(柱時計が止まるとき)
つげ義春の漫画『初茸狩り』の中に、鄙びた旅館の玄関に掛かっている大きな柱時計の中で、正太という名の少年が眠っている場面がある。
少年の存在の危うさ儚さを暗示する秀逸のひとコマだった。
『初茸狩り』を読んだとき、能代三吉は五十年の歳月をいっぺんに引き戻された。
(おれも子供の頃、柱時計の中に入ったことがある・・・・)
あれは大正末期のことだった。
秋田の旧家に生まれた三吉は、一生拭えない恐怖の事件を体験したのだ。
それは秋も終わりの晴れた日のことだった。
父と母は父方の伯父の通夜に出かけていて、家にはジッちゃんと三吉しかいなかった。
孫に早めの夕飯を食べさせてほっとしていたジッちゃんは、誰かが玄関のガラス戸をコツコツ叩く音に気がついた。
先に風呂も済ませていたジッちゃんは、浴衣の腰紐を結びなおして立って行った。
「誰だ、なんの用だ?」
ジッちゃんは、いぶかしげにガラス戸を透かし見た。
「警察の者だが、先月起こった盗難事件の関係で被害品を調べている。夜分ではあるが、協力願いたい」
刑事を名乗る男が三人、玄関の中に入り込んだ。
「被害品といっても、心当たりの物はなにも・・・・」
「そんなことはあるまい。おまえのところで、訴えの出ている慶長小判らしきものを見かけたという証言も得ておる」
「そっ、そっ、それは・・・・」
ジッちゃんは、虚を衝かれてしどろもどろの返事をした。
確かに代々伝わる小判のコレクションを、村人の誰それに見せて自慢したことがある。
まさかそのことが疑いを呼ぶとは思わなかった。
「うちの小判はご先祖様から預ったもので、疑われるたぐいの物ではないのだが・・・・」
ジッちゃんは、精一杯の抗弁を試みた。
「誰が自分から盗んだなどというものか。訴えがある以上わしらには調べる義務がある。残らずここへ持ってきなさい」
一番目つきの悪い刑事の親玉が、ジッちゃんをせせら笑うように言った。
他の二人は最初から声を発せず、左右からジッちゃんを挟むような体勢で監視していた。
そのとき幼い三吉は、格子戸の桟に掴まって男たちのやり取りを見ていた。
三吉は、ジッちゃんを脅しつけるように語気を強める男が、やたらに右腕を掻くのをぼんやりと眺めていた。
居間との境の格子戸は、長年囲炉裏の火で燻され黒光りしている。
玄関の明かりも薄暗かったから、刑事を名乗る男たちもしばらくは三吉の存在に気がつかなかった。
男たちに言われるままジッちゃんが小判を取りに戻るとき、洟垂れ坊主の姿を眼の端に入れたのだった。
ジッちゃんが朱塗りの文箱を抱えてくると、三人の目が油を塗ったように光った。
「まず、蓋を開けるんだ。指紋が付くので、中の物に触っちゃいかん」
ジッちゃんが文箱の蓋を取ると、鈍く光る十数枚の小判が真綿の間から顔を覗かせた。
「ほう、ずいぶん溜め込んだものだ。よし、これは証拠品としてわしらが預る。いいな?」
有無をいわせぬ物言いだった。
「それは・・・・」ジッちゃんは口ごもった。「・・・・盗まれた小判はどんなものなのか、この場で照合してもらえんですか」
「そう簡単に判別が付くものではない。だから、署に持ち帰って吟味するといっているのだ」
盗品でなければ、すぐに返すから安心しろと、目つきの悪い男はなだめるように言った。
相変わらず右腕を掻きながら、親玉は二人の部下に目配せした。
小判は箱ごと風呂敷に包まれた。
「よし、後日連絡があるまで待つがよい」
目つきの悪い男を先頭に、小判の箱を抱えた男ともう一人が立ち去った。
ジッちゃんはしばらく腰を抜かしたようにしていたが、独り取り残されたのを知るとにわかに不安を感じて膝立ちした。
(預るとは言ったが、書き付け一枚置いていかなかった・・・・)
警察ならば、何かの書類を交付するはずだと気がついた。
(まんまと騙されたのかもしれない)
近所にも知らせて、大急ぎで男たちのあとを追おうと身支度を始めた。
一方、刑事を装って小判を持ち去った犯人たちは、早足で村外れのブナ林まで辿り着き、下草の陰に身を隠した。
他の二人は上手くいったと大喜びだったが、親玉は格子戸の陰からじっと様子を見ていた子供が気になって仕方がなかった。
(たかが洟垂れ小僧に何を怯えるのか・・・・)
ばかばかしさに自分を嘲笑おうとした。
しかし、子供の視線が己の右腕に向けられていたことに気づくと、にわかに落ち着きを失った。
親玉はジャンパーの腕をまくって確かめた。
疥癬で赤黒く爛れた皮膚が二の腕に広がっていた。
掻いてはいけないと思いながら、ジャンパー越しに掻いていたようだ。
無意識のしぐさを見られていたことが、よけいにショックだった。
(まずい・・・・)
引き返して、あの小僧を始末しなければならない。
あのガキを生かしておいては足が付くと思った。
そうして悲劇は起こった。
今しも村人に知らせて追跡しようと準備をしていたジッちゃんと鉢合わせをしたのだ。、
親玉は、コナラの薪でジッちゃんを殴り倒した。
ジッちゃんが納屋の前で殺されるのを、三吉は悲鳴と呻き声で知った。
しばらく静寂があった。
程なく三吉は、ガラス戸をがたつかせる男の影を見た。
「あのガキ、どこへ行きやがった・・・・」玄関先で男の声がする。
ジッちゃんを脅しつけていたときの顔から、底可笑しそうな笑みが消えていた。
このままでは殺される!
