蓼科浪漫倶楽部

八ヶ岳の麓に広がる蓼科高原に、熱き思いあふれる浪漫知素人たちが集い、畑を耕し、自然と遊び、人生を謳歌する物語です。

北極圏  (bon)

2014-12-31 | 日々雑感、散策、旅行

 2014年の大晦日(最後の日)、昔のようにバタバタと忙しい晦日風情はありませんが、何となく気忙しい感じも
ないではありません。そんな日に、どのようなブログ記事をアップすればよいか? なども、チラッと
頭をよぎりましたが、
ことさらに構えることもありませんし、たまたま、先日、いつものH氏からの配信情報の中に、
掲題の記事が
ありましたので、 ちょっと俯瞰的な視点での内容で、大きく捉えた近未来的な話題ですので、
ここに取り上げてみました。

 地球温暖化によって、いろいろと大きな問題が生じるのですけれども、ここに述べられたような側面もあり、
手放しで喜べないわけですけれども、それはそれなりに活用されるべき資源や新しい交流が生まれるなどの
潜在力に満ちているのですね。

 既にご存知のことで、敢えて述べることもありませんが、北極圏について簡単に述べておきたいと思います。
                                        (ウイキペディア他を参照しました。)

 北極圏(Arctic Region)は、北緯66度33分以北の地域であり、北極圏の限界線となる北緯66度33分線を
北極線(Arctic Circle)といいます。 北極圏では真冬(冬至)に太陽が昇らず(極夜)真夏(夏至)に太陽が沈まない
(白夜)ことはよく知られた事柄ですね。

               北極圏
                   (ウイキペディアより)

 

 また、外務省HPの関連部分にも、ここで述べられている内容についても記述がありましたのでここに引用しました。

 「近年,北極に関する大きな話題の一つは,海氷面積の減少です。地球温暖化の影響で,1978年以降,
北極海の氷は10年で平均2.7%縮小しています。 また,北極の観測データに基づく研究によれば,北極海の
氷の減少は今後も続くと予想されます。 北極海の氷の減少に伴い,北極海航路の利用増加や資源開発という
新たな可能性が広がってきました。一方で,環境問題など,新たな課題も浮上してきています。」

               北極圏氷海状況(IJISページより)
                   (線の外側から1980、1990,2000年)
 

 「北極海航路と呼ばれているルートには,大きく分けて二つあります。一つは,カナダ寄りの北西航路(図表:緑色),
もう一つはロシアの沿岸を通る北東航路(図表:紫色)です。これらの北極海航路が開発されれば,例えば横浜から
オランダのロッテルダムまでの運行距離は,スエズ運河経由ルートの約6割となり,大幅な短縮が見込まれます。
ただし,北極海の航路は深度が浅く,氷結した部分が多いため,輸送船の衝突や座礁事故の可能性が高くなること,
そのため輸送船には砕氷船の随行が必要になること,また依然として運航は夏季が中心であり,通年の定期化は
難しいということも,北極海航路の利用の際の課題として挙げられます。」

 その他、ここで取り上げられている、最重要である “資源” についても言及されていますので、さらに追及されたい
方は、こちらを参照されることをお勧めします。

では、掲題の配信記事を以下にペーストします。

******************************

 北極圏:次の新興地域  (The Arctic: the next emerging economy) 
              By Sturla Henriksen     Dialogue DEC/FEB 2014/2015号(p86-90)

 【要旨】これまで謎のベールに包まれてきた北極圏が、成長市場となるポテンシャルを秘めた「次の新興地域」として
世界の注目を集めている。地球温
暖化の結果生じた氷の後退により、北極圏に眠る手つかずの石油、ガスや鉱
といった天然資源の存在が明らかとなり、周辺各国の関心が高まっている
からだ。今後、ビジネスが活発化する
この地域においては、利害の衝突を回
避し、合法的で安全な活動を続けるための枠組みや、広範囲におよぶインフラの
整備、持続可能な環境保護への取り組みが喫緊の課題となる。そのため
には利害関係国の協働が不可欠だ。
本記事では、協働のイニシアティブをと
り、2015年に北極圏リーダーシッププログラムを立ち上げるノルウェー船主協会
(NSA)のCEOが、北極圏での活動の現状と長期ビジョンについて語って
いる。

  ------------------------------------------------------------

  かつては氷に覆われた荒れ地にすぎなかった北極圏だが、今や専門家の間では「次の新興地域」と呼ばれるほどの
成長市場として注目され始めている。 
経済、政治協力の玄関口としても期待されており、2015年3月には、
NSA(ノ
ルウェー船主協会)、「DNV GL社」(ノルウェー・オスロに本部を置く石油・ガス分野のリスクマネジメント、
船級協会、第三者認証機関などの業務を行
うサービス・プロバイダー)、ならびにDCE(デューク・コーポレート・
エデュ
ケーション)が提携し、世界初となる経営幹部向けの北極圏リーダーシッププログラムを立ち上げる。

  周辺8ヵ国が共有する北極地域については、近年の気候や環境の変化により地政学的、また商業上の論争が
巻き起こっている。しかし、北極圏外に住
む人々は、この辺境で何が起きているのかほとんど知らない。
 極地の氷冠が融解し後退しつつあるのだ。北極圏はアフリカとほぼ同じ大きさで、三つの大陸がその頂点で
交わっている。この地には、以下に挙げる
ような地球的課題の上位3項目が集中している。

 (1)地球温暖化の結果、北極の氷が融解し、北極圏の温度が他の地域の約2倍の速度で上昇している。
このことが、世界の気象パターンや空気の流れ
に影響を与える可能性がある。

 (2)氷が後退することで石油、ガス、木材、魚、希土類金属および鉱物を含む天然資源がむき出しになれば、
商業的に開発されることになる。アジア
とヨーロッパをつなぐ近道ができれば、北極圏への航海距離は3分の1にま
減少する。ここで、地球温暖化により気候変動のペースが加速する一方、
航海距離が短くなるため海事産業の
燃料コストが削減できる、というパラドッ
クスが生じる。

 (3)北極圏は天然資源を有することで成功をおさめ、世界貿易に変化をもたらす推進力を得る。このことが、
地政学的な力の均衡を変える可能性がある。

 こうした背景があるために、11ヵ国が北極圏での国益を調整するための北極大使を任命している。

  北極圏には、その定義にもよるが400万から500万人の人口があり、トロムソやムルマンスクといった比較的
規模の大きな都市もある。アメリカ地質調
査所の推定によると、北極圏には地球上でまだ発見されていない石油の13%と、
ガス資源の30%が存在する。また、世界最大級の水産資源と淡水貯水池
を有するとともに、世界有数の木材や
レアメタルの産地でもある。

  北極圏では、さまざまな活動が活発化している。沖合の石油およびガスの開発、クルーズ船の寄港、地域の海運業
のみならず、氷の後退による海水温
の上昇によりノルウェー海から魚が回遊するため、漁業も活性化している。
 加えてメディアは、北極を横断する航路に大いに注目している。北極海には、(1)北部ロシアの海岸に沿って
航行する北極海航路、(2)極地横断
航路、(3)グリーンランドからカナダ沿岸を航行する北西航路という三つ
航路がある。北極海を通過する商業航海は、2008年の4本から、2013年に
は71本にまで増えた。

  現在、商業航海のほとんどがロシアの経済圏で行われている。これはロシアというもう一つの課題があることを
意味する。適切なインフラと、安全・
安心かつ持続可能な方法での商業活動の増加を確保するための規制措置が必要だ。

  また、国や政治家のための情報だけでなく、企業の意思決定やビジネスに役立つ情報も増やす必要がある。
ビジネスを行う企業には、北極圏における
持続可能な開発に貢献する責任もある。合法的に業務を遂行すること、
そし
て商業活動に必要なライセンスの維持を保障するための規則と条件を定めることが、企業の真の利益につながる
といえる。

  それゆえ、これからの北極圏では、規制の枠組みと、利害関係者間の協働が必要になる。ベルリンの壁の崩壊以来、
北極圏では大規模な協力が行われ
てきたが、ウクライナ情勢や、EUと米国がロシアに課した制裁が、貿易関係の船舶や
沖合の石油・天然ガス方面の商業活動に影響を与えている。北極圏
での開発を支援するための規制措置や、
通信、運行指示、氷の監視、正確な
天気予報、捜索救助、補給と整備といった広範囲のインフラ整備の先行きが
不透明になっているのだ。

  ロシアとノルウェーの両国は、この地域で互恵的信頼関係を築いてきた。2010年に正式に締結された海洋境界
画定条約と、バレンツ海および北極海に
おける両国の協力に関する条約に、その関係性が顕著に表れている。
国境地
帯に住む人々が両国間を自由に往来することも、数十年にわたり許可されていた。また、軍事分野における
関係も深く、二国共同の軍事演習も行われて
いる。だが現在では、このようなロシアと各国との二国間関係が、
北極圏に
おける課題解決に必ずしもつながっていかないことが懸念されている。

  人口は少ないものの、ノルウェーには極地の伝統が強く残っている。また、現在、ノルウェーは世界で最も大きな
海洋国家の一つであるとともに、世界
最大かつ最先端を行く海運国でもある。北極海で行われている活動の80%が
ノルウェーの海域を舞台にしたものだ。ノルウェーには、北極のさらなる開発を進められる力がある。そして、
それと同時に、開発の持続可能性に対し
責任を負っている。

  以前から北極圏で稼働しているノルウェーの企業は、同地の開発について熟知している。だが、新たなビジネス
チャンスや投資を検討する企業、この
地で何が起こっているかをよく理解していない企業には、情報を行き渡らせ、
安全で持続可能な方法で操業するための課題と前提条件を分かってもらう必要がある。

