蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

すかたん  (bon)

2017-01-08 | 読書

 関西弁で、とんちんかん、まぬけ、当てが外れること などを意味しますが、このタイ
トルの小説(文庫本)を、昨年11月末に若冲展を京都・相国寺に観に行った折、帰りがけに
“これ、新幹線で読んだら・・! 面白かったよ”ってKuさんが手渡してくれたのでした。

新幹線で読み始めたものの、眠くなってそのまま鞄に入れたまま、帰宅してからも机に出し
て、それっきり失念してしまって、ようやく暮れも押し詰まって読み始めたという失態を
演じてしまいました。

 小説「すかたん」(朝井まかて著、講談社文庫、2014.5)は、江戸時代末期頃の大坂天満
の青物問屋を舞台に、主人公の江戸っ子の知里と青物問屋の若旦那の織りなす物語で、
大阪弁で展開される青物市場、農家のからみから、大店問屋の家風など多くの登場人物の
性格やことの運びがテンポ良く語られていて大変面白く一気に読んでしまいました。

                すかたん
          (アマゾンHPから)
 

 主人公知里は、江戸詰藩士の夫の赴任先、大阪に住むことになるのですが、急な病で夫が
亡くなり、慣れない土地で自活することになってしまいます。住み込みの奉公先は、天下の
台所、大阪でも有数の青物問屋「河内屋」で、お家さんつきの上女中として住み込みで奉公
することになるのですが、言葉や習慣の違いに戸惑いながら、厳しいお家さんの叱責にも、
浪速の食の豊かさに目覚め、いつしか若旦那との恋も芽生えてくるのです。
 この若旦那は、はやとちりで後先の見境いがない“すかたん”なんですが、青物に関して
の情熱は人一倍で、目先の利益ではなく、生産者、消費者そして流通のあり方など広い視野
から、問屋・農家の敵対問題を見事に解決して行くのです。
 若旦那の人柄、お家さんの風格、大店主人の貫禄、そして知里の純粋で有能な働き者が
うまく描かれていて、当時を知る由もありませんが、イメージが膨らんでくるのでした。 
青物屋の主人であった伊藤若冲の描いた絵が出てきたり、それが、丸大根であったり、
若冲展を見た帰りだけに、心憎い思いがよぎるのでした。

 作者の朝井まかては、1059年、大阪府羽曳野市生まれとありますから、根っからの大阪弁
(時代は遡りますが)を、ふんだんに展開されていて、何か懐かしい感じがしました。
「すかたん」は、2012年に単行本で出版されたものですが、それが2014年に文庫本として
世に出されると同時に、2014年、「恋歌」が、第150回直木賞を初候補で受賞しているのです。

 すかたんのほかに、文面に懐かしい大阪弁が出てきましたので、いくつかを紹介しておき
ます。

 ・「おなごの性根は縫物をさせたら、ようわかる。あんたの縫い目はあっちへよろよろ、
こっちへよろよろ、いやいややってるのが丸わかりや。こらえ性の無い、せっかちのおっ
ちょこちょいで、おまけに下手くそのくせに心が籠ってない。 ・・・あれ、あんた、目ぇ
に見えへん心の内にまで踏み込んでまで説教されとぉない、そないな顔してるな」

 ・「いやいや、それでもな、皆、口を揃えて言うんや。もう二度と来んといて欲して思う
んやけど、ちょっと間ぁが空いたら待ち遠しゅうなるんやてな。若旦那さんと一緒に畑して
たら、自分らみたいな者(もん)でも楽しんでええんやて、そないな気ぃになるてな」

 ・「あん? 小万、お前、小万やないか」「今頃、何言うてはりますのん。若旦那さん、
ほんまに呑み過ぎやわ」「ええねん、今夜はええねん」「かなんお人やねぇ・・」

 ・「そやけど本当にこれで良かったんかて、近頃、ふと思うことがある。惣左衛門はんに
してみたら子ぉを楯に取られた格好や。私に要らぬ気ぃ回さはるし、こっちも継子苛めして
るてなことを一寸たりとも思わすもんかて気ぃ張って・・とうとう互いの胸の内がようわか
らんようになってしもうた。」

 

 最後に、いくつかの言葉を・・

・口銭(こうせん) 手数料、儲け

・転合(てんご) ふざける、いたずら

・お為(おため) お駄賃、お返し、ご祝儀、

・最前(さいぜん) さきほど

・前栽(せんざい) 座敷の前庭

・ほな それでは、それなら、ほんなら


     ほな、これで失礼します。

 

 

 

 

 

 

 

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古事記から(5)  (bon)

2015-06-10 | 読書

 (オオクニヌシノミコトつづき)

スクナビコナノカミと三輪山

 さて、オオクニヌシが、出雲の美保(島根県美保関町)の岬に行かれたときに、波の上にガガイモの
形をした船に乗って、絹の着物を着て近づいてくる神があった。名前を聞いてみたが、その神は
答えなかった。また、お伴の神たちに聞いてみたが、みんな知らないといいました。すると、一匹の
ヒキガエルが言いました。「きっと、この神さまの名前は、クエビコが知っているでしょう。」 
そこで、クエビコを呼んで尋ねてみたところ、「はあ、これはカムムスヒノカミの子で、名をスクナビコナノカミという神です。」

オオクニヌシは、カムムスヒに尋ねたところ、「これは本当に私の子どもです。子どもの中でも、
わたしの指の間からこぼれ落ちた子どもです。そして、お前は、アシハラシコヲノ命(=オオクニヌシ)と
兄弟となって、この葦原の中つ国(日本の国)を作り固めなさい。」といいました。
 そういうわけで、オオクニヌシとスクナビコナの二柱の神は、共々協力しながら、この国を作り
固められました。しかし、それが終わるとスクナビコナは、海原の彼方の常世国に帰ってしまいました。

 さて、スクナビコナの神の名前を言い当てたクエビコというのは、実は「山田のソホドという案山子」
です。この神は、足で歩くことはできないけれども、ことごとく天下のことを知っている神なのです。

 そこで、オクニニヌシは、嘆きながら、言うには、「ああ、私は一人で、どうしてこの国を作り固める
ことができようか。どの神と協力してこの国を共に創るのだろうか。」

 すると、海上を照らして近寄ってくる神があった。その神は、言うには、「私の御霊を丁重に祭った
ならば、わたしは、あなたに協力して、共に国つくりを完成させよう。もし、そうしなければ、
この国を立派に作ることはできないだろう。」

