧しさ」である。インド市場のボ
リュームゾーンには、「低価格」というシンプルで強いニーズが存在する。
「日本企業として当然の品質を維持しながら、低価格に挑む」というのは、すべてのプロセスに関わるものである。
それに対応してきた日系を含む外資
系の先行企業は、コスト低減のためにバリューチェーン上の現地化を進めて、
コストリーダーシップを構築して競争優位を得てきた。「市場ニーズに対して製品を手頃な価格にして応える」という、
「王道の戦略」を採用すること
を前提とするならば、業種にもよるが、現地化は、もはや差別化要因や重要成功
要因などではなく、必須の戦略となりつつある。

  インドの二輪市場は年間1400万台に迫り、今や中国を超えて世界最大の市場となった。その市場で、
これまで控え目なポジションを取り続けてきたヤ
マハ発動機が、2011年からこれまで主軸を置いてきた
東南アジアからインド
へ一気に軸足を移している。同社は上位市場でブランドを浸透させた今、「スクーター」という
商品投入によってボリュームゾーンへのブランド下方伸張を開始させたのだ。
  同社はただ単にスクーターに参入するのではなく、ターゲットの設定で工夫して参入する。それは女性向け
商品だった。「軽量化(プラスチック)」「操作性(小回りが利く)」「女性の身長で足がつく低いシート高」等、
性向けのデザインと機能が備わっている製品「シグナスレイ」は、ヤマハにとって新たな商品カテゴリーであった。

  ヤマハ発動機のインド法人「インディア・ヤマハ・モーター」の鈴木啓之社長は、「女性向け新商品のインド投入」と
「インドの社会条件」を照らし
合わせ一つの答えを出した。それは「シグナスレイの生産ラインを女性だけで動かす」
という斬新なものだった。まずインディア・ヤマハ・モーターが
本社を構えるウッタルプラデシュ州政府が女性従業員を
斡旋し、ヤマハは受
け入れて雇用し、育成する。女性工員たちは給与を得て働き、学びながら、就業3年後には
「ITI(工業訓練校)」の卒業資格を州政府から得ることがで
きる。彼女たちは資格を持って転職することも可能だ。

  この「実習型・女性専用ライン」は、ヤマハ発動機にとっても世界初であり、インド業界内でも初となる先進的な
取り組みである。イニシアチブは、
直接的、間接的に女性の社会進出、自立を促進する。それはまた「女性向け
スクーター市場をも育む」ことになる。「女性が自ら働き、自分のモノを買う」という先進国で当たり前の経済活動のない
インドにおいては、社会変革
を促進することで経済活動を循環させる社会的イノベーションになっている。

  最近のマーケティング用語で「ブランドの3i」といわれるものがある。ブランドの「アイデンティティ」「イメージ」に
加えて「インテグリティ」が
重要であり、「顧客、社会への誠実性」がブランドを強固にするという概念だ。
シグナスレイは、同社のブランドインテグリティを象徴する製品となっている。

 ●インド人の価値観に沿うことができずに失敗したタタ・ナノ
 日本企業ではないが、戦略の失敗例をみていこう。「スクーターを運転する父親の前に小さい子供が座り、
奥さんは後ろに小
さな赤ん坊を抱えて乗っていた。こうした光景が中間層家族にとって『安全で、手頃な価格のクルマ』
について考える契機になった」。インド最大のタ
タ財閥会長(当時)であるラタン・タタ氏は、低価格車「ナノ」を発案した
経緯について、こう述べた。低所得市場向けの製品戦略として、インドのみならず世界的にも注目された。
だが、現実には、激安自動車「ナノ」は、まっ
たく売れていないのである。

  失敗の要因を一言でまとめるならば「ターゲット顧客に関する正確な情報の欠如」だろうか。
「発売開始時、ナノ購入者の80%がセカンドカーで、20%が初めてクルマを買う顧客だった」。タタ・モーターズの
ラマクリシュナン氏は地元メディ
アに、こう述べている。ここでいうセカンドカーは、買い換えではなく、既に1台
持っているということだ。「ナノ」の購入者の多くが、余裕のあるアッパーミドル層だったのだ。

ターゲットだった膨大な数の「二輪車に乗る四人家族」はナノに見向きもしていない。なぜか。その後の調査によって、
彼ら
は意外にも「ステイタスを気にする」ことがわかってきた。

  インド人の価値観として、自己表現の価値観が相当程度あることがわかっている。「自己表現的価値」は、
価格戦略において、もっとも次元の高い消
費の尺度である。例えばエルメスの高級バッグ「バーキン」は、
価格に占め
る自己表現価値の割合が非常に高い商品である。
 インドでクルマを買う層というのは、ちょっとした成功者である。その成功者である彼らにとって「世界最安車ナノ
という製品を所有することによっ
て、他人にどういう風にみえるか」が問題なのである。

  「ナノ」は、「二輪オーナーからの乗り換え」をターゲットにしていた。そのため、価格は必然的に「二輪以上、
クルマ以下」としなければならなかっ
た。それが10万ルピーだった。しかし、漠然とした10万ルピーという数字に
とらわれてコンセプトが開発され、すべての戦略が進むことになる。
 「価格」とは、それだけで「商品価値を説明する基準」である。その低価格の意味をうまく説明できなければ
「低価格=低品質」「安かろう、悪かろ
う」で終わる。「受容価格範囲」という概念がある。
消費者にとって「価格
は低ければ、購買意欲は増す」が、「これ以上安いと不安に感じるライン」もある。
ナノの場合は、受容価格範囲を超えている。この場合はコミュニケー
ションを取らなければならない。