  NSAと「DNV GL社」が提携したのはこのためだ。今年10月に初めて開催された北極ビジネス協議会ならびに
北極ビジネス評議会では、企業幹部が一堂に
会して、諸問題について話し合う場を提供した。協議会では、
産学官が連携
し、互いの知識と能力を交換し合うことが必要とされた。今後は北極圏の現況への理解と、意識を
高めるための知識、対策、対応面でのベストプラクティ
スを共有することも必要となる。

 これからは、北極圏への新規参入を狙う企業や、ビジネスチャンスを模索する企業が増えてくる。そのためにも
優れた教育が必要であり、北極圏リー
ダーシッププログラムはタイムリーかつ緊急の必要性に対応しているといえる。

  問題は、会議が乱立しているものの、それらの代表者の大半は公共部門の関係者であり、実業家がほとんど
いないことだ。実業家は、莫大な関連知識
と経験を活かし、投資判断を下し、さまざまな決定事項を調整する。
実行可
能な解決策を生み出すのはこうした人々だ。彼らのビジネス上の利害と社会貢献は、必ずしも一致しないが、
北極圏リーダーシッププログラムには議論
しながらそのバランスをとっていくことが求められている。
 必要なのは、全体像を見て取り組むための総合的な視点だ。われわれNSAは、対話を重視して、利害関係者間の
連携をつくっていかなければならないと考
えている。

 コメント: 北極は、地球全体のサステイナビリティを維持するうえで重要な役割を果たすと思われる。したがって、
利害関係国間のより良い協働態勢
を整えることは、関係諸国のみならず、人類全体の行く末にも影響するきわめて
重要なキーポイントになるに違いない。そのイニシアティブを、平和と
人権の国というイメージの強いノルウェーが
とることの意義は大きい。そし
ておそらく、その協働・連携は、変化する国際情勢をにらみながら進めるこ
とになるため、高度な調整能力が必要となる。ノルウェーのみに任せるのではなく、全世界的な協力態勢が必要と
なるのかもしれない。              
Copyright:株式会社情報工場


                 アラスカのオーロラ
                     (ネット画像)


             今年一年お付き合いくださいまして、誠にありがとうございました。 



 






 

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浪漫倶楽部の出来事 ’14  (bon)

2014-12-29 | 蓼科浪漫倶楽部 畑

一年の締めくくりとして、畑を中心とした浪漫倶楽部の活動を振り返ってみました。

 今年は、これといったイベント、事件などが無く、“出来事” としては、あまり目を引くような事柄はありませんでした。 
ということは、平和で、穏やかな一年で、幸せであったということでしょう。

 しかし、一年の記録を写真集で振り返って見ますと、どの写真も元気で、はち切れそうな笑顔、逞しくさえ感じられる
熟年たち・・ よくまあ、今年も頑張ったことだ!  といまさらながら感心させられてしまいました。 

  主な出来事として独断と偏見で挙げてみました・・(補足・追加などありましたらよろしくです。)

手作りベンチとテーブル 完成
 テーブルは、昨年完成していましたが、今年に入って最後の塗装などを行うとともに、作りかけていた、
ベンチ×2 が完成し 早速、みんなで朝食を囲みました。

 新しいテーブル・ベンチで朝食              製作途中のベンチを前に・・
  


 ・じゃがいも品種 タワラムラサキ他
 今年は、突然新品種にチャレンジしてみました。 種イモは、九州から取り寄せた7品種。
代表格として、タワラムラサキとペチカをアップします。

 タワラムラサキ                          ペチカ
    


・イチゴが出来た~
 毎年イチゴを育成してきましたが、たくさんの青い実が出来ていることを確認しながら、いざ、赤く、甘くなるころには、
跡形もなく 動物?に食べられていたりして、これまで思うような収穫が出来ていませんでした。Ny博士が言うには、
“滋賀産の新しい苗が、この土地に馴染んでいないのかもしれない” と。 それが、何年目かで赤い実が出来た。
ようやく土に馴染んだのかもしれない。もうイチゴ栽培をやめようかと思っている矢先のうれしい出来事だったのです。

          久しぶりのイチゴ
           

・つるくびかぼちゃ
 例年より多くかぼちゃ苗を植え付けて、収穫を楽しみにしていましたら、あれあれ、これは何だ! 
初めて見るかぼちゃで、“つるくびかぼちゃ” といいます。 なるほど、鶴の首のように長く出ている。
普通のかぼちゃに混ぜて、つるくび を蒔いたが、こちらの方が強かったみたいで、殆どがこの種でした。
愛知県あたりで盛んに栽培されているそうで、味はまあまあでした。

  つるくびかぼちゃ                          もう一度(この色に成ったら食べごろ)
    


・菜園スタッフ嬢来園
 pookyが、利用している近くの屋上菜園のスタッフたちが、蓼科農園にやってきました。
さすが、手際よく200以上もあるタマネギの苗もあっという間に完了しました。

            タマネギの植え付け
               


・収穫祭
 例年、最大のイベントとして楽しみにしています。 今年は、畑の中にシートを引いて椅子・テーブル形式の
会場仕立てでしたから、座り慣れているし、立ち座りが楽? で熟年向きでした。 毎年少しずつ変化が見られます。 
鮭のチャンチャン焼き、里芋がどっさり入った芋煮がメインで、ひととき大いに盛り上がりました。
この後、K邸での夜の部へと楽しみは続くのでした。

           みんな楽しく
              

 

・今年最後の整地された畑
 今年一年ありがとう。 タマネギ、にんにくの冬越しを残して、約半年の間、雪の中でじっくりとお休みするのです。 
今年一年過ごした、充実感と 満ち足りた解放感を胸に、来年までしばらくのお別れとなります。 来年もよろしく・・!

         整地された畑(来年4月まで~)
              
               

 

 <今年一年の決算>

 ・畑開き 4.26~
 ・大合宿 5.31~
 ・成長支援 6.28~
 ・夏合宿 7.20~
 ・かぼちゃ祭り 9.6~
 ・収穫祭準備など 10.14~
 ・収穫祭 10.26~
 ・畑じまい 11.14~

  動員数は、延べ55名  合計21泊 でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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錦蝶が咲きました。  (bon)

2014-12-27 | 花鳥風月

 “きんちょう”と読みます。 カランコエ属、ベンケイソウ科の多肉植物です。

 この種類には、たくさんの仲間がいて、ここで取り上げていますのは、その内の一つです。
昨年9月に園芸友の会会員からこの植物の葉っぱを頂戴したのです。 いただいた葉っぱ数枚を植木鉢の土の上に
並べて置いたのでした。
 本来は、昨年の今頃に咲くはずでしたが、
寒さに弱いのに、誤って11月頃まで室外に置いていたため、一旦は
葉が茂っていましたの
に寒さのために、枯れかかってしまいました。 慌てて、昨年暮れごろから室内に取り入れて、
春暖かくなってから室外にて生育しました。  それが今回、開花したのです。

 葉っぱをいただいたときの様子は、当ブログ、2013.9.21 “錦蝶(キンチョウ)” にアップしていますように、
植木鉢の土の上に植えるのではなく、並べて置いたのだけでした。円
筒形の葉っぱの両側のとげとげみたいな
突起があり “不定芽” といって、そこ
から新しい芽が出て、根が出来て、それが成長したのです。 
面白い性質ですね。

 花数はまだ少ないですが、パチリトしましたので、ご覧ください。

                            きんちょう の花です。
                    


 

               昨年、いただいた葉っぱを置いたところです。
                    (先のブログから)


 

 

 

 

 

 

 

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クリスマス  (bon)

2014-12-25 | 日々雑感、散策、旅行

 今日、12月25日はクリスマスですね。 昨夜はイヴ。 
昔、子供が小さい時とか、孫がまだウロチョロしていた頃には、ローソクを立てたケーキをみんなで囲んだことが
ありましたね。
今頃の家庭も、子供を中心として、イルミネーションなど付けたツリーを飾ったりして楽しくやっているのでしょうね。 
イルミネーションといえば、今年は特に、LEDが目立ちます。 近くの街角にもありますが、テレビなどで、各地の
イルミを紹介していました。 大きいもの、何万個も使ったもの、青色一色のもの・・様々です。

 

 さて、クリスマスはいつ頃からあったのでしょうか? はっきりしませんが、ネットによれば、遅くとも4世紀までころから、
“キリストの降誕を記念する祭日” として、祭祀が行われていたとのことであります。 12月25日に、馬小屋で
キリストが生まれた・・というわけではなく、この日を祭日として定められていたということのようですね。

 ツリーがつきものですが、これについては、中世の頃 ドイツで演じられた アダムとイヴ の物語に使われた樹木が
その由来だと言われています。これに電飾が施されたのは、19世紀以降にアメリカで始められたとか。

 サンタクロースは、4世紀頃の東ローマ帝国司教、聖ニコラオス(ニコラウス)の伝説が起源であるという。
「ある日ニコラウスは、貧しさのあまり三人の娘を嫁がせることの出来ない家の存在を知った。ニコラウスは真夜中に
その家を訪れ、金貨を投げ入れる。このとき暖炉には靴下が下げられていたため、金貨は靴下の中に入っていたという。
この金貨のおかげで娘の身売りを避けられた」 という逸話に基づくとされているのだそうです。
なぜ、煙突から入ったかについては、1822年にアメリカの学者ムーアがフィンランドの言い伝えを伝承した
“聖ニクラウスの訪(おとな)い” という詩に基づいているらしい。

 聖(セント)ニコラオスという呼称が使われていますが、これをオランダ語では、“シンタクラース” というそうで、
オランダでは14世紀頃から聖ニコラウスの命日の12月6日を “シンタクラース祭” として祝う慣習があり、その後、
17世紀アメリカに植民したオランダ人が “サンタクロース” と伝えたのが語源になったといわれています。 

            サンタクロースと子供
                       (ウイキペディアより)


