ブログ「蓼科浪漫倶楽部」の2015年最後にあたりまして一言ご挨拶を申し上げます。
今年1年の、皆々様から賜りましたご指導ご鞭撻ならびにご厚情に 蓼科浪漫倶楽部一同、心から厚く御礼申し上げます。
誠にありがとうございました。
新年は、皆様と、ともに元気で良い年でありますようお祈り申し上げます。
当ブログにつきましては、相変わりませずよろしくお願い申し上げます。
ブログ「蓼科浪漫倶楽部」の2015年最後にあたりまして一言ご挨拶を申し上げます。
今年1年の、皆々様から賜りましたご指導ご鞭撻ならびにご厚情に 蓼科浪漫倶楽部一同、心から厚く御礼申し上げます。
誠にありがとうございました。
新年は、皆様と、ともに元気で良い年でありますようお祈り申し上げます。
当ブログにつきましては、相変わりませずよろしくお願い申し上げます。
市民農園のブロッコリーです。 極めてローカルな話で申し訳ありません。
数年前から、冬採りのブロッコリーを栽培しています。夏に採れるのは、虫が多いので敬遠しました。
12月初め頃既に、不覚にも花が咲いてしまっていましたが、ここしばらく、風邪気味で、それと雨などもあり
ましたので、すぐ目の前ながら見に行かなかったら、またまた花を咲かせてしまいました。
スティックタイプを4株植えています。 一度に採れるので、困りものですが、冬の間、緑みどりした野菜の一つ
として重宝しています。
ブロッコリー 花部分をアップしました
次なるは、市民農園のサトイモです。
種はすこぶる立派だったのですが、今一つ大きく育たなかった感じで、昨年より収量もイマイチです。株の大きさは、
蓼科のそれよりかなり小さめでしたが、芋の大きさ・形は満足でした。しかし、これですと、おすそ分けすると
いってもほんのわずかになってしまいます。
サトイモ 枯れてしまっているところ 掘り上げてみると
ダイコン。これはサッパリダメでした。 三浦大根と青首を植えましたが、どちらも小さいうちに枯れて
しまったり、グッと成長してこなかったり・・ 何がいけなかったのでしょうか?
お正月に重宝できる食材ですので、近所にも喜ばれていましたのに・・。今回は、収穫できずに年越しです・・。
ダイコン
タマネギは、おかげさまで何とか冬越しの状態が整っているようです。秋ごろに、苗がうまく育たなくて、
大騒ぎしてpookyさんあたりに心配をおかけしましたが、何とか量的にもたくさんになりました。
にんにくは、以前(1年くらい前)の蓼科でもらってきた小さな玉が3つくらいありましたので、それを想い出して、
芽だししたものを定植したものです。これが一番マトモと言えるかもしれません。
たまねぎ (奥の方ににんにく)
来年、年が明けると、ねぎ(長ネギ)のタネを蒔いてみようと思っています。
重宝な野菜ですが、長い育成の割には、増えないし、楽しみが少ない・・ように感じていましたのでこれまで
やったことがありませんでした。
畑のごみなども捨て、年末の整理が出来ました。
山登りなどで、重宝しています。
最近では、スキーのストックでやっている人を多く見かけるようになりました。
これって、“杖”ですね。 もう少ししたら、山登りではなくてもご厄介になる、あの“杖”なんです。
25日の早朝、NHKラジオ深夜便の「明日へのことば」コーナー(4時~5時)で、このお話が取り上げられて
いました。「素敵(ステッキ)な杖で歩きませんか?」とタイトルが付けられていて、ステッキアーティスト
楓友子(ふゆこ)と松本一路アンカーとの対談でした。
彼女は、1986年北海道生まれといいますから、29歳のお嬢さんです。 新潟大学に進んで、4年の時、すでに
東京のIT企業に就職も決まっていたが、サークルの合宿の帰り自動車交通事故に遭い重傷を負う。奇跡的に
命は取り留めたものの、脊髄の損傷で右脚に不自由が残り、杖を手放せない身となったのです。 入院中、
IT企業からお見舞いがあり、「あなたの人柄を見込んで採用したので、待っていますから退院すればわが社へ~」