怖くて仕方なかったが、必死に隠れ場所を探した。
脚立があったので、大きな柱時計の蓋を開けて、振り子にしがみつこうと思った。
実際にどうしたのかは記憶にない
チックタックと秒を刻んでいた音が止まっていた。
三吉の心臓の音も止まったような気がした。
七時五分前で長針が止まっているのを見た気がする。
あと五分でボーンボーン・・・・と時を告げるはずだった。
柱時計に潜り込もうとしたのなら、親玉はなぜ気づかなかったのか。
犯人の目に、どうして三吉の姿が映らなかったのか。
わずかに閉じ切れなかったガラス蓋の角度で、光が反射したのだろうか。
体温でガラスが曇ったのか。
長じてからは、自分の記憶や隠れおおせた状況にあやふやなものを感じるようになった。
いくら幼児とはいえ、あの柱時計に身を隠すことなど不可能ではないのか。
犯人の目から死角になった原因を考えるより、そもそも柱時計にまつわる現象が幻視であったように想われてきた。
あの部屋には、ジッちゃん用の大きな座布団が置かれていた。
三吉は目つきの悪い親玉が押し入ってきたとき、逃げ場に窮していた。
だから、とっさに座布団の下に隠れたのではなかったか。
いったん隠れようとした柱時計を脳裏に浮かべ、何ものかに念じたような気もする。
(犯人の気配を傍に感じながら、おれはほとんど生きていなかった・・・・)
『初茸狩り』の正太の眠りを羨みながら、三吉は当時の恐怖を反芻した。
柱時計か座布団か、どちらに隠れたにせよ、犯人の目に不可視であった原因は未だに分からない。
つげ義春の漫画に触発されて、封印していた慙愧の念も甦った。
子供の危うさと無邪気さの裂け目。
柱時計は恐怖と懺悔の箱舟・・・・。
(ほんとうは、ジッちゃんの座布団に助けられたのだろうか)
せっぱ詰まった魂が、身体を抜け出て振り子にしがみついたとしても、ジッちゃんに救われたことは間違いない。
能代三吉は、久しく忘れていた涙を流した。
(ジッちゃんは、おれのせいで殺された。・・・・あの男の腕をじっと見たりしなければ、引き返してくることはなかったはずだ)
五十年経っても、身を切り刻むような痛苦の感覚は和らぐことがなかった。
(おわり)
つげ義春の作品を踏み台にし、よくぞ想像を巡らせ、創作したものと感心します。
結果、読者を適当に翻弄させながら、話は落ち着くところに落ち着かせる手腕。
五十年という時空を飛んでいく凄さ。
読んでいるうちに引きずり込まれるというのは、こういう話でしょう。
なお、秋田の旧家育ちが、能代三吉と命名したのも、その巧さにびっくり。
(くりたえいじ)様、丁寧に読んでいただきありがとうございます。
つげ作品には、人を衝き動かすものがあるようです。
「おっかない話」といっていただき、主人公の命名の件とあわせて大変うれしく思いました。
50年前の田舎での記憶と時計の中に隠れた自分・・・その重なりがフォークロア的な感覚を醸して、独特の怖さを呼びます。
時計の中という時空が何か不思議な閉塞感と、しかし現在につながる時間の連続性を。
そこに少年の視線の悲劇と後悔・・・とくればやはりこれは紛れもなく詩人の小説ですよ。
知恵熱おやじ
(旭丘光志)様、ご指摘の<現在につながる時間の連続性>という部分、ほとんど意識していませんでした。
柱時計の中という不思議な空間ばかり頭にありまして、なるほどそういうことだったのかと、あらためて振り返っているところです。
ありがとうございました。