少年たちにとって、マツ子の存在は眩しすぎるものだった。好奇心を最大に膨らませながら、戸惑い、戸惑いの後に排斥のポーズをとった。
学校が終わって家に帰るマツ子を追って、男子生徒たちは後方から囃し立てた。
「メンス、オンス、メンス、オンス」
二組に分かれて、単純な掛け合いを繰り返すだけなのだが、しばらくすると皆気が滅入ったようになって、声が小さくなった。
喜市も、将太や三郎とともに村はずれの雑木林まで付いて行き、マツ子が振り返って駆け出すのを見送ったあと、それが目的だったようにクヌギの大木に近づいて、虫が舐めた樹液の跡を確認する。
木肌に残る茶色のおがくずが、夜通し働いた昆虫たちの宴のあとだった。
虫や動物に対する喜市の執着は、彼の生命の源でつながっていた。近くの枝に、まだカミキリムシが隠れていないか、足下の草むらにウマオイやカンタンが潜んでいないか、貪欲に目を走らせた。
(マツ子は、森の中の道を走っていったが、怖くはないのだろうか)
森を抜けると、戸数二十ばかりの小さな集落があり、さらに深い森を越えていくと、沼に接する谷地の集落があるはずだった。
マツ子は、谷地の手前の屋根職人の娘である。父親が屋根から落ちたのは、二年前のことだ。後遺症で、今でも軽く足を引きずっている。
その程度のことは、喜市でも知っている。
逆に、喜市が冬の夜に閉め出されて、カアチャン、カアチャンと泣きながら助けを求めたことも知られている。
将太だって、三郎だって、野壷に落ちたことや、牛に蹴られて大怪我をしたことを、村中の者に知られている。
狭い村だから、村人の来歴まであらかた明らかだ。
どこそこの嫁は何とかいう土地から来て、親は農協に勤めているとか、誰それの親の親は、戦前の不作の年に近隣の山林を安く買い叩いて、山持ちになったのだとか、寺の過去帳には載らないようなことまで精通している語り部が何人もいるのである。
だが、どんなに狭い村内のことであっても、喜市にはマツ子のことが分からないという思いがある。家のことや、親のことを知ったとしても、おそらく喜市の思いは解消されなかっただろう。
それも当然のこと、喜市の悩みはマツ子の見せた曖昧な笑みと、体が発するもやもやした変容の不可解さに起因していたのだから。
その夜、喜市は夢を見た。
幼児になった彼が、母親の乳を吸おうとして悪戦苦闘する場面だった。唇が乳首に近づくと、急に肘を張って遠ざけられる。
何度も拒絶され、悲しみと怒りに泣きながら母親の顔を見ると、その顔はマツ子だった。マツ子は意地悪そうに腕を突っ張り、そのくせにんまりと笑みを浮かべている。
喜市が諦めて身を離すと、マツ子は汗ばんだシャツの胸元を指でつまみ、パタパタと風を入れる仕種をした。
なんとも情けない目覚めだった。
父親は、すでに漁に出ている。朝食の支度をしている母親の顔を、喜市はまともに見られなかった。
九月も半ばを過ぎた頃、マツ子をめぐって大変な騒ぎが起こった。夏休み中に、強姦されていたというのだ。
噂の出所は、マツ子と同じ集落から通ってくる同級生だった。真偽も分からないのに、相手は粗暴な性格の青年に違いないとの憶測が伝わった。
さっそく、村人による詮索が始まった。そして行き着いたのは、谷地の若い衆だろうという結論だった。何度も屋根職人の手伝いをした男で、マツ子とも顔見知りだったというのだ。
森の中に誘い出して、嫌がるマツ子を力づくで犯した。
そのことを父の屋根職人が知って激怒すると、若い衆の親は将来マツ子を嫁にするからと宥めにかかった。
「谷地の者なんぞに、娘をやれねえ」
火に油を注ぐ結果になった。
双方、秘密裡に事を収めようとしていたのに、反目がきわまって噂が漏れたらしい。話が一貫している分、信憑性は高まるばかりだった。
村人の多くは、心の中で谷地の人びとを目の敵にした。正面切って悪口を言うまでの確信はないが、意識の中の差別はいっそう深まった。
「犬殺しが! 自分らが狂犬みたいなもんじゃねえか」
喜市の父は、まだ判然としない相手を罵った。漁場を荒らされたと思い込んでいる川漁師は、口をへの字に曲げて、何やら一計を案じているようだった。
村内では、ひそひそと囁き交わしているのに、当のマツ子は悪びれることなく学校に通ってきた。
先生たちの方が、そわそわしていた。気づかないふりをしていても、落ち着きのなさが生徒に伝播していた。
学童たちは、もうマツ子をからかうことをしなかった。親に釘を刺されていて、遠巻きに眺めるような場所に身を置いた。
