蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

中国のビデオ市場  (bon)

2013-11-30 | 日々雑感、散策、旅行

このところ太平洋側は連日湿度の低いカラカラ晴天が続いています。
以前金沢にいた頃は、この時期 殆ど晴れ間が少なく、雨がちであったり、時にあられが降ってきたり
当時、“弁当忘れても、傘忘れるな” なんて言葉も聞かれました。

 先日H氏から掲題の記事が配信されてきました。
そうであろうとは思っていましたが、より具体的な側面も含めて記載されていて興味がありましたので
ここにアップさせていただきました。
 

*******************

The Economist 2013/11/9-11/15号(p67-68)

   中国のオンラインビデオ市場  (Online video in China: The Chinese stream)


 
【要旨】中国のオンラインビデオ市場が盛り上がりをみせている。一般のテレビ番組が政府の厳しい規制を受けるのに対し、
オンライン番組への規制基
準はあいまいなこともあり、サイトにはさまざまな種類の番組が並ぶ。
視聴
者の興味がオンライン番組へ移りつつあるなか、著作権保護への意識が高まるなどの社会変化も起きている。

  ------------------------------------------------------------

  中国のオンラインビデオ会社PPTVは、4人の若い女性たちが共同生活をしながらeコマース会社を立ち上げる
姿を追う、「The Goddess Office(女神事
務所)」という名のリアリティ番組を今月後半にもスタートさせる
と発表し
た。視聴者は出演者に質問を送ったり、事業立ち上げの資金やアイデアを送ったりすることができる。
新番組では、アメリカのシチュエーションコメディ
「フレンズ」のコメディ路線や、同じくアメリカ発のリアリティ番組
「アプ
レンティス」で出演者が見せる、勝ち残りのためのむき出しの野心といった、テレビ番組でおなじみの要素を
採用する。しかし、この「テレビ番組」は伝
統的なテレビネットワークではなく、オンラインのみで配信される。

 

 世界のオンラインビデオ市場はより大きく、より洗練されたビジネスになってきているが、中国市場に及ぶものはない。
中国国内のオンラインビデオ視
聴者数は4.5億人、インターネット接続人口の約80%にのぼる。
業界を追跡し
ているiResearchによれば、その数は2016年までに約7億人に増加するという。

 アメリカやヨーロッパでは、オンラインビデオは一般のテレビ放送や有料テレビに取って代わるまでには至っていないが、
中国ではその流れが急速に進
んでいるようだ。 政府発表では、北京市内でテレビを見る世帯の割合は、
2009年
の70%から2012年には30%にまで減少した。もっとも、常に公式の数字が信頼できるとはかぎらないのだが。

 

 ユーチューブは中国からはアクセスがブロックされているが、国内動画サイトのYouku Tudou(優酷土豆)や
Sohu(捜狐)は広く人気がある。そこには
ユーザーがアップしたコンテンツも多く含まれるが、ユーザーの大半は、
イトが中国国内や世界中からライセンスを得て配信している全編映画やTVドラマ、コメディなど、プロが制作した
番組を見て時間を過ごしている。途中
に挟まれる広告を我慢しさえすれば、視聴者は無料でいくらでも番組を見ることができるのだ。

 

 中国におけるオンラインビデオサイト人気の背景には、テレビ業界に対する政府の厳しい規制がある。
3000以上ある放送局のすべては国有であり、番
組は厳しく検閲されている。また、番組が公式の承認を得るには
数ヵ月かか
るうえ、制作された番組のうちテレビ放映されるのはわずか3割程との推定もある。

 対照的に、オンラインビデオサイトは、運営には政府の許可が必要だが、サイト内番組自体についての取り締まりは
警察当局の担当となっている。お
そらくだが、政府はオンラインビデオにこれほどの視聴者が集まるとは想定して
いなかったのではないか。先月、政府は「シーヤンヤンとホイタイラン」
という長年放送されている子ども向け
人気アニメの一編を、あまりにも暴力
的であるとし、編集し直すよう命じた。  しかし、同じ番組を保有する
オンラ
インビデオ会社には同様の指導はなされなかった模様だ。

 

 オンラインビデオ業界は中国においても広告収入に依存しており、大きく稼ぐのは難しい状況だ。
業界全体では昨年度90億元(約1500億円)前後の売
り上げがあったものの、収益を出した会社はほとんどない。
コストが非常に
高いのがその原因だ。多くのユーザーにコンテンツを配信するための帯域幅の確保、
またコンテンツのライセンス料に多額のコストがかかる。  その結果、
業界内では合併が進んでいる。
昨年は最も人気のあるオンラインビデオサイ
トYoukuとTudouが合併した。5月にはインターネット検索の巨人
Baidu(百度)
がビデオサイトのPPSを3.7億ドルで買収し、昨年買収済みのビデオサービスiQiyiと統合させた。

 

 中国では著作権の扱いにも変化が見られる。オンライン番組配信企業のなかには株式市場に上場されたものもあり、
特に番組を自社制作するようになっ
て以降、保護すべき知的財産を持つようになったことから、コンテンツの
イセンス保護(海賊版対策)を真剣に考える風潮が出てきた。Youkuだけでも、数百の著作権訴訟が現在行われている。

 

 評価がオンラインビデオに完敗しつつある中国のテレビチャンネルは、厳しい状況に追い込まれている。
欧米で成功した音楽オーディション番組やデー
ト番組に倣った番組が、特に地方の衛星放送チャンネルを中心に
数多く放映
されているが、要である中国中央テレビは視聴者を失い続けている。先月、当局は放送局数社に対し、
「下品」で「過激」な娯楽番組に注意を与え、よ
り道徳的、教育的なものを放映するよう指導した。
音楽オーディション番組
のいくつかは強制的に放送が禁止され、また、来年からは衛星放送局が放映できる
外国番組は年1番組に制限される。

 

 こうなればますます、テレビ局の衰退とオンラインへの切り替えが進むだろう。中国版ツイッター微博(ウェイボー)には
「TVはもはや無用」「幸い
なことに我々にはまだコンピューターがある」といった声が書き込まれている。

 

コメント: 中国のオンラインビデオには、これから革新的な番組が続々と登場してくるのではないだろうか。
せき止められた水が突破口を見つけると
激しい勢いで吹き出すように、規制が厳しいテレビ業界に開いた
「オンライ
ンビデオ」という抜け道からクリエイティブなパワーが一挙に放たれる可能性がある。制限があると、
それをなんとかして乗り越えようとする人々の力
が発揮されることはよくあることだ。
もっとも、その勢いが目立ってくれば
当然中国政府からの圧力がかかり、イタチごっこになることも十分考えられるのだが。

*************** 

 このように見てくると、2011.2.25にアップしたブログ記事「ICTと民主化」を思い出されてきました。
関連部分を再掲します。

“すでに四半世紀近く過ぎた大事件ベルリン“ブランデンブルグ門崩壊”につながった底流に衛星テレビ放送が
あったと当時言われていました。 世界で起こっている事柄が相互に伝えられるとともに、自由で、活気あふれ、
楽しい映像は、統制下の人々に少なからず自らの現状に疑問を抱かせ、新しい欲望が増幅されてゆくのは
人間の自然な姿であるでしょう。”  (中略)

         ナポレオンとブランデンブルグ門
                  (ウイキペディアより)

 

“最近では、ネットで放送も見られますから、電波の届かないところまで、地球の反対側までも届けられる
ようになりました。 ですから、もう衛星テレビなどの比じゃなくなっているんです。おまけに、メールやfacebookなどの
ようなソーシアルネットワークでは、大勢の人が情報を交換し、共有し合え、「友達の友達はみな友達」式に
あっという間に情報共有範囲が拡大されます。” (中略)


“チュニジアで起こった大規模デモは、たちまちのうちにエジプトに・・リビアへと・・拡大されたのもこれら
情報ネットのなせる業であります。もちろんこれらの国では、それまでの圧政下の不満や問題が一気に爆発したと
考えられますが、それを短期間に可能にしたのはこのICTなんですね。 最近聞いたラジオで、このような政変は
次々と波及しているけれども、すぐお隣の国は、ICTが普及していない(させていない)から、しばらくは
政変は起こらないだろう・・といっていましたね。”

しかし、これすらもネットによるオンラインビデオなどによってじわじわと溶けはじめるのでしょうか?