 サンタさんは、昔から、常ににこやかなおじいさんで、白いひげを蓄え、キリスト教司祭服に準じた赤白のゆったりした
服に 白い大きなプレゼントが入った袋をもっているのが世界共通のイメージのようですね。
トナカイは、最初は1頭だったのが8頭になり、鈴などの演出は後世に作られたようです。
プレゼントは、もともとは、ツリーの下に置く習慣でもあったのが、サンタさんが、良い子にお菓子を、悪い子には炭などを与えたと、どこの国でも子供に対する接し方は同じようですね。

 日本では、1914年にすでに、子供雑誌に現在と同じような いでたち のサンタが描かれており1923年には、
新聞記事に「Xマス近づく」との見出しで、「坊ちゃん嬢ちゃんに歓迎されるクリスマス・プレゼントは、年々盛んに
なるばかりだ。」 とあり、このころには既に商戦化せれていたことを伺わせます。
1926年12月25日に大正天皇が崩御され、この日が休日(大正天皇祭)となったことも、その後の日本でクリスマスが
盛んになった一因ではないかとされています。

 グリーンランドに住む長老サンタクロースの補佐をする目的で、1957年にグリーンランド国際サンタクロース協会が
設立されていて、協会が認定する公認サンタクロースが現在世界に120人いるといいます。
日本人も、1998年に公認サンタクロースとして指定を受けたミュージシャンのパラダイス山元という人がいるようで、
各地でイベントを手伝ったりしているようですが、HPにははっきりと書かれていませんし、顔も出されていませんでした。

                                     (ネット画像)

 

 

 

 

 

 

 

 

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山頭火   (bon)

2014-12-23 | 日々雑感、散策、旅行

 かなり以前から気になっていた人ではありますが、先ごろ、ふとこの人のことが頭をよぎりました。
大体のことはわかっていましたが、この際、もう少し把握しておきたいと思い、ネット調べをしました。

  種田 山頭火、本名は種田正一。1882年(明治15年)~1940年(昭和15年)。大正・昭和の俳人です。
季語や五・七・五という俳句の約束事を無視し、自身のリズム感を重んじる「自由律俳句」を詠んだもっとも著名な
俳人の一人です。  1925年には熊本で出家得度して耕畝(こうほ)と改名したとあります。 
以下に、kajipon HP “種田山頭火の生涯” から抜き読みの形で、少々長いですがまとめてみました。

 

 この人は、山口県防府の大地主の裕福な家に生まれますが、父は芸者遊びに夢中になり、これに苦しんだ母は
山頭火が10歳の時に、自宅の井戸に身を投げ、子供心に深い傷を残します。 高校卒業後、早稲田に入学したが、
22歳で神経症の為に中退して帰郷してしまいます。

 この頃、生家は相場取り引きに失敗して没落しており、立て直しの為に先祖代々の家屋敷を売り、彼(24歳)は
父と酒造業を開始するのです。 27歳で結婚し子を持ち、しばらくは安定した人生で、10代中頃から俳句に親しんでいた
彼は、28歳から “山頭火” を名乗って、翻訳、評論など文芸活動を開始します。
 34歳の頃実力が認められて俳句誌の選者の一人になるのですが、酒蔵の酒が腐敗するなどして、「種田酒造場」は
倒産に追い込まれ、父は家出し、兄弟は離散してしまいます。 山頭火も夜逃げ同然で妻子を連れ九州に渡り、
古書店(後に額縁店)を熊本市内に開業しますがこれも失敗して、行き詰った山頭火は職を求めて単身上京し、
図書館で勤務することになります。 が、38歳で、熊本にいる妻から離婚状が届き離婚し、彼も神経症の為に
図書館を退職して、翌1923年に関東大震災で焼け出され、熊本の元妻のもとで居候となります(40歳)。

 熊本市内で泥酔した山頭火は市電の前に立ちはだかって急停車させる事件を起こし、それが基で、禅寺に入り、
出家して 耕畝(こうほ) と改名します。 山頭火は句作への思いが高まり、法衣と笠をまとい鉄鉢を持って熊本から
西日本各地へと旅立つのです。この行乞(ぎょうこつ=食べ物の施しを受ける行)の旅で多くの歌が生まれていくのです。
この行乞は7年間も続くことになりるのです。

山頭火は旅の始めの興奮をこう詠んでいます。
               「分け入っても分け入っても青い山」

  山頭火の酒豪ぶりは相当なものであったそうです。泥酔への過程は 「まず、ほろほろ、それから、ふらふら、
そして、ぐでぐで、ごろごろ、ぼろぼろ、どろどろ」 と本人が言っていますが、最初の「ほろほろ」の時点で既に3合
だったそうです。また、酒と俳句についても 「肉体に酒、心に句、酒は肉体の句で、
句は心の酒だ」と語っています。

                   山頭火
                      (kajiponHPより)

 

 50歳(1932年)を迎えた山頭火は、肉体的に行乞の旅が困難となり、句友の援助を受けて山口県の湯田温泉に近い、
小さな草庵に入り「其中庵(ごちゅうあん)」と命名し、7年間落ち着くことになる。深酒は相変わらずであったそうですが、
出家からこれまでの作品をまとめた第一句集『鉢の子』が刊行され、山頭火の魂の遍歴がここに刻まれるのです。


●第一句集『鉢の子』(抜粋)1932年
     生死の中の雪ふりしきる
     笠にとんぼをとまらせてあるく
     歩きつづける彼岸花咲きつづける
     まっすぐな道でさみしい
     また見ることもない山が遠ざかる
     どうしようもないわたしが歩いている
     捨てきれない荷物の重さまへうしろ
     こんなにうまい水があふれている
     酔うてこうろぎと寝ていたよ
     物乞ふ家もなくなり山には雲


●第ニ句集『草木塔(そうもくとう)』(抜粋)1933年
     水音しんじつおちつきました
     すッぱだかへとんぼとまろうとするか
     かさりこそり音させて鳴かぬ虫が来た
     何が何やらみんな咲いている
     山のいちにち蟻もあるいている
     (帰庵)ひさびさにもどれば筍によきによき


●第三句集『山行水行(さんこうすいこう)』(抜粋)1935年
     夕立が洗っていった茄子をもぐ
     山のあなたへお日さま見おくり御飯にする
     お月さまが地蔵さまにお寒くなりました
     落葉を踏んで来て恋人に逢ったなどといふ
     ふくろうはふくろうでわたしはわたしでねむれない
     何もかも雑炊としてあたたかく
     閉めて一人の障子を虫が来てたたく
     ともかくも生かされてはいる雑草の中

 1936年(54歳)、この年は関西、東京、新潟、山形、仙台、そして遠く岩手平泉まで旅をし、第四句集『雑草風景』を
発刊します。     「ここまで来し水飲んで去る」(平泉にて)。


●第四句集『雑草風景』(抜粋)1936年
     日かげいつか月かげとなり木かげ
     なんぼう考えても同じことの落葉ふみあるく
     悔いるこころに日が照り小鳥来て鳴くか
     枯れゆく草のうつくしさにすわる
     空へ若竹のなやみなし
     何を求める風の中ゆく

1937年(55歳)、無銭飲食のうえ泥酔し警察署に5日間留置されたり事件を起こすが、同年、

●第五句集『柿の葉』発刊する。
     藪にいちにちの風がおさまると三日月
     けふは木枯らしのはがき一枚  


●第六句集『孤寒(こかん)』(抜粋)1939年
     ひなたは楽しく啼(な)く鳥も啼かぬ鳥も
     藪から鍋へ筍(たけのこ)いっぽん
     風の中おのれを責めつつ歩く
     なんとなくあるいて墓と墓との間
     咳がやまない背中をたたく手がない
     窓あけて窓いっぱいの春

 春先に近畿から木曽路を旅し、年の暮れに松山で終の棲家となる「一草庵」をむすんで、この庵で「落ち着いて
死ねそうだ」と喜んだという。

 1940年1月、山頭火を慕う句友たちが「柿の会」を結成し、一草庵で句会を開いたり、これまでの俳句人生の
総決算となる一代句集『草木塔』を刊行したりして、中国&九州地方の世話になった友人たちにこれを献呈する旅に
出て帰着後、第七句集『鴉』を刊行します。

 その年の10月10日の夜、一草庵で句会が行われる中、山頭火は隣室でイビキをかいて眠りこけていると思って
いたが、実は脳溢血で、ここに57歳の人生を閉じたのでした。 本人念願の “コロリ往生” だった。

 山頭火は生涯に8万4千句という膨大な数の作品を残しましたが、晩年の日記には「無駄に無駄を重ねたような
一生だった、それに酒をたえず注いで、そこから生まれたような一生だった」 とあります。
辞世の句は「もりもり盛りあがる雲へあゆむ」
旅を愛した山頭火は、地平線から立ち昇る明るい雲の中へ溶け込んでいった・・と評されています。

               JR防府駅前・・
                    (ウイキペディアより)                   


 自由気ままに生きた、勝手人生の中に、身近な自然や生き物へ注ぐ素直な目線と愛情が、何ともほのぼのと
温かみを感じる流れに、ふと自身を顧みるゆとりを与えてくれる・・ そんな響きにひと時、安らぎを感じるのですね。

 ところで、“山頭火” という俳号は、納音(なっちん)の一つで、納音というのは、“六十干支を陰陽五行説や中国古代の
音韻理論を応用して、木・火・土・金・水の五行に分類し、さらに形容詞を付けて30に分類したもの” とウイキペディアに
ありました。 生れ年の納音によってその人の運命を判断するのだそうです。
で、山頭火の生まれ年の納音は山頭火ではなく “楊柳木” なのですが、彼は、字面と意味が気に入った物を選んだ
のだといっています。 彼の師匠である荻原井泉水の “井泉水” も納音ですね。 