との暖かい言葉もあったそうです。 退院後、その企業に就職しましたが、混雑する通勤がどうしても苦痛となり、
2年後に退社して、独自ブランド「Knock on the DOOR」を立ち上げ、独自デザインのステッキのネット販売を
始めたのです。
独自デザインのステッキ(一部)
完全な受注販売もあるようで、ネットで注文を受けると、その人の(使用する人の)趣向、好み、
ファション
などなどを事前にやり取りするらしいのです。 それで、その人に合うであろうデザインを作り、それらしい
ものを発注者に送り確認してから制作に取り掛かる・・という手の込んだやり方のようですが、かえって
これが人気を呼んで、くちこみながら結構 繁盛しているとのことでした。
なにせ、使っていると、目立つらしく、ステッキが見知らぬ人との会話を誘発するのだそうですね。
大学4年で就職も決まって、ルンルンの時に遭遇した悲劇・・ しかしこれを、見事乗り切って、うら若い女性が
独り立ちして行く、すばらしい感動が 事実としてここにある・・そんな思いで朝まで聞き入っていました。
彼女のことばを拾ってみますと・・
「生きていることが奇跡」「生きているだけで、素晴らしい」「事故で前の自分は一度死んだ。これから
第二の人生を歩める」と思えるようになる。
従来の杖を受け入れられずにいた記憶から、「杖を使いたくなくて出不精になっている方に、楽しい気持ちで
出かけてほしい。杖が外に出るきっかけになれば。一歩前に進むきっかけになれば」・・
モットーは「毎日、『明日死んでもいい今日』を生きる」こと。
いよいよ今年も余すところ僅かとなり、何かと気忙しい今頃に、何故に帝釈天?
映画「男はつらいよ」でお馴染みの帝釈天ですが、たまたま、先日のランチの会の皆さんとの話の中で、
「四天王」が持ち上がり、果ては、誰々の仏が四天王か・・みたいなことになり、それは、仏法を守護する
持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天)の4守護神であることがわかりました。 大阪の四天王寺は、
その昔、蘇我馬子らとの戦いに参戦した聖徳太子が、四天王に祈願して勝利を得たことに感謝して建立したと
されています。
四天王といえば、何とか四天王と昔からよく言いますね。 頼光四天王 といえば、源頼光の家臣の渡辺 綱、
坂田公時、碓井貞光、卜部季武の4人で、今年の大河の松門四天王とは、吉田松陰の弟子である久坂玄瑞、
高杉晋作、吉田稔麿、入江九一の4人を指し、この他、落語四天王や 物まね四天王などもあるようです。
で、このようなスゴイ四天王を配下に従えているのが「帝釈天」なんですね。
ここでは、仏教のお話をするつもりはありませんが、寅さんのお蔭で、何となく身近に感じられますので
ここに取り上げてみました。 何年か前の高校同期の新年会の時、参道を通って帝釈天にお参りした後、
「矢切りの渡し」にも行ったことがありました。
帝釈天(左)と梵天(ウイキペディアより) 柴又帝釈天(帝釈天HPより)
前置きばかりが長くなりましたが、この帝釈天は、古代インドの世界観の中に聳える聖なる山
「須弥山(しゅみせん)」の頂上に住むと言われ、物の本によれば、その居城は名高い喜見城というらしいのですが、
その中の彼の居殿の広いこと、なんと七万七百の室があって、それぞれの室内には七人の天女がいるという。
これが帝釈天の正妃で、この正妃一人ごとに七采女(若い女官)がいるそうで、計算してみると、つまり・・
四十九万四千九百の正妃と、三百四十六万四千三百人の采女がいることになります。凄まじい数で、おそらく
天上天下、この方ほど多情な方はいないでしょう。
また、この帝釈天は、仏さまの仲間で一番の大将軍で、四天王を支配下に持ち、軍隊も何個師団か持っており、
ときどき居留地にご出張なさるけれども、その中で最も名高い居留地が葛飾区の柴又・題経寺(帝釈天)だと
いいますから・・もう、お笑いの部類?かも。 こんなオチャラケをいうと罰が当たるかもしれません。
来年の初詣は、柴又帝釈天にしようかな・・!