 

 長くなって恐縮ですが、今から32~3年前の話で、小生他2名連名で技術書を英文で英国から出版した
ことがありましたが、その2年後に上司が中国に出張した折に、この本の中国版(海賊版)が書店に並んでいる
のを見つけ、お土産に買ってきていただいた記憶があります。
著作権に対する認識は当時全くなかったのですね。

 

 

 

 

 

 

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ダイコン  (bon)

2013-11-28 | 日々雑感、散策、旅行

すぐ前の 市民農園で作っているダイコンを3本収穫しました。

9月7日に種まきをして、その後少し間引いたり、追肥をしたりしていましたが、まぁ、だいたい放ったらかし・・
みたいな状態でした。
普通、90~100日くらいで収穫といいますが、ちょっと早めでしたが、かなり大きなのが採れました。

                 3本抜いてみました。
              

 

 ありふれ過ぎるダイコンですが、ちょっと調べてみると、以外にも、ダイコンは “白” と思っていましたが、
これは日本のが “スズシロ” というほどで、“白” ですが、世界や地域によっては、赤・緑・紫・黄・黒などがあるという。

 また、栄養素はビタミンCやジアスターゼを含み、葉はビタミンAも豊富だとか。
100gあたり水分が95~6%というのですが、なんの タンパク質、アミノ酸、葉酸、鉄分、カルシウム、マグネシウム、
カリウム、亜鉛その他が含まれているリッチマンのようです。

 
 また、種類も結構あって、この際書き綴ってみますと、
青首、白首(練馬、三浦、御薗)、亀戸、世界一大きくて重い桜島、世界一長い守口、丸い形の聖護院、
寸詰まりのような加賀野菜の源助、宮重、紅しぐれ・・など、結構面白いですね。

我が家では、しばらくダイコンが続きそうですが、大根おろしに しらす、ブリ大根、菜飯など楽しみです。

畑には、まだ植わっていますが、この種類の他に、三浦大根もあって、お正月向きにその頃掘り上げてみようか
と思っています。
お近くならおすそ分けしたいところですね。

  

 

 

 

 

 

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ボールペン  (bon)

2013-11-26 | 日々雑感、散策、旅行

先日の読売新聞のコラムにボールペンのことがかかれていた。 最近では、新聞協会に置かれている
ボールペンの束が減らないそうだ。
恐らく、記事原稿などもパソコン利用が多くなっているのかもしれない。 
そんな流れを感じさせる側面もあるが、コラムで取り上げていたのは、
こうの史代著 “ぼおるぺん古事記” (平凡社)である。
あの難解な“古事記”(8世紀)を絵(マンガ)で分かり易く表現した新しい3部作である。

 ぼおるぺん古事記
    (ネットから転写)


すべてをボールペンで書かれたそうで。このタイトルが付けられているのだろう。 
著者は “あとがき” に、ボールペンは、つけペンに比べていつでも、どこでも手軽に自由に使えて大変便利している
といっている。

 そういえば、このところ万年筆は使わなくなった。
内ポケットに入れて持ち歩くのはいつもボールペンだ。部屋のあちこちにも何本もボールペンがある。

 ボールペンが初めてこの世に現れたのは、1884年にアメリカで着想されているが実用にはならず、
1940年アルゼンチンで発売されている。
しかし、インク漏れをほぼ完全に防止でき、安定した製品が市場に出されるのは、1950年代に至ってからであるという。
日本では当時あまり人気がなかったそうですが、我が身の記憶でも、子供の頃のボールペンは、
インクが “ぼたっ” と出たりして、今でも少し長く使っていたりすると “ぼたっ” とくるものもあるが、
その頃のは頻繁に “ぼたっ” “ぼたっ” ときて、大変見苦しい感じでした。

     ボールペンの先端部分
              (ウイキペディアより)
 

 種類は、インクが油性、低粘度油性、ゲル、水性によって分かれるが、開発当初は油性だったそうだ。 
乾燥してしばらく放っておくと使えなくなってしまうことから、低粘度に改良されたり、さらにゲル状に進化した。
水性(ローラボールペン)は発色に優れ、筆圧が弱くてよく用途も一気に拡大したが、ドライアップ(装填している
インクが乾燥し、使用できなくなる現象)しやすいため、使用後はキャップを確実に閉めなければならない。


 小生もボールペンをよく使っている方ですが、自分に合った “書きごごち” というか、好きなボールペンには
あまり当たらないので、景品などでたくさん貰うほかに、文房具店であれこれたくさんの種類の中から選んで
買ったりします。 
以前、どこかのホテルで、チェックインした時の、長い柄のボールペンの書き味・・手にした時のバランスのとれた
重さ、ザラッとした紙をなぞる筆跡感といい今でもその感触が忘れないでいる。

 貧乏性なのか、ボールペンの芯にインクが完全になくなって透明になっているを見ると、なんだか
達成感のような満足を感じるが、反対にまだ芯にインクがいっぱい残っているいて黒いのに、もう書けない。
先端部分を火で温めてもインクが出ない・・そんな時は、もったいない、残念な気持ちがする。

 めっきり少なくなった資料作成や手紙も、今ではパソコンのお世話になることが多くなり、ボールペンの
使用頻度はそれほど高くないが、鉛筆に至っては、パズルを解く時くらいしか使わなくなった。 
それでもたまに、ナイフで鉛筆を削る時のあの香りはとても懐かしく感じるのです。

 

  

 

 

 

 

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つりしのぶ  (bon)

2013-11-23 | 日々雑感、散策、旅行

このところお天気が良く、街中も紅葉が進んで大変気持ちの良い初冬という感じです。

昨日は、園芸友の会例会に出席してきました。
この季節、大体、園芸シーズンが終わり、冬を迎える準備の時期ですが、会員の発表が引き金になったせいか、
各地の名勝探索とそこに名だたる植物や 俳句と草花など、話題は大きく広がりました。

 そんな中、季節的には “夏の風物詩” ですが、“つりしのぶ”について、ここにご紹介したいと思いました。

 ご存知の方も多いと思いますが、“吊りしのぶ” あるいは “釣りしのぶ” は、江戸時代、すでに
町民の間で親しまれ、大正時代には海外にまで輸出されたといわれています。
戦前、家々の軒さきにこの 吊りしのぶ が多く見られ、下町情緒豊かな風情を演出していました。

つりしのぶ(ネットから引用しました。)

             

 

           生産地では、大量に作っている・・。
                    

 

