陣内眼科医院の待合室は、花粉症で悩む患者で溢れかえっていた。
毎年この時期になると患者が増えるのは仕方がないのだが、院長の陣内はいつにも増してあからさまな仏頂面を崩さなかった。
診療報酬が伸びるからといって単純に喜ぶ男ではないから、そのこと自体は理解できないことではなかった。
しかし、看護師の玉枝に命じて待合室のレザー張り長椅子をエタノールで拭かせる行為は、陣内が実は患者の増加を内心怖れているのではないかと疑わせるのに充分だった。
確かにくしゃみを連発し、鼻水を啜る患者が少なくない。
大体人間というものは、自分がいま一番困っていることを真っ先に解決したがるものだから、眼科に来た患者というものは目の痒さに最も苛立っている人と考えてよかった。
あるいは、すでに耳鼻科にかかってはいるが、それでも目を掻きむしりたくなって眼科にもやってきた人と想像することもできた。
いずれにせよ花粉症は二つ三つの症状が重なるから、くしゃみもすれば、鼻もかむ。目をこすり、耳の穴やら耳たぶの周囲を指先で弄るなど、落ち着かないことはなはだしいのである。
陣内は医者なのだから、それらの症状が伝染などしないことを分かっているはずなのに、患者が帰ったあと待合室中の椅子を徹底的に消毒させる。筋違いもいいところで、過剰反応と謗られても言い訳のできない行為であった。
「タカシマさーん」
看護師の呼びかけで診察室に入ってきた女性を見て、陣内の表情に驚きの色が浮かんだ。
瓜実顔に切れ長の目、剃り落とした眉に薄く墨を入れた弓張り月が、額にかかるほつれ毛をまつわらせて、白々と照っていたのである。
「お願いします」
頭を下げた髪は、セットしたてのようにふんわりと盛り上がっていた。
「どうされました?」
一応問いかけるのが医師のルールである。
問診抜きで判断すると、とんでもない間違いをしでかすことになりかねない。
インフルエンザの初期症状に気付かず、花粉症と誤診したなどということも実際にあったのである。
だから初診の患者には念入りなアレルギー検査をして、ヒノキやスギなどの他、イネ科の植物、ブタクサ、ヨモギなど、どれがアレルゲンなのか特定するとともに、別の病気にかかっている場合も想定して体温を測ったり触診したりして慎重な判定を下すのである。
しかし、この日の患者にかけた言葉は、そんな実用に根ざしたものではなかった。自分の驚きを鎮めるために、おもわず漏らした問いかけだった。
どういう症状なのかと問うより、どうしてこんな場所に来たのかといぶかしむ気持ちの現れに近かった。
「どこかでお会いしましたよね」
陣内は記憶を手繰るように、目の前の椅子に坐った女性を見つめた。「・・・・たしか小石川の方でお見かけしたような気がするのですが」
「いいえ」
女はかすかに笑みを浮かべて否定したが、目元に寄った黒目の様子が時を超えて何かを語りかけてくるのである。
「いやですわ。そんなに見つめられると恥ずかしくなるではありませんか」
「こりゃあ失敬。しかしどうしてもお見かけしたような気がするもので・・・・」
いったん視線を外したものの、陣内はまだ未練を残して女性を盗み見た。
何気なく手元に置かれた問診表を眺めると、一緒に添えられた国民健康保険証の姓名欄に『高島ひさ』と印字されている。
ちょっと古風な名前だとはおもうが、年恰好から言ってもそれほど不似合いではない。
神楽坂か、竜泉の路地裏で三味線か日本舞踊を習っているのだと空想すれば、昨今でも満更ありえない話ではないと一人納得したのだった。
「先生、それでお診たての方はいかがなんですか」
女性ははにかんだように陣内医師を見上げた。切れ長の目元に寄り残った白目が微かに紅く染まっている。
「そうだ、あなたは富本豊ひな、難波屋きたと並び称された当時三美人のひとり高しまひささんでしょう? いやいや、そうに違いない。わたしとしたことが、うっかり見過ごすところだった・・・・」