  発売にあたってのプロモーション戦略は、あまりにも規模が小さく、ターゲットに対して何も訴求しなかったに等しい。
「正確な情報の発信」「ター
ゲットとのコミュニケーション」を怠ったことで、イメージづくりは消費者に任され、
結果、「貧者のクルマ」として勝手なイメージが増幅されること
になった。

 

●「価格」だけでなく「その他の価値」を上げることが重要
 「安くて良い製品をつくれ」と言われたら、日本人エンジニアは間違いなくできる。仮に「安くつくるために、
品質を下げろ」と言われても、日本人
エンジニアは、品質を下げずにつくってしまうはずだ。
 では、「良い製品を安く売れば、必ず売れる」は正しいだろうか。「ナノの失敗」は、知覚価値の重要性について
警鐘を鳴らすものだ。「インドの消
費者の知覚を侮ってはいけない」ということだ。低価格品を開発し生産することに
成功した際には、そのときこそ、逆に細心の注意を払って知覚価値を
上げる戦略、戦術が必要であり、
意識してマーケティングコストを確保する
必要がある。

  インドの消費者に対する形容詞として“price-sensitive”という言葉がよく使われるが、実際は
“value-sensitive”といったほうが正しいのではない
だろうか。「価格」は「価値」の重要な一要素であるが、
「その他の価値」
を上げることは「価格」と同様、常に重要である。
 価値に敏感なインド人消費者に対して、いかに品質を維持した値頃感のある製品を開発して、生産を実現できるか。
自社と製品の知覚価値を高め、い
かにターゲットに対して適切な売り方ができるか。これが日系企業インド事業の
多くの主要経営課題である。また、これらを有利に実行、問題を解決し
ていく方法の一つが、様々な「現地化」である。

 コメント: ヤマハ発動機は、現地の人々が感じる“価値”とは何かを考え、しかも“新しい価値”を掘り起こそうとした。
もちろんその“価値”とは、
「価格以外」のものだ。一方、タタは「価格以外」の価値をアピールすることに失敗した。
 「価格以外」の価値を見つけるには、人々にとっておカネの多寡に関わらず実現できる「幸福」とは何かを考えていく
といいのではない
か。そしてこのことは、新興国の現地化戦略のみならず、国内外を含めたほとんどのビジネス戦略に
当てはまるのかもしれない。
※文中の小見出しは書籍からの引用ではなく、情報工場が独自に作成しております。
Copyright:株式会社情報工場

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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灯台記念日  (bon)

2014-11-01 | 日々雑感、散策、旅行

 今日、11月1日は燈台記念日です。

 日本最初の洋式灯台が、横須賀の観音崎に1868年(明治元年)11月1日に着工された日を記念して、
昭和24年に “灯台記念日” が制定されました。 翌明治2年2月11日に観音埼燈台は点灯されました。

 日本での灯台の走りは、古く(840年頃)遣唐使の航路安全のために、防人(さきもり)が、夜通し火を焚いて
その役目をしたというのが始まりだそうですが、幕末に至っても、光の弱い “灯明台” や “常夜灯” 程度で、
諸外国からは “ダークシー” などと呼ばれていたそうです。今では、3348基(2004年)あるということですが、
2006年(平成18年)11月12日、日本で最後の職員滞在灯台であった女島灯台(長崎県五島市)が自動化され、
全ての灯台が無人化されました。
この女島灯台は、著名な映画 “喜びも悲しみも幾歳月” (1957年松竹、木下惠介監督)の舞台の一つとなったところです。

              観音埼燈台
                (ウイキペディアより)

 

 ちょっと横道にそれますが、“灯台” と “燈台” はどのような意味の違いがあるか、解説されていました。
灯台は構造物を表す言葉で、航路標識として機能を持つ一般名詞として用いられ、実際の個々の灯台は、
それが立地する地点を表す固有名詞の後に
燈台を付けて “正式名称”(固有名詞)としているのだそうです。 
灯台は設置場所により、船舶が陸地、主要変針点又は船の位置を確認する時の目標となる “沿岸灯台” と、
港湾の所在、港口などを示す “防波堤灯台” の二種類に区分されています。

 たとえば

   ・犬吠埼燈台 -灯台機能を持った犬吠崎にある正式名称(固有名詞)
   ・犬吠埼灯台 - 犬吠崎に建っている灯台

 また、“崎” と “埼” も使い分けられています。
は地形を表し、は地点を表すとされていて、一般に岬に建つ灯台には岬の名前としてを使用しています。
灯台は地点を船舶などに周知するための存在であるので、埼 を使用しているのだそうです。

 灯台のライト部分を間近かで見るとラムネの瓶の底よりもっと渦のようになっていますが、これを“フレネルレンズ”
といいます

           フレネルレンズ
              (ネットより)


フランスの物理学者フレネルが発明したもので、通常のレンズを同心円状の領域に分割し厚みを減らしたレンズで、
その断面はのこぎり状となっています。 灯台用のレンズは、巨大(直径2m以上)であるため、その重量と厚さを
軽減するためにこのような構造とされています。
よく、薄いプラスチック製のルーペがありますが、これにも応用されています。

 上の例に出ました、犬吠埼燈台には、数年前に訪れたことがあります。
ここは、第1等灯台(日本に5か所)のうちの一つで、一般公開されている参観灯台であり、上まで登ることができます。
その時も、入場しましたが、 螺旋階段の数が九十九里海岸にちなんで99段あり、上るのが大変でしたが、
ちょうど5月の晴天で、灯台上から太平洋を一望する爽快さは今も忘れ難いひとつです。 

 

 

 

 

 

 

コメント (2)
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