(辻占)
晩秋の黄昏どき、銀座八丁目の角に着物姿の男が佇んでいた。
汚れたたっつけ袴に錦半纏をまとい、頭には翁頭巾を載せている。
足元は草鞋を履き、見知らぬ場所で途方に暮れたように目の前の通りを眺めていた。
ここは新橋に近い金春通りのどん詰まり、博品館にも近い一画である。
デパートやブランドショップから流れてきたというより、この一帯を好んでうろつく通行人の姿が見られた。
男の商売は黄表紙などで見かける飴売りだったが、街流しの宣伝口上で商売敵の刃物屋を腐し過ぎたために、悶着を引き起こしていたのである。
「あんた、うちの包丁を誉めてくれるのはいいが、木屋のモノは俎板まで切れてしまうから使えないとはどういうことだ?」
面白おかしく囃すのはいいが、嘘八百と思われたらこちらの料簡が疑われる。
事実、相手方から苦情がきて主人が平身低頭させられたと、押しかけてきた番頭にまくし立てられて、飴屋はすっかり意気消沈していたのである。
因みに、飴屋の呼び名は銀太といった。
親方の金太から一字もらって付けた名前である。
生まれは足柄の山奥、貧しい百姓の次男坊として育てられた。
幼いころからひょうきんな子供で、旅芸人に見込まれて一座の使い走りとして雇われた。
雇われたというより、口減らしのために預けられたのである。
しばらくは、股旅物などの村の童役で出ていた。
しかし、何年か経って座長が旅先で採取した毒キノコにあたって死んでからは、五人いた一座は散り散りになってしまった。
預けられた子供は、子のない座長の妻に連れられて浅草に落ち着いた。
一座と交流のあった飴屋の金太に拾われたのである。
三味線ができる座長の妻は、親方の指図に従って洲崎の酔客相手に端唄を歌って食いぶちを稼いだ。
花魁でも芸者でもない、小料理屋を根城とする曖昧な酌婦のような立場であった。
飴屋の金太に引き取られた子供は、何年かすると親方の手伝いをするようになり、さらに経験を積むと親方の許しを得て銀太を名乗るようになった。
幟を持って子供相手の水飴売りもやるが、芝居小屋や見世物のふれを頼まれることが多かった。
蒲団屋の西川や呉服屋の三井の屋号を、広く江戸市中に知らしめる役割も彼ら飴屋と無縁ではなかった。
そうした仕事をしていた銀太が、平成の銀座八丁目の路地裏になぜ立っているのか。
それには、俄かに信じがたい理由があったのである。
銀太が引き受けた刃物の宣伝で、思いがけないヘマをやらかしたことは先に記したとおりである。
依頼主の刃物を強調するつもりで、木屋の打刃物に対して変な腐し方をしたのは確かであった。
あとから考えてみると、俎板まで切れてしまうから普段使いできないと、的を得ない言い方をしたようだ。
要するに、木屋の刃物は切れすぎると宣伝しているようなものなのだ。
木屋の道具の評判が頭に沁みついていたから、あんな口上を述べてしまったのではないか。
依頼主の刃物屋も、それに気付いて激昂したふしがある。
「申し訳ありません」
土下座をして謝ったが許してもらえず、銀太は行く当てもなくさまよっていた。
晩秋の日の入りは、俗にいう釣瓶落としだった。
日中はほかほかとしていたのに、日が陰ると首のあたりから急に冷たい空気が忍びこんできた。
銀太は身震いしながら、八丁堀の荷舟がすれ違うのをぼんやりと眺めていた。
少しばかり行った堀端には、小さな回船問屋が軒を並べている。
築地に回って、波除け稲荷に今後の幸運を祈願してみようかと、銀太が気を取り直そうとしたときだった。
「もし、そこの飴屋さん」
掘割を跨ぐ橋の袂から、女の声がした。「・・・・おまえさん、さっきから何かブツブツつぶやいていたが大丈夫かねえ」
銀太の眼にはそのときまで人の姿が映っていなかったが、あらためて目を凝らすと丸髷の女の輪郭が、薄闇の中に浮かんでいた。
「おいらのことでしょうか」
「そうさね、飴屋さん。あんた巽の方角に出張ったのが失敗の因とか嘆いていたが、差支えなければ何があったか教えてはくれまいかね」