「何をおしゃいますやら。わたしは目をこすりすぎて心配になったもので、目薬をいただきに参ったんですよ」
華やかなプリント地のドレスに、茜色のスカーフを首に巻いた女性が、こころもち陣内の方に顔を寄せた。
着物に見立てれば、さしずめ流行の半襟を強調してみせる江戸娘の着こなしに似ていた。いたずら心で陣内医師をからかい、その反応を楽しむといった風情が匂い立っていた。
「や、や、や、や」
院長の威厳もどこへ、陣内は大慌てした。「・・・・たしかに今年はスギ花粉の飛散量が多いが、だからといって早計に断定するわけにはいきません。まず腕の皮膚でパッチ試験をやりましょう」
陣内は看護師の玉枝に検査キッドを出させて、患者の二の腕を肘までめくり上げた。
「あっ」
玉枝が自分の仕事とおもって近寄ったときには、陣内の手が女性の真っ白い腕を掴んでいた。
『礫川(こいしかわ)浮世絵美術館』で、初めて喜多川歌麿の美人画に出会った当時の未熟な勤務医ではないことを途中で思い出し、ならばと少々ずうずうしい中年男に無理やり自分を仕立てている。
この機会を逃すものかと執念こめて掴んだものだから、看護師の方がびっくりして口を開け、続いて軽蔑したように陣内を眺め下ろした。
「先生、痛いんじゃありません」
患者の女性を気遣う振りをして、玉枝がやきもちを焼いている。
何年間も同じ診察室に居ながら玉枝の四肢に触れたことなど一度もなかったから、それが口惜しくてつんけんしているに違いなかった。
「うん、これはめずらしいアレルゲンです。あなた、池とか沼の近くに住んでいますか」
「はい、不忍池に隣り合った場所で長年暮らしていますけれど・・・・」
「やっぱり」
「どうして分かるのですか」
「これはハンノキの花粉アレルギーで、東京では限られた地域でしかみられない症状です」
陣内はめずらしく得意げな表情を見せて念押しをした。「・・・・まあ、上野からなら近いから、春が終わるまでに二、三度は通ってください」
今度は診察椅子に押しつけるようにして、患者の顔に反射鏡を近づけた。
「そのまま目を明けていて・・・・」
いっそう黒目が目元に寄った柳葉状の瞼を、指で固定して覗き込んだ。澄んだ白目の部分が薄い紅に染まっている。
陣内は反射鏡の光を当てながら、鏡の覗き穴から丹念に高島ひさの目を味わい、満足したようにため息をついた。
(ほかの二人はどうしているのだろう・・・・)
歌麿が描いた実名入り寛政三美人図の中の町娘、富本豊ひなと難波屋きたのことを思い浮かべていた。
いったんは三人の名が版木に彫りこまれたものの、寛政五年に徳川幕府の禁令が出て削り取られた。
奢侈に流れた庶民文化を規制するために、錦絵に遊女以外の名を明記することを禁じた時の権力の危機意識を感じ取ることができる。
うかうかと放って置けば、男たちが遊女に対するのと同列の好奇心を町娘に懐き、それが嵩じて秘すべき事柄まで曝されることになり、悪しき風俗の蔓延と為政者に対する不遜な態度が増大する心配があった。
陣内の脳裏を渋谷や新宿で腐っていく少女たちの映像が横切った。少女期特有の黒目がちの眼が熱病に冒されたようにして地に墜ちて行くのを、痛み混じりの感情とともに憤るのだった。
その意味では東京を預かる首長が、徳川幕府の<お触れ>のように風俗条例を強化して、援助交際などというごまかしの少女売春を阻止しようとしている意思を高く評価する。
国に代わって倫理に規範を持たせようとする志は、かつての志士や学者を彷彿とさせる行動として陣内の共感を呼んでいた。
とはいえ矛盾するようだが、流麗に襟を抜いた『当時三美人図』の町娘は目を逸らすことのできない魅力に満ちていた。崩れてはいけないが、崩れる寸前の危うい風情は男ごころを否応なく擽る。
ぎりぎり守られた少女期の眼差しは、陣内の胸に長年棲みついていて、理屈を超えた執着の菌糸のようにはびこっているのであった。