 で、この “しのぶ” というのは何かといえば、“シダ” の一種で、学名をダバリア・マリエシイ・モーリーといい、
樹木の樹皮上に生育する着生植物だそうです。

 ウイキペディアによれば、“葉は三~四回羽状複葉っぽく裂け、全体としては卵形になる。
小葉は先がやや細い楕円形。・・(中略)葉は冬に落ちる落葉性。ただし、南西諸島のものは常緑である。
茎は太くて長く伸び、樹皮に根で張りつき、枝分かれしながら樹皮の上をはい回る。
よく育てば、木の幹の回り一面に広がって葉をつける。”  とあります。

 木炭かヘゴ材を芯にその周りをミズゴケでくるみ、これにシノブの根茎を這わせ、紐で吊るせるようにした
ものをシノブ玉と呼び、軒下などに吊り下げて鑑賞したのです。
また、近年は、より葉が分厚く、台湾産の種である常緑のトキワシノブが栽培されているという。

シノブは、季語(夏)でもあり、その名は古来より和歌などにも見られ、長く観賞の対象となっていたことを
伺わせています。 和名の意味は「忍」であり、水が無くても「堪え忍ぶ」性質が強いためとなどと言われて
いるそうです。

 なお、シノブはシダの古名のひとつでもあり、この名を持つシダは数多く、代表的なものにノキシノブ・タチシノブ・ホラシノブなどがある。また、カニクサにはツルシノブという別名もあるとか~。

 

     水かけて夜にしたりけりつりしのぶ   一茶

 

 日比谷公園は、長閑なお昼時・・人々で賑わっていました。
       

 

♫ 会員発表の中に、茅野市、車山の向こう・・八島が原湿原に 
    “山小屋の灯記念碑”(米山正夫 詩・曲)  がありましたので・・・。
 
             (ネットから)



 

 

 

 

 

 

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今年のさざんか  (bon)

2013-11-17 | 花鳥風月

少し風邪気味で、体がだるくスッキリしないのですが、良いお天気なので
ベランダのさざんかをパチリとしました。

この花は、冬の寒い季節に、花を付け、街中を癒すように包んでくれるのですね。

 “秋の終わりから、冬にかけての寒い時期に、花を咲かせる。
野生の個体の花の色は部分的に淡い桃色を交えた白であるのに対し、植栽される園芸品種の花の色は赤や、
白や、ピンクなど様々である。
童謡「たきび」(作詞:巽聖歌、作曲:渡辺茂)の歌詞に登場することでもよく知られる。
漢字表記の山茶花は中国語でツバキ類一般を指す山茶に由来し、サザンカの名は
山茶花の本来の読みである「サンサカ」が訛ったものといわれる。” とウイキペディアにありました。

そうなんですね。“さんさか”がなまって、さざんか。

           

1鉢だけ、このピンクがあり、少し花が早いです。
ほかの赤いのは、まだ蕾が硬くもう少しして咲いてくるのでしょう。

 

 童謡“たきび”のほか、大川栄作の“さざんかの宿”、森進一の“さざんか”はあまりにも有名ですね。

 u-tubeから貼り付けておきます。

 

 

 

 

 

 

 

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プロジェクトX  (bon)

2013-11-16 | 日々雑感、散策、旅行

もう、少し前になりますが、NHKテレビで “プロジェクトX” という番組があり、楽しく視ていました。

 ここでは、例の、H氏から配信されてくる情報の中から、この番組と同じコンセプトで、日本でこれまで
“社会的商品” となった、いくつかの開発過程やヒットさせるための工夫など、それぞれ開発者の証言が
まとめられています。

 以下に、記事を紹介します。

***********************

 文藝春秋 2013年09月号 p306-315

   「日本人の意識を変えたプロジェクトX」

                 上村雅之(任天堂アドバイザー)

                 高市晶久(大塚製薬顧問)

                 木内政雄(株式会社U.P.n.P.代表取締役)

                 浜田俊三(日本電気OB)

 

【要旨】バブル経済前、オイルショックから脱却し、安定成長期と呼ばれる時代の日本について各界の人物が
語る「証言 1980-83」に併載された記事。

インターネットも携帯電話も一般にはまったく知られていなかった1980年から83年は、その後の日本人の生活や
意識を変えた画期的な新商品の数々が登
場した時期でもあった。
 本記事では、それらのうちいくつかについて、実際
に開発に携わった人の証言を集めている。
本ダイジェストで取り上げたのは
「ファミリーコンピュータ」「ポカリスエット」「無印良品」「NEC98 シリーズ(パソコン)」で、
それぞれのヒット商品を生み出すためにとられた戦略
やコンセプト、ターニングポイントとなった出来事などについて
語られてい
る。

  ------------------------------------------------------------

 ●[ファミコン]3年間は真似されるな(上村雅之氏)

  今年7月15日、ファミリーコンピュータは発売30周年を迎えました。 「家庭のテレビでアーケードゲームが
遊べる機械を作ってくれ」  山内溥社
長(現・相談役)から自宅に電話があったのは1981年11月でした。
当時、米
国ではアタリ社の家庭用ビデオゲーム機が大ヒットしていました。 ですから、社長の意図はすぐ
理解しましたが、「本当にできるんだろうか」と途方に暮
れました。

 社長からは「来年夏の発売、価格は9800円」と無理難題を言われ、さらに「3年間は他社に真似されないこと」と
条件をつけられました。3年間も独
走する画期的な商品など、コピーが当たり前の玩具業界では考えられないことでした。

  簡単に真似されないゲーム機をつくるには、その頭脳である LSIの集積度を高めるのが一つの方法です。

しかし当時の半導体業界は、将来性の高いパソコン市場に目を向け、ゲーム機にはほとんど関心を示しませんでした。
れは無理かなと諦めかけたところへ電話をかけてきたのが、リコーの営業担当者でした。
77年発売の「カラーテレビゲーム6」「同15」を企画したとき
に別の電機メーカーで協力してくれた開発チームが
丸ごとリコーに転職して
いたのです。

  「家庭のテレビで、ドンキーコングが遊べるゲーム機を作りたい」そう言って彼らに協力を求めました。
あのゲームが家庭で遊べるという目標設定は、
技術者魂に火をつけたようです。
回路図で説明するより、技術レベルが具体
的にイメージできるのも好都合でした。
素人の私たちが無理難題を言って彼
らを悩ませましたが、その苦労が結果的にグラフィックに優れ、
コピーされ
にくいゲーム機を生んだのです。

 

●[ポカリスエット]コンセプトを売れ(高市晶久氏)

  「ところで、汗の飲料できないかな」大塚明彦工場長(現・大塚ホールディングス会長)にそう言われた場面は
脳裏に焼きついています。  1973年10月、
ポカリスエットが発売される7年前のことでした。

  私たち開発者は、65年発売のオロナミンCに次ぐヒット商品を模索し、機能性飲料を研究していました。
もともと大塚製薬グループは、汗など体液の
研究には長年の蓄積があります。 私たちは特に運動しなくても、
成人で1日
に約 900ミリリットルにあたる水分と電解質が皮膚などから失われています。
この水分と電解質を補うアルカリイオン飲料が開発の原点だったのです。

 大塚製薬では「商品のコンセプトを売れ」と言われます。ポカリスエットは企業理念の 「for better health」にも
ピッタリ合った機能性飲料であり、
「イオンサプライ&リフレッシュメントウォーター」という明確なコンセプトが
ありました。

  開発当時、ポカリスエットは「味がない」と言われることもありました。 味覚では苦労し、6ヵ月ほど試行錯誤が
続きます。ノイローゼになりかけた
頃、自宅で柑橘系のある果物を食べたところ 「これだ!」 とひらめいた。
カリスエットは完成までに約7年の歳月をかけ、試作品は1000種を超えました。