 そこで、オオクニヌシは、その神に「それでは、どのように、御霊をお祭りすればよいのですか。」と
尋ねると、その神はこう答えました。「わたしの御霊を、大和の青々とした山々の、その東の山の上に
斎み清めて祭りなさい。」

 これが、御諸山(奈良桜井市の三輪山)の上に鎮座している神である。
 

葦原中国平定(オオクニヌシの国譲り)

アメノホヒノとアメノワカヒコ
 さて、アマテラスは、「豊葦原の千秋長五百秋の水穂国(千五百年も長く続いている日本の国)は、
わが子のアメノオシホミミノミコト(天忍穂耳命)が統治すべき国です。」といって、統治を委任して
御子を高天原から降ろしました。しかし、アメノオシホミミは、降りる途中で、天の浮橋に立って、
下界を見下ろし、「この国は、ずいぶんと騒がしいようだ。」といって、高天原に帰り上ってアマテラスに
指図を求めました。

 そこで、タカミムスビノカミとアマテラスの命令で、天の安の河原に八百万の神々を招集して、
オモイカネノカミ(思金神)に対策を考えさせました。アマテラスは、「この葦原中国は、わが子
アメノオシホミミが統治する国として、すでに委任した国です。しかし、この国には、乱暴な国つ神ども
が大勢いると思います。どの神を遣わして、これを平定すればよかろうか。」と聞きました。 
オモイカネノカミは、八百万の神たちに相談して、「アメノホヒノを遣わすのがよいでしょう。」と
答えました。

しかし、このアメノホヒノを下界に遣わせましたが、この神は裏切って、オオクニヌシの味方となって
しまい、三年が過ぎても何の報告もしなかったのでした。

 そこで、タカミムスビとアマテラスは、再び八百万の神たちに尋ねて、「葦原中国に遣わした
アメノホヒノが、久しい間、復命しない。今度は、どの神を遣わせるのがよいでしょうか。」と尋ねると、
オモイカネが答えて、「天津国玉神の子のアメノワカヒコ(天若日子)がいいでしょう。」 
 そこで、天の真鹿児弓(鹿を殺すほどの威力のある弓)と天の羽羽矢(大きな羽のついた矢)を
アメノワカヒコに授けて、下界に遣わせました。

ところが、このアメノワカヒコもオオクニヌシの娘のシタテルヒメを妻にして、またこの国を我がものに
しようとして、八年経っても何の復命もしなかったのです。

 アマテラスとタカミムスビは、再び八百万の神たちに尋ねました。「アメノワカヒコも長い間復命を
しない。 今度は、どの神を遣わせて、アメノワカヒコが、長く下界にとどまっている訳を問い
ただそうか。」  大勢の神々とオモイカネは、「鳴女(なきめ)という名前のキジを遣わせるのが
よいでしょう。」と答えました。 そこで、アマテラスは、そのキジに向かって、「お前が、下界に
行ってアメノワカヒコに尋ねる内容は、『あなたを葦原の水穂の国に派遣した理由は、その国の荒れ狂う
神たちを服従させ帰順させよということなのに、それがどうして八年になるまで何の復命もないのか。』
と」いいました。

 こうして、鳴女のキジは下界へと降り着いて、アメノワカヒコの家の門前の桂の木の枝にとまり、
詳しく天つ神の言葉を伝えました。 そのとき、アメノサグメという女が、この鳥の声を聞き、
アメノワカヒコに言いました。「この鳥の鳴く声はたいへん不吉です。だから矢で射殺しなさい。」
と勧めました。すると、アメノワカヒコは、天つ神から授かった弓で矢を放ち、そのキジを射殺して
しまった。 ところが、その矢は、キジの胸を貫いて、逆に射上げられて、天の安河の河原にいた
アマテラスとタカミムスビのところまで届いたのでした。タカミムスビが、その矢を手に取って見て
みると、矢の羽に血が着いていた。 「この矢は、アメノワカヒコに与えたものだ。」といって、
他の大勢の神たちにその矢を見せながら、「もし、アメノワカヒコが、命令に背かず悪い神を射た矢が
ここに飛んで来たのなら、アメノワカヒコにはあたるな。しかし、もしそうではなく、邪神を抱いている
のだったら、アメノワカヒコはこの矢にあたって死んでしまえ。」といって、その矢を飛んで来た穴から
下に向けて衝き返したところ、朝の床に寝ていたアメワカヒコの胸に命中して死んでしまいました。

 また、そのキジはついに還ってこなかった。 それで、今でも「キジのひた使い(行ったきり帰らない
使い)」ということわざは、この話が元になっているのです。

アジシキタカヒコネ

 こうしてアメノワカヒコは死んでしまい、妻のシタテルヒメの泣く声は、風とともに高天原まで届き、
そこに住んでいるアメノワカヒコの父、天津国玉(アマツクニダマ)の神や、その妻子がこれを聞き、
下界に降りて来て、嘆き悲しみ、アメノワカヒコの亡骸らを喪屋を作って安置し、川贋を食物を運ぶ係に、
鷺を掃除係の箒持ちに、カワセミを食事を作る係に、雀を米つき女とし、雉を泣き女として、
八日間にわたって、連日連夜歌舞して死者を弔った。

 この時、オオクニヌシの息子でシタテルヒメの兄のアジシキタカヒコネという神がやってきて、
アメノワカヒコの喪を弔問する時、アメノワカヒコの父や妻子は、みな泣いて、「わが子は死なずに
生きていたのだ。」 「わが夫は死なずに生きていたのだ。」と言って、アジシキタカヒコネを
アメノワカヒコと勘違いして、その手足に取りすがって泣き悲しんだのでした。なぜなら、この二柱の
神の顔や姿がとてもよく似ていたために間違えたのでした。 そこで、アジシキタカヒコネは、
ひどく怒っていうには、「私は、親しい友達だから葬式にやって来た。なのに、そのわたしをなぜ、
けがらわしい死人に見立てるのか。」と言って、身に着けていた十拳剣で、その喪屋を切り倒し、
足で蹴とばしてしまった。これが、美濃の国の長良川の川上にある喪山(もやま)という山のことです。
そのとき手にして喪屋を切った太刀の名は、「大量(おおはかり)」とか「神度の剣(かむどのつるぎ)」
という。

