<貸本マンガ史研究>特集
ー水木しげるの反戦マンガ家としての評価をめぐってーを読んで
1945年の終戦は、子供たちの世界にもさまざまの変化をもたらした。
疎開してずっと耐乏生活を余儀なくされていた少年にとっては、主に物質的な変化が記憶に残っている。
運動靴や長靴が自分の所有物として買い与えられたことも嬉しかったが、兄のために鶴のマークがついた新品の自転車を購入したことが一番の特筆事項だ。
二三日は座敷の廊下に上げて、家族で眺めていたことを覚えている。
自転車メーカーの名前は「ひづる」だったか「ちづる」だったか明確でないが、我が家で買えたことから推理して二流以下の品物だったろうと考えられる。
一方、文化的な変化はどうだったかというと、それがあまり記憶にないのである。
遊びといえばメンコやベーゴマが主で、他に自転車のリム回しや陣取り合戦、ターザンごっこなどに興じていた。
たまに読む漫画本は父が買ってくる単行本で、こどもの蛸が誰かの足に齧り付く絵とともに「おいおい、おまえ親の足を食う気か?」などというセリフがあった。
ギャグ漫画の原型なのだろうか、子供心にもなんとも言えない可笑しさがこみ上げてきて、今に至っても忘れられない。
その当時はまだ紙芝居が健在で、三日に一度ぐらいのペースで廻ってくるベレー帽の小父さんを僕らはドンちゃんと呼んでいた。
出し物が「ドンちゃん」主体で、「はたしてドンちゃんの運命はどうなるのでしょうか」と次回に興味をつなぐやり方は、どの演目でも変わらないのだと思う。
ただし、「黄金バット」や「月光仮面」は見た記憶がない。
時代が違うのかもしれないが、もしかしたら田舎の洟タレ小僧相手では、人気のシリーズを借りるほど稼げなかったのかもしれない。
さて、いよいよ貸本マンガの話に移るが、正直なところ僕は貸本漫画の存在を知らないで過ごした。
1948年に神戸で産声を上げ、1953年頃から全国に出回るようになったと言われる貸本漫画だが、辺鄙な田舎には一軒の店もなく流行に置き去りにされていた。
50年代末から60年代半ばにかけてが貸本漫画の最盛期らしいが、東京で3000店、全国ではその十倍あったとされる貸本屋さんが僕の周辺には一軒もなかった。
文具店や駄菓子店が兼務しているケースが多いとされるものの、僕らの村では小学校近くの文具店で貸本を扱うことはなく、駄菓子店でも同様であった。
そのうち貸本店のターゲットも、子供相手から高度経済成長期の青年層へと変化していった。
貸本の内容や種類も、50年代末から60年代にかけて「街」や「影」「摩天楼」など劇画誌中心に移っていく。
辰巳ヨシヒロ、さいとうたかを、桜井昌一ら劇画工房の活動期を迎えるのだが、こうした劇画家たちとは異質の存在感を示すのが水木しげるである。
水木しげるは貸本作家時代に、いくつもの名作を残している。
「ゲゲゲの鬼太郎」(墓場鬼太郎)、「悪魔くん」、「河童の三平」、そして戦記もの等々。
評判の高い「総員玉砕せよ!」が水木しげるの戦記ものの代表作とされているが、この作品は1970年に発表されたもので事実や思いが整序されすぎている。
むしろ貸本漫画時代に描かれた戦記ものにこそ、水木しげるの本音があるのではないかというのが、表題に掲げた討論の参加者に共通する思いのようである。
ちなみに、参加メンバーは、梶井純、吉備能人、権藤晋、ちだ・きよし、三宅秀典の5名である。
各氏とも『貸本マンガ史研究会』の主要会員で、文字どおり貸本漫画とそこから発展したマンガ・劇画・コミックの歴史に通暁する論客である。
討論はさほど長くはないが、ここに再録できるものでもない。
かいつまんで紹介するのがやっとだから、あとは雑誌を取り寄せて検証して欲しい。
討論の冒頭には、次のような一文が掲げられている。
<・・・・妖怪マンガで一躍子どもたちの人気者となり、国民的マンガ家とでもいえる存在になった水木さんだが、もう一方で戦争マンガ家としての評価も高い。だが、その戦争マンガをどのように評価すべきなのか、という疑問は私たち会員のなかにずっとあった。とくに、メジャーデビュー以降の戦争マンガは、世の評価の高さと裏腹に問題点も多いと私たちには思われる。その水木戦争マンガをどうとらえたらよいのか、短い時間であったが、梶井純を中心に語り合った。>
討論のテーマと捉えれば、水木しげるを通して、我が国の知識人が戦争をどう総括したのかが問われている。
水木しげるの戦争漫画が、がぜん戦後意識のリトマス試験紙として浮上してきたわけだ。
だから、「水木しげるの反戦マンガが熱い」としたのだが、本当に反戦と呼ぶべきかどうか疑問を呈する向きもある。
