(やもめの墜落飛行)
誘いこまれるように映画出演を果たした家主の老人は、年齢のわりには筋肉質の体をさらして好色な作家の役をこなした。
信じられないことだが、一つの役を与えられることによって、日常のしがらみが伸びきったゴムのように足元に脱け落ちるのを感じることができた。
先祖伝来の地主としての威厳、健全な家族構成を保ってきた体面、自らが生きてきた戦中戦後の記憶、それらがことごとく無力な紐となって横たわっていた。
『かもめのジョナサン』を想い浮かべつつ大空に向かって飛翔する老人にとって、かつて町内の役員であったことなど地上の雲を見下ろすほどの感慨もなかった。
「先生、来て・・・・」
女優のくすぐるような声に引き寄せられると、光り輝く水面に向かって喜喜として着水するのだった。
「あーん、すごいわ」
恥かしげもなくむき出した老人の尻に、力が漲っていた。
光のなかで、生命が躍動していた。
「もっと足を持ち上げて」
背後からの激励に応えて、女の膝に手をくぐらせた。
カモメは、跳ねる魚を押さえつける。
「いや、いや」
抵抗する魚の肢体が、筋肉をとおして大型魚とのファイトを目覚めさせる。
何年にもわたって束縛されていた自由への希求が、いっぺんに解き放たれる瞬間がきた。
「くうーッ」
タブーを感じて寸前に跳ね退いた体から、歓喜のしるしが飛沫となって飛散した。
まさかと思っていた完璧な進行に、背後から拍手が起こった。
「先生、すごいよ」
監督の明るい声が、家主の背中に心地よくぶつかった。「・・・・こりゃあ、帝王も真っ青の画が撮れたんじゃないか」
「まさか、出すとは思ってなかったのに・・・・」
カメラマンが感嘆の声をもらす。
「ほんと、ぶちまけるとはなあ」
監督がうれしそうに追随する。
腹のあたりに飛び散った男の精を指で確認した女優が、やにわに家主の腰を掻きいだいた。
白毛まじりの下腹部に顔を寄せ、役目を終えたシンボルを唇に吸い込んだ。
あわてて横にまわったカメラが、うっとりと目を閉じた女優の顔をアップする。
抜け殻になって天に吸い寄せられるカモメを押しとどめるように、天使の唇がうごめく。
「だめ、まだ、行っちゃ駄目・・・・」
何かを直感したとしか思えない呟きが、家主をつなぎとめる。
まだ行っちゃ駄目とは、恍惚と引き換えの昇天を阻止する言葉だったのか。
「オッケー、美奈もよくやった。ラストの機転が最高だったよ」
ニコニコ顔の監督が、家主の視界に入ってきた。
その間に、後ろから浴衣をかけられた。
にきび面のスタッフが駆け寄って、ドリンク剤を差し出す。
誰もが主役の老人をいたわり、尊敬のまなざしで祝福する。
「いやあ、こいつはいいよ、高齢化社会のカンフル剤になるぜ」
監督がプロデューサーの顔に戻って、販路の拡大を意識した発言をした。
「そうですね、肝心の画だけ撮っておけば、ストーリーは編集できますから・・・・」
カメラマンも手ごたえを感じているようだった。
撮影スタッフが引き上げると、アパートの階段下に箒と塵取りを手にした家主の姿があった。
老人はもとの作業衣に着替え、あたかも昼寝から覚めた直後のように、満ち足りた表情をしていた。
眩しそうに二階を見上げ、金属製の階段を昇り始める。
猫のように音を忍ばせた足運びと異なり、今度はグァングァンと反響をともなう力強い踏み込みだった。
登りきったところで、左右どちらの部屋に入るか逡巡する。
一瞬迷った末、老人はまず左手のドアを引いた。
撮影が終わったばかりの現場には、まだ残像が貼りついていそうな気がしてためらいがあった。
一方、彼が細工した覗きのための部屋は、暗い中にときめきの鼓動を残していた。
靴下のまま畳を踏む。
足の裏に、爛熟した肌の感触が伝わる。
脚立に乗って、押入れに潜り込む。
毛布に膝をつき、ドリルであけた穴に目を押し当てる。
目隠しのビニールシートを取り払った窓から、傾きかけた太陽が西日を送り込む。
老人の了解を得て置いていった撮影用の文机が、壁際に艶々と光彩を放っていた。
家主は、息をつめてそのあたりを凝視した。
女優の美奈が、着物をはだけて横たわっていた。
古風な模様の衣装から、白い太ももがせり出していた。
誰に剥かれたのか、臍の上までたくし上げられた着物の裾が、蹴出しの赤とコントラストをつくっていた。
「ふうーっ」溜め息が漏れる。
反応した精嚢から、快感の残滓が搾り出される。
筋肉を持ち上げるだけの力はないが、記憶をとどめた砲身がいくさの備えを整えている。