 さて、アジシキタカヒコネの神が、怒って飛び去って行くときに、その同母妹のタカヒメノミコトは、
兄神の名を明かそうと思い歌を詠みました。

天なるや 弟棚機(おとたなばた)の うながせる
玉の御統(みすまる) 御統に あな玉はや
み谷 二(ふた)渡らす アジシキタカヒコネの神ぞ 

 天にいる 若い織姫(おりひめ)が 首にかけている
 玉の首飾り ああ、あの首飾りの きれいな玉のような人よ
 あの谷を 二つの谷を飛んで行く アジシキタカヒコネの神さまです

これは、夷振(ひなぶり)と呼ばれている歌です。 

タケミカヅチ

 そこで、アマテラスは、いいました。「今度は、どの神を遣わせるのがよかろうか。」 オモカネと
八百万の神たちが言うには、「天の安河の川上の天の岩屋に住んでいるアメノオハバリ(昔イザナギが、
ホノカグツチを斬った剣の神)がよいでしょう。しかし、またこの神がだめなら、その子のタケミカヅチ
(建御雷の男の神)を遣わせるとよいでしょう。 ただ、このアメノオハバリという神は、天の安河の
水をせき止めて、道を塞いで居座っているので、他の神が先へ行くことができません。だから特に
アメノカクという神を遣わせて、アメノオハバリを説得するのがよいでしょう。」

 そういうことで、アメノカクを遣わせて、アメノオハバリに尋ねたところ、「恐れ多いことです。
アマテラスにお仕えいたします。 しかし、この使いは、わたしの子のタケミカヅチを遣わせたほうが
よろしいでしょう。」といいました。

 それで、アマテラスは、アメノトリフネ(イザナミが生んだ神)と一緒にタカミカヅチを下界
(葦原中国)へ派遣しました。

 そういうわけで、この二柱の神は、出雲の国の伊耶佐という小浜に降り立って、十拳剣を抜き、
波頭に逆さまに刺し立て、その剣の鋒にあぐらをかいて座り、オオクニヌシに向かってこう言いました。

「アマテラスオオミカミ、タカギノカミの命令で、使者として来た者だ。アマラテラスオオミカミは、
こうおっしゃった。『そなたが領有するこの葦原中国は、わが御子の統治する国として委任したものです。
あなたは、これについてどう考えているのか。』」

 オオクニヌシは、「わたしは、お答えできません。わたしの子のコトシロヌシノカミ(言代主神。
言霊=ことだま)が代わってお答えしますが、彼は今、鳥狩りや、漁をして美保の岬へ行ったまま、
まだ帰って来ません。」と言ったので、アメノトリフネを遣わせて、コトシロヌシを連れて来て、
問いただしたところ、彼は父のオオクニヌシに言いました。「恐れ多いことです。この国は、天つ神の
御子に奉りましょう。」といって、ただちに、乗って来た船を踏み傾け、天の逆手を打って舟を青葉の
柴垣に変化させ、その中に隠れてしまいました。

 そこで、タカミカヅチは、オオクニヌシにたずねました。「今あなたの子のコトシロヌシは、
このように答えましたが、まだ他に意見を言うような子はいるか。」 オオクニヌシは、「もう一人、
わが子のタケミナカタがいます。この子以外にはおりません。」
と答えていると、そのタケミナカタが、
千人引きの大岩を手の上に差し上げてやって来て、大声で、「だれだ! わが国にやって来てそのように
ヒソヒソ話をするのは。 それでは、力くらべをしようじゃないか。では、私がまずあなたの手を
つかんでみよう。」といって、タケミカヅチの手をむんずとつかんだところ、その手はたちどころに
氷柱(つらら)に変化させ、また剣の刃に変化させてしまいました。タケミナカタは、恐ろしくなって
引き下がりました。

 今度はタケミカヅチが、「あなたの手をつかみましょう。」と言って、つかんでみると、、葦の若葉を
掴むように握りつぶして放り投げたので、タケミナカタは、逃げ去ってしまった。タケミカヅチは
後を追って、信濃の国の諏訪湖まで追いつめ、殺そうとしたときに、タケミナカタが、「恐れいりました。
どうぞわたしを殺さないでください。わたしは、この諏訪を離れてはどこにも行きません。そして、
これからは、父のオオクニヌシと兄のコトシロヌシの言うことに背きません。この葦原中国は、
天つ神の御子の言葉に従って献りましょう。」と泣いて謝りました。
(このようにして、タケミナカタノカミは、現在まで長野県の諏訪大社に祭られているのです。)

         オオクニヌシの銅像
             (ウイキペディアより)


オオクニヌシの国譲り

 タケミカヅチは、再び出雲のオオクニヌシのところへ戻って来て言いました。
「あなたの子どものコトシロヌシとタケミナカタは、アマテラスの命令には逆らわないと答えたが、
あなたの心はどうだ。」 これに対して、オオクニヌシは、こう答えました。「わたしの子どもの
二柱の神がお答えしたとおり、わたしも背きません。この葦原中国は、ご命令どおりに、すべて
献上します。ただし、わたしの住む所をアマテラスの御子が、天つ神の「あとつぎ」となって住まわれる
御殿のように、地底盤石に宮柱を太く立て、高天原にとどくほどに高く千木を上げた神殿を造って
いただければ、わたしは、遠い遠い幽界に隠退していましょう。また、わたしの子どもの百八十神たちは、
コトシロヌシが神々の前に立ち、後に立ってお仕えしますので、背く神はないでしょう。」と。

 そこで、タケミカヅチたちは、オオクニヌシのために、出雲の国の多芸志の小浜に、神聖な神殿
(出雲大社)を造り、ミナトノカミの孫のクシヤタマノカミが料理人となって、神饌を献るとき、
このクシヤタマノカミは、鵜に変身し、海にもぐり、海底の土を採って来て、たくさんの土器のお皿を
作り、海藻の茎で臼を作り、こもの茎で杵を作って、神聖な火をおこして、言祝ぎの詞を唱えていうには、
「わたしがおこしたこの火は、高天原のカミムスビの新しい宮殿に長々と煤の跡が着くまで焚き上げ、
地の下は地底の盤石に届くまで焚き固めるのです。そして、楮(こうぞ)で作った縄を延ばして、
釣りをする漁師が、口も尾びれも大きなスズキをざわざわと賑やかに引き寄せ上げて、載せる台も
たわむほどにたくさん盛り上げて、魚の料理を献ります。」と。

