貞夫は目覚めの不確かな感覚の中で、それを見た。
夜をしっかりと眠ったあとだったのか、それとも中途半端な昼寝の途中だったのか判然としないが、目覚めたその目でありありと見てしまったのだ。
場所は黒姫に近い山里の萱葺の家だった。
仰向けに目覚めた視線の先に、煤けた構造物がむき出しになっていた。
木の骨組みの上に、夥しい量の萱が編みこまれている。
貞夫にとっては見慣れた風景で、目覚めの違和に気づいていなければ再び眠りに引き込まれていたかもしれない。
だが、貞夫は見た。
目覚めた布団の中から、それを見た。
座布団二つ分離れた囲炉裏の火が、ほんのりと熱を送ってくるのを感じながら、背筋に寒気が走ったのを覚えている。
(なに?)
見られている気がした。
視線の先に、貞夫の視線を押し返す圧力があった。
貞夫に気づかれているのに、相手はまったく動じる気配がない。
子供だと思って侮っているのか。
見下ろしたまま、貞夫の反応を冷酷に見極めているように見えた。
視線の先には、薄明かりに浮かぶ空間があった。
そこには、萱を葺いた際に切り開けた明かり採りの穴が空いていた。
屋根の厚さは1メートル近くあるだろう。
明かり採りの穴の深さが、見えないまでも想像された。
確かめるまでもなく、切り開けられた屋根の空洞は屋内の煙と外気の通り道になっている。
雨や雪が降り込む懸念はなく、外界の息吹だけを直接屋内に通わせる構造なのだ。
(あれは?)
寝覚めのぼんやりした意識がはっきりし、焦点を結んだ視線の先に人影が認められた。
飴売りが纏うような縞の半纏に、日本手ぬぐいで姉さん被りをした眉の薄い男の顔だった。
(屋根屋か?)
人相もことさら凶悪そうには見えないが、破風の葺き替えに来ていた屋根職人とは異質の雰囲気を醸し出していた。
「おお、ボン、危ないから避けときな」
あの時と違って貞夫に声を掛けることもなく、男はただ無言で下界を見下ろしている。
なぜ、その男がそこにいるのか。
人が居るはずのない場所に・・・・。
貞夫は、人間の男がそこにいることに恐怖を覚えていた。
男は膝を抱え、萱の切り口に寄りかかって貞夫のいる座敷を見下ろしている。
いつから、そこにいるのか。
貞夫が眠っている間、じっと観察していたのだろうか。
お父もお母も何も言わなかったから、ずっと気づかずに暮らしていたのだろう。
夕方、野良から戻ったあとの寛ぎの時間や、一家がぐっすりと眠っていた時間のほとんどを見張られていたに違いない。
貞夫は、子供ながら事の異様さに気づき、お父とお母に伝えようと横目で二人の寝床のあたりを探り見たが、怯えのためか寝姿を見出すことができなかった。
「ヒーッ」
かすれた声が喉の奥から漏れた。
引きつけを起こしたように、目が据わっていた。
声帯を震わせて漏れ出る悲鳴が、明かり採りの穴に向かって上昇していく。
「どした?」
貞夫の背後で、お母の声がした。
すると、それまで動じなかった姉さん被りの男が慌てたように身をよじった。
明かり採りの奥の方で人影が動いた。
姉さん被りの他に、もうひとり潜んでいたのだ。
何者かはわからないが、飴売り風の男の背後に隠れてこちらを見下ろす別の視線があった。
「あれ、あれ・・・・」
貞夫は、布団から手を出して、屋根の一角を指さした。
「どしたんだ?」
お父も目覚めて、貞夫に声をかけた。
あれ、見て!