キリスト生誕の日に、仏さまのお話・・でした。
昨日22日は、冬至でした。お昼が一番短い日で、東京で9時間45分くらいで、
この日から1週間に約12分ずつお昼が伸び、来年の夏至6月21日まで5時間くらい
長くなるのですね。 冬至からスタートして、お昼が長くなって、それが夏至を頂点として
また短くなる・・。 昔の人は、二十四節気で、冬至を一番上(時計の12時のところ)に
据えているのはこのためなんですね。
今日、板橋区混声合唱団(板混)のクリスマスコンサートにご招待を受け行ってきました。 板混は、
同期の人が団員でバスのパートを担当されていますので、この秋(9/19)にも、定期演奏会にお招きにあずかりました。
板混クリスマスコンサート
会場ホールは満席で、開演冒頭、坂本健 板橋区長・文化財団理事長のご挨拶に続いて、今回音楽監督に就任した、
若い新進気鋭の指揮者 高井優希氏が紹介されました。 氏は、今年開催された国際指揮コンクール第1位に輝いた
人で、ピアノ演奏もプロ並みの腕前でした。 今回のクリスマスコンサートが、氏の板混デヴューで、曲目は、
3部構成で、区の反戦宣言に呼応して、第1部は、さとうきび畑(寺島尚彦作詞作曲)、死んだ男の残したものは
(谷川俊太郎作詞、武満徹作曲)、翼をください(山上路夫作詞、村井邦彦作曲)などが声高らかに歌われ、
すごい迫力がありました。
第2部はゲストステージとして、今回初めての指揮者(音楽監督)の高井氏(ゲスト)と
常任ピアニストの服部真由子さんのピアノ連弾が 小気味よい、楽しい曲を数曲演奏され、会場一面をうっとりと
させてくれました。 なかなかの趣向で 見応え(聴きごたえ)がありました。
最後の第3ステージは、クリスマスソングが美しい衣装で繰り広げられました。 曲は、山下達郎のクリスマスイヴ、
ユーミンの恋人がサンタクロースなど、通常とは一味違った合唱に新鮮な味付けがなされていました。
この他はよく知るクリスマスソング、そしてアンコールにはホワイトクリスマスなどお馴染みの曲が演奏され
お開きとなりました。 満席の客席からは、割れんばかりの拍手が続いていました。
小雨模様でしたが、幸い雨に会わず、板混の既に36年の歴史を持ち、活発に活動されている混声合唱団の演奏を
大勢の観客に混じって、堪能させていただきました。ありがとうございました。
<プログラム>
Ⅰ.平和への思いを胸に
死んだ男の残したものは さとうきび畑 翼をください 大地讃頌
Ⅱ.ゲストをお招きして 《ピアノ連弾》高井優希・服部真由子
ドビュッシー:小組曲 アンダーソン:そりすべり etc.
Ⅲ.クリスマスソングス
クリスマスイブ 恋人がサンタクロース クリスマスララバイ
荒野のはてに ああベツレヘムよ 聖夜 ジングルベル
尚、「板混」については、当ブログ2012.9.15に、定期演奏会模様を記事アップした中でもご紹介しています。
過去の板混クリスマスコンサートより
昨日、日曜日は、全国高校駅伝があり、特別出場枠を入れた59校が、年末の都大路を
元気に駆け抜けていました。優勝校は、男子・女子とも広島県、世羅高校で、男子の優勝は
2年連続9度目で最多、女子は初優勝でした。 男子では、5000m 13分台の記録を持つ高校
生とは思えない程のスピードランナーが何人もいるなど、ずいぶんレベルが高くなったのですね。
その昔、皇居のお堀まわり(5000m)を走っていた経験からすれば、14分を切る~などは、
想像も出来ないスピードです。
先週土曜日(19日)のお昼に、歌手 “あさみちゆき”の公園ライヴに行って来ました。
井の頭公園で、山口県から上京した20歳そこそこの少女が、歌手を目指してラジカセとマイク一つで、
逆さにしたビールケースの上に乗って歌っていた時代があったのだそうです。 “公園の歌姫”と呼ばれたのも
少し前になり、今回の井の頭公園ストリートライヴは、187回目だといいます。今ではテレビ出演も多く、
コンサートも各地で盛況と聞きます。
先週19日の武蔵野市の気温は、10℃、風は4mで、ライヴ会場は、公園内の池の向こう側、つまりお日様が
あたらない側の大きな木の下でしたから、お天気はよかったものの、大変寒い、それに冷たい風に吹かれて
足元から冷え冷えとしてきて、ライヴ終了時には完全に冷え切ってしまいました。
公園の池
案内板も、電気設備、ステージなど何もないただ公園の一角で、素手でギターを弾きながら、音響設備は何も
使わず、生の声が風の中で澄みわたっていました。 感動モノでした。
井の頭公園ストリートライヴ