  ポカリスエットは、80年4月に 250グラム缶で発売されます。もともと前例のない、需要創造型の商品ですが、
市場の反応は予想以上に厳しいもので
した。私たちは、新しい味に慣れてもらうため、「少なくとも3回は
飲んで
ください」と無料サンプルを配りました。
初年度は売上90億円に対して、無
料サンプルは原価40億円分に達して大赤字。販売した数より、
配った数のほ
うが多かったのです。おかげで次年度は売上 260億円と一気に3倍近くまで増えました。

 

●最初は全然売れなかった[無印良品](木内政雄氏)

  日本のPB(プライベートブランド)ブームは欧米より約10年遅れたかたちで到来しました。
1980年のダイエーの「セービング」等、「安さ」を強調す
るネーミングで各社が一斉にシリーズ化したのです。

  「無印良品」はライバルの後を追う形で、西武セゾングループ元代表、堤清二の直轄プロジェクトとして始まりました。

 しかし、市場調査してみると、「低価格」が最大のアピールポイントなのに、実際はそんなに売れていないのです。
堤は、戦後の貧しい時代を生きて
きた日本人にとって、「安かろう、悪かろう」という意識が予想以上に根強いと考えた。
そこで、製品の良さがきちんと伝わる日本語名のブランドにす
ることになったのです。
80年の夏の終り、西友のPB会議が開かれ、コピーラ
イターの日暮真三が机上の白紙に「無印」と書き、
そこに同じくコピーライ
ターの小池一子が「良品」と書き加えました。

  83年に初の直営店を出店するまでは、「無印」の商品は、西友の食品・日用雑貨売り場等に並べていただけでした。
「ナチュラル」「シンプル」のコ
ンセプトが面白がられ、新聞でも話題になりましたが、実際は全然売れなかった。
私は、85年に「無印」の事業部長として立て直しを図ることになりまし
た。日本の「食」はすでに充ち足りていたし、
高度経済成長期にはレナウン
などを中心に「衣」が飛躍的に伸びていた。残るのは「住」。
ライフスタイ
ルが成熟した時代だからこそ、「住」がマーケットになると狙いを定めました。

 スタート当初の素朴なラインナップから比べると、いまの「無印」は扱う商品もずいぶん多様になりましたが、
飽きのこない、実質本位の商品を提供
する姿勢は一貫しています。

 
●[NEC98シリーズ]一人勝ちの戦略(浜田俊三氏)

  PC-9800シリーズは、1982年10月に初号機のPC-9801が発売されました。私はその企画、開発に携わり、
発売後は販売推進の責任者を務めました。

 それ以前のパソコンは、個人向けのいわゆる「マイコン」が発展したものでした。8ビットのマイクロプロセッサを搭載し、
用途はホビー中心でした。
しかし次のパソコンは CPUが16ビットになり、漢字表示ができるなど、ビジネス用途を
含めた幅広い利用が期待できました。

  米国では81年夏に16ビットの「IBM PC」が発売され、パソコン向けのビジネス用ソフトが多数販売されました。
米国市場を見ていた私は、あらゆるジャ
ンルのパッケージ・ソフトが市場にあふれてこそユーザーが増えるのは
間違
いない、と考えていました。  当時のパソコンは機種ごとに使えるソフトや周辺機器が限られていましたから、
PC-98対応の製品が多いほど市場では優位
になります。
私たちは、ソフトや周辺機器を供給する外部の会社を増やす戦
略を取ることにしました。その時の方法は、
有力なソフト会社に PC-98の試
作機を提供し、ソフト開発を依頼するというものでした。

   PC-9801発売後、「ソフト戦略」は本格化します。優れたソフトを見つけると、 「PC-98対応版をつくってほしい」と
頼んで回りました。提供した試
作機は一時 300台を超え、発売から5年後には、 PC-98対応のソフトをつくる会社は
1000社近くになり、アプリケーションは約5000本に達しました。
 PC-98の成功は、ソフト会社との二人三脚によって成り立っていました。

  後年、他社の方から「無償貸与なんてズルいことしてたのか」と皮肉を言われたことがあります。
しかしパソコンの本質が、あらゆる用途を可能にす
るプラットホームだとすれば、自然に発想する戦略でした。
その結果 PC-98
は、オフィス、工場、商店、病院、学校、家庭と幅広い場面で使われるようになりました。

 

コメント: 本記事の四つの商品開発・販売戦略を見るときに「インターネットがない」時代であったことは
大きなポイントになると思う。とくに販売戦
略において、現代ならばインターネットというプラットホームを活用する
とがセオリーのようになっていると思われる。
しかしこの時代では、共通の
プラットホームがない状況で、それぞれが創意工夫をはかっていくしかない。
 そして、その創意工夫を成功に結びつけるのは、トップの明確なビジョンと、それを実現する現場の熱意に
ほかならなかったといえる。
現代においても、
他より一歩先んじるためには、この時代の戦略を原点としてもう一度見直してみるべきなのかもしれない。

 Copyright:株式会社情報工場

 

 
  今や懐かしい・・

 

 

 

 

 

 

 

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蓼科農園 畑じまい2013   (bon)

2013-11-13 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

周り一面の山々は きれいな秋色に染まった茅野市豊平の畑(蓼科農園)
今年の “畑じまい” は、2013.11.10~12に行いました。 
時折晴れ間はあるものの冬空に 冷たい風を受けた寒い作業となりました。
芋ガラや枯草は前日の雨、そして霜が降りたりしていて湿っぽく 燃やすことができず
畑の周りに広げて来春に整理することとしました。

    畑から霧ヶ峰方向
       


 K邸前の紅葉                      シンボルツリーにて・・
  

 

 収穫祭時点で、取り残した“サトイモ”は、それでもかなりの量が採れ、
今年のサトイモの生育はプロ並み?といっても過言ではなさそうです。 
 また、黒豆は、昨年の無残な鹿の食事? から ネット囲いにより うまくガードされ、
実入りもよさそうなのがたくさん収穫できました。
 

 防草シートの効果を確認し、すべて更地にするため、“マルチ” とともに
新しく “はがす作業” が加わりました。

      整理されてきれいになった蓼科農園です。
         

 

 今年一年の自然の恵みと仲間たちの力の結集に感謝するとともに、
改めて強い友の輪をそれぞれの胸に収めながら、無事“畑じまい”を終えることが出来ました。

 皆様、ありがとうございました。

 

 お楽しみオートスライドです。

 
 

 

 <スペシャル イッシュー>

 畑への小径・・紅葉した風景の動画です。(2013.11.12 朝8時半頃の車中からの撮影です。)

 





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済美館  (bon)

2013-11-09 | 日々雑感、散策、旅行

私の母校、清水谷高校の中庭にある建物が、清友会(同窓会)所有の「済美館」(せいびかん、あるいは 
さいびかん)である。

 なぜ今、このタイトルで記事アップしようとしているか?