四十を過ぎたか過ぎないかの商家の女将が、濃くなりかけた闇を掻き分けて銀太に近づいてきた。
「えっ、おいら、そんなことを呟いていましたか」
「実はわたしにも思いあぐねる事があって、どうしたものかと神様のお告げを待っていたんだよ」
一度堰を切ると止まらない性質らしく、自分の事情を先に話しはじめていた。
「おいらも、話さなくちゃいけませんか」
「いやね、わたし辻占を試していただけだから、飴屋さんの言葉さえ聞いてしまえば、こっそり姿を隠してもよかったのよ」
女はすっかり腹を据えたのか、真正面から銀太の顔を見た。「・・・・でもね、巽の方角がどうのというお告げは曖昧過ぎて分かりづらいのよ」
だから直接事情を訊いて、これからの運命を占いたいのだと付け加えた。
自分勝手な運びに呆れたが、辻占のことまで内緒にできない人の好さに免じて、銀太は女将に今日一日の顛末を話して聴かせた。
「おいらとしては精いっぱい思案した口上だったのに、後の仕事まで反古にされちまったんですよ」
町人の懐具合に合った道具として、先には大岡越前守が日本橋の十組制度を奨励した例もある。
そうした意味では後発の刃物屋が、木屋とは別の売り方をしてもいいのではないかと、未練たらしく女将に訴えかけた。
「おかみさん、御髪のものが似合っていますよ」
銀太は柄にもなく、女将が丸髷に挿した黄楊の櫛に気づいてお世辞を言った。
「やだねえ、これは辻占の道具じゃないか。いいお告げがあるようにと、それこそ必死の心持ちで挿しているんだよ」
女は軽く頭に手をやって、「・・・・いずれにしても、おまえさん自分で気づかないで漏らした言葉なんだよね?」
銀太に念を押しておいて、女将は心の中の葛藤を治めたようだ。
「飴屋さん、わたしは先に消えますよ・・・・」
口元に妖しい笑みを残して、女は闇に紛れた。
昼と夜のあわいに現れた謎の女が、急ぎ夜に傾きかけた闇を捲って奥に消えた。
銀太は一人その場に取り残されて、夢か幻を視ているような気分だった。
(あの女、おいらの言葉を持ち去ってどうする気だろう・・・・)
銀太としては、今回頼まれた刃物屋の仕事が、その前の大当たりした「万欣丹」売り出しの薬種問屋の場所から巽の方角に当たることを口にしたらしい。
「縁起でもないヤツと関わっちまった」
今回の失敗がよほど堪えているのか、我が身の不運を嘆きつつ、辻占なんぞでた易く運命を変えられるものかと、橋の袂の礎石を蹴飛ばしたのだった。
草鞋の爪先が、何か軟らかいものを踏みつけた。
一瞬、いやな感じがした。
蝦蟇にでも触れたかと、生理的な悪寒が身体を走った。
それが醜い生物を連想させたからというわけではない。
虫と動物の中間体、爬虫類や両生類など種の異なることによる違和などと、理屈を思い浮かべたものでもない。
強いて言えば、この世ならぬもの、生き物に姿を変えた神のような存在に触れた思いがしたのだ。
銀太の足先は、痺れうなぎに弾かれたように飛びのいた。
瞬間、銀太は一回転し、闇の渦を巻いて欄干を超えた。
不思議なことに、八丁堀の水面に飛沫は上がらなかった。
夕餉の支度に忙しい女房たちも、肩をすぼめて帰りを急ぐ職人たちも、誰ひとり掘割からの水音を聞いた者はいなかった。
近くの庭木にふくろうでも潜んでいれば、帷の隙間に女房と飴屋が消えたからくりを目撃したかもしれない。
女の行方は知らず、銀太が気づいたときには、たっつけ袴の出で立ちのまま銀座八丁目の街路横に佇んでいたというわけである。
人の動きは影絵のようであった。
煌々とした明かりが、銀太の視野を暗くした。
江戸の十五夜もすごかったが、今宵の明かりは満月の五倍は眩しかった。
眩しすぎて、却って路地を暗くする。
動こうとすると足元は軽く、金春通りを滑るように進んで行く。
街中の四角い建物の中に、「金春湯」と看板を掲げた一郭がある。
銀太の記憶に、金春屋敷の威容が甦る。
能楽四座の筆頭と目された一座も、秀吉の贔屓を形見に残して歴史の彼方にかすむ。
手取り足取り教えた暮松新九郎の姿が、ビルのガラスをスクリーンに浮かびあがる。