既視感よりも生々しい映像が、覗き穴の中に展開する。
痩せた尻に、筋肉の緊張を漲らせた老人が、絡みつく肢の基点を壊さんばかりに打ち据える。
「美奈、美奈・・・・」
それは歓喜の声であり、愛の叫びだった。
老人を主役に据えた企画は、プロデューサーの思惑を超えて売れたらしい。
作家を主人公にした作品を三本つづけて撮り、その後は御用聞き、植木職人、集金人などにストーリーを変えてリリースした。
宅配のほか、老人ホームや福祉施設までカバーした販売戦略が効を奏していた。
生身の天使や、ダッチワイフの使用に踏み切れない悩める性が、アダルト・ビデオの<老人シリーズ>を支えていた。
しかし、いかにタフな家主の老人とはいえ、次第に撮影に支障をきたすようになった。
使い慣れたアパートならともかく、環境が変わるロケシーンに参加するようになると、元気のなさが目立つようになっていた。
家主の老人には、美奈以外の相手は考えられなかった。
一度別の女優をお屋敷の令夫人に仕立てたが、庭師の急襲は不発に終わった。
代役を立てられて面目を失った家主は、以後濡れ場抜きの筋書き用演技者に甘んじていた。
顔や姿を撮り、ストーリーの展開を図りながら、出来上がったクライマックス・シーンでは、代役の分厚い尻が踊っていた。
老人は、美奈に恋をしていた。
プロデューサーに申し出て、美奈の出演を拒むようになった。
「先生、無茶を言っちゃ困りますよ。美奈はうちの稼ぎ頭なんだから、そんなわがままを聞くわけにはいきませんよ」
「・・・・」
「それとも、先生の専属にしますか? するんだったら、相応の対価を払ってもらわないと・・・・」
優男に見えたプロデューサーが、そのときばかりはしたたかな笑みを漏らした。
何回かの話し合いの末、家主は資本の半分を引き受けて共同経営者になった。
それとともに、美奈をアパートの一室に住まわせ、機会をみて後妻に迎える約束をした。
家主の老人は、アダルト・ビデオ制作会社『M』の経営に携わり、当初かなりの利益を享受した。
しかし、一年もすると競合する作品が数多く作られるようになり、だんだん資金繰りに窮するようになった。
当然、家主のもとに相談が寄せられる。
定期預金を解約して資本参加した時点から、三倍の出資になっていた。
「美奈ちゃん、どうしたものだろう・・・・」
いつしか近所からも公認の関係になった内妻に、伺いを立ててみた。
「いま手を引くと、六千万円の損でしょう? ここは踏ん張りどころよね」
美奈は新しい企画を口にして、挽回可能の見解を示した。
「おう、不良老人集団による高速痴漢バスか。運転手もグルで、知らぬはバスガイド一人だけ。いいね、いいね・・・・」
乗り気になった老人は、土地を担保にさらに二千万円の債務保証をした。
美奈にいたわられて春情を回復した家主は、中型バスを使っての高速痴漢バス撮影ロケに加わった。
中央高速をひた走り、全面カーテンを引いて補助椅子に組み敷いての撮影が続いた。
そのあとは、富士五湖の一つ精進湖に近い別荘を借り切って、放し飼いギャルたちとの饗宴を繰りひろげる設定だった。
不良老人たちが、バスガイド相手に見境なしの落花狼藉を「Fin」して到着したとき、先乗りした浮かれ娘三人が好奇心を抑えきれない目で彼らを迎えた。
中に一人、老人集団をいぶかしげに見つめる女がいた。
リビング・ルームのソファーに座って説明を受けている間も、その女は浮かない顔をしていた。
「あたし、やだ」
この期に及んで拒否の姿勢を示した。
「なんだ、ちゃんと説明してなかったのか」
監督兼プロデューサーが、怖い顔でサブマネージャーを詰問した。
「茜ちゃん、東京ではオーケーしたじゃないか」
「だって、これじゃあ、相手はお爺ちゃんばっかりじゃない? あたし、小父さんて聞いてたんだもん」
「・・・・」
調達係りの男は、ぐうの音も出なかった。
「そうですか、已むを得ません」プロデューサーがあっさり引き取った。「・・・・それじゃ、河口湖駅まで送らせましょう」
運転手に指示して、すぐに出発するように準備させた。
「さあ、行きましょうか」
「でも、構わないんですか。あたし、なんだか・・・・」
煮え切らない反応だった。
「きみ、ちょっと・・・・」
別室に呼んで念を押すと、あと二千円ギャラを上積みすれば、約束どおり本番もオーケーという。
なにやら不安な思いが残ったが、スケジュールに追われているプロデューサーは予定通り撮影を強行することにした。
人間の感情は、いくつになっても変わらないものだった。