私が彼女を知ったのは、もう10年も前になりますが、デヴュー直後でしたか、TBSラジオの朝の長寿番組に
出ていて、パーソナリティの大沢悠里との会話の後、ライヴで歌った時でした。ライヴといっても、マイクを
通して、ラジオの電波越しですから、今回の公園ライヴとは、やはり一味薄目なんですね。
このライヴ、本来は、先月11月中旬だったのですが、当日雨で流れてしまったので、ひと月遅れになったのでした。
来年1月にも予定されていて、この寒空でも果敢に実施しているのですね。今回の観客は、ざっと見て実年というか、
殆どが年寄りで、若者の姿はほとんど見当たりませんでした。会場では、マスクを無料で配っていました。
お世話役は、皆さんボランティアの人達なんだそうです。
私たちは、冷え切った身体を駅前のお店で暖を取りお開きとなりました。
公園でも歌いました、デヴュー2曲目の歌。
会場の皆さんも寒い中で一緒に歌っていました。
今年、4月からスタートしました蓼科の畑での1年も、先月をもって楽しいうちに無事、
“蓼科農園の集い”を終えることが出来ました。
その都度、当ブログにて状況などを一つの記録として記事アップしてきましたが、それら全体をまとめた
“総集編”は出来ないか? とのうれしい要請もありましたので、ここに作成してみました。
蓼科農園総集編
作成ツールもないまま、自己流の操作で作成しましたので、写真の複製などのために画質がかなり悪く
なってしまいました。 悪しからずご了承をお願いします。
ブログをご覧いただきました皆様には、まことに幸甚の極みで ここに厚く感謝申し上げます。
ありがとうございました。
蓼科農園2015総集編オートスライド(約8分です。)
BGMは、ホルスト組曲「惑星」から木星 指揮小澤征爾 ボストン交響楽団
年の瀬近い、12月15~18日の奈良公園では、「春日若宮おん祭」が行われています。
奈良 春日大社の末社である若宮神社の例祭で、平安末期の保延2年(1136年)旧暦9月17日、
関白藤原忠通が五穀豊穣を祈って始められたお祭りで、その後途切れることなく、連綿と守り継がれているという
伝統行事です。 明治から12月17日を中心に行われており、国の重要無形民俗文化財に指定されているそうです。
奈良公園の中央の大通り付近で行われるこのお祭りは、古式ゆかしい時代行列「お渡り式」や数々の神事芸能が
奉納されるという大きなお祭りですが、私は残念ながら行ったことはありませんでした。
春日大社、若草山、興福寺、猿沢の池などなどはお馴染みなのに、このお祭りは知りませんでした。
お渡り式
(奈良市観光HPより)
奈良市観光HPから、概要を拾い見してみますと、
15日 御湯立、 16日 宵宮詣・宵宮祭、 17日 遷幸の儀・暁祭・本殿祭・お渡り式・神楽・舞楽奉納、
18日 奉納相撲 とあり、今日17日は、深夜から一日中行事が行われ、お渡り式の時代行列、神楽奉納などが
メインなのですね。
御旅所祭り(奈良市観光HP) 芝舞台の舞(ウイキペディアより)
今では、u-tubeという便利な手段がありますので、こちらでその雰囲気を想像してみることとします。
今朝未明5時頃の関東の空模様は、厚い雲がかかっていて、
折角の“ふたご座流星群”は、みることはできませんでした。
12月も半ばになると、紅葉していた木々の葉はすっかりと落ちて、ベランダは寒々とした姿となりましたが、
冬越しのツタンカーメンえんどうや ムスカリなどが青い芽を風に靡かせています。
10月にハナミズキの赤い実を採り(ブログ“ハナミズキの秋”2015.10.10)、その赤い実の部分を除去して、
パームにくるんで冷蔵庫に2ヶ月入れていましたので、これを取り出してポット播きしました。
小さなタネは、8個ありましたので、ポットは8つ作りました。計算通りうまく行けば、来年3月~4月頃に
芽が出て来る筈です。 一挙に8本もハナミズキが出来ても かえって困りものですが、一つでも発芽して
欲しいと念じています。
かって、“こぶし”のタネが出来た時、こちらは採り巻きしたところ、10本ほど芽が出て育ちました。
一つを残して、みんなお嫁に出しました。
ハナミズキを植えたポット(8つのビニポットに植えました。)
タネ 赤い実(10月ブログより)
ムスカリは、8月頃に掘り上げて置いた球根を、11月9日に植えました。春3月ともなれば、かわいい紫色の
房状の花が楽しめるのです。 また、ヒガンバナの球根が混みあっていましたので、それらを分けて
植えてみました。夏いっぱいこの葉が繁って、それが枯れる秋にはあの独特の花をつけるのです。
ムスカリ ヒガンバナ