 こうして、オオクニヌシは、出雲大社の中に隠れました。(出雲大社は、アマテラスとの戦いに敗れた
オオクニヌシを祭る神社です。)

 タケミカヅチは、アマテラスの元へ帰って、葦原中国を平定し帰順させ状況を復命しました。

(火鑽臼、火鑽杵を用いて発火する古式の火鑽りは、伊勢神宮をはじめ諸社に伝わっているが、
中でも出雲国造家(くにのみやつこ)では、神火相続の儀として重んじられているという。)


                邇邇芸命(ニニギノミコト)に  つづく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Thomas Piketty 21世紀の資本  (mak)

2015-03-09 | 読書

 格差を研究の課題として15年にもわたり研鑽してきたフランスの経済学者トマ ピケティ(Thomas Piketty)が書いた「21世紀の資本」が700ページに上る分厚い学術書にも拘わらづ、発売以来153万部も売れており、フランス語の原本は3年前にフランスで出版され、一昨年英語翻訳本が米国で出版されるや53万部も売れ、ノーベル経済学賞を受賞したクルーグマンに過去10年間に出た経済学の学術書の中で最も際立って重要な本であると言わしめた。日本語翻訳本が昨年暮れに出版されるや、6000円もする専門書が、経済学と無関係な一般の人にまで注目を浴び、どんどん売れているというから驚きである。

 (因みに、Thomas Piketty43歳は、16歳で大学入学資格をっており、数理経済学を修めた後22歳から2年間米マサチュウセッツ工科大学で教鞭を執ったあと退職して、フランスに戻り格差問題の研究に打ち込んだと言われている。)


 ピケティが今年1月に来日した契機に、新聞、雑誌、テレビに取り上げられ、経済専門家ばかりかお笑いバライティ番組(なんでも言って委員会ほか)のテーマになるぐらいで、巷で議論が沸騰している。

 先ごろの国会でも、「野党議員がピケティを引用して、アベノミクスは格差を拡大しただけだ」と安倍首相を非難している。

 NHKクローズアップ現代で、ピケティ理論を問いただしている。参考になるので、ここに転載した。



 ピケティが言わんとするところは、R(資本収益率)>G(経済成長率)要約される。(資本収益率というのは、土地や株などの財産の収益すなわち不労所得歩の留まりである。労働者の所得収入の伸びは経済成長率である) 20世紀に格差が大きな問題にならなかったのはなぜなのか。

 20世紀は戦後の経済の急速な成長とインフレで労働所得が伸び、一方資本は減損した為に、結果格差減少につながり、格差が問題とならなかった。

 ピケティは世界20カ国の300年間にわたる資本収益率と経済成長率の膨大なデーターを集め解析した結果、20世紀は特殊な時期であり、今後は持てる人に、富が累積集中していくとデーター的に証明し、格差拡大への解決策を議論するべきであると、警鐘している。

 ピケティは解決策はグローバルな累進資産税を提案しているが、ピケティ理論の内容については、下記に転載した動画を観ればそこそこ理解できると思う。

 

「たかじんの何でも言って委員会」も議論沸騰

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小松帯刀   (bon)

2012-09-29 | 読書

ずっと以前に、司馬遼太郎の「竜馬が行く」を読んだときになぜか、小松帯刀(たてわき)という人が気にかかっていた。

そうしたらその内、NHK大河ドラマの「篤姫」(2008年)で、結構描かれていたので、またそのことが気になりだした。
その頃相前後して、本屋さんに「竜馬を超えた男 小松帯刀」(原口泉著、平成20年、グラフ社)
があるのを見たので、すぐに買った。 

 早速、読み始めたのですが、何となく期待に反した流れで、引き込まれてゆかないうちに30頁ほどで
中断したまま・・すでに4年が過ぎていました。 2年前のドラマ「龍馬伝」では、あまり描かれていなかったようでした。

 最近、改めて読んでみて、小松帯刀という人が、今の世の中にも必要な人であると思わずにはいられない感じなので、記事にアップしました。 
この本でも言っていますが、結局のところこの人は、薩摩の重鎮として力、組織としての力と経済力を
持ち合わせているが、この時代の封建制度に似合わず、身分の上下を気にしない、藩の秩序を乱さずに
自由な発想が出来、しかも、「無私」のこころに徹した、支援・推進活動をやってのけたというのです。

小松帯刀(満34歳没)
(ウイキペディアより)


下級武士ながら西郷(隆盛)や大久保(利通)  はては、土佐の風来坊的存在の龍馬たちをうまく助けて、
財政面でも大きく支援しながら自らも大局的判断に立ち、薩摩組織を守りながら、
これら自由改革路線をうまく推進させた中心人物という。

 薩長同盟、薩土盟約などは、京都の小松邸で行われているし、慶喜(徳川)の大政奉還に強い影響を与え、
一方では、亀山社中も立ち上げています。

 優れた功績を残しながら、自らを表面に立てず、褒賞も辞退し、ただひたすら惜しみない支援を続ける、
社交的、計画的で優しい性格の小松帯刀は、その名もあまり知られない。

やはり、ある程度エゴを出し、もらうべきはもらい、少しぐらいやりすぎた方が、その名も残る・・ということなんですね。

 最近の政治家などは、エゴと私欲に裏打ちされた?ともいうべき行動に、そのくせ、言葉だけは
抽象的で、巧みな響きを匂わせている。

 時代の先を読み、グローバルな発想と自らの探究心を持った献身的な「無私」な政治家は、もういないのでしょうか?


以下に、ネットから引用した部分を挙げておきます。
 「小松帯刀(こまつ たてわき 1835(天保6)~1870(明治3)年)は,幕末史上なじみのない人物ではあるが,
強い意志と明噺な頭脳を持ち,藩主島津(なりあきら)の側近として,西郷隆盛,大久保利通などを登用・抜擢した。

 下級武士に過ぎなかった西郷隆盛や大久保利通,一介の浪人であった坂本龍馬が幕末に存在感を持つ
活動が出来たのも,薩摩藩家老という地位を持った小松帯刀の支援協力があったからで,
明治政府樹立に向けて,小松帯刀の存在は大きかったというのが,見直されている理由である。」

 「小松帯刀は,鎖国という状況のもとにあって,掟破りとも言える発想で,西洋の技術や文化を積極的に採りいれた。
藩主島津斉彬の意をうけて1861年には長崎で洋水雷、砲術の知識を学ぶとともに,オランダ艦船に
搭乗し軍艦の操縦術を習得。