だからいま椅子に押し付けた患者の鼻梁に引き寄せられた黒目は、久しぶりの浮世絵に似て陣内に隠微な興奮を呼び起こしていた。
「高島さん・・・・」
すっかり従順な猫のように仰のいた女性に、陣内が呼びかけた。「ハンノキの雄花は、たくさんの組み紐をぶら下げたように枝から花穂を垂れて花粉を飛ばすのですが、見たことないですか」
町娘の面影は残しながらも成熟してしまった高しまひさが、首を横に振った。
「いいえ、見たことありません」
「まあいいか。雄花を確かめたからといって、アレルギーが治るわけじゃないからな」
もう一度目の中を覗きこんで、診察は終わった。
その日を境に、陣内眼科医院の客足はしだいに減っていった。
三月、四月の天候がぐずつき気味であったということも原因の一つだが、より直接の理由は陣内医師の患者に対する不親切な態度が災いしたものと考えられた。
「えっ、このぐらい我慢できんのかね。・・・・まあ、目薬を出しておくから、しばらくそれで様子をみなさい」
心ここにあらずといった調子で、おざなりな診断を下すばかりだった。
以前だったら、同じことを言うのにも気配りが違っていた。日に依ったり、相手に因ったりばらつきはあったが、いまよりは仕事に意欲を持っていた。
「目薬をこまめに注して隅々まで行きわたるようにパチパチしなさい。薬液は二種類だからね。片方だけでは効果がないんだよ」
機嫌の好いときは、噛んで含めるように言うのが陣内の特徴だった。
口調が変わって投げやりになったのは、高島ひさが姿を見せなくなったことに関係している。初診の日にお目見えしたっきり、その後陣内の指示など忘れたかのごとく現れないものだから、落胆してしまったのである。
こうなると、医師と患者の力関係は微妙なものになっていく。正直にいえば「お願いだから来てください」と哀願したいくらいなのだ。
そのあたり、看護師の玉枝は陣内の心中を敏感に読んでいる。
(まったくスケベな先生なんだから。あんななよなよした目病み女のどこがいいんだか)
そのくせ玉枝も、もう一度『高島ひさ』を見てみたい気持ちはあった。
女として椅子にさえ蕩けるように抱かれていた姿が憎らしいのだ。
陣内が異様なまでの熱心さで診察する様子を息を殺してみつめていた玉枝だから、再び同様の機会が訪れるのを怖れながらも密かに待ち望んでいたのである。
しかし、陣内と玉枝の願いは適わぬまま花粉症の季節が終わった。
看護師の方は患者の気まぐれにいつまでも付き合っていられないから、高島ひさを待つ気持ちもまもなく消えた。
一方、不機嫌と不親切の頂点まで達した陣内は、休診日を使って地下鉄春日駅に近い『礫川浮世絵美術館』に出向いた。
大学病院に勤めていたころ神田の古本屋で図版を目にし、その場から後楽園まで地下鉄に乗ってビル五階の浮世絵美術館まで直行したのが最初だったから、長いといえば長い付き合いだった。
このところは忙しさにかまけて足が遠のいていたが、久しぶりに訪れてみると入館者も少しばかり増えていて、一部の愛好家が中心とはいえ根強い浮世絵人気が実感できた。
こじんまりとしたマンションの一室だから、展示スペースも限られている。
陣内は入場料を渡すのもそこそこに、めざす喜多川歌麿の浮世絵美人画を捜したが『当時三美人』と銘打った名入り版木の初版摺りは展示されていなかった。
「以前こちらに掛かっていた寛政三美人図は、もう見られないのですか」
受付けに戻って、黒のブレザーに身を包んだ小柄な女性に聞いてみた。
「いいえ、当美術館の目玉ですから適当な周期で展示しております」
もともと松井英男という医学者の個人的な蒐集物を公開する場所だから、ローテーションその他あまり先の日程までは定まっていないのかもしれない。
二千点ものコレクションの中から一度の展示がせいぜい四十点ほどらしいから、要望でもなければなかなか順番が回ってこないのだろう。
「今年はいつ頃の予定ですか」