ツタンカーメンのえんどうは、昨年まで、ずっとビニールポット播きし、冬越ししていましたが、
今年はプランターに直播きしました。とくに理由はありません。 昨年は古い土のまま育てましたので、
実の成り具合が、いまいちで全体の収量は貧弱でした。 で、土をすっかり入れ替えてフカフカ状態になり
ましたので、つい 豆(タネ)を播いた次第です。 少々、混みあっていますので春になれば間引いてあげる
予定にしています。
ツタンカーメンえんどう
ベランダの色物といえば、さざんかの赤い花が北風を受けながら咲いています。
アップしました。
今日未明に、COP21「パリ協定」が合意成立したとありました。
温度上昇目標、排出量削減目標は合意できたようですが、肝心の途上国への
資金支援額については合意に至らず今後の作業となったようです。
途上国を含めた協定とされたことは、京都議定書を大きく前進した形ではありますが、
具体的なリアル拠出金額では、「エゴ」が出てしまうのですね。
先週、BSで松竹映画「秋日和」を見ました。
昭和35年芸術祭参加の作品で、監督小津安二郎、原作 里見、出演は懐かしい顔ぶれで、先ごろ他界の知らせが
ありました 原節子(母親秋子役)とその娘に司葉子、会社の同僚の岡田茉利子・・。
秋子の夫の七回忌法要に集まった、夫の学生時代からの親友三人、佐分利信、中村伸郎、北竜二、が当時の
想い出話をしているところから映画は始まるのでした。 学生時代に薬屋のマドンナ(原節子)をめぐる思いは、
結局今日 七回忌を迎える親友が射止めて、今なお美しい母親とその娘を残したのでした。 三人の同級生は、
それぞれに社会的地位を得た 落ち着いた人柄で、当時のマドンナは今は未亡人であり、その一人娘(司葉子)を
嫁がせようと、似合いの男性を紹介したりするが、母一人子一人の壁をどう解消すればよいかなど、その底流に
溢れる友情と 相互のおもいやりなどがしっとりとした調子で描かれていて 心あたたまるほのぼのとした映画でした。
司葉子の相手役には佐田啓二が・・そして、会社の同僚には岡田茉利子が、初々しい面々が鮮やかに描かれていました。
(allmovie.comより)
(両映像は、映画画像より転写しました。)
先ごろ、鎌倉文学館を訪れた折、鎌倉には多くの文学者らが居住していたとありましたが、里見と小津安二郎も
この地で交流が盛んだったのか、この作品が生まれたということだそうです。
原節子の映画は、東京物語、晩春、麦秋、秋刀魚の味 など小津安二郎監督ものをもっぱら見た記憶がありますが、
どれも美しく上品な役どころを演じていて、おそらく彼女の日常においてもこのような性格の人なんでしょうね。
目が大きく身体も大きく、当時の日本女性としてはやや異色だったかもしれませんが、若くして引退するまで
数々の名作を残したやはり大女優の一人なんですね。
小津安二郎監督独特の家屋内の映像アングル、街並み風景、東京駅付近と思われるJR車輌(湘南電車?)、
ビールはアサヒ、サッポロ、ウイスキーにトリス、ホワイトホース等 昭和30年代の懐かしい映像も楽しめました。
世の男性が、一定の坂を上りきった、安定した心情とその生活ぶり、そして友情がほのぼのと描かれて、
我が身はその年代はかなり前に突入して久しくなりますが、そのような心の動きや 今なお続く友情を改めて
蘇らせてくれるのでした。
昨夜は、30~40年前の職場で苦労もし、楽しい思いもした連中の、恒例の飲み会がありました。
ほぼ1年ぶりの顔ぶれは、すでにリタイアした人達や、今も現役で脂の乗り切った役職にある人達ですが、
寄ればその昔の話題から発展しアルコールも入り大いに盛り上がるのでした。大変楽しい時間を過ごしました。
夕方の渋谷
(ライトで光る広告トラック)
当時の職場は、画像・映像を中心とした新しい技術・サービスの開発業務に明け暮れていましたが、そんな活動の中で
感じたこと、楽しかったことなどの各自の想い出を自由投稿して自費出版した「画像通信の源流」が完成し、
ちょうど10年を迎えたと席上、幹事から報告があった時、改めて月日の過ぎる速さを感じるとともに、一気に
その昔にタイムスリップしてしまったのでした。
若き技術者たちが挑んだ 画像通信の源流
帰宅して、「画像通信の源流」を今また見開いてみました。
約50編の投稿記事は、長い歴史の中では、ホンの一事象であるかもしれませんが、どの編にも共通して流れて
いるのは、技術・サービスの未知の世界へ突き進む飽くなき情熱がその底流に感じられるのでした。巻末の
編集後記の書き出しの一部を再掲させていただきます。