 家老就任後には,生麦事件に端を発した薩英戦争(1863年)でイギリスと戦火を交え,
その科学技術力の高さを身をもって体験したことから,講和成立後は一転して英国との親交を深め,
留学生を派遣するなどして先進技術の導入に取り組んだ。

 幕末維新期に活躍した,英国の辣腕外交官アーネスト・サトウは,明治維新を裏方として支援した小松帯刀(こまつ・たてわき)について,次のような人物評を残している。

 “小松は私の知っている日本人の中で一番魅力のある人物で,家老の家柄だが,そういう階級の人間に似合わず,政治的な才能があり,態度にすぐれ,それに友情が厚く,そんな点で人々に傑出していた。”」


最後に、著者原口氏の締めくくりとして・・・
「そして、日本のリーダーたちが、帯刀の“無私”の何十分の一かにでもあやかることができたら、日本は世界からもっと尊敬される国になり、政治の腐敗は正され、社会はより“清廉”な、筋の通った力強いものになるでしょう。」



ちょっと違いますが、ピアノ発表会でもお馴染みの・・・







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魔のバイオリン  (mak)

2012-08-07 | 読書
図書館の新刊書の棚にあった「魔のバイオリン」という本が目にとまった。
bonが投稿した最近のブログ「素粒子」に貼り付けてあったモーツワルトのバイオリンの名曲を聴いた直後であったので、つい興味を惹かれ借りて読んでみた。

この本は、バイオリン大好きの佐々木庸一氏(東大名誉教授)が長年にわたり調べた文献からバイオリンの名器にまつわる興味深い話を紹介したものである。その中にストラディバリことが記述されていたので、その一部を抜粋し、この本の紹介としたい。

「ストラディバリは日本でも50年以上も前に1億円以上で売り買いされ、今では世界で4億年以上の値がつく高価な楽器である。(たまたまスペインで最近23億円という破格の価格がついたとの新聞報道ここをクリックがあったので、参考までに載せておく。)何故、こんなにも高いのか?まずストラディバリーが奏でる音の素晴らしさである。ストラディバリの名器を演奏会で聞いてまず音色が多種多様であることに驚く。また音が実に甘美で、上品であることにも驚かされる。百人のオーケストラなどと共演してもそれに負けないくらい大きな音が出る。こういう名器は自分一人で練習しているときに、弾けば弾くほど気分が乗ってきて、長時間弾いていてもすこしも疲れない。その素晴らしさがはっきりした19世紀中頃から値段が上がりだし、ついに庶民には手が届かなくなった。
値段が高いもうひとつの理由としては、数が少ないことである。アントニオストラディバリ(644-1737)は93年の生涯で約3000個造ったが戦争火災などでほとんど失われ現存するのは4百2個しかない。楽器としての価値に骨董的価値が加わり破格の価値になっている。

こんなに高いものを買えるのは、18世紀過ぎから海外発展で大儲けしたイギリスの貴族たちであった。第一次世界大戦後はアメリカの新興成金が買った。そんなわけで、4百余現存せるストラスバリはヨーロッパに半数、アメリカに半数ある。戦前の日本にはまずなかったものと考えて良いであろう。ところが最近経済大国日本にも入ってきている。」

以上、「魔のバイオリン」に紹介されているバイオリンにまつわる話のほんの一部を紹介したが、
高価なワインの味と安物の区別もつかないように、高価なバイオリンの名器が奏でる音の素晴らしさを聞き分けることができないが、本書を読んで得たバイオリンに関する興味深い話しは、バイオリンの曲を今まで以上に鑑賞し、感動して楽しめるのに役立つかもしれない。このところ、YouTubeの再生リストに偉大なるバイオリニストと題して、有名奏者とバイオリンの名曲を集め聞いているがさらに好きな曲を追加していきたいものである。

ストラスバリを個人で買った数少ない日本のバイオリニスト奏者の一人である千住真理子の動画がYoutubeにあったので貼り付けておいた。そこにもストラスディバリのすばらしさを、誇らしげに千住真理子が述べている。





偉大なるバイオリニスト達 バイオリン名曲集59曲:

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ベートベンの真実 (mak)

2012-08-03 | 読書

米国でベストセラーになった「ベートベンの真実」を読んだ。

下記の本の画像をCtrlキーを押しながらクリックして、Beethovenの名曲を聞きながらお読みください。

 

Russel Martin and Lydia Nibley  児玉敦子訳 2012年6月19日出版
    ベエトベンの遺髪

病に苦しみ、耳が聞こえなくなっても、最後まで作曲を続け、300曲以上の作品を残した偉大な作曲家ベートベン。長く続いた病気の痛みに苦しみ、病床でも死を迎えるまで音楽のアイデアをメモし続けていた。1827年3月27日この偉大な作曲家は56歳の人生を閉じた。
その死の床で彼を尊敬していた15歳の少年が形見として切り取った髪の一房。約170年もの間数奇な運命を辿り、1994年二人のアメリカ人の手に渡った。作曲家に熱心なファンである二人は、最新の科学技術を利用して、遺髪を調べた結果、ベートベンの長年の病気の原因が鉛を摂取していたことであったと、判明。死後170年もたって、ベートベンの死因が鉛中毒と診断されたわけだが、もしかしたらベートベンの感情の起伏の激しさや革新的な才能についても、何らかの説明が出来るかもしれない。これまでにわからなかった真実を探ろうとしたノンフィクションドラマ。

何故、鉛が体に入ったのか?..............
ベートベンはよくワインを飲んでいたが、当時のワインは口当たりをよくするために鉛が加えられていた。大量に鉛を取り込む経路としてはもう一つ、医師が疑われる。ベートベンは長年のあいだに多くの医者に罹ている。その中に全く医学的な訓練を受けていない医者が何人もいた。技術のないヤブ医者たちは、様々な治療薬として 鉛錠を処方した。そうしたいいかげんな薬に毒されていた可能性が極めて高い。そうhして、治療によってひとつの症状がおさまっても、さらにひどい中毒症状がでて、健康状態がどんどん悪化していったのではないだろうか?