ウイキペディアから、納音を引用しますと、 

用語

用語の読み

干支

海中金

かいちゅうきん

甲子・乙丑

爐中火

ろちゅうか

丙寅丁卯

大林木

たいりんぼく

戊辰己巳

路傍土

ろぼうど

庚午辛未

釼鋒金

じんぼうきん

壬申癸酉

山頭火

さんとうか

甲戌乙亥

澗下水

かんかすい

丙子丁丑

城頭土

じょうとうど

戊寅己卯

白鑞金

はくろうきん

庚辰辛巳

楊柳木

ようりゅうぼく

壬午癸未

井泉水

せいせんすい

甲申乙酉

屋上土

おくじょうど

丙戌丁亥

霹靂火

へきれきか

戊子己丑

松柏木

しょうはくぼく

庚寅辛卯

長流水

ちょうりゅうすい

壬辰癸巳

沙中金

さちゅうきん

甲午乙未

山下火

さんげか

丙申丁酉

平地木

へいちぼく

戊戌己亥

壁上土

へきじょうど

庚子辛丑

金箔金

きんぱくきん

壬寅癸卯

覆燈火

ふくとうか

甲辰乙巳

天河水

てんがすい

丙午丁未

大駅土

たいえきど

戊申己酉

釵釧金

さいせんきん

庚戌辛亥

桑柘木

そうしゃくもく

壬子癸丑

大溪水

だいけいすい

甲寅乙卯

沙中土

さちゅうど

丙辰丁巳

天上火

てんじょうか

戊午己未

柘榴木

ざくろぼく

庚申辛酉

大海水

たいかいすい

壬戌癸亥

 

ちなみに、1939年(昭和14年)生まれは、己卯(つちのと・う)で、上の表から納音は、“城頭土”で、
昭和15年の人は、庚辰(かのえ・たつ)で、“白鑞金” となります。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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朔旦冬至  (bon)

2014-12-21 | 日々雑感、散策、旅行

  明日、12月22日(月)は、朔旦冬至(さくたんとうじ)です。 
冬至なんですけど、今年は特別に “朔旦” が付くのですね。

 何かといえば、もともと冬至というのは、旧暦11月を含む月に指定されていますが、これが19年おきに、
11月1日(新月)に冬至が重なることがあり、この時を朔旦冬至といって、昔、盛大にお祝いが行われたそうです。

 このブログでは、“立春と冬至”(2014.1.31) や “閏9月と十三夜”(2014.10.7)、 “二十四節気”(2012.3.5)
などに関連記事をアップしています。

 二十四節気の、円形の図を見ると、常に冬至が真上(12時のところ)に書かれていますが、これは、古代には、
冬至を1年の始まりとしていて、近世語で「唐の正月」というと冬至を意味するというのは、中国で冬至を元旦とした
からだそうです。  その名残で、現在でも冬至が暦の基準となっているのだそうです。旧暦(太陰太陽暦)では、
冬至を含む月を11月としていて、19年に1度、11月1日が冬至の日にあたるということなんですね。

 旧暦では、月の満ち欠けで月を決めているため、1(ひと)月が 29.・・日となり、このまま月数を重ねて行くと、
季節とのずれが大きく出てしまうので、3年に1度 閏月 をもうけるということは前にも述べられていますが、
正確には、19年に7回の閏を設定しています。
すなわち復習になりますが、19年あたりで計算しますと、

旧暦: 12(月)×19(年)+7(月)=235(月)     
       29.530589(日/月)×235(月)=
6939.688(日)

新暦:     365,24219(日)×19(年)=6939.602(日)

で、19年で7回の閏月を設定して、季節との調和を取っています。

 また、余談ながら、立春は、旧暦12月~1月の間に設定されますが、約30年に1度、1月1日が立春にあたる
ことがあります。 これを、“朔旦立春” と呼び、昔はこの日も盛大にお祝いしたとのことです。
最近では、1954年、1992年がそうであったのですが、次は2038年といいますから、もう迎えることは無理ですね。 
朔旦冬至は、直近が1995年でして、次が今年2014年で、その次は2033年となりこちらも無理ですね・・。

  冬至の習俗として、ゆず湯に入り、小豆粥を食べ、その他 かぼちゃ(なんきん)などを食べると言われています。
あまり関心がありませんでしたが、今年は一つ、実行してみることにしましょう。 
“木頭ゆず” を少しばかり買ってきました。

            木頭ゆず
                 (ネットより) 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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TTP  (bon)

2014-12-19 | 日々雑感、散策、旅行

 12日に、パキスタンで、学校襲撃事件が起きました。 犠牲者は132人の生徒と9人の職員の計141が死亡し、
121人余りがけがをした。

 自爆ベストや自動小銃、手投げ弾などで武装したテロリスト7人が校内に侵入後、講堂で応急処置の仕方を学んでいた
生徒たちを
標的にし、無差別に発砲したという。犠牲者の多くはこの時に講堂にいた生徒(14歳)だという。
軍は約15分後に現場に到着し、校内から約960人の生徒らを救出した。テロリスト7人は全員死亡。
 “武装組織(TTP)はこの襲撃について犯行を認めており、襲撃は北ワジリスタン地区等への軍の作戦に対する
報復だとしている” という。 金品の要求はなく、人質なども取らず、殺人が目的であったという。     

                        避難する生徒たち
                    (ネット毎日より)
 

 何とも、痛ましい悲しい事件がまた起きました。 このような無差別殺戮を行う暴徒の意識はどのようなものなのか、
全く想像もつきません。 どのような神経でこのような行為がとれるのか? 
報復するために、何の関係もない無抵抗の若い生徒を標的にする、卑劣としか言いようのないその神経は、
どこから来るのか? それが組織として行動されるための一人一人の人間の意識が、なぜそのような方向に統一
されてしまうのでしょうか? 誰か一人でも、そのような行為に対して疑問を持つ人はいないのか? いや、
たとえいたとしても、集団行為の中に埋没し、無判断に狂気化してしまうのかもしれません。 
 この事件だけではありません。 世界中のあちらこちらで、数知れず発生しているのですね。 今も・・。
これほどの、テロでなくても、身近な、振り込め詐欺や危険ドラッグ販売も、後を絶たないばかりか、年々上昇し続けて
いるというから、心の良くない、つまりは残虐な心を持つ人々がたくさんいるってことなんですね。
今日まで、これほど平和・博愛が叫ばれてきたというのに・・。

 TTPというのは、Tehrik-i-Taliban Pakistanの略で、パキスタンのタリバン運動という意味だそうです。
2007年にバイトゥッラー・マフスードを最高指導者としてパキスタン国内の13のタリバン系組織が合体して発足した 
イスラム主義武装組織で、傘下に多くの武装集団(兵力推計35,000人)を抱えているといわれています。

 今年、ノーベル平和賞に輝いた少女、マララ・ユサフザイさんは、この地で、TTPから脅迫を受けながらも教育を
受けられる権利を訴えていましたが、TTPにより2012年10月銃弾を受け殺害を企てられたのでした。 
そのマララさんは、16日、この事件に対して、「こんな無意味で冷酷なテロ行為があり、とてもつらいです。
罪のない子供たちにとって、学校が怖い思いをする場所であっていいはずがありません。私たちは絶対に負けません」
との声明を出したそです。

 TTPは、もともと、アフガニスタン紛争 (2001年-)により、逃げ込んだ非パキスタン人(主にアラブ人や中央アジア出身者)に対して2002年にパキスタン軍が行った掃討作戦がそのルーツであるといわれ、2010年にアメリカは国際テロ組織に、2011年にはイギリスもテロリスト集団に指定しその活動を禁じています。 

しかし、その後も民兵拉致事件が発生(21人死亡)したり、登山のためのベースキャンプを武装集団が襲撃して
外国人登山客10人が死亡するなど犯行を続けており、現在まで、各地で衝突が絶えていないという。

 この地域だけではありません。中東の国々も戦闘が絶えませんし、アフリカその他もいまだ不安定要素が充満して
いるわけで、この事態を真面目にフォローしていれば、それこそ落ち込んで心を病んでしまいそうです。

 

気分を変えて、やや不謹慎ですが、“P” と “T” からなる、3文字の組み合わせは、全部で8つありますが、
その内最近話題となっている言葉などを挙げてみますと、
上で述べましたTTPの他、TPP、PTT、PTP、PPTなどがあります。

TPPは、良く知られる環太平洋経済連携協定(Trans-Pacific Partnership)で、最終協議の行方が気になるところですが、今回の衆院選圧勝を受け、国内農政改革に追い風となるか注目されています。 

PTT
は、Postal Telephone and Telegraphの略で、郵便電信電話主管庁を表していました。フランスPTTのように、しかし、今は民営化されて、フランス・テレコム。

PTPは、Press through packの略で、薬の包装方法で、錠剤の表面を押すことで薬が出てくる・・あれですね。

PPT、これは、パソコンで作図したりする時のソフト。マイクロソフト・パワー・ポイントですね。 この他、PPTには、
Parts per trillionの意もあって、1兆分のいくつ という時の単位に使われています。たとえば、ppmなど。

 こんなことを言っていても、ちっとも気が晴れて来ません・・。

 

 

 

 

 

 

 

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歳の市  (bon)

2014-12-17 | 日々雑感、散策、旅行

 浅草寺のご縁日は、毎月18日ですが、特に12月のご縁日、“納めの観音” は一年の締めくくりとして、
多くの参拝者が訪れるといいます。

  江戸時代、12月17・18日に正月用品や縁起物を売る店が境内に集まり 「歳の市」 として、それらを買い求める
人々でたいそう賑わった、江戸随一のとしてその名が知れ渡っていました。
ネットによれば、“武家や大店は、家来や奉公人に用心籠や長持ちをかつがせ、大挙して浅草にくり込み、
毎年きまった店で買い、帰りには料理屋へ寄って威勢をつけるのが、見得の様にもてはやされた様です。”
とあり、往時が偲ばれます。