それは、どこにも根拠らしいものはないけれど、フッと、NHK朝ドラ“ごちそうさん”(NHK大阪)を見ている時、
この “済美館” のことを思い出したからなんです。 
・・その因果関係を以下に述べてみます。

 

 済美館は、1907年(明治40年)に、開校5周年記念として、木造2階建てとして建設され、
時の首相西園寺公望が揮毫した済美館に流れを発する。
済美とは、教育勅語の「世世美厥濟」(よよそのびをなせ)に由来する。

 そして、1925年(大正14年)には、済美館は鉄筋コンクリート構造3階建てに改築された。
ここからがドラマ “ごちそうさん” と関係?してくるのですが、この済美館(鉄筋コンクリート)の設計は、
大阪府庁営繕課の西田勇によるのですけれども、ドラマでは西門悠太郎(東出昌大)が東大卒業後(1923年)
大阪市役所建築課に勤務する。 この西門は、大学で鉄筋コンクリートを専門としていた。
ドラマの時代背景は、大正時代の真っ盛り。大正ロマン。

 

 済美館の設計は、部分的なアール使いに象徴される、簡潔さと造形美を重ねたデザインが特徴で、
当時、公募で1等となった大阪府庁営繕課の技師西田勇の作。

 この頃、大阪府営繕課は、旧赤坂離宮などを手がけた建築家 村野藤吾 の流れを組んでおり、
東の逓信省営繕課と並んで、戦前において多くの名建築を残した・・とあります。
 同課の中でも西田は、無味乾燥になりがちな公共建築物に凛とした気品を与える作風で、
その後手がけた曽根崎警察署庁舎(1929年)、北野中学校校舎(1931年)とともに、
済美館は、当時の大阪府営繕課のレベルの高さを象徴する建築物である。

また、改築費用は、清友会が宝塚少女歌劇団公演を大阪市中央公会堂で開催して捻出したという。

 時代背景(大正)が共通しており、西門が東京から大阪に来たのが1923年、済美館が1925年と近い。
名前が“西田”と“西門”、コンクリートのはしり、大阪府庁営繕課と大阪市役所建築課など~何となく、
そういうことではないか?と頭を過ったのでした。思い過ぎ・・?

 現在の済美館 (高校HPより)
 


初代済美館(木造) と 西園寺公望首相の揮毫 (同じくHPより)
  


 

 3:55あたりに・・

 

 

 

おちよ さん(75歳)逝く・・ 

 

 

 

 

 

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経済と文化   (bon)

2013-11-08 | 日々雑感、散策、旅行

少し前に届いた、H氏のネット情報に“経済栄えて文化滅ぶ”というタイトルの記事がありました。
作家の浅田次郎さんが、著作隣接権と電子出版権に関して、世の動向があまりに文化・創造の基本から
遠ざかっていることに警鐘を発しています。

 ここで、著作隣接権とは、どういうことかといえば、“著作物の創作者そのものではないが、著作物の
伝達に重要な役割を果たしている実演家、レコード製作者、放送事業者、有線放送事業者に認められた権利” で、
出版社には認められていないのですね。

以下に記事を転載します。

*************************

新潮45 2013年09月号 p72-77

   「経済栄えて文化滅ぶ」  浅田 次郎(作家)

 【要旨】日本は、書籍だけでも年間8万点近くの新刊書が発行されている「出版大国」といえる。
しかしながら、出版業界では「出版不況」と呼ばれ
る状況が続くとともに、電子書籍の登場・普及と、
それに伴ういわゆる「自炊」の問題、図書館をめぐる問題など、さまざまな課題が噴出しているのも
事実である。  とくにクローズアップされているのが「著作隣接権」をめぐる問題。
著作隣接権とは、音楽の世界で、作詞作曲を行わない歌手などに付さ
れているもので、出版業界においては、
著者は著作権を有するが、出版社に
は著作隣接権は認められていなかった。
そこで出版社から、出版物の著作隣
接権をめぐる法整備をすべきとの声が上がっているのである。
 本記事は、『鉄道員』で知られる直木賞作家・浅田次郎氏が、インタビューに答えるかたちで、上記のような
諸問題に言及。経済中心の考え方や、長年培われた出
版社による「創造のサイクル」が失われつつあることなど、
出版に支えられ
る日本の「文化」の危機について警鐘を鳴らしている。

  ------------------------------------------------------------

  この間、私は少し勉強をさせてもらって、出版社の宿願であった「著作隣接権」というものが、日本の出版文化に
根ざした最も穏当なものではないか
と思っていたんです。ところが文化庁はそれを否定し、今年2月に発表され
経団連の案(「新潮45」編集部註:日本の電子書籍ビジネスはアメリカに
大きく遅れている。
それを是正するため新たに「電子出版権」を創設する、
とする提言)に近いものを考えているとおっしゃる。

  そもそもなんで経団連が「出版者の権利」に介入するのか、それがまず分かりませんね。
私は世界の中で日本は明らかに突出的な出版大国だと思いま
すよ。 出版の点数からいっても、街中で
本を読んでいる人の数から考えても
そう感じる。それがなぜアメリカンスタンダードを目指せと言うんですかね。

  確かにいろいろな分野で、アメリカンスタンダードを真似るというのは仕方がない面もあります。
しかし中にはアメリカの方が決定的に劣っている分
野はあるわけで、それについても、これはアメリカの常識で
あるから日本の
常識にしよう、というのは間違っていますよ。 「著作隣接権はアメリカにないからダメ」というのは
おかしい。日本では、著者と出版社さらには書店と
の関係の中で、長いこと豊かな活字文化を育んで来たんです。
日本がどこを
真似るということではなく、ジャパニーズスタンダードというものを世界に提示することのほうが
ずっと大事でしょう。

  出版産業というのは経済全体から見ると非常に小さな企業の集まりだと思うんです。だから、経済界は
その産業を保護するという意志を欠いているん
じゃないですかね。そこには出版業が国家の固有の文化の
要であるという考
え方が欠落している。

 やっぱり文化というのは、国家の最大の礎であって、その上に産業も何も成り立っている。
だからその基盤を支えている小さな産業というのは、一番
大切にしなければならない国家の屋台骨です。
それがつぶれるような仕組み
を考えるのは、やっぱり大間違いですよ。

  日本語は二千年からの長い歴史を持ち、その間に熟成されていった言語です。
グローバリズムの旗手だと多くの日本人が錯誤しているアメリカという
国は、アメリカ大陸が発見されたのが
15世紀末。  私たちはそのずっと以前に
豊かな文学を持っていました。一部の教養人が支えるアメリカという国と、
識字率も高く、多くの知識を持った国民の集合体である日本とは大きな違いがあるわけですよ。
日本はそういう意味での出版大国であり、言語大国であ
るんです。

 

 私たちは、かつてエコノミックアニマルと呼ばれて蔑まれました。その路線を行ったがゆえに、結局経済が崩壊した。
これは文化という基盤を無視し
て経済を優先した結果なんです。
結局、金儲けの好きなお寺のようなもので、
観光客さえ来て賽銭さえ集まれば、どんなにおもしろい話をでっち上げても
いいとか、どんなに珍しいものをつくっても、色を塗りかえてもいいというような考えと同じですね。
それはおかしな話です。

  私たち作家というものは、今ある出版社に仕事を依存しているわけだけれども、「電子出版権」が出来れば
それ以外の道がひらけてしまう。出版社を
経由しないで、IT企業と仕事をするようなケースというのも出てくるかもしれない。

  私たち作家は、作品を書くうえで出版社の編集や校閲の人たちの助力を得ています。特に校閲の重要性は
あまり一般には理解されていないですね。一
人前の校閲者になるには入社から20年はかかるという。
本当に職人というか
プロの世界なんです。