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「自然農法」わら1本の革命  (bon)

2012-07-03 | 読書

 最近ようやく読み終わった本です。

 福岡正信著(1983年初版、2010年19刷 ㈱春秋社) 260ページほどのものでしたが、
なかなか進みませんでした。

 著者は、1913年愛媛の生まれで、岐阜高農、横浜税関植物検査課、高知県農業試験場勤務を経て1947年以来、
自然農法一筋に打ち込まれ、2008年に逝去されたとあります。

 どのような農法かといえば、例えば、田圃は、この35年間全く耕したことがない。化学肥料は使ったことがない。
病虫害の消毒剤も使っていない。
田も耕さず、草取りもしない、農薬も肥料も使わなくて、米と麦を毎年連続して作っているという。
それで、反あたり10俵かそれ以上収穫が出来ている。これは愛媛県の多収穫田に匹敵するのだそうだ。

      


 この自然農法とは、どのようにやるのかといえば、稲の収穫前に稲の頭の上から麦の種をばらまいて、
稲を収穫した時にできた藁をそのまま切ったりせずに、その上に振りまくだけ・・・。
稲の場合もこの方法と同じで、麦を刈る2週間ほど前に麦の頭から籾をばらまいて、刈り取った麦わらを
長いままで振りまいておく・・・。麦まきをする10月上旬に、稲の中にクローバを蒔いておく。

 それだけでいいのだそうで、これで既に45年も実績を積んできているという。 
そこでは、農業技術、科学技術は完全に否定されている。 人間の知恵は素晴らしい、万物の霊長として
非常に価値ある生物であり、文明・文化も歴史もみな素晴らしい。
 しかし、これらは、人間を中心とした見方、考え方であり、この知恵にしてもホンの断片的なものに過ぎず、
例えば「自然」といっても、いったい自然とは何か? 真の自然は存在するのか? などすらわかっていない。

自然食がいいといってブームになったりもしたが、一体何が自然食なのかすらわかっていない。
無農薬なら自然食か? ハウスで栽培している無農薬野菜は自然食品ではないだろう。

 色や形の良い作物、現代人の好む味覚の作物が喜ばれ、流通業者から生産者にその要求が出る。
生産者は、この要求を達成しようと苦労する。基はといえば消費者がそれを選ぶからなのだ。
季節を前倒しした野菜や果物は高値を付ける・・結果、最近ではキュウリやトマトにしても、
みかんやリンゴにしても年中出回っている。 
これを実現するために、生産者の努力、苦労ばかりでなく、農業技術、温湿度管理などコンピュータ化された
生産技術、保管・輸送技術等々知恵と年月と費用をかけた開発がその裏側にある。


 こんなことは間違っている。 と、著者は力説している。 
日本だけでなく、アメリカや他の国々でセミナーに招聘されたり、大学研究室等の訪問を繰り返すなど、
自身の信念と「自然農法」を説き歩いてもいるという。

 これはこれで素晴らしい理念だし、何ら異論をはさむ気はさらさらないが、著者の思いの底流に
ややエキセントリックなところが見えるのと、40年以上もこの方法で成果を出しているのだから
「何か文句あるか・・!」的な押し込みの連続を感じ、少々読み疲れました。


 蓼科農園で考えてみると、この「自然農法」で出来ればこんないいことはない。 
草との戦いに悲鳴を上げ、農薬こそ使用しないが肥料も毎年施している。追肥などもする。

人間が手を入れて自然を壊しているから、それを補う手だてを取らなきゃならない。もう「自然農法」に
戻ることが出来ないのだ。戻るためには何年もかかるという。

 何百年も続いている農業ではみんな、悪戦苦闘している。「自然農法」は、確かに理想的に思えるが、
なぜ普及していないのだろうか?

 ウイキペディアによれば、福岡氏の他にも数名の自然農法家がおられるようです。











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下山の思想  (bon)

2012-03-15 | 読書
 昨年暮れに発売された、「下山の思想」(五木寛之著、幻冬舎新書)は知っていたが、
以前この作家が好きで、いろいろ読み続けたことがあり、その中にも下山の話があって、
大体のことが分かっていたのでそのままにしていた。 
 が、先日、駅前の本屋に立ち寄ったとき再び目に留まったので買って読んでみました。

 新書の帯解説に、「どんな深い絶望からも人は立ち上がらざるを得ない。すでに半世紀も前に、
海も空も大地も農薬と核に汚染され、それでも草木は根付き私たちは生てきた。
しかし、と著者はここで問う。再生の目標はどこにあるのか。再び世界の経済大国を
目指す道はない。敗戦からみごとに登頂を果たした今こそ、実り多き「下山」を思い描くべきではないか、と。
「下山」とは諦めの行動ではなく新たな山頂に登る前のプロセスだ、という鮮烈な世界観が展望なき現在に光を当てる。成長神話の呪縛を捨て、人間と国の新たな姿を示す思想・・」
とあり、つまるところ国も世界も、個人もこのような思い・考え方が今を生きるすべではないかと提案されている。

 「私たちは明治以来、近代化と成長を続けてきた。それはたとえて言えば、山に登る
登山の過程にあったといえるだろう。だからこそ、世界の先進国に学び、それを模倣して
成長してきたのである。 しかし、いま、この国は、いや、世界は登山ではなく下山の時代に
入ったように思うのだ。」 「・・・下りる・降りる・下る・下がる、これらの言葉には、
どこか負の感覚が伴う。・・プラスマイナスでいえば、圧倒的にマイナスの方だろう。」
 
 しかし、登山を考えれば、「・・目指す山頂に達すると、次は下りなければならない。」 
「下山の途中で、登山者は登山の努力と労苦を再評価するだろう。下界を眺めたり、
高山植物に目を留める余裕も生まれてくるだろう。」

 「人間の一生でいうなら、五十過ぎまでとそれ以降である。今の時代ならさしずめ六十歳で定年退職してから後と考えるのが自然だろう。」 
「日は、いやいや沈むわけではない。堂々と西の空に沈んでいくのだ。」 

「いま私たちは戦後最大の試練に見舞われているといっても差し支えないのかもしれない。
原発事故の行方は不明だが、どんなに好意的に見ても、後半世紀は後遺症は続くだろう。」

 まあ、感じる言葉はまだまだたくさんあるが、要するに、いつまでもこれまでの考え方、
発想から抜け出ずにいるのではなく、新しい発想にたって考えてみる必要があるというのである。
下山こそ、いろいろ来し方行く末に思いをはせる機会ではないのか。 このような提言は、
大いに共感するところであるが、リアルな“登山”に限定すれば、この下山こそ大事であり、
達成感もあるが、疲労感も一倍大きくなっていて“心の余裕”ばかりを求めるのは危険かもしれない。
 本では、そんな理屈ではなく、いつまでも登りばかりを求めるのではない・・といっており、
「・・我々が下山を始めているさなかに、うしろから大震災という未曽有の雪崩に遭遇した・・」ともいっている。