「かって、同じ職場で激論を交わし、ともに完成の喜びを分かち合った仲間が、その後それぞれの分野に進み、
時に集い、想い出や近況など語り合いながら美酒を酌み交わす喜びは、いつの時代も格別です。懐かしみだけ
ではなく、それぞれの成長の過程を凝縮した響きの中に、至福の喜びを感じ合うのだと思います。・・」
また、会報記事からの受け売りですが、ご容赦ください。
長谷川眞理子氏(総合研究大学院大学副学長)の「進化生物学から見た少子化~ヒトだけがなぜ特殊
なのか~」と題する講演記録から、その要約をご紹介します。(世界の人口推移については、調査した
数字に変更しました。)
1万年前の地球人口は、125万人以下であったのが、その後 農耕や牧畜が広まり、5000年前には1億人、
17世紀には5億人、19世紀までの200年間で10億人となり、それが100年後には20億人、さらに40億人と
なるのに75年しかかからず、2000年には世界人口は60億人を超え、現在72億9600人と推計されています。
(国連データより推計)
(ネット画像より)
このように、ヒトは、異常な大繁殖をしていたということですが、この調子で永久に増え続けるのは
不可能で、どこかで頭打ちとならざるを得ないのですね。 これの兆しが“少子化”?
(人類の急激な増加をもたらしたのは、医術、医薬の発明によるところも大きいようですが、
産業革命以降の食料の貯蔵・保存技術によるところが大きいと記憶しています。)
「ゾウの時間、ネズミの時間」(本川達雄 中公新書)(2011.9.19ブログ記事アップ)にも述べられて
いますが、動物の生息密度(適正密度)(ある広さに、いくつの個体が生息できるか)は、体重にほぼ
反比例するといい、例えば体重1㎏の動物は1㎢あたり32個体、体重65㎏なら1.5個体程度で、
つまりヒトでいえば2人以下(1.5人)となりますが、地球上の全人口を全陸地面積で割り算すれば、
1㎢あたり44人もの人が住んでいる計算となり、適正密度の20~30倍も住んでいることになります。
生物学から見ると、ヒトは多すぎるということになります。 これは、石油などのエネルギーを使っている
からだというのです。
また、環境の収容容量を「K」、出生率を「r」とする「個体群生態学」の生存戦略については、
当ブログ“r-K戦略説”(2012.3.18)に記事アップしていますが、要するに、一度にたくさんの
子供を産む戦略を取るか、1子だけを産み強く育てる戦略を取るかの進化の方法論で、哺乳類は
全体として「K型」で、中でも霊長類は極端なK型なのだそうです。
ヒトは、脳が極端に大きく、成熟年齢が遅く、寿命が非常に長いですが、同じ大きさの脳を持つ動物と
妊娠期間を比べると、本来ヒトの妊娠期間は3年あってもおかしくないそうですが、それだと胎内で
大きくなりすぎて出産できないので、どちらかといえば未熟な状態で生まれるので、その後の育児が
大変になる。そして、子供に投資する期間も長期にわたり、さらに保育園、学校、医者など社会全体で
育てているといえるので、これを「共同繁殖」というそうです。
ヒトの特徴をまとめますと、①生み初めが遅いため繁殖可能期間が非常に短い、②繁殖期間終了後に
20年の寿命が残されている といっています。
余談ですが、かって私が北陸勤務をしていた時、能登半島の輪島近くに門前町(2006年に輪島市に合併)
という総持寺がある町の海辺の民宿に一泊したことがありましたが、この民宿のご主人と酒飲み話に、
丁度、町長選挙の直前で、その主人も立候補されていたので、話題は、この町をどう発展させて行くかに
終始していましたが、ご主人が言うには「この町の世帯数は800世帯足らずで、その内、生殖能力の
あるのは何世帯あるが、実際に子供を産む可能性のあるのは、何世帯で 後は子供を産まない。
結婚適齢の娘は、何人しかいない・・」 そんな話を、本題とは違いますがフト想い出されました。
動物、とくに霊長類の中でもヒトは産み初めが遅く、繁殖のピークも繁殖可能期間も短いですが、
先進国における現代の女性は、旅行、大学院、資格、キャリア、趣味、自己実現など「自己投資」の
可能性が大幅に増え、「配偶者探索」にも膨大な時間とエネルギーを投じ、果ては結婚に飛び込む決心が
付かず、子育て努力に過大な負担感や犠牲感を想像してしまう。
現代女性の生活史戦略は「自己投資」と「配偶者選択」は、インフレ状態で、「子育て投資」は
非常に小さくなっている・・と述べられています。
このように見てきますと、生態学的に見ても「経済発展による環境の飽和とK型社会への移行によって、