 このブログでも、2012.12.18の記事 “納めの観音” で取り上げて、観音から派生して、西国33か所観音霊場めぐり
などに話が飛んでいますが、現在ではこの “納めの観音ご縁日” の前後も含め、12月17~19日に
羽子板市” として境内に数十軒の羽子板の露店が軒を連ねています。 威勢良い掛け声が飛び交い、
ちょっとしたお祭りの雰囲気がありますね。 
しかし、この羽子板も今や、いにしえの懐かしいものに近く、最近では、お正月でも、羽を突いて遊ぶ人は
あまり見かけないですよね。

            羽子板市
                  (浅草寺HPより)


 浅草寺は、年中いろんな行事があり、また、観光名所としても名が知れていて、いつも大勢の人で賑わっています。
外国人の観光客も増えて、仲見世あたりは連日の賑わいを見せていますが、その昔、大繁栄を見せた浅草六区の
映画街は、今は人通りも少なく、寂しく侘しい雰囲気を感じます。 時代の流れですね。

 今年5月には、高校の同期会を初めて東京で開催し、50人くらいがホテルでパーティをした翌日、スカイツリーを巡って
ここ浅草寺もコースになり、また新鮮な楽しみがありました。

 浅草寺といえば、11月には、“お酉さま” といって、酉の市が現在も賑わっていますが、これは、関西の 
“えべっさん” に似た市が出るのですね。 関東では、11月の酉の日を、一の酉、二の酉などと呼んで、たまに
三の酉があったりしますが、現在でも、水商売関連では、語り継がれているようです。 
また、7月には、“ほおづき市” もありますね。 現在でも、小さめの鉢に、橙色のほおづきが鈴なりになったのを
買って行く人がいます。 あと、下谷の あさがお市 なども知られています。 
私は、いずれも買い求めたことはありませんが、それぞれの市をひやかしたことがあり、それはそれで一つの
風情を感じたのでした。

 

 昨夜あたりから、日本列島は二つの低気圧が急速に発達して北上し、北日本ではまるで台風のような強風に
雪が混じり、大変な被害が出ているとか・・。 年末を控えて、これまでにはない程の全国的な荒れたお天気は、
さながら週始めの選挙状態に怒りを発しているのでしょうか?

 

                ベランダに咲いていました。(侘助です。)
                     
                                       今年はたくさん蕾がついています。 

 

 

 

 

 

 

 

 

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義士祭  (bon)

2014-12-15 | 日々雑感、散策、旅行

 昨日、12月14日(日)は、全国各地で、赤穂義士祭が行われたそうです。

 折しも、今年は、衆議院選挙の投票日でした。 
なぜ解散するか? などという声も聞かれますが、流れを変えて、強い支持を背景に、信任型の選挙に仕立て上げた
高度な戦術によるものと思います。 この戦術は見事あたり、結果は、与党の更なる増加を得て、勇躍、今後の政策を
推進することでしょう。 投票率は、戦後最低の52%程度と推定されています。

 不満もありますが、もし、このようにならなず、与党が惨敗の結果となり、日本列島が大きく混乱の渦に巻き込まれる
結果を想像すれば、やはりそのようにならずに、さし向きの平穏な年の瀬を迎えることに安堵することとなるのでしょう。 
戦術といえば、もう一つ、共産の姿が挙げられるのでは、と思います。 選挙期間中のテレビ(政見放送番組)で、
共産党首の演説がかなり多くの時間流れ、テレビを付けたままにしていると、何度も同じ顔と演説が流れてきたような
感じでした。 演説の中身も、実に分かり易い庶民の味方が語られていました。  比例選重視のこの結果は、
同党の解散前の議席数2.5倍以上の議席確保となりました。

 2大政党・・などのバランスは、当面望めそうもありません。十二分に自立バランスを保った政策をお願いするばかりです。

 今から約300年前のこの日、雪の中に起きた、赤穂義士たちによる大きな事件がありました。
主君浅野内匠頭の無念を晴らすため1年9ヶ月もの歳月を費やし、見事本懐を遂げたといわれる討ち入りの日ですね。
英雄たちのひたむきなまでの忠誠心は、今もなお国民的ロマンとして受け継がれているのですね。
この日を記念して、全国各地で 「義士祭」 が開催されていますが、今年111回を迎える本家本元の「赤穂義士祭」は
赤穂市最大のイベントとして盛大に開催されたそうです。

 義士祭(赤穂市HPより)               泉岳寺での義士祭(泉岳寺HPより)
          
 

 衆院選挙と同一日とあって、赤穂市は、JR播州赤穂駅から、赤穂城までの目抜き通りの1km余りは、
交通規制が行われ、市の広報でも “義士祭に参加の方は、期日前投票を” と呼びかけていました。
 忠臣蔵パレードでは、俳優松平健が、義士行列に大石内蔵助役で2年連続参加し、パレードの実況・司会は
浜村淳があたったそうです。 赤穂城の光の演出にプロジェクションマッピングが初登場するなど、大掛かりな
ものであるようです。

 東京で、赤穂義士といえば、港区の泉岳寺が浮かびます。両側には四十七士のお墓があり、突き当りに、
大石内蔵助のお墓があります。 一面お線香の煙が立ち込めています。 
また、築地界隈に、浅野家上屋敷があり、浅野長矩は、1667年にここで生まれたとありました。

 20年ほど前、映像関係の仕事をしていた折、テレビ朝日に招かれて、社屋内の旧毛利庭園で、お花見をしました。
放送関係、映像関係の人達が大勢参加されていましたが、この日特別に寒かったのを覚えています。紐で引っ張ると
燗が出来るカップ型のお酒を手にして温めながら震えていたのを覚えています。 
この、毛利庭園は、毛利家があったところで、赤穂浪士 前原伊助ら4名が預けられ、1年余り静かに暮らした後、
元禄16年(1703年)2月4日に切腹の命が下りこの地で果てたとありました。

 

 昨日はこんな一日で、それでも、夜遅くまで、テレビの選挙速報を見入っていたのでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

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クリスマスコンサート  (bon)

2014-12-13 | 日々雑感、散策、旅行

 時季らしく、昨日夕、クリスマスコンサートに行って来ました。
夕方の道は例年より寒い感じでしたが、会場のルーテル市ヶ谷センターホールは、少なめのイルミネーション(青色)が
とてもきれいでした。 
やや小ぶりのホールは、音響効果がとてもよく、久しぶりに楽しいコンサートでした。

 主催は、“こもれび合唱団” という市民の皆さんがやっている混声合唱団ですが、指導・指揮者には、
幅広く活動されている 久保田洋氏 が当たられ、歴史もあり、格調高い合唱団です。  私も、このコンサートには
これまでも何度か訪問しています。
今回も、プロ・ソリスト4人(メゾソプラノ、アルト、テノール、バス)を交えた素晴らしい合唱でしたが、さらに、
プロ室内合奏団(ヴァイオリン×2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、フルート、オーボエ、ピアノ/オルガン)との共演で、
随所に楽しい演出も加わって大変高尚な響きとともに、曲目の流れるような甘美な旋律にひと時、ステージに
引き込まれてしまいました。

 プログラムは3部構成で、第1部は美しい―ハーモニーの数々で導入され、第2部のクリスマス物語では、
7曲を盛り上げ、第3部は、がらりと趣向を変えたカラフルな衣装、サンタ姿のナレーター(団員・バス)とともに、
見事な演出で会場を堪能させました。 
更に感動的だったのは、各部の始まりと終わりにありました。室内合奏団が静かにメロディーを奏でる中を
合唱団が静かに入場し、また、退場の時もこのような形がとられていて、なんとも憎らしい程の演出でした。

ソリストの、絶妙なハーモニーは、まだ耳に残っている感じです。とくに、若いバスの低く響く歌声は感動的でした。

 アンコール2曲目には、お馴染み “きよしこの夜” が流れ、途中から、指揮者から突然、客席参加も促され、
会場全体の響きとなり素晴らしいエンディングとなりました。

               プログラム
                    


 

 プログラムの最後にも組まれていましたが、こちらはお馴染みのビング・クロスビーで・・

 

 

 

 

 

 

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マッサン  (bon)

2014-12-11 | 日々雑感、散策、旅行

 朝ドラ(NHK)は、山崎のウイスキー工場が完成し、いよいよ佳境に入ってきました。 
嫁さんのエリーも可愛い仕草で好評ですね。

 ご存知のように、現在、マッサンがいるのは、寿屋(サントリー)ですが、この後、マッサンこと竹鶴政孝は、
北海道余市に移り、後のニッカウイスキーを設立するのですね。
 このくだりを、再度簡単に紐解いてみながら、いつものH氏からのネット配信記事を合わせて、ここにアップしたいと思いました。

  寿屋でウイスキー製造に従事していた竹鶴政孝は、破格の待遇でしたが、品質にこだわり、会社方針に必ずしも
合わず、
よりスコットランドに近い気候の北海道で、よりよいウイスキー作りをするために退社し、資本を集めて
北海道余市で
創業したのでした。 この時の筆頭株主は、加賀証券社長の加賀正太郎という人ですが、社内では
“御主人様” と
呼ばれ、創業者の竹鶴は専務と呼ばれていたそうです。

 時に、1934年(昭和9年)、社名を「大日本果汁株式会社」として設立されました。 ウイスキーは製造開始から
出荷まで数年かかるため、 最初期は余市周辺の特産品であったリンゴを原料に、リンゴジュースを製造し、
“日果リンゴジュース” として販売されたが、高価な果汁100%ジュースしか出荷しなかったため、あまり売れなかった
そうです。

 1940年(昭和15年)にようやくウイスキーの出荷を開始しましたが、商品名 “日果” をカタカナにして、
“ニッカウヰスキー” と名づけられました。 後にこれが社名へと発展するのですね。
3年後には、マッサンは社長に就任します。

 1954年(昭和29年)には、当初の筆頭株主ほか主要株主は、ご主人様の死後の株券の散逸を防ぐために
全株式を朝日麦酒に売却し、ニッカは朝日麦酒グループ入りすることになります。そして、2001年(平成13年)、
筆頭株主のアサヒビール株式会社が全株式を取得して完全子会社となりました。