 過去を振り返り、郷愁を楽しむ中に更に人生の広がりが感じられるともいっていて、
まさしくそうでありたいとも思うが、今なお、その中にも“まだ低い山を、ゆっくりと
登って行かなければならない人々も大勢いることも事実である”と思われるのです。










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気儘人(nob)

2012-02-11 | 読書

最近本棚から古い本を引っ張り出して読んでいる。
昨日は司馬遼太郎の短編作品「庄兵衛稲荷」を読んだ。
主人公は幕末に大坂に住んでいた「猿霞庄兵衛」である。
主人公は仙人のように気儘に悠々自適な生活をおくり人々から「気儘人」と呼ばれていた。
「気儘人」とは遊んでいるくせに何となく金があり、その上人生の機微に通じ、遊芸一般の心得があり、しかも好色の道に長けていることが気儘人の必須条件と言っている。但し、ある程度の金が無ければ唯の乞食だとも言っているが・・・。

主人公は高取藩屋敷の買い物方(物品調達商)を務めていた兄の分銅攝津庄左衛門から高取藩(奈良)への売掛金700両の回収依頼を受け大和高取城へ乗り込んだ折り、天誅組がかっての藩主が家康公から拝領した骨董品の大砲等を持ち出そうとしており、藩から請われて軍師として参戦し、200名の藩士で1000名の天誅組を撃退したという話しが残されている。




さて、わが浪漫倶楽部に気儘人がいるだろうかとメンバーを見渡すと、気儘人の必須条件を全て満たしている人は唯一人kさんだけで、kさんに「気儘人」の称号を授与致したいなと一人で悦に入っている。
わたくしなどはただの暇人ですからね。

今の気儘人は自分に不利になったり頭にきた時などに、他人や政治の所為にするヤカラですね。
これも戦後教育のおかげでしょうか。

由紀さおりの夜明けのスキャットをどうぞ。
由紀さおりに続いて欧陽菲菲、あべ静江、吉永さゆり、フォレスタ、Peggy Leeへと延々と
懐かしい歌声が登場します。右下角隅の大画面をクリックすると大画面になり、その大画面の右下をクリックするとこのブログに戻ります。音楽聞きながら他のページで仕事するなら別ページを開き、そこでまたblogページを開いて、コメント書いたり、新規投稿作業などするといいですよ。またもお節介・・・・


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ゾウの時間、ネズミの時間  (bon)

2011-09-19 | 読書

 もう20年ほども昔に読んだ本に、「ゾウの時間、ネズミの時間」という面白いタイトルのついた本があったのを思い出した。これはサイズの生物学というサブタイトルがついているだけあって、本物の科学書である。タイトルだけではない、中身も面白い。だが、やや専門的、数学的なきらいがあり、好き嫌いもあると思います。 ズバリ、動物のあらゆる時間は、体重の1/4乗に比例する・・というのである。どういうことかといえば、息をする間隔、心臓が鼓動する速さ、血液が体内を一巡する時間・・など、すべて体重の1/4乗に比例しているという。つまり、体重が増えると時間は長くなるということで、体重が16倍に増えると時間は2倍になる。小さなネズミは、チョコマカト忙しそうに動き回っているが、大きなゾウは、のんびりと悠然としている。

 

このことは、寿命についてもあてはまるという。個体は、何年かすると死んでしまうがまた別の個体が生まれてくるという大きなサイクルとして捉えた場合、例えば、ネズミは数年しか生きられないが、ゾウは100年も生きられる。

 

ついでに言えば、1回息を吸って吐く間隔の時間を、心臓の鼓動の時間間隔で割り算すれば、哺乳類ならサイズによらず、みんな息を1回する間に、鼓動は4回ドキンドキンとする。心臓の鼓動・・ドキドキする回数は、生涯で20億回、呼吸の数は5億回で、これはサイズによらず一定なのだそうだ。小さい動物は、ハアハアと忙しいが、大きな動物は悠然と呼吸、心拍もゆっくりしている。

 

 代謝量(エネルギー)も体重の3/4乗に比例しているらしい。体重が2倍になるとエネルギー消費は1.68倍になる。分かり易く言えば、4tのゾウは、40gのハツカネズミの体重の10万倍あるが、エネルギー消費量は5,600倍となり、体重増加の1/18。つまり、大きい動物は体重の割にはエネルギーを使っていない。大きいと、あまり活発ではなくなる・・ということかも。

 

 動物の生息密度というのもある。アリのような小さな動物は地面からいくらでも湧いて出てくるが、それに対し大きな動物はポツリポツリとしかいない。やはり、体重と関係がある。体重にほぼ反比例することが分かっている。体重1Kgのものは、1キロメートル四方の中に32個体しか住んでいないが、1gのものは、28,000匹もいる計算になるそうだ。

 

ヒトは、体重を60Kgとすると、1.4/平方キロとなる。日本の人口密度を320/平方キロとすれば、ザット230倍に密度でギュウギュウ暮らしていることになる。

 

 時間とは、すべてを超越した絶対的なもので、ものみなすべてこれに従う・・と思っていたが、動物のサイズによって変化するそれぞれの時間のあることが分かる。

 

本川達雄著「ゾウの時間ネズミの時間」中公新書より。

 

 

 

 

<!-- サムテイラー -->

 

 

 

 

 

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粋(いき)の構造  (bon)

2011-06-05 | 読書
 若いころに読んだ本の中で、印象に残っている一つにこの本があります。哲学者、九鬼周造の「粋の構造」(1930、岩波)です。昭和5年の本ですからざっと80年くらい前の本ですね。お読みになった方も多いと思いますが、どのような内容であるか 私の記憶している・・というかインパクトを受けた中身かも知れませんがちょっと思い出してみたいと思います。