とうぜん、参加各氏の発言のなかには見逃せないものが多い。
たとえば、以下のように・・・・。
(梶井) 水木さんが亡くなって、追悼の記事をいくつか目にしたけれど、皆さんもろ手をあげて褒めているんですね。何たるざまだと思ったね。しかも、水木さんのマンガが反戦的だと思っている人がすくなくないようで、、そういうのが一番ダメだと。まったくわかってないじゃないかと。
(権藤) たとえば誰ですか。
(梶井) 『朝日新聞』の保阪正康の追悼文などは典型だね。
(権藤) 保阪をはじめリベラルな知識人が読んで評価しているのは『総員玉砕せよ!』だけれども。
(梶井) 貸本時代の水木さんの戦記マンガはぼくは評価しますよ、いっけん戦争肯定にみえるものでも。だけど、『総員玉砕せよ!』はそう評価できない。
<中略>
(梶井) 『総員玉砕せよ!』に戻ると、カッコつきの「反戦」のある種のパターンがここにまとまっていて、それに知識人が感心してしまうのは相当にまずい。ぼくは、情けないと思います。
(権藤) そのとおりだけど、ぼくなんか展開も描写もかなりうまいな、と思う。それは作画の大部分をまかされたつげ義春さんの力量があって、ですね。脚色のうまさ、あるいは画力だと思う。水木さんが描けばもっとぎすぎすしたというか・・・。あんなにスマートにはならない。
(梶井) 水木さんだとドロドロしたものがでる。
(権藤) 貸本時代はそうだったからね。「総員玉砕せよ!」は絵もすっきりして読みやすいよね。
(梶井) なんで水木さん本人が描かなかったんだろう。
<中略>
(権藤) 水木さんもつげさんにまかせたほうが、もっと多くの人に読まれる作品になるとわかってたんだと思うね。それが、予測した以上にうまくいった。
(梶井) 貸本マンガ時代は自分で描いていたのになあ。
(権藤) 自分が描いたのでは、大手で何十万部も売れる作品にはならないとふんでいたんじゃないかな。
(梶井) ねずみ男だなあ。
<中略>
(吉備) 梶井さんの批判は、水木さんの脚本にあるのかそれとも・・・。
(権藤) 水木さんの戦争体験がうみだすものが元来あるはずなんだけれど、『総員玉砕せよ!』にあるのは既存の戦争ものの構造をパターン化したものだけなんですよ。内面からにじみ出るものはなにもない。晩年の水木さんは、忸怩たる思いもなしに国から勲章をもらってしまうのだから、そんなものはもうなかったのかもしれない。
(吉備) それはどうしてなんでしょう。
(権藤) 世間的には、これ以上の戦争体験を描いたマンガはないと思われているよね。
(吉備) 軍隊でのイジメとか一兵卒の庶民の体験をマンガ化したものはほかにないと。
(梶井) じつは形骸だけなんですよ、ここにあるのは。
(三宅) でも、戦争マンガはあったけど、戦場の現実や軍隊の内部を描いたマンガはほかになかったんじゃないですか。それである意味金字塔になった。
(権藤) 軍隊内部のことを「面白く」というと語弊があるけど、それを描いてるマンガはこれだけだったからね。小説ではいくらでもあるけど、とにかく一般の人は、戦争体験をきつくない読みものとして読みたいでしょ。ホントに大変だったんですね、と思える程度のほうが読みやすいのかもしれない。
(梶井) 保阪も同じか。でも、かれもぼくたちの世代とおなじなら、勘弁してくれですよ。ぼくらは橋川文三や安田武、吉本隆明に叱られたくない、というのがあった。そんなバカなことをいうなと。
(吉備) 鶴見俊輔さんも保阪さんとおなじですね。戦場体験とそこで得た楽園幻想がのちの妖怪ものにつながった、と。ある種の理想化ですか。
<中略>
(吉備) 「少年戦記の会」まで主催して、「日本はよく戦ったのです」と伝えたかったんですかね。
(権藤) それは小学唱歌に唱われる「滅びの美学」に通じるよね。南朝の楠正成もよく闘ったんだ、というのおなじだと思う。ある種の悲劇の構造や敗者によせる感傷性において。
(梶井) ぼくもそう思う。
(権藤) 自分の体験とははなれて。
(梶井) でも、そこ(貸本時代)は、水木さんにとっては本心なんだよ。後世になると、ウソなんだよ。
大分はしょったが、討論の核心部分をかすっているとは思う。
ただ、批判の矛先が向けられた朝日新聞掲載の保阪正康氏の追悼文を再録できなかったのは残念である。
この討論のすぐあとに、公平を期してか資料として<戦争の愚を示した「人間」>という保阪氏の一文が収録されている。
実際に読んでみると、水木しげるという作家への理解があまりにも薄っぺらで、討論に参加した5名の論者のいらだちがよくわかる。
追悼文という特殊な状況で書かれたことを考慮しても、許せないと思うのは無理もないことだ、と僕は納得した。