 前置きが長すぎましたが、人物などの詳細内容について、H氏からの記事を以下に記載します。

*******************************

 「余市が生んだスコットランドの原風景」   柴崎 信三(ジャーナリスト)
                                                               Voice 2014年12月号 p121-130

 【要旨】2014年秋から放送が始まったNHK連続テレビ小説「マッサン」は、史上初の外国人ヒロインなどの話題も集め、
好調な視聴率を記録している。
このドラマは事実に基づくフィクションであり、主人公とヒロインのモデルは、
ニッカウヰスキー創業者の竹鶴政孝氏とその妻・リタである。 本記事は、竹鶴夫妻が移り住み、国産本格
モルトウイスキーづくりの拠点とした北海道・
余市を訪ね、政孝氏(マッサン)のスコットランド留学からの二人の生涯を辿る。
余市とスコットランドという遠く離れた地が、その風土とウイスキー
という共通項でつながる。また、それは竹鶴夫妻の
異文化を乗り越えた絆と
も同期するものだ。
筆者は、日本経済新聞社文化部長、論説委員などを務め
たジャーナリスト。

  ------------------------------------------------------------

  英国からの独立か帰属かをめぐって行なわれた先のスコットランドの住民投票は、あらためて国家が民族や風土との
深い関わりのなかにあることをわ
れわれに問いかけた。

  1世紀近く前、日本から、ウイスキーという異郷の酒の蒸溜技術を学ぶために一人の男が、遠くスコットランドに向けて
旅立つ。そこで結ばれた英国
人女性を伴って帰国した男は、北海道余市の地を選んで生産の拠点とし、
い試行錯誤を経て、英国と同じ製法で本格モルトウイスキーを初めてこの国で造り上げた。「キルン塔」と呼ばれる
深紅の三角屋根が軒を連ねた「ニッ
カウヰスキー余市蒸溜所」のエキゾチックな風景は、スコットランドの風土のなかに
生まれたウイスキーが遠い異郷の北辺の地に種を蒔いて花開き、も
う一つの故郷を生んだ証しにほかならない。

  北海道西南部、日本海に突き出した積丹半島の付け根にある余市。人口およそ2万人を抱えた小さな町である。
寒冷であっても湿潤な気候は、モルト
ウイスキーの故郷であるスコットランドのハイランド地方とよく似ている。
マッサンこと竹鶴政孝が、留学先のスコットランドで出会った妻、リタを伴ってここに本格ウイスキー造りの城を築いた。
ウイスキーを通してその余市が
スコットランドとの縁を結び、異文化の結晶ともいうべきモルトウイスキーをこの国に
もたらしたのは世界にも例がない。明治維新以来、「脱亜入欧」をスローガンに日本が欧米列強に追いつこうという時代に、一人の日本人が異郷に結んだ夢は、美しい異国的な風景となってこの地に息づいている。

  大阪の摂津酒造に勤める24歳の技術者、竹鶴政孝が日本を発ち、海路米国経由で英国スコットランドのグラスゴーに
着いたのは1918(大正7)年の暮
れである。留学は社命だったが、ウイスキー造りを学びたいと自ら強く望んだ結果で
あった。特段の紹介状や伝手はなかった。ウイスキーの蒸溜技術書
を著した英国人学者を訪ねて教えを請い、
地図を片手に現地の蒸溜所を探り
当てて技術者に「実習」を頼み込む。

  東洋の果てからやってきた一青年がこの地に無難に迎えられたのは、それなりの時代背景がある。日英同盟の
下で両国の親密な関係が結ばれてすでに
16年が経過していた。5年後には同盟は失効されるが、日本はそれまで
この
国から多くのお雇い外国人を迎えて近代的な制度や技術の指南を仰いできた。竹鶴の留学の拠点となった
グラスゴー大学には工部大学校(現東京大学工学
部)で教鞭を執ったことのあるヘンリー・ダイアーがいた。
日本における西
洋式技術教育の確立と、日英関係に貢献した英国人技師で、その存在も竹鶴が地元との人脈をつなぐ
大きな力となったようだ。

  ウイスキーの語源はゲール語で「命の水」を意味する。るつぼに入れた大麦などの発酵液がたまたま強い
アルコール度をもつ液体となって蒸溜酒が生
み出される技術は、古くケルト文明にまで遡るともいわれる。
それがスコッ
トランドに伝えられて、文字どおりの「地酒」として独特の生産技術と品質を育んだ。かつて独立王国で
あったスコットランドが18世紀初めに大英帝国
に組み込まれて以降、この地域のウイスキーに夥しい密造や密輸が
広がった
のは、この酒がスコットランドの民族と文化を象徴する誇りであったことの裏返しであったろう。

  異郷の経験を重ねるなかで、竹鶴がのちに余市にモルトウイスキーの《城》を成すことに踏み切らせたのが、
のちに結ばれた妻、ジェシー・ロバータ・
カウン、リタの愛称をもつ地元スコットランドの女性との出会いであった。
リタは竹鶴が学んだグラスゴー大学で出会った医学生エラの姉である。グラスゴー近郊のカーカンテロフの大きな
医院の娘で、弟に柔道を習わせようと、
竹鶴を家庭へ招いたのをきっかけに家族ぐるみの付き合いになった。 

 かつて第一次大戦に出征した婚約者を失っているリタは、心のなかに寄る辺のない寂しさを抱えていた。
目の前に現れたこの東洋の青年の好もしい率
直さとウイスキーに懸ける真摯な情熱が次第にそれを埋めていき、
二人は将
来を誓う関係になっていった。下宿人として住み着いていた竹鶴の結婚申し込みに対し、リタのなかには
ある決意が生まれていた。「あなたの夢は、日
本で本物のウイスキーを造ることなのでしょう。私はそのお手伝いがしたいの」

  リタとともに竹鶴が祖国へ戻ったのは1920(大正9)年の11月である。しかし、碧眼の妻を伴って摂津酒造に復帰した
洋行帰りの竹鶴を待っていたの
は、本格ウイスキーを受け入れる余力のない日本の市場の現実だった。
せっ
かく培ってきた本格ウイスキーを手がける場面は巡ってこない。途方に暮れる竹鶴に手を差し伸べたのは、
のちにライバルとなるサントリーの前身の寿
屋の創案者、鳥井信治郎である。

  蒸溜所の建設地として、鳥井が望んだ「消費地に近いこと」などから竹鶴は京都・山崎を選んで建設に着手した。
ここでようやく日本初の本格ウイス
キー「サントリーウイスキー白札」を造り上げる。しかし、このサントリーでの
ウイスキー
造りは新設したビール工場長との兼務などもあって、必ずしも竹鶴を満足させなかった。かくして、
リタと共に温め続けてきた
理想とする蒸溜所を、自力で新たに北海道の余市に建設するという計画が具体化していく。

 スコットランドで深めた「風の味のするウイスキーをつくらなければならない」という思いが、この地に向かわせた。
若い日にリタと出会ったスコッ
トランドと重なる余市の自然や風土は「北はウイスキーの故郷である」という確信を
竹鶴のなかに育て、二人の新しい故郷がそこに生まれていくのである。

  余市で竹鶴が「大日本果汁株式会社」を立ち上げたのは、日本が軍国主義の坂道を上り始めた
1934(昭和9)年のことである。 石造りの蒸溜所に竹鶴
が設置したポットスチルと呼ばれる蒸溜装置は、
かつてロングモーン蒸溜所
で実習したときのものをモデルに苦心して再現した。余市の石炭直火蒸溜は、
いまはスコットランドにも見られない伝統的な設備である。

  ニッカ余市工場(ニッカHPより)
              


  ニッカとして初めてのウイスキーが余市から生まれたのは、開戦前夜の1940(昭和15)年のことである。
日本に帰化したリタは、起業に奔走する夫を支
えて内助に尽くす傍ら、日本語と日本の生活習慣に馴染んで「日本人」に
ろうと心に決めていた。関西では英語教師を務め、養子に迎えた子供や孫たちと交わりながら家庭を守った。

 日本が米英と戦端を開いて祖国が敵国となってからリタは、世間の外国人排斥の空気に加えて特高警察の監視を
受ける。しかしリタは日本にとどまり、
時折は孫たちと余市浜の海岸へ赴き、故郷のスコットランドの海岸に似た風景を
眺めながら異郷の孤独な心を癒やした。

  余市を拠点にしたニッカウヰスキーは戦後、転機を迎えた。日本の復興とともに消費が広がり、日本の消費者にも
嗜好の多様化が進んできたからであ
る。竹鶴にとって、次はトウモロコシなど多様な原料をブレンドして造る
レーンウイスキーの製造が、モルトウイスキーの先に思い描いてきたもう一つの目標であった。モルトウイスキーに
グレーンウイスキーをブレンドした、
新しい商品が市場を大きく広げることになったのである。

  いま、余市蒸溜所を望む丘の上の墓に二人は眠る。リタの没後19年を経て竹鶴は85歳の生涯を閉じた。

 コメント: 竹鶴夫妻の物語から改めて感じさせられるのは、文化を生むためには「場所」と「人の心」が、ベストな
マッチングをしブレンドされなけ
ればならない、ということ。おそらくリタの“覚悟”が、そしてマッサンの“信念” が
なければ、日本初の本格ウイスキーも、余市の異国情緒あふれる
風景も生まれなかった。
心、それも “強い” 心が、たくさんの人の心をつか
むものを作りだすのだ。
                                          Copyright:株式会社情報工場

 

 

 

 

 

 

 

 

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中等教育学校  (bon)

2014-12-09 | 日々雑感、散策、旅行

 この時期に、高校進学に関して進路決定の面談があったらしい。 
下の孫娘が、来年高校受験なのでこんな話が入ってきました。志望していたところにうまく入れそうだということで、
どれどれ、どんな学校なのか、制服はどんなのか? など、興味本位もいいところで、ネット検索したりしていました。