「すみません、二ヶ月前に終わったばかりです」
「そうか、それは残念。・・・・しかし、いまも間違いなく収蔵されているんですよね」
「もちろんです」
何をいうのかと呆れた表情で陣内を見上げた。
(今度はいつ会えるんだろう・・・・)
コレクションがどこに仕舞われているのか想像できれば、いくらかは落ち着けるのだが、そんなことを訊きだそうとしたらたちまち疑いの目を向けられる。
「来年も二月か三月ごろなんですか。どうしても花粉の飛ぶ季節は避けられないんでしょうか」
陣内がぼやくよう言った。
「えっ?」
受付け嬢が怪訝そうに陣内を見た。「・・・・お客様は、ひどい花粉症なのですか」
「ああ、いやいや。・・・・そういえば、ここは小石川植物園にも近かったな」
独りごとを言いつつ室内をめぐり始めた陣内を、小柄な女性の視線が追尾していた。
せっかく浮世絵美術館を訪ねた陣内だったが、寛政三美人に会うことができずに落胆した様子で灯りを落とした医院に戻った。
この日はもともと休診日だからいいのだが、陣内眼科医院は翌日も玄関の取っ手に『本日休診』の木札を下げて二日続きの休業となった。
臨時休診の断り書きをガラス戸に貼った看護師の玉枝は、扉の隙間からしばらく外の様子を窺っていたが、患者が来る気配もないことから所在なげに引っ込んで奥の陣内に声をかけた。
「院長先生、お加減はいかがですか」
「うーん、少し熱があるようだ・・・・」
棟続きの自宅から診察室に這い出してきたのはいいが、仕事に意欲が湧かないまま急遽休診を指示したぐらいだから、よほど具合が悪いらしい。
「昨夜はお遊びが過ぎたんじゃありません?」
何も知らない玉枝は、陣内をからかうように語尾を上げて追い討ちをかけた。
「若葉の季節に風邪でもひいたかな・・・・」
陣内は浮かない顔でつぶやくと、普段は患者を坐らせて診察する肘掛け椅子に自らの体をどさんと放り出して、看護師玉枝に指示とはいえぬ注文を出した。
「すまんが玉枝くん、そこの反射鏡をつけてぼくを診察してくれないか」
冗談半分であっても、医療行為をしたとなれば直ちに咎めを受ける種類の話だから、玉枝は一瞬言葉を失った。
だが、持ち前の負けん気が頭を擡げて陣内の冗談にのっかる方向へ心が動いた。
「先生、診てはあげますが、誤診だなんて騒がないでくださいよ」
「いいとも、しっかり診てくれ」
冗談も本気でかかると胸の高鳴りさえ感じるものだ。
ライトを点け額帯反射鏡を装着した看護師と、仰のいて身を任せた陣内医師の間に不穏な距離が残された。
「うーん、これはいけませんね。眼球に熱りが見られます。どうやらインフルエンザにかかったようですね」
陣内の日頃の口調を真似て臆するところがない。
(そうか、眼の風邪だな?)
いまごろ不忍池に近い住まいで静養しているであろう高島ひさの身の上に想いが飛んだ。
二月の展示期間中、さんざん人目に曝された浮世絵美人たちだから、富本豊ひな、難波屋きたも夫々の休養をとっているのだろうと思い至った。
錦絵から抜け出るたびに浮世の風に当たり、わずかずつ齢古りていく寛政三美人だが、再び浮世絵展のガラスケースに戻る時には初々しい黒目を目元に寄せて、観るものを魅了するに違いない。
「おっと、熱に魘されたか・・・・」
陣内は白日夢を払うように、鏡を光らせて迫り来る女の気配を横にかわした。
(完)
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ある眼科医の妄想とも夢とも定かではない奇妙な世界を堪能しました。
来院したのは現の女らしいが。
境界がはっきりしないことによる不思議な面白さ。マスメデイアの間接情報の洪水の中で生きている私たちには誰にも少しは心当たりのある世界です。
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楽しく読ませていただきました。知恵熱おやじ