文化の潮流は、穏やかで優しげなリーダーによって導かれることがある。
一般の国民は、辺見庸のような過激で先鋭な卓見よりも、あまり痛みを伴わない革新思想に身を寄せていく。
リベラルな文化人が好まれるのは、そうした傾向の表れではないだろうか。
それよりも、この討論の中で明らかにされたつげ義春による水木戦記マンガの作画という事実は、僕にとってはショックだった。
背景などを描くアシスタントの存在は知っていたが、作品のオリジナリティーに関わる領域まで任せてしまうとしたら、水木しげるはまさに妖怪だ。
単に商品として作品を見ていたとも考えられるが、『総員玉砕せよ!』の評価が高まり反戦マンガとしてもてはやされることになって、コソバユサを感じなかったのだろうか。
この点にも討論諸氏は言及していたが、水木しげるという存在は容易に捕まえることは出来ないようだ。
保阪正康氏などとちがって、あまりにも奥が深すぎる。
水木しげるに接したことのあるマンガ家のひとりは、「水木さんとの会話は、いつの間にかはぐらかされたような気になる」と述懐した。
なかなか本心を見せない韜晦さが身に備わっているのか、それとも思考レベルが高すぎるのか。
それを見極めるのは、水木しげるに興味を持つひとりひとりの洞察力以外にない。
『貸本マンガ史研究』特集・水木しげるを手に入れるには、郵便振替口座00180ー1ー12002に送料込880円を振り込み、メモ欄に通巻26号水木しげる特集と明記すればいい。
この号には、ほかにも見るべき記事が満載で、「墓場鬼太郎」は幽霊屋敷のような兎月書房の編集室から生まれた(椿きみを)とか、貸本時代に描いた水木しげるの劇画講談「剣豪とぼたもち」を取り上げた「水木しげるの痛み」(旭丘光志)とか、とにかく面白いのでグイグイ引き込まれてしまった。
精一杯の紹介はここまで。水木しげるは無尽蔵の鉱脈であると気づいて頂ければうれしいかぎり。
(おわり)
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今後水木しげるを論じる際の出発点になるに違いない問いかけが、たっぷり含まれていて大いに刺激を受けました。
そういう意味で水木の仕事に寄せる評論家諸氏の真剣な向き合い方には心から敬意をはらいます。
甘さを排した真摯な討論をまっとうに評価する窪庭さんのこの一文にも、同じ意味で水木しげるの仕事への深い愛を感じ嬉しく読ませていただきました。
ありがとうございました。
貸本マンガ時代に描いた戦記ものが本物で、メジャーになってからまとめた『総員玉砕せよ!』にはウソがあるというのが主旨でした。
そもそも水木しげるが「反戦」という意識をどれほど持っていたか、その点も判然としないまま社会的な評価が定着しそうな現状に、ミスリードしているのではないかと保阪正康氏らを俎上にあげたのでしょう。
その意味では、水木しげるの全貌に迫ったものではなく、きわめて狭い範囲の議論であったと思います。
問題は戦中戦後70有余年をのたうち回りながら生き抜いた水木しげるの存在を、まるごと評価する挑戦に誰が立ち上がるか、ワクワクする思いで待っているところです。
おそらく著名な小説家の作家論を書くより、よほど難しいと考えられます。
「貸本マンガ史研究」には、コアとなる資料が蓄積されているのですから、これを拠点に視野広く立ち向かっていただけたらと期待するものです。
戦場で片腕を失いながらもペンを武器に、戦後の混沌から奇跡的経済成長、そして長い失墜・喪失と格差社会の混迷を、水木は自己を反応させ作品にどう反映させていったのか。
それを解明する作業はきっと、現代日本人の精神史の一端を見せてくれるに違いありません。
窪庭さんの論考はそのことを問いかけてきます。
これから人文関係専門家の力量が問われることになるぞ・・・と
戦地から引き上げてきてからの傷痍軍人としての活動や、紙芝居の絵描き、貸本マンガの世界でギリギリ生き抜いてきた水木しげるの半生には、きれいごとの言葉を受け付けないものを感じます。
メジャーになり、もてはやされるようになって、世間とか社会とかとどう折り合いをつけて付けていったのか、後半生の生き方とともに解明が待たれます。
(知恵熱おやじ)さんのおっしゃるとおり、水木しげるを解明する作業は、同時代を生きた日本人の精神史を解き明かすことになるし、戦争の記憶を抱え込んだまま闇に屠る人びとの苦悩にも、わずかながら光を当てることになるかもしれません。
示唆に富んだコメントありがとうございました。
これからもよろしくお願いいたします。