 ネットでは、全国の学校の最新の “偏差値ランキング” なるものがあり、名前の知る学校をいろいろと見てみたり・・
全国で公私含めて4308校ある中で、トップから、灘、開成、御茶ノ水付属、筑波大付属、東大寺学園、慶應女子、
茨木、大阪教育大付属、北野、ラ・サール・・と続いています。 さすがに名にし負う高校がずらりと並んでいます。
私の母校はどのくらいの位置にいるか? 私らの頃は偏差値なんてなかったですが、ちょっと探してみましたら、
なんと全国で600番目くらいにありました。 思い当たる学校を、次々と見て行くうち、昔、住んでいた文京区(茗荷谷近く)の
校区に、小石川高校、竹早高校・・があって、どちらも有名校で、偏差値でいうなら何番目くらいか? 
これも全く関係はありませんが、見てみましたら、竹早は257番目にありましたが、小石川高校が見当たりませんでした。

 そんなはずはないと、あれこれ探してみましたが、どこにも見当たらず、とうとう、“小石川高校” で、検索してみました。 

 小石川高校は2011年に閉校していました。 
それで、この小石川高等学校を母体として2006年に東京都立小石川中等教育学校が開校していて、
都立中高一貫制共学校として中等教育学校に完全移行していたのでした。 
そういえば、中高一貫校が出来るなどと大分前に聞いたことがあったことを思い出しましたが、まさかこんなことに
なっているとは・・、ひょんなことから判明したのでした。

 ネットでは、『義務教育として行われる普通教育(前期中等教育)並びに高度な普通教育(後期中等教育)及び
専門教育を一貫して施すことを目的とする]、中学校と高等学校を合わせた年限に相当する6年間の一貫教育を行う
学校として、1998年(平成10年)6月の学校教育法改正により、新たに定められた学校種である。』 とあります。
国立4校、公立25校、私立13校あり、これからも増設される予定であるそうです。

文部科学省HPでは、導入の趣旨として、
 『従来の中学校・高等学校の制度に加えて,生徒や保護者が6年間の一貫した教育課程や学習環境の下で
学ぶ機会をも選択できるようにすることにより,中等教育の一層の多様化を推進し,生徒一人一人の個性を
より重視した教育の実現を目指すものとして,中央教育審議会第二次答申(平成9年6月)の提言を受けて,
「学校教育法等の一部を改正する法律」が平成10年6月に成立し,平成11年4月より,中高一貫教育を選択的に
導入することが可能となりました。』 とありました。

 わざわざこのように改訂して実施して行くのですから、良いことなのでしょうが、今一つ具体的にどのようになるのかは、
この宣言からでは理解できないでいます。
何がどのように改善され、子供たちが伸び伸びと成長し、新しい社会の期待すべき塊(集団)を形成して行くのか、
肝心の部分に触れられていないように思いました。 この制度だけではなく、先生方、PTAのあり方、父兄のあり方・・
そんなところが気になっていたのですから・・。


閉校式に立ち会う、これまでの卒業生の皆さんの気持ちは・・

 

 

 

 

 

 

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さざんか  (bon)

2014-12-07 | 花鳥風月

 この時期、街のあちらこちらに沢山咲いている、あのさざんかです。

ベランダの さざんか も、しばらく前からたくさん咲いています。 ベランダですからどれも鉢植えなのですが、
ピンクが1、赤が6鉢あります。 例年、ピンクが咲いてしばら~くして、赤が咲いて来て、冬中 花のない時に頑張って
くれていますが、 今年は、どういう訳か赤が先に開いて、ピンクが後になりちょうど今頃がどちらも見ごろで競演しています。
この逆転は、10年以上の出来事です。    ありふれた話題で恐縮です。

 サザンカ(学名: Camellia sasanqua)は、ツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹で、日本が原産です。
秋から冬にかけて咲きます。  漢字で “山茶花” と書くこともありますが、これは中国語でツバキ類一般を指す 
“山茶” に由来しているそうです。 

   (ベランダより)


花言葉は、困難に打ち勝つ、ひたむきさ、ひたむきな愛、愛嬌などが挙げられていました。

この花は、原産地は日本ですが、江戸時代に長崎の出島のオランダ商館に来ていた医師を通じてヨーロッパに
持ち帰って広がったとありました。

          数日前にパチリトしましたピンク(アップ)です。
                  

 

 ところで、余計なことながら、さざんか と ツバキはよく似ていますが、この違いは、大きく次の3つあたりを
気を付けてみればわかりますね。

 ・花の形(中央部)が違う
 咲いている時は、ツバキは雄しべや花弁の下部が合生していて筒のようになっていますが、さざんかは、
それの先が広がっている。

・花の散り方が違う
 ツバキが花ごといっぺんに落ちるのに比べて、サザンカは花びらが散るようにバラバラに落ちる。

・葉の違い
 太陽に透かすと、葉脈が白いのがツバキで、黒いのがサザンカだそうです。 また、さざんかの葉にはぎざぎざが
目立ちますが、ツバキの葉にはぎざぎざがない。 さらに、
さざんかの葉は、小形で,葉柄から主脈にかけて褐色の繊毛が
密生しているのに比して、
ツバキの葉は大きく,ほとんど無毛でつるっとしている。
 

 ついでに、

 ビニールポッとのツタンカーメンえんどうです。          ローズマリー
   


   バラ1輪です。 四季咲きですから、何度も咲いていますが、恐らく今年最後の花でしょう。
                   

 

 ところで、今日は、二十四節気の “大雪” です。 “たいせつ” です。 雪が激しく降り始めるころとありますが、
北日本、北陸方面では早や、大雪(おおゆき)に見舞われて、交通渋滞や死者も出しているとか・・
今年は、少し荒れ気味でしょうか・・?


良く知られた “さざんかの歌” 三題です。こんな日は、ちょっとグラスを傾けて・・

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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地方創成は大丈夫か?

2014-12-05 | 日々雑感、散策、旅行

 今回の衆議院選挙公約で掲げる主要テーマである、地方活性化に関連して、いつもの、ネット配信していただいている
H氏からの記事に、この “地方創成” に大きな壁のあることの取材記事がありました。

自民党は、経済再生と財政再建を両立させながら経済好循環の更なる拡大を公約に掲げ、併せて “地方創成” に
力を入れ、全国的に豊さを実感してもらえるような国つくりに邁進して行きたい・・と大きく旗を挙げています。

地方の活性化については、古くから叫ばれてきたことであり、そのむずかしさは一筋縄では行かないでしょうけれど、
今回は、地方創成のための担当大臣を設置して強力に取り組む・・としています。 これまでのように、国から地方への
ばらまきや指示ではなく、地方から国への提案により支援するといっています。選挙結果もこの方向は変わらないでしょう。

 このブログでも、これに関連する記事を(断片的ですが)いくつかアップしてきました。
たとえば、直近から、“神山プロジェクト”(2014.5.11)、“人口ブラックホール”(2914.4.19)、“婚学”(2014.3.7)など、
地方も勿論ですが、日本全体の人口が2050年頃には1億人を切り、高齢化率は40%近くになると推計されていたりして、
それこそ危機的状態であるといえるでしょう。5月に発表された「日本創成会議」(座長:増田寛也元総務省)によれば、
2040年には、20~39歳の女性が、10年より半分以下に減少し多くの自治体が消滅する可能性があると指摘しています。

 

  この記事で言うところの、“壁” は、結局は、どのような形で、若者を地方に呼べるか? ということに尽きるのでは
ないかと思うのです。 つまり、その地方にかかわりのない若者が、そこに来て頑張って定住する・・という図式は、
どのようにして成り立つのか? ということなんだと思うのです。 何か良いビジネスがあって、そこで頑張れば、
良い生活?が出来るから・・ である場合、地方あるいは地方の人々との融合が、うまく取れるのだろうか?
疑念が残ります。 最近の報道では、岐阜県大垣市の “ソフトピアジャパン” に、IT関連の若者たちが集まって
賑わいを見せていると報道されています。 その昔、20年ほど前に、この施設がオープンする時仕事で関連しましたが、
そのコンセプトがようやく実を結ぶ方向であるということでうれしい限りです。

 話が逸れましたが、他県から来るそれらの若者たちは、地方そのものではなく、事業が儲かるあるいは やり易い 
ことに真意があるからであり、本当にその地域に馴染めるのか?  
ま、事業が成功すれば、税金が入る・・からいいのかも知れません。 しかし、その地域の出身者であれば、
そのうちの幾人かは、一念発起して、一肌脱ぐ若者が出てくるかもしれません。 彼らは、自身の出身地で、愛着もあり
その意味から真にその地域の活性化がはかれることになるのではないか。
そういう若者を、時間がかかっても、何とか集められないでしょうか?