  私がいつも講演などでも力説するのは、デジタルとアナログの違いというのは実は校閲なんだ、ということです。
パソコンに出てくるネットの情報は、
いい加減なものが多い。これはどうしてかというと、ようするに校閲機能がないからです。
 パソコン上のほとんどの情報というのは、何の権威の裏付け
もない、言ってみれば知ったかぶりか、
ある市井の物知り博士の言っている
ことが多くて、何の校閲も受けていない。

 それが私が全くネットの情報を信用しないという一番大きな理由です。ところが、多くの国民は、
今、パソコンやスマホに入ってきている情報というのが真実であるかのごとく信じ込まされている。

 

 一方、書籍をつくる経緯というのは、もう完成されているんです。校閲以前に作者と編集者の間でやりとりがあり、
作者から編集者へ、編集者から校
閲へ、校閲からまた作者へという、こういう段階を何回も踏んで正確なテキストになって行く。

 しかもそれがいい書物だったら、単行本から数年後に文庫本におろされる。その時にまた同じことをやる。
私はずっとそれを繰り返して、文庫のゲラの
時でも、決して手を抜きません。別の校閲者の眼が入ったんだ、
ということ
を自覚して、もし疑問点を指摘されればもう一度考え直します。
 実はそれだけの手を経て書籍というのは出来てくるので、ものすごく情報としての信頼度が高いんです。

  もしも小説家が、ダイレクトにパソコン向けの電子本を目指してやった時に、その編集者、校閲者というのは
何者なのか、ということになる。一体ど
んなレベルの人がやるのかというのは、少なくとも今の段階では全く
信用で
きませんね。変化は段階を追って進まなければならない。段階を踏まないで一から十に行ったら、
文化は必ず破壊されます。

 

 私が思うに図書館というのは、もともと住民に知識を供与するところであって、娯楽のために存在する場所では
ないんですよ。私の若い時分の図書館に
は学術書がたくさん置いてあって、貴重な書物を網羅してあった。
だから、
それを読みに通っていたわけでね。決してそこで時間をつぶそうとか、遊び半分で行ったわけではない。

 住民に対して、図書館が娯楽を供与するサービスであるという考え方は、根本的に間違っている。
娯楽の供与だったら、ほかにいくらでもやり方があります。

 

 私はね、今のような状態だったら、図書館からは知識人は一人も生まれないと思いますよ。
若くして死んだが芥川龍之介という人は、作品のどこのど
の一行をみても、知識の塊ですよ。大正時代というのは、
きっとそういう時
代だったんでしょう。

 どういうことかというと、その時代は誰も知識を与えてくれなかったんですよ。誰も与えてくれずに、
学生たちがみんなその知識を図書館に取りにいった。これが今の時代では、全く望めません。

 

 パソコンの情報が入り乱れ、図書館がサービス過剰になった。昨日も温泉に行ったら、風呂の中でスマホを
やっている(笑)。よっぽど言ってやろう
かと思いましたよ。おまえは、一日中それをやっているばかりで、
物を考え
ているときが一秒でもないのかとね。

 

コメント: インターネットによってたやすく大量の情報が手に入る現代では、「情報の価値」が意識されづらく
なっているのではないか。情報の送り
手の権威も信用されなくなり、記者、編集者、校閲者などのフィルターの
入っ
た情報は「偏向」「誘導」「捏造」などの言葉で警戒されることも多くなっている。
信用されるのは「大勢が正しい(あるいは間違っている)と言って
いる」情報。
極端に言えば、たとえその根拠が示されていなくても、論理が
破綻していたとしても、多くの人が 「Yes」と
発言していれば 「Yes」、
「No」と言っていれば「No」となるのが、昨今の「ネット世論」といえる。

それでは、浅田氏が言うように「文化が滅びる」ことはとうてい防ぐことはできないだろう。

 Copyright:株式会社情報工場

 

 

 

 

 

 

 

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JAZZ  (bon)

2013-11-06 | 日々雑感、散策、旅行

 ジャズについては、若い頃ジャズ喫茶に出入りしたりして、よく聞いていましたが、
スイングジャズとかモダンジャズという言葉や、ニューオーリンズやシカゴがその発祥・・など、
それこそ断片的な知識しかなく、また、アーティストなども結構名前が出てきたりしますが、
それらの関連付けが出来ていない・・と常々思っていました。
まぁ、音楽は、理屈ではなくハートで聴くものだから、そんなことはどうでもいいかもしれない・・。

 

 それが、先ごろ送られてきた会報に、“ジャズを楽しむ”(長谷川 晃、阪大名誉教授)という記事が目に止まり、
ちょっと長めでしたが一気に読んでしまいました。


 前置きが長くなりましたが、そういうことで、内容をかいつまんでご紹介したいと思いました。
著名な事柄なので、先刻皆様はご存じのことと思いますが、u-tube なども取り入れて掲載してみます。
何かコメントがありましたら、ご教授のほどよろしくお願いします。

 以下に、記事から抜粋して抜き読みした内容を記します。


 まず、“ジャズの概要” というのがあって、ジャズの音楽的な基本は、2拍目と4拍目を強調する(オフビート)
4拍子のリズムを持つブルースコードとそれをベースとした即興演奏である。 と定義づけられ、
ここで “ブルースコード” というのが出てきましたが、これは基本的には “長調” ですが、例えば
“ミ” の音を時折半音下げるので、“短調” のように聞こえるけれども短調ではなく、
ジャズの音階は演歌と違って、涙の枯れた(乾いた)メランコリーなものとなっている。とあります。 
 日本の有名な流行歌に “別れのブルース” (服部良一作曲)があるが、この曲は珍しく24小節の曲
(ほとんどの歌謡曲は32小節)で、ジャズのブルース曲12小節の繰り返しに似た形式をとっているので、
ブルースの形式といえるけれどもコード進行は短調である。

 ジャズの代表的なブルース曲 “Saint Louis Blues” のはじめの16小節は、短調のメロディーで始まっている。

   

 

 “別れのブルース”は、この初めの16小節のコード進行に似ている。

 

 次に、ジャズの歴史について詳細に記述されているのですが、簡潔にまとめてみたいと思います。

 ジャズはもともと、黒人の音楽に西洋音楽の影響が加わって、主として管楽器で合奏するのがはじまりのようです。
その編成は、トランペット、クラリネット(後にサックスも)、トロンボーン、ドラム、バンジョー、チューバ、後にコントラバスやギターなども加わる。

このような編成でのジャズが1930年代半ばまで続くが、これを “デキシーランドジャズ” と呼ばれているもので、
トランペットのLouis Armstrongは超有名だ。

   

 

 一方、白人の演奏するジャズも盛んで、当時は主にダンスバンドとして踊りの伴奏が主だったが聞くジャズとして、
Bix Beiderbecke がいる。 Louisら黒人のデキシーを New Orleans  Jazzと呼ばれるのに対して、
BixのそれをChicago  jazzともよばれている。

 

 

 1930年代半ばには、それまで主にダンスバンドの役割をしていたジャズが、聴く音楽として楽しまれようになり、
デキシーランドジャズは廃れ始める。(1950年代に再度復活する。)そして、聞いていて体がスイングする
新しいジャズ スイングジャズが誕生する。
スイングジャズの全盛時代、1938年頃、白人のBenny Goodmanが黒人のジャズメンと共演したり
大きな盛り上がりを見せた。 なかでもsing sing singは歴史に残る名演奏であるという。

推奨のものではありませんが、

 

 