 粋(いき)は、日本特有の特に江戸における美意識の一つであった。わび、さび などと並んで日本の美的観念と共通部分もあるが、茶道の中で生み出された高踏的な「わび」「さび」に対し、「いき」は、庶民の生活から生まれてきた美意識であるという点に特徴があるという。「いき」には必ず異性に対する「媚態」が根本にあり、異性間の緊張がつねに存在している状態がいきの構成要素である「つやっぽさ」や「色気」を作り出すとしている。・・・「媚態とは、一元的の自己が自己に対して異性を措定し、自己と異性との間に可能的関係を構成する二元的態度である。そうして「いき」のうちに見られる「なまめかしさ」「つやっぽさ」「色気」などは、すべてこの二元的可能性を基礎とする緊張にほかならない。」・・・「異性が完全なる合同を遂げて緊張性を失う場合には媚態はおのずから消滅する。媚態は異性の征服を仮想的目的とし、目的の実現とともに消滅の運命をもったものである。」・・・つまり、異性がお互いにほのかに想い続けるその緊張感を持続させている状態であり、その状態が崩れて「例えば合体など」してその緊張がなくなってしまえば媚態もなくなるといっている。

 粋の反対語は「野暮」であるが、この異性間の緊張つまり媚態がほんのちょっとですぐにくっついて緊張が消滅するのは、粋でなく野暮かもしれない。また反対に、いつまでも緊張が続きっぱなしでどこまで行っても緊張だけというのもまた、「野暮」というものであろう。長すぎた春、とか わからずや・・。
 いき は、この媚態が根本にあるが、このほかに「意気地」と「諦め」の要素もあるという。意気地は、江戸文化の道徳的理想が反映されていて、「江戸の花」には、命をも惜しまない町火消、鳶者は寒中でも白足袋はだし、法被一枚の「男伊達」・・・江戸っ子は、宵越しの金はもたねぇ とか 武士は食わねど高楊枝・・などがそれである。「いき」は媚態でありながら、なお異性に対して一種の反抗を示す強味をもった意識である。・・としている。 諦めは、一見粋とは関係がないように思えるが、「「いき」は垢抜け していなくてはならぬ。あっさり、すっきり、瀟洒たる心持でなくてはならぬ。・・・「思ふ事、叶はねばこそ浮世とは、よく諦めた無理なこと」なのである。」などから見るように、諦めも粋の要素であることが分かる。

(ネットから)

 粋の構造として、九鬼周造は、図の様な一つの立方体を提案し、それぞれの頂点に意味を与えて、対角、平面などにもそれぞれ意味を与えている。
 粋の自然的表現として、視覚に対しては、「姿勢を軽く崩す」「薄物を身にまとう」とか「姿がほっそりしている」「薄化粧」「素足」などが挙げられており、いきの芸術的表現として、模様は縞柄、それも細い縦縞が良いとか 色も鼠色とか茶色系などがより粋を表現しているなど江戸文化の芸術を引用して細かく述べられていて面白い。
 
 私の断片的な理解と記憶から抜粋してみましたが、投稿記事の表現は書物から得た印象にほど遠いものとなってしまいましたがお許しを・・。しかし、最近思い返してみるとその分析の面白さに改めて気づいた次第でその片鱗をご紹介しました。


曲は、琴と尺八で お馴染みの歌・・・


美空ひばりの車やさんは粋な花町をテーマにしたものでしょうか。(mak)



石原裕次郎の粋な別れ がこのブログにぴったりかも・・・

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パパラギ

2011-01-27 | 読書
ご存知の方も多いと思います。 もう30年くらいも前に読んだこの本、技術分野に進んだ小生にとって、当時考えさせられることがたくさんあったように記憶しているが、具体的にどのことがどうというと、そこのところははっきりしないのです。しかし、今でも印象に残っていて、ネットの力を借りて少し思い起こしてみようと思いました。

1920年に初版が出た大変古い本です。ドイツ人の作家による、産業革命後の欧米文明を批判した内容ですが、今日でも考えさせるところが失せていないのです。 「パパラギ」とは、白人(ヨーロッパ人)のことで、サモアの酋長がヨーロッパを旅した時の出来事を演説する・・という設定?ですね。 要すれば、パパラギは、文明の恩恵を受けて暮らし・・人生そのものが豊かになり、それは素晴らしいことなのに、サモアの原住民はどうして文明を求めようとしないのか? それに反して、この酋長(ツイアビ)は、そうではない。 文明は結局は人間を不幸にしているんだよ・・と言っているんですね。

以下、少しネットから引用させてもらいます。

彼(ツイアビ)はヨーロッパ人の生活を見てそれをうらやましいとは思いませんでした。       それどころか、彼が「パパラギ」と呼ぶヨーロッパ人たちは、どこかで大きく道を踏み外してしまっているとしか思えませんでした。パパラギはモノとお金にとりつかれています。           そしていつも時間がないとこぼしています。効率と利潤を追求し、進歩をあがめているために何か根本的に大事なことを取り逃がしてしまっているのです。

---お金---
丸い金属と強い紙、彼らが「お金」と呼んでいるもの

これがパパラギの神さまだ
あの国ではお金なしには生きてゆけない
日の出から日の入りまで
お金がなければ、飢えも渇きもしずめることができない
夜になっても寝るためのむしろがない
からだを大地に埋めるにも、
思い出のためにその上に置く大きな石にも、
お金がかかるのだ
私はたったひとつだけ、
パパラギの国でもお金を取られないことを見つけた
空気を吸うこと

だが、それも彼らが忘れているだけだと思う
この話をパパラギにきかれたら、息をするにもすぐに丸い金属と強い紙を取ると言いだすだろう
なぜなら、彼らは一日じゅう、お金を取る方法を探しているのだから

お金は悪魔だ
お金にさわった者はその魔力のとりこになり・・・・(略)
 


---時間---
こんなパパラギがいた

死にそうな魚のように目をむいて、口をぱくぱくさせ
頭が破裂したみたいに赤くなったり青くなったり
手足をばたばたさせたりしていた

そのパパラギの使用人が、約束の時間よりほんの少しおくれて来たからだった
ほんの少しなのに、このパパラギにはとり返しのつかない損害だったのだ
「おまえは私の時間をいっぱい盗んだ
時間を大切にしないやつは生きている資格がない」
こう言って使用人を追い出してしまった

私は彼らに教えてやりたい
日の出から日の入りまで、ひとりの人間には使いきれないほど
たくさんの時間があることを


私はよく何歳かときかれた
そのたびに笑って「知りません」と答えた
そんな私を彼らはかわいそうだと考える
「自分の歳くらい知っているべきだ」と彼らは言った
私は黙って、心では「知らないほうがずっといいのに」と思っていた・・(略)

 

Mantovani 映画「南太平洋」 Some Enchanted Evening  

South Pacific

Carmen Cavallaro to Love again

Phantom the Opera BY Sarah Brightman

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