金春屋敷の移転した跡地には花街が興り、金春芸者の艶姿が通りを行き交ったと聞く。
季節ごとに種類のちがう草が生えるように、時間は歴史を受容した。
銀太はいま、時を超えて女たちの後ろ姿を見送る。
エメラルドグリーンのコートに身を包んだ長身の婦人が、腕に大きな紙袋を掛けて博品館の小さなエレベーターから出て行くところだった。
なんとエキゾチックな眺めだろう。
銀太の思い及ぶ世界とは、あまりにもかけ離れた風景である。
太鼓も笛も手元にないが、手妻つかいの動きに合わせてドドン、ピーヒャラ合いの手を入れたくなる。
「さあさあ、お立ち会い、和妻、洋妻なんでもござれ、奇雲斎天一坊による時空抜けをご覧に入れましょう」
銀太の頭の中で鳴り響く口上に乗って、銀太自身が立ち現れたのだ。
時を越えてきた銀太は、やっと影絵の向こうから浮いてきた人通りを追って、ガード沿いに東銀座へ回り込む。
(ああ、ここに演舞場が・・・・)
ふと気付くと、八丁堀の橋詰で消えた商家の女将さんらしき女性が、夜の部の幕間に合わせてゆらゆらとさまよい出てくる。
(もしや、辻占の・・・・)
声をかけたいが、人違いだと迷惑だろうと躊躇している間に、幻影が消える。
あのひとは、若い役者と駆け落ちでもしたのだろうか。
それとも、大店の若旦那と・・・・。
妄想を抱いたまま晴海通りを銀座方面に曲がると、新装なった歌舞伎座が圧倒的な張り出しで銀太を圧倒する。
何本も立てられた役者幟が風にはためき、劇場内の熱気を煽りたてているようだ。
「おお、木挽町の芝居小屋には、見物客が渦巻いているではないか」
めくるめく歌舞伎座の華やかさを目にして、銀太は深いため息をついた。
銀座八丁目の暗がりに放り出されたときには、旋毛風に運ばれてきたように茫然としていたが、いまは楽しくてしょうがなかった。
足柄の家からは口減らしのために旅芸人に預けられ、飴屋の親方に拾われた。
血のにじむような苦労をして修業を積み、工夫を重ねて商売に励んだが、思いがけない失敗をして途方に暮れる破目に陥った。
(そこへ、この幸運だ・・・・)
本当に幸運なのかどうか確信は持てないが、いま幸せを感じているのはたしかだった。
銀太の漏らす言葉を聞くために黄昏の堀端に佇んでいた女の辻占が、二人ながらに神韻を運んできたと推測できる。
こんな幸運は滅多にあることではないが、神を信じて身をゆだねる勇気も必要だ。
ドブネズミの忠太郎だって、肥満に注意するほど餌は満ちあふれている。
都会に遷移してきたネズミもカラスも、飽食の罠には気をつけているらしい。
「銀太よ、江戸にもどって飴売りに精を出しなさい」
シネパトスの地下道をくぐっていると、どこかから神の声が聴こえてくる。
道に迷わないように高架下まで戻り、元来た通りを八丁目まで引き返す。
匂いの薄い花屋をかすめ、博品館の前を通り抜け、やっと旋毛風に運ばれてきた地点に到達した。
(神様、辻占さま、あなたの言うことを信じますから、八丁堀の橋詰へ連れて行ってください・・・・)
育ててくれた親方にも、洲崎で働く親代わりの女将にも、深い悲しみを与えるところだった。
困難に負けて、思わず心を弱くしたが、与えられた場所で運命を全うすべきだと悟ったのだ。
「おまえも見てわかったろう。人々は買い物だ芝居見物だとさんざめいているが、楽しいことは長続きしないものだ」
後に起こった関東大震災の傷跡も町外れの煉瓦積みに残っているし、東京大空襲の記憶も永代橋のモニュメントに刻まれていただろう。
たといヘマを仕出かしても、おまえなら立ち直れる。
「・・・・ドドン、ピーヒャラ、これをおまえの呪いにしてやろう」
心地よい声が頭上から降りてきて、銀太を勇気づける。
疑いから解き放たれた銀太は、金春通りからやや新橋よりのビル陰に立ち、言われたままの呪文を念じて目をつぶった。
(おわり)
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