スイングジャズでさらに有名な2人がいる。Duke Ellington とCount Basie だ。

Duke Ellingtonは1920年代からハーレムあたりで演奏を始めていたが、著者いわく “その、重苦しく、
うめくような演奏” がますます冴えて、自作自演の曲も多い。
Ellingtonのテーマソング Take the“A”Trainはあまりにも有名である。

 

 

もう一方の巨頭、Count Basieは、著者評は “まさにスイングするジャズで、かみつくようなフルバンドの
合奏の合間にBasieのピアノソロが素晴らしい” とある。
名だたる名前がポンポンと出てくるが、まずはこれも聴いてみよいう。

 著者推奨のアルバムではありませんが、

 

 

 スイングジャズとして、映画にもなった(このブログにも取り上げました)Glenn Millerのバンドがあるが、
ハーモニーを重視しすぎて良いソロが聴けないのでジャズの主流とはみなされていない・・といっている。

 

 第2次世界大戦も終わり世の中が落ち着いてきたころ、前衛的なDizzy Gillespie やCharlie Parkerらが
出現して、非常に複雑なコード進行と速いテンポのビーバップとよばれるジャズを生み出した。
このスタイルが、現在まで続いているモダンジャズと呼ばれる流れに繋がっている。
 1950年代半ばには、若手のジャズメンが多数誕生していたが、なかでもトランペットのMiles Davisは、
ビーバップの手法を取り入れながら静かでしかも情熱的な演奏をするクールジャズと呼ばれる新しいスタイルの
演奏を始めた。後に、モダンジャズのテナーサックスのお手本のような存在となるJohn Coltraneもその一人で、
Milesと共演している。

 

 

Milesとゆかりのある黒人ミュージシャンは多数あり、ピアノのHorace SilverやThelonious  Monk、
テナーサックスのSonny Rollinsなど・・。 また、ピアノのOscar Peterson、ベースのCharie Mingus、
トランペットのClifford Brownなどモダンジャズの巨匠たちの名前が次々と出てくる。

 

 この他にも、優れた演奏をするグループがあるが、なかでも著者が好んだというビブラホーンのMilt Jacksonがいる。

 

 

 会報の記事は、読むだけですが、ブログでは次々と、曲をアップしヘッドフォンで聴きながら楽しいひと時を
過ごしてしまいました。
皆様はいかがだったでしょうか?

 

 記事には、さらにジャズボーカルなどについても触れられていますが、ここでは割愛して、
最後にまとめられている部分を紹介して終わりにします。

 

 “デキシーランドジャズがほぼ20年、スイングジャズもほぼ20年続いたのに対し、モダンジャズは未だにモダンジャズとして60年も続いている。 モダンジャズでは、白人も素晴らしい活躍をしている。”

著者はさらに多くの演奏家を挙げていますが、最後に、ユニークな存在として挙げられている “Take Five”。
これを作曲した Dave Brubeck(ピアノ)とアルトサックスを吹くPaul Desmondらによる演奏をお聴き下さい。
私も大好きな曲の一つです。

 

 

 

 

 

 

 

 

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お酉さま  (bon)

2013-11-04 | 日々雑感、散策、旅行

昨日、11月3日は、“一の酉”の日でした。

       昨夜の仙台は、遅くまで賑わったことでしょう。

 呑み屋あたりで、“今年は三の酉まであるんだね”・・なんて女の子が言っているのを聞いたこともありましたね。

浅草の酉の寺(鷲在山長國寺)や各地の鷲神社、大鳥神社で行われる、開運招福・商売繁盛を願う祭りで、
江戸時代には盛んな年中行事であったようです。

例によって、ウイキペディアを覗いてみますと、

「例年11月の酉の日に行われる “祭礼” であり、関東地方だけではなく大阪府堺市の大鳥大社・
名古屋市大須の稲園山七寺(長福寺)など日本各地の鷲神社(おおとりじんじゃ)で行われている年中行事である。
多くの露店が出店し賑やかなお祭りとなっている年末の風物詩である。」 とあります。

「鷲神社は、日本武尊を祀り、武運長久、開運、商売繁盛の神として信仰され、大鳥大社(大阪府堺市)が
鷲神社の本社とされる。日本武尊が東征の際、この神社で戦勝を祈願したというのが、11月の酉の日であり、
その際、社前の松に武具の熊手を立て掛けたことから、大酉祭を行い、熊手を縁起物とするようになったとか・・。」

 

 江戸時代後期から、最も著名な酉の市は、浅草の鷲在山長国寺(じゅざいさん・ちょうこくじ)境内の
鷲大明神社(東京都台東区)で行われる酉の市で現在も賑わっています。 
また浅草鷲大明神の東隣に新吉原が控えていたことも浅草酉の市が盛況を誇る大きな要因であったようで、
時代が下るにつれ江戸の各地で酉の市が開かれるようになり、今では関東の多くの寺社で開催されるように
なったとのことです。
        (ウイキペディアより)

 

 このように酉の市とは、秋の収穫物や実用の農具が並んだ近郊農村の農業市が江戸市中へと移行するに従い、
招福の吉兆を満載した飾り熊手などを市の縁起物とする都市型の祭へと変遷してきたのだそうです。

「縁起物の代表である熊手は、鷲が獲物をわしづかみすることになぞらえ、その爪を模したともいわれ、福徳をかき集める、鷲づかむという意味が込められている。」

 

 また、“酉の日”は、毎日に十干十二支を当てて定める日付け法で、“酉(とり)”に当たる日のことで、
これは、12日おきに巡ってきますから、ひと月30日の日の巡り合わせにより、11月の酉の日は2回の年と
3回の年があります。今年は3回あります。
初酉を“一の酉”、次を“二の酉”、3番目を“三の酉”と言います。“三の酉”まである年は火事が多いとの俗説がありますが、
三の酉は、およそ一年おきにあるため、さほど珍しいことでもありません。

 

   春を待つ 事のはじめや 酉の市 ・・ 其角   

この頃、お正月を迎える最初の祭りとされていたようですね。


  






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文化の日   (bon)

2013-11-03 | 日々雑感、散策、旅行

 昨夜、今シーズン無敗の“マー君”は敗れた。しかし、160球を投げ切った。 向こうでは上原も燃えた。
今夜、日本シリーズは最終戦。

 今日11月3日は、文化の日。 この日、過去殆ど晴天で “晴れの特異日” であるとか言われていましたが、
関西方面を始め広い地域で雨模様とか・・。このところ気象は確実に変化してきているようですね。

ところで誰もが知る、この “文化の日” を改めてウイキペディアをひも解いてみました。

「文化の日は、(祝日法、昭和23年7月20日法律第178号)第2条によれば、 1946年(昭和21年)
11月3日に日本国憲法が公布された日であり、日本国憲法が平和と文化を重視していることから、
1948年(昭和23年)に公布・施行された祝日法(国民の祝日に関する法律)で “文化の日” と定められた。
“自由と平和を愛し、文化をすすめる” ことを趣旨として制定された。
また、日本国憲法が施行された1947年(昭和22年)5月3日は、憲法記念日として国民の祝日となっている。」 
とあります。 

また、11月3日という日は、
「休日としては、1873年(明治6年)に公布された“年中祭日祝日ノ休暇日ヲ定ム”以降1911年(明治44年)
までは天長節、1927年(昭和2年)に改正された“休日ニ関スル件(昭和2年3月4日勅令第25号)” 
以降1
947年(昭和22年)までは明治節として、明治天皇の誕生日による休日となっていた。」 
そして、
「文化の日は上記の経緯と関係なく定められたということになっているが、当時の国会答弁や憲法制定
スケジュールの変遷をみると、明治節に憲法公布の日をあわせたとも考えられる」 とありますから、
そこのところは、やはりいろいろと考えがあるということですね。

自由と平和を愛し、文化を進める との趣旨は、この日公布された日本国憲法が、“戦争放棄”、“主権在民”、
“基本的人権” を宣言したことによるわけで、改めて、日本国憲法を見てみますと、

 「第二章  戦争の放棄

第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、
武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第二項 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。」

となっていて、しかも硬性憲法であるところから、これまで長い間改正されずにきた。
今この憲法を改正する動きにあり、まずは硬性を外すべく96条を改正しようとの方向にある。

 今日、文化の日に因んで、文化的行事も大賛成ですが、日本国憲法について少し思いを巡らせるのは
いかがでしょうか?