 前置きが長くなってしまいました。以下に転写させていただきます。コピペで申し訳ありませんが、以下にアップさせていただきます。

*******************************

 「『地方消滅』忘れられた日本人」  葉上 太郎(地方自治ジャーナリスト)
                              文藝春秋 2014年12月号 p116-125

 【要旨】安倍政権の経済政策の国内“現場”における功罪を検証する小特集「アベノミクスの『現場』を見に行く」の一記事。
政府は「地方創生」を高
らかに謳い上げるが、人口減少と高齢化、それに伴う産業や地域文化の衰退などが
歯止めのきかない状況に陥っている「地方」は本当に再生できるのか。
本記事は、徳島県の徳島市や旧木頭村、奈良県野迫川村の現状を、現地を訪れ住民や関係者から話を聞くことで
明らかにしている。本ダイジェストでは
このうち旧木頭村のルポを取り上げた。日本の地方社会ならではの諸問題に
直面しながらも、特産品のユズを活用したビジネスの立ち上げに尽力する人々の姿と、その前に立ちはだかる壁の存在を
リアルに描写している。

  ------------------------------------------------------------

  地方経済の冷え込みが、全国で地方社会を疲弊させている。政府は対策として「地方創生」の担当大臣を置いた。
だが、地方活性化は歴代の自民党政
権が掲げてきた重要施策だ。その結果としての「今」がある以上、少し力を入れた
ぐらいで効果は出るだろうか。私は“消滅の危機”と戦う最前線へ向
かった。

  増田寛也・元総務大臣らのグループが5月、「人口減で896の市区町村が消滅しかねない」とする試算を発表した。
徳島県で最も消滅の危険性が高いと
されたのは、那賀町である。那賀町は05年、5町村の合併でできた。
町域に
は1960年、23,000人を超える人が住んでいたが、今では9,500人に満たない。65歳以上の割合を示す
高齢化率も45%に近い。

 町の最奥部にあるのは旧木頭村だ。面積の95%を山林が占めている。木頭は全国に知られた村だった。
国が計画したダム建設を、激しい反対運動の末
に撤回させたからだ。確かにダムからは守った。しかし過疎化と高齢化で
びるとされている。

 高の瀬峡                       四季美谷温泉
         
                             (写真は、いずれも(ゆずも含めて)那賀町HPから転写しました。) 


  木頭を東西に貫いて流れる那賀川で、細川内ダムの計画が表面化したのは71年のことだ。予定地は村の中央部。
「ダムができれば村の生活や産業は破
壊される」として、役場が先頭に立って反対運動を展開した。
村長が反対の
姿勢を貫き、日本の社会全体にも公共事業見直しの機運が出ていたため、国は建設を断念した。
 その後の村は静まり返った。国は「ダムができれば水没して無駄になる」と木頭への投資を長年控えてきたのだが、
代償となるような振興策は講じな
かった。

  65年に4,100人以上だった旧木頭村の人口は、この8月末時点で1,365人にまで減った。高齢化率は51.43%。
住民の半数以上が「高齢者」である。

  だが、木頭にはユズがあった。
中国原産のユズが、いつ木頭に根付いたのかは定かでない。古くから家や畑の隅に植えられ、果汁を絞って酢にしてきた。

                木頭ゆず
                    


 60年、村内の農家のグループが「酢にしてしまうのではなく、生果で売ったらどうか」と樹園で栽培を始めた。
大阪市場に出荷すると高値で取り引き
され、「木頭ユズ」がブランド化された。林業が外材に押されて壊滅的になり、
米の減反政策が始まると、棚田がユズ畑に変わっていった。

  この木頭ユズを今、様々な商品に加工して販売しているのが「株式会社きとうむら」である。ダム反対を貫いた村長が
96年、「ダムに頼らない村づく
り」の切り札として設立した第三セクターだった。
 最初は社名も事業内容も異なり、徳島市の豆腐メーカーと提携して「おからケーキ」を製造していた。だが、
商品は売れず、赤字が続いて倒産の危機
に瀕した。そこでユズを核に据えて、社名も「きとうむら」に変え、一から出直した。
役場が保有していた株は大半を住民に譲渡し、住民が経営に責任
を持つようにした。「きとうむら」を起点に
地域通貨「ゆーず」を発行し、
木頭でカネを循環させる仕組みも作った。

  ユズは無農薬栽培にこだわり、果汁や?油、ジャム、マーマレード、味噌など多くの独自商品を開発した。
瓶などを木頭に運び込み、商品を運び出す
のに二重の運賃がかかるという難点があるものの、「高くても、安全で
美味
しいものを」というファンが通信販売で増えていった。
 品質へのこだわりは、海外からも注目された。「和食ブームに乗ってシェフやパティシエの口コミで広まりました。
家庭でもドレッシングやカクテル
用に使われているようです」と取締役の中川公輝さん(51)が説明する。
「イ
タリア、オーストラリア、カナダ、オランダ、南アフリカなどに送りました。忙しすぎて対応できないほどです」 と言う。

  ただし「きとうむら」の経営は厳しい。年間の売り上げは1億円強なので、都市部から働き盛りの人を呼び戻すような
力はない。それどころか80軒以上
あった「きとうむら」への出荷農家は64軒に減った。高齢化で離農する人が増えているのだ。
原発事故も追い打ちを掛けている。福島から遠く離れた企
業でも自然食品は買い控えに遭った。事故以降、2000万~
3000万円も落ちた
売り上げが戻らない。なのに消費税は増税された。今の事業を維持するのに四苦八苦しているのが
実情なのである。

  木頭はIターン者の多い地区だ。「2~3年に一家族」(中川さん)が移ってきて、出身者が流出した後を支えている。
ただ、Iターン者の多くが夢見
るのは「田舎での小さな暮らし」 だ。都市と同じようなビジネスがしたくて来るわけではない。

  田舎で定住者を増やし、産業を興すのは、並大抵なことではない。83歳のユズ農家に会った。「あと何年作れるかな。
この集落は60代以上ばかりだか
ら、そのうち空き家だらけになる。ユズ畑も山に戻るだろうね」

 そんな木頭で「住民を500人増やしたい」と気を吐く人物がいる。IT企業・メディアドゥ(本社・東京)の社長、
藤田恭嗣さん(41)だ。木頭出身の藤
田さんは昨年、郷里にユズ製品の生産販売を行う会社「黄金の村」を設立した。
今秋の収穫期から工場を本格稼働させる。

  藤田さんが事業を始めたのは名古屋の大学に通っていた20歳の時。「無資金でできる事業は携帯電話の販売ぐらいでした」
 普及が始まったばかりの携帯電話は飛ぶように売れた。事業は96年、大学卒業と同時に法人化した。

  27歳の時に事業転換して、ITの世界に飛び込んだ。ところが22億円あった年商は3億円に落ち込んだ。
万策尽きたかと思った時に、インターネットを
通じた音楽配信事業が当たった。その後は電子出版の流通にも乗り出し、
期の年商は80億円を見込む。東証マザーズに上場し、本社を東京に移した。

  事業転換で苦しんでいた時期に、藤田さんは自分の人生について考えた。「20歳までは春、それからは夏、
40歳からは秋、60歳からは死の準備をする
冬」と目標を立て、「秋」には木頭で産業を興して郷里に貢献しようと決めた。
そこで07年、メディアドゥの事業所を木頭に作った。
 「黄金の村」の名は、ダム反対運動のさなかで自殺した父堅太郎さんが温めていた村おこしの案から付けた。
秋になると木頭はユズの実で黄金色に染
まる。そうした地域の資源で住民が豊かになるという意味だ。

  そんな藤田さんにも気になることがある。合併で木頭の人々の意欲が失われたように見えるのだ。「役場のある
旧鷲敷町の人口が多いので、下流の人
に何でも決められてしまう。自立心が薄れ、ダムよりもダメージが大きかった」と話す。
 合併は「高齢化が進む市町村の生き残りのために寄り集まろう」などと政府の音頭取りで行われた。しかし
その実態は逆で、新自治体の周辺部になっ
た町村ほど廃れたとされている。旧木頭村役場の支所も60人ほどいた職員が
10人になり、求心力はない。ダム反対闘争の砦だったのが?のようだ。このような状態で木頭の再興はできるのだろうか。

  日本の「地方」は多かれ少なかれ似たような八方塞がりの中にあるだろう。アベノミクスの番外地だ。そうした番外地が
列島のかなりの面積を占めてい
ることを我々は自覚しているだろうか。

 コメント: 本気で地域に産業を興し、再生を図るためには、現地で汗をかく若年層を増やしていくしかないのだろう。
近年、学生の「体験学習」を積
極的に導入し、それを売りにする大学が増えている。東日本大震災を契機として
地域のボランティア活動の機運も高まっている。しかしながら、農学系
以外の大学では、キャンパスの立地する
地元地域との連携は行うものの、遠
く離れた過疎地の地域おこしの実習などをするケースはさほど多くないのでないか。
グローバル化のために海外での体験学習を行うことも重要だが、もっ
とローカルにも目を向けるべきだろう。
そして、大学のみならず我々国民全
体も、地域のことを常に気を留めておく必要がある。
                                        Copyright:株式会社情報工場

 ご参考  那賀町HPです。

  http://www.town.tokushima-naka.lg.jp/kankoguide/

 

 

 

 

 

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12月最初の飲み会  (bon)

2014-12-03 | 日々雑感、散策、旅行

 カレンダーも、残すところこの1枚となりました。

昨日2日、おりしも有権者にとっては難しい衆院選挙が告示されましたが、寒空の夕方から渋谷に向かいました。

 年に2回、恒例となりました この飲み会は、35~6年前の職場仲間の集まりです。
すでに、会社務めはすべて終了した人も何人かいますが、多くは現役で要職にある人たちばかりです。 
30数年も前に職場を共にしたというだけで、何故にこうも続いて集まれるのか?  同窓会は普通同年代、同級の
集まりですが、 この集まりは年齢に開きがある上、会社組織ですから、上下関係もある、そんな職場の面々としては
むしろ異色といえるかもしれません。
 当時の面々がやっていた仕事は、それこそ全国的に数ある職場の中で唯一の 特異な職場であったせいで
あるのかもしれません。 技術開発、サービス開発を担当する職場ですが、これまで世の中に存在していないIT系の
サービス開発でしたから、既存の改良、効率化等を目的としたインフラ的な技術開発とは違って、利用面や
それが社会に与える(貢献する)影響までを考慮して サービス丸ごとを開発する職場であったことが大きな理由
なのかもしれません。 
新しいこと、自由発想で規制が少ない開発の面白さなどがみんなの体内に浸み込み、未だ残っているのかもしれないと
思うのです。

 昔、共に過ごした皆さんと、今またこのように楽しい時間を過ごせる喜びに、ただただ感謝するばかりです。

              (ベランダのさざんかです。)

 

 

 

 

 

 

 

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