必然的に出生率が低下する」となりますが、さらに、行動生態学の男女の葛藤の理論からも
「男女の力関係において、女性の力が増えれば、出生率は必ず低下する」といえ、いずれ、どこの国でも
少子化問題が起こると言える。 つまり、「非婚化と晩婚化の増加こそが日本における少子化の最大の
原因である」と結ばれています。
必然的な流れなんですね~。
先ごろ “漫画家水木しげる”が、惜しまれて93歳で亡くなりましたが、この妖怪について、
少し前に届いた会報に講演記録として、キチット分析された記事が載せられていて、面白く読ませて
いただきましたので、そのエキスを抜粋してご紹介したいと思いました。
会報の記事は、「日本の妖怪文化 ~その特徴と魅力~」と題して、今年6月に行われた講演の要旨で、
演者は、小松和彦氏(国際日本文化研究センター所長)です。 氏は、文化人類学と民俗学を専門に
神々や精霊に対する民間信仰について伝統行事と関連させながら研究されているといい、これまで
「妖怪文化入門」(角川文庫)、「異界と日本人」(角川文庫)などいくつかの書籍を出版されています
ので存知の方もおられるかもしれません。(私は全く知りませんでした。)
明治末年に「妖怪学」が創設されたそうですが、もともと妖怪は、日本の精神文化の根底にあって、日本人の想像力を刺激し、宗教、文学、芸能、絵画、娯楽などに広く溶け込んで、中でも
絵画表現の分野で豊かな果実を実らせてきたという。 また、現代において、妖怪を研究する意義として、
①日本文化史や民衆文化史を構成する重要要素であり、②人間や日本人を考える素材であり、
③現代文化創造のための資源である・・と説かれています。
難しいことはさておき、妖怪は古くは「古事記」「日本書紀」「風土記」に登場し、ヤマタノオロチ、
ヤタガラス、邪神などがそれで、さらには、河童、天狗、鬼、土蜘蛛、山びこ、狐、犬神などなど
広い範囲に渡っています。
現在では、「ゲゲゲの鬼太郎」「となりのトトロ」「千と千尋の神隠し」「妖怪ウオッチ」などに発展し、
今や怖い、恐ろしいというイメージから 有能で可愛く愛すべき身近な存在として親しまれているのですね。
妖怪画 (歌川国芳画 福岡市博物館蔵)
(大阪歴史博物館HPより)
氏は、妖怪表現史を5期に分けて構築されていると分析されています。すなわち、要約しますと
“第1期は12~15世紀で、信仰の対象としての絵画で、「物の怪」として不吉な扱いをされ、
第2期14~16世紀では、妖怪退治、異界訪問などの絵画としていわゆる「化け物」を退治するなどで
扱われている。第3期の16~17世紀では、妖怪を退治するという視点ではなく、娯楽化、キャラクター化の
先駆として登場している。「百鬼夜行絵巻」等もその一つで、絵巻では、琵琶、琴、冠、鍋、経典などの
道具の妖怪が多く描かれている。そして、次々と新しい道具が発明されると妖怪の種類もそれに合わせて
飛躍的に増えた。第4期18世紀~明治初期には、印刷技術が進み、これまでより「妖怪がキャラクター化
した」「妖怪を楽しむ時代になった」という風に普及してきた。そして第5期、20世紀末~現在では、
明治の近代化と共に一旦は妖怪文化は抑圧されてきたが、戦後これらの妖怪は、水木しげる、宮崎駿、
京夏彦、高畠勲らの創始者によって次々と復活させてきました。”
というように、つまりは、昔も今も常に過去の日本文化の豊潤な宝庫の延長線上に妖怪を描いてきた
のであり、その伝統は厚みを持って形成され、今も大衆文化の一角を占めており『日本がアニメ、
コミック、ゆるキャラなどが次々と生み出される理由は、異界と妖怪の絵物語(ファンタジー)の
長い歴史と豊かな伝統、多様なキャラクターの蓄積を持つからであり、世界に誇れるのではないか』と
結ばれています。
妖怪大百科
(アマゾンHPより)
妖怪というと、これまで異界だから当然、少し距離を置いてみていましたが、このように歴史的、
文化的に捉えてみると、一段と身近な存在であるとして再認識した次第です。
この夏に、鳥取、島根に行った折、妖怪ワールド(水木しげるロード)も見学する予定でありましたが、
松江城の見学をしっかりとしたため、時間が無くなり妖怪を割愛せざるをえなかったのは、今にして思えば
大変残念なことでありました。
今朝(12月5日)は、早く目が覚めました。
この時刻に、目覚める時は時々ありますが、寒いので布団にもぐったまま、半分眠っているような
状態でいることが多いのです。 ところが、今朝は、“日の出前の星空はどうなっているか?