喜市は、ひと夏のうちに十歳も歳をとったような気がした。誰に見られているわけでもないのに、口辺に微かな笑みを漂わせているマツ子の存在を、もてあましていたからだ。
体操の時間に号令をかけ、運動会に向けての練習では、女子の遊戯も見なければならなかった。
鬱陶しいマツ子の残影を追い払うように、音楽の流れる校庭で身を硬くした。
~朝はどこから、来るかしら、あの山越えて・・・・光の国から、来るかしら~
意識の底で、苛立ちが募った。歌の明るさが、そぐわない気がする。喜市は、マツ子も混じっているはずの円舞を無視しようとしたが、拡声器から押し出されるメロディーが繰り返し耳を覆って、嫌悪感が増すのを抑え切れなかった。
くたくたに疲れた喜市であったが、夕刻、父親にうながされてカエル獲りに同行した。
「喜市、父ちゃんいいこと考えたぞ」
声がはずんでいる。
「なに?」
「雷魚の仕掛けのまわりに、針金を張ってやっぺと思ってるんだ」
「・・・・」
「泥棒が近づいたら、首さ掛かって魂消るぞ」
自分の思いつきに、満足の表情を見せた。
喜市は、一瞬胸がズキンと収縮するのを感じた。夏の初めに、将太や三郎と一緒になって、紙芝居のドンちゃんを苛めたことを思い出したのだ。
きっかけは、水飴を買う小遣いが不足していたからだと思う。言いだしっぺは自分だから、罪の意識があってそう感じたのだろう。
「おい、みんな」と、仲間に声を掛けたときの嫌な自分がそこにいる。「・・・・ドンちゃんは、勝手に村さ入って来て、悪いとは思わないか」
村の地面を這う霧のような差別意識が、喜市を覆っていたのかもしれない。
将太と三郎の同意を得て、喜市は紙芝居のドンちゃんに仕掛ける悪戯の概要を話した。
細長い石を括りつけた藁縄を、集落入口の桑の木に結び、ドンちゃんが体を揺すって自転車を漕いできたら、道の反対側へ通せんぼをするように投げる。
道を塞がれたら、ドンちゃんは困るだろう。困った後のことは分からないが、とにかく仕掛けの説明はそのようなものだった。
長細い石に縄を結わえたものを、二本用意した。一つが失敗しても、二度試みれば成功の確率は増す。そのように準備して、ドンちゃんの現れる時刻に、喜市たちは桑畑に潜んでいた。
二時過ぎに、計画は実行された。
集落をいくつも回って、背中まで汗まみれのドンちゃんが、体を左右に揺らして自転車を漕いできた。
その目前を、礫が飛んだ。
縄は道幅をやっと越えて、だらしなく横たわっただけだったが、ドンちゃんは目の前を飛んでいった悪意の塊にびっくりして、急ブレーキをかけた。
紙芝居師の円い顔に、怒りの形相が浮かんだ。
鳥打帽がずれて、大きな額が覗いていた。耳の上のつるんとした肌に張り付いた縮れ毛が、病に起因する禿を推測させた。
喜市は、色を失った。
桑畑の奥を睨んだドンちゃんが、今にも掴みかかってきそうな恐怖に襲われた。
「逃げろ!」
喜市たちは、桑の木を縫うようにして走った。いつもなら、ドンちゃんを囲んで子供たちが集まる薬師堂の境内とは、反対の方向だった。
小高くなった狐塚のあたりから見ると、紙芝居師の自転車が、重そうに戻っていく姿があった。
その日以来、紙芝居のドンという太鼓の音は響かなかった。薬師堂の広場だけでなく、喜市の胸の中も火が消えたようになった。
「父ちゃん」
喜市は、田の畦を伝っていく父親に、後ろから声を掛けた。「・・・・もしかして、首に掛かって死んだら、人殺しだっぺ?」
川漁師は、ぎくりとして振りかえった。
「やめた方がいいよ。おれは、嫌だ」
体の中から滲み出てくるような声だった。
「んだな。・・・・自分の首を引っかけるぐらいが、関の山だな」
川漁師は、恥ずかしそうに同意した。
喜市は、そろそろ終わりに近いライギョの漁を思い、夢中でカエルを獲った。
夏の太陽に踊らされて跳ね回っていた生きものが、秋の訪れとともにそれぞれの住処に還っていく。
退治された狂犬の坂道でも、まもなくススキが白い穂を揺らすだろう。
犬の死骸が埋められていたあたりを捜しても、もう、この場所と指し示すことはできない。
谷地の中学生は多くの人から忘れ去られ、わずかに喜市の胸の中に英雄の面影をとどめるだけだ。
運動会で踊る女子生徒のリボンが、目にちらつく。
マツ子は、巧く輪に溶け込めるだろうか。
時間が経てば、マツ子を見る好奇の視線も薄れるだろう。すべてがぼんやりした噂の霧の中で、村の季節は移っていくのだった。
(おわり)
(2009/02/04より再掲)
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