 出だしからは、少し内容の方向が違ってきました。 



 

 

 

 

 

 

 

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タクリー号       (mak)

2013-11-02 | 日々雑感、散策、旅行

 この自動車は1907年に日本で初めてつくられたガソリン自動車でオートモビル商会が制作し、車好きな有栖川宮に納められた1号車です。この車はタクリー号と名付けられた。
詳しくはhttp://www.jsae.or.jp/autotech/data/1-1.html をクリックしてみてください。 それがどうした!
 

 今朝のTV「ぶらり途中下車の旅」を何気なく見ていると、南武線の谷保という駅でぶらりと降りてあたりを散歩するシーンが紹介されていた。亡き友人のH君がこの駅前で小生をピックアップして、車で蓼科へ連れて行ってくれた数年間のことが懐かしく思い出し、TVが紹介する谷保辺りの散策に魅入ってしまいました。

 谷保には谷保天満宮という神社があり、この神社は自動車運転安全祈願発祥の地であるとのことが紹介されておりました。

 明治41年に自動車好きで知られた有栖川宮威仁親王様ご先導による「遠乗会」と称されたわが国初のドライブツアーが谷保天満宮を目的地として開催され、
宮様御一行は拝殿に昇殿参拝の後、帰途に就かれ、故障や事故もなく無事に東京に戻られたということらしい。その所以で、谷保天満宮は交通安全祈願の発祥の地であるとか。

 また日本最初のガソリン車第一号の「タクリン号」のレプリカを、このあたりのアンチークカーが好きな同好の士たちが作成し、車検もとってこの神社に預かってもらっていると、そのレプリカをTVは紹介していた。


今朝ふとみたテレビ番組をブログネタとして、国産ガソリン自動車歴史と国産一号車のレプリカ製作に夢中になる男の浪漫をブログネタにして、投稿してみました。

 栖川熾仁親王の銅像                                       皇女和宮                                  

  

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MOOC 12歳のパキスタンの少女がスタンフォードの講座を受講   (mak)   

2013-11-01 | 素人ニュース解説

 MOOC(Massive Open Online Courseー大規模オープン・オンライン・コース)とはコースの受講者が数万~数十万人にも上るほどに大規模で、誰にでも無料で公開されており、オンラインで受講出来る大学レベルの授業です。

講義映像を公開する大学は従来からあったが、MOOCではこれに加えて、課題やテストを提供する。修了したことが認められれば、履修証も発行する。2011年頃から米国を中心に盛り上がり始め、現在では世界の有名大学の多くが取り組んでいる。国内でも、東京大学はMooc教育サービスを提供するプラットフォームの一つであるCousera(https://www.coursera.org/)に参加して9月から既に講義の配信を始めている。京大もMOOCを提供する「edX」(エデックス)https://www.edx.org/に参加。2014年の春から、講義の配信を始める。これは、日本の大学も世界の急速な流れに遅れては大変であるとの考えの証左であろう。

 世界の各分野のリーダーが集まる2013年ダボス会議で、オンラインの教育問題を論じるセッション討論会があった。壇上で、ビルゲイツやMITの総長などそうそうたるメンバーに並んで、特別ゲストとして選ばれた12歳のパキスタンの少女が自らの経験を披歴した。

 少女の名前はKhadija Niazi、PakistanのLahoreという町の学校に通っている学生であるが、10歳の時にUdacityのオンライン講座で人工知能(Artificial Inteligence)を勉強した。次の年に、Udasitys 物理講座を最高の成績で修業した。現在地球外生物学(Astrobiology)を勉強するべく、計画しているというのだ。

Pakistanではオンライン教育(virtual education)が普及した理由は、高速ブロードバンドが近年世界で4番目の勢いで普及してきていることが背景にあります。

Khan Academyに登録しているパキスタン人は世界で最も多く、初等教育から高等教育の講座をYoutubeで勉強しております。
 Pakistanでは 多くの人が家に居ながらにして UC Berkeley,Harverd, MIT,Stanfordなど世界トップレベルの授業をYoutubeなどを通じて受講しております。
 また、多くの人が、国の仮想大学(Virtual University)に、出席することで website, video streaming and Youtube and television channels. を使った授業を受け、高いレベルの授業を受けれるようになっているのです。

 

 

  

 参考資料:

 スタンフォード大学発「知の民主化」とオンライン教育革命 #mce_temp_url#

 東大が大規模オンライン講座 MOOCに参入 #mce_temp_url#

 大規模オンライン講座「MOOC]は世界の中の若者に就職のチャンスを作れるか。
  #mce_temp_url#

  MOOCの動向と東京大学の取り組み      #mce_temp_url#

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つわぶき  (bon)

2013-11-01 | 花鳥風月

いよいよ今年も11月(霜月)に入ってしまいました。  早く感じます。

台風11号、18号と27号には、蓼科農園でのイベントと重なりハラハラしましたが、
何とか無事にこなすことができ、後は “畑じまい” を残すのみとなりました。

 

 先日の蓼科農園収穫祭から帰ってくると、ベランダの “つわぶき” は花ざかり?でした。

今年は花付が良く、元気そのもののつわぶき・・
ウイキペディアによれば、 “ツワブキ(石蕗、艶蕗)とはキク科ツワブキ属の多年草でイシブキ、ツワともいう。
ツワブキの名は、艶葉蕗(つやばぶき)、つまり「艶のある葉のフキ」から転じたと考えられている。
沖縄方言では「ちぃぱっぱ」という” とあります。  面白いですねチィパッパ・・。

  鉢植えの “つわぶき”
        

 

 今年のベランダ園芸シーズンはほぼ終わり、バラやサルスベリなどの剪定、枯れた草花の整理のほか、
スイセン、チューリップより1か月遅れの “ムスカリ” の球根の植え付けを残すばかりとなりました。

 先日、蓼科農園で収穫した “にんにく” を今回、1つ持ち帰り、それをバラして(12戸の片球に
分かれました)一昼夜水に浸け、苗作り用にプランターに植えてみました。 
うまく苗が出来れば、定植して夏頃には立派なのが出来るかも・・?
身辺から遠い距離にあった “にんにく” を、まさかベランダに植えてみるとは・・!
蓼科の影響に他ありません。

 

 少し終わりかけの “ホトトギス” もアップしておきます。

      

 

 眼前の市民農園では、ダイコン “青首” と “三浦” は順調に育っているようです。
ブロッコリー5株も大きな葉を繁らせています。

ダイコン(右側が三浦大根です。)       ブロッコリー
  

 

 

 

 It never rains in southern california - Albert Hammond       (mak)


 

 

 

 

コメント (1)
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