潮目
(共有画像)より
海はいいなあ
自由に生きているではないか
あれほど激しく続いた時化も
水温や潮の流れを変えることはできなかった
かもめよ共に喜ぼう
うねりに弄ばれた不安の海だったが
伏流する意識は海を海たらしめた
潮目が変わるところに銀鱗が跳ねるのだ
もう潮目は変わった
海中深くで耐えていた真実の塊が
徐々に海面にあらわれてきた
だれの目にもそこが潮境だと指させる時が来た
人の意識は大海原の意識だ
ぶつかり泡立ちながら静穏をめざすのだ
もう多くを語る必要はない
大海原の潮目に立ち会った確信を維持するのみだ
かもめよ共に歓ぼう
白濁する潮目に豊饒の魚が逆巻いている
暖流と寒流は右に左にと蛇行するが
一衣帯水の教えはいまも健在だ
海はいいなあ
底なしの慈愛に満ちている
さまざまな思いがぶつかる潮境だからこそ
わだつみの歌に耳を傾けるがいい
たしかに!人の長い長い人生はにはいきなり潮目が変わることがあります。
いい方にかわることもあれば、あっという間に得意絶頂の幸せから悪い方にかわることもある。
それはたいてい予期しないときいきなりのようにやってくるので、舞い上がったり落ち込んだりしますが・・・潮目の変わらない人生など誰にもないわけで、その瞬間をどう受け止めるかその受け止め方次第で、人生の質が変わってくるようです。
みんなに平等に何回かはやってくる「潮目の変化」が当人の受け止め方次第で「いろいろあって人生は面白かった。潮目で銀鱗が跳ねた」と考えるか「不運な人生でつまらなかった」と思いを残しながらこの世を去っていくのかが決まるのかもしれません。
自分の考え方一つで人生の質が違ってくるというのは面白い・・・なんて言ったら不謹慎でしょうか
最近、意識の総量といったことを考えるようになりました。
個々の人生における「潮目」に臨んで、進路をどの方向へ取るのかは、性格的なものもあるでしょうが、日々の鍛錬によって培った人生観や世界観といったものが影響を与える気もします。
一方、社会的な面に置き換えてみると、潮目に相当する「岐路」を前にして、人びとはどのように思いどのように行動するのか、たいへん興味深く思えるのです。
こうした場面を後から振り返ってみて、それらをポジティブに考えるかネガティブに受け止めるか、 (知恵熱おやじ) さんの仰有るとおり<自分の考え方一つ・・・・>なのだと思います。
社会的な事柄に対する人びとの対応も、明確に潮目を捉える感覚は、いわば意識の総量に拠るのではないかと感じた次第です。
いずれにせよ、ネガティブに考えるのではなく、ポジティブに受け止めて生きることで、より可能性がもたらされる気がします。
コメントをいただき、あらためて思いを新たにしました。
ありがとうございました。