貞夫はもう声もなく、突き出した右手の指をさらに伸ばした。
息子の仕草を訝しんで、お父が囲炉裏の火を掻き立てた。
一瞬燃え上がった炎が屋根まで照らし、おとうは貞夫の指さす方を見たようだ。
「なんだ、ムササビでもいたか」
お父の言葉で正気に戻った貞夫は、あらためて明かり採りの穴を見たが、黒く口を開けた空洞にはもう人影はなくなっていた。
魂を抜かれたようになっていた貞夫も、村の小学校へ上がる頃になると自分が見た光景を忘れかけていた。
中学生になると思慮深くなり、自分の記憶が夢幻のようなものと判定するようになった。
理科が好きで、科学的に説明できない事象は、心が弱ったり迷ったりのあげくに現れるものと考えるようになっていた。
山姥や天狗や雪女の話にも興味を持たず、村に伝わる神隠しの話にも否定的な意見を述べることが多かった。
そうしたある日、貞夫たちの学校では、臨海学校の行事として新潟の海へ泊まりがけで出かけることになった。
普段山の生活しか知らない生徒たちに、海水浴や地引網の楽しさを味わわせてやりたいという学校側の方針だった。
夏の太陽に焼かれて肌がひりひりと痛み、喜びとともに海には苦痛もあることを教えられた。
中には友達同士で桃色にめくり上がった皮膚を叩き合いながら、相手を眠らせまいと大騒ぎする子供もいた。
「何してる! 明日は始業時刻と同じ時間に集まって移動するから、よく眠っておけよ」
生まれて初めて集団で村を離れるという経験にはしゃぎ気味の生徒たちも、ようやく疲れが出たのか決められた部屋に戻って電灯を消した。
ぼそぼそと喋っていた声もやがて途絶え、いったん睡魔が襲って来ると今度は揺すられても起きないほどの深い眠りに落ちていった。
そうした中、貞夫は夜中にトイレに起きた。
ずらり五つほど並んだ男子用便器の一つで用を足していると、半開きの窓から道路際の松林越しに遥か日本海の星空が見えた。
(うわァ、星が濡れてる・・・・)
長野の星は冬場でなくても磨かれたように鋭く、どこか冷たい感覚をもたらすものだった。
貞夫は星座にも興味を持っていて、深夜こっそりと起きだして谷をまたいで伸びる天の川に見とれることもあった。
一つ一つの星は尖っているが、中天に架かる白布を流したような星の集まりには、どこかほっとさせる安らぎがあった。
(ちょっくら、星を見てみるか)
貞夫は夏の海で味わった興奮をまだ引きずっていて、浮ついた気持ちのまま施設を抜け出した。
ほんの10分ほど空を見上げるつもりで外に出たが、予想に反して道路越しの松原が視界を遮っていた。
折しも天の川は一年中で最も美しく見える季節だ。
夏の大三角形を海で見る。・・・・その思いつきは、貞夫をいっそう興奮させた。
(ベガはどこだ)
こと座の織姫星は、学校の星座表で一番先に探させられる星だ。
空を見上げ、視線を下ろしていくとアルタイルも見つかった。
織姫とわし座の彦星との物語は、迷信嫌いの貞夫にも受け入れやすい話だった。
はくちょう座のデネブもうっすらと確認でき、あっさりと望みは叶えられたのだった。
そこで満足していれば、普通の子だったに違いない。
だが、貞夫は三角形の間を流れる天の川の行方を見届けたくなっていた。
ミルキーウェイ。・・・・まさに赤ん坊のミルクを流したような肌触りが、貞夫の頬を掃いていった。
しっとりとした感情が胸の中を満たした。
わけもなく、お父とお母の老いてきた後ろ姿が頭をよぎった。
(海はええなあ)
山里の厳しい現実を忘れさせてくれる潤いが、海沿いの地形にはあった。
ほんのちょっくら、海まで出てみよう。
道路をわたり、松林を抜ければ、昼間遊んだ海水浴場に出られる。
そこからなら、天の川は果ての果てまでミルクを流し、黒ぐろとした日本海に注ぎ込んでいるかもしれなかった。
貞夫は足が地に着かない感じで、小走りに松林を抜けようとしていた。
(あんなとこに船が・・・・)
点滅する灯りを松の枝越しに見つけた時、貞夫の頭上から何かがばさっと落ちてきた。
瞬間、視界から海が消えた。
点滅する船の灯りも同時に消えていた。
天の川もない。
さっきまで濡れたように輝いていた星星も、ただ一つとして視界に入ってこなかった。
頭の上から足先まで、すっぽりと袋状の布を被せられていることに気づいたのは、二人がかりで体を担がれたからだ。
体を横にさせられると、なぜか楽になった感じがする。
「アバレルナ。オヤガマッテル」
いつか、このような場面が現れるような、妙な確信があった。
長いあいだ忘れようとしていた記憶がいっぺんに甦り、貞夫は、明かり採りの穴に潜んでいた飴屋風の男ともう一人がいよいよ屋根から降りてきたことを悟っていた。
男たちは、しばらく走って波音が聞こえる岩場にたどり着いたらしい。
「ソンゴン、ソンゴン」
抱えられ、布を被せられたまま小舟に乗せられたようだ。
(天の川はどこまで伸びているのだろう?)
見損なった悔しさが喉をついて出た。
「ヒーッ」
櫂を漕ぐ水音が、忙しくなったようだ。
お母の声も、お父の呼びかけもない。
自分はどうなるのか。
怖さとは異なる心細さが、今までになく押し寄せてきた。
殺す気はないのだろう。
攫われるのだ。
もっと早く攫われていたはずが、姉さん被りの思惑で今日という日まで延びたに違いない。
きっと臨海学校を待っていたのだ。
天の川が一番美しい夜と、何か関係があるかもしれない。
ミルキーウェイが、海の向こう岸に渡りきったのを見定めて、あの男たちが攫いに来たのだと貞夫は諦め始めていた。
(おわり)
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