今朝は晴れているか?” というような思いがフトよぎったために、“スッと”起きてしまいました。
防寒をして、ベランダに出てみましたら、東方向に煌々と月の光が降る中に、月を挟んで、すぐ上と
左下方に明るい惑星が光っていました。
月齢23.4 のお月様
(手持ちでパチリ)
東の空5:15頃
(月の上に1つ、左下に1つ)
自信は無いのですが、月の上のは木星で、少し下方に一段と光っているのは、恐らく金星ではないか・・。 この写真では、あまりにも惑星が小さく貧弱に(しか)写っていませんが、
肉眼では大変明るい堂々としたお星さまでした。
月が明るい上に、まわりの人工的光も(今は)邪魔をしていますが、しばらく我慢をして上を向いたまま
にしていますと、真上あたりに北斗七星の柄杓がうっすらと確認出来たり、全天にかすかに星が
ちりばめられているのが見えます。どれがどれか? 判別は無理ですが、これが山の上であったら・・
などと、あとは想像の域に入ってしまいました。
1週間後の“新月”に、もう一度早起きすれば、月明かりが無いのでさらにきれいな星空を眺めることが出来るのですね。 しばし、現実を忘れて・・。
12月2~3日は、秩父夜祭です。
埼玉県秩父市、秩父神社の例大祭の一つで、毎年この両日に行われます。
12月の寒い夜に、壮大な山車、屋台が曳きまされ お囃子、掛け声とともに、打ち上げ花火が追い打ちを
かける 大変賑やかなお祭りです。 私が、このお祭りに行ったのは、もう10年以上前になってしまい
ましたが、この地に実家のある友人に誘われて効率よく見物でき堪能しました。
手元の本によれば、秩父神社、現在の社殿は、天正年間(1573~1591年)の造営と言われ大変古いもの
ですが、壮麗な権現作りで、左甚五郎の彫刻と伝えられる竜があります。 祭神の八意思兼命
(ヤココロオモイカネノミコト)は、古事記によれば、天照大神が天の岩戸隠れの時に安河原に神を集め、
岩戸の前で舞楽を演ずる策を献じて、天照大神を再現させることに成功した 偉勲の神であると
伝えられています。
また、この夜祭の起こりは、1660~70年頃に始められたとのことで、既に300年以上の歴史を持って
いるのですね。 各町内から引き出される山車、屋台は6基あり、京都祇園の山鉾、飛騨高山の屋台と
ともに日本三大曳山と言われているそうです。
3日(今日)の本宮は、午前中例大祭が行われ、午後7時には、各町内の山車、屋台が華やかに飾られ、
午後8時半頃から曳き回され、10時も過ぎる頃、お花畑の御旅所から帰還しますが、この最後の
傾斜のきつい上り坂(団子坂)を大きな山車を曳き上げるところの迫力が凄まじく最高潮に達します。
この場面を見ようと早くから場所取りがあるほどです。
秩父夜祭 (いずれもネット画像から転写しました。)
このお祭りが終わると、一気に慌ただしい年の瀬に突入して行くのですね。
最近では昔のように、すべてのサイクルをこの年の瀬で終わろうとしなくなったせいか、商売筋でも
割と淡々と過ごしているのでしょうね。
秩父夜祭は、このブログ、2011年(12/3)に記事アップしています。この時は、古くから伝わる有名な伝説について述べていました。
埼玉県観光課が出しているお祭りの様子(以前のものです。)