あからさまに忌避された老人たちは、一人が茜の欲望を追い上げるのを待って、性具も動員して前後左右から快感の洗礼を浴びせた。
ギャラの分だけ責められた茜は、白目をむいて果てた。
不良老人を侮った女のぬかるみを、非情なカメラが舐めるように撮り続けた。
『高速痴漢バス』の編集が終わって宣伝を始めた矢先に、管轄の県警から呼び出しを受けた。
匿名の告発をもとに高速道路監視カメラらの映像を照合した結果、複数の男たちによる女性陵辱の疑いが裏づけられたというのだ。
中型バスのナンバープレートも写っていて、どうにも言い逃れの利かない状況に陥っていた。
プロデューサーが出頭し、縷々説明したが容疑を晴らすことはできなかった。
道路交通法違反だか猥褻物陳列罪だかで摘発され、異議を申し立てなかったことで罰金刑の言い渡しがあった。
出来上がったマスター・テープは証拠品として押収された。
老人を慰めるはずが、捜査関係者のみ喜ばせる結果となった。
スタッフの給料、男優女優のギャランティー、調達ギャルの日当、バスのレンタル料、貸別荘の使用料、その他あらゆる経費が泡と消えた。
何より落胆したのは、美奈のアイデアが日の目を見ることなくお蔵入りしたことだった。
老人が日を改めての再撮影を申し出たのに対し、プロデューサーは頑として拒否した。
「チクッタのは料金係に決まっている。正面から見れるのは、奴らと監視カメラだけだ」
「だから、運転席と完全遮断すればいいでしょう?」
家主は近ごろ、共同事業主として対等の口を利くようになっていた。
「先生、今度みつかれば身柄を捕られますよ。・・・・誰が責任をとるんですか」
しかし、売れるAVを作らなければ事業が立ち行かなくなる。
「捕まる心配より、倒れる心配をした方がいいよ」
老人は、共同経営者のプロデュース能力に対し不満を顕わにした。
「・・・・」
二人の間に隙間風が吹き込んだ。
綱渡りの経営が成り立っていたのは、これまで責任体制がはっきりしていたからだ。
だが家主の老人が口を挟むようになって、経営がうまく行かなくなった。
息子たちの反対を押し切って美奈を後妻に迎え入れた老人だったが、納入先の代金未払いが度重なり、赤字が膨らむばかりだった。
共同経営者でもあるプロデューサー兼監督の使い込みも発覚し、追及するとその夜のうちにトンズラされた。
金銭の臭いを嗅ぎつけたチンピラが、あれこれと難癖をつけてきた。
監督の操縦で堅気にとどまっていた若手スタッフが、給料の支払いと今後の準備金を要求して老人を吊るし上げた。
三日経って、頼みの弁護士事務所から戻ってくると、美奈の姿が見えなくなっていた。
よもやと思う一方、やはりと納得する心があった。
カモメは、カモメ・・・・。
『かもめのジョナサン』は、群れから外れ、ひとり天空を目指して飛翔する。
神が支配する光の国は、どこが天なのか地なのか見分けがつかなくなっている。
(いずれ、こうなる気がしていた・・・・)
老人は一人焼酎を呷りながら、自分がカモメになったあとの軌跡を網膜の奥にたどっていた。
(すべては、あの日から始まった・・・・)
天地開闢の第一日がはっきりと分かる幸せは、その他の不幸を補って余りあるものだった。
先祖伝来の地主である威厳が潰えても、健全な家族構成の体面が保てなくなっても、そんなものはすべて混沌に飲み込まれてしまう。
(痛みを感じるとすれば、美奈の失踪だけだ)
妻としての法的権利を投げ出して、彼女は監督の許に走ったのだろうか。
もし、このまま何の連絡もないとすれば、光の国にぽっかりと開いた闇に向かって、白いカモメが墜落する姿を見られるはずだった。
(おわり)
作者の自由闊達なぶっ飛びぶりに唖然、呆然、拍手喝采です。
競演女優を羽の下に囲い込んだつもりが、逆に囲い込まれたか。はたまた深層意識下ではそれこそが願いだったかもしれませんが。
老人の願望と精神力は意外にタフなんですよね。
一出演者としての立場を守っているうちは、こんな愉しいものがあるのかというのが映像の世界なのでしょうが、うっかり制作者になるといろんな名目の莫大な金食い虫にたかられて借金地獄に落ちるのがお定まりらしい。
M、sなど著明なスターたちが自ら制作、監督に魅入られた末、莫大な借金の生理に苦しむ姿は枚挙に暇がありません。
結局映像制作業のからくりを知っている誰かが、その作品制作をネタに金主から甘い汁を搾り取っているというのが大部分の実体なのでしょう。
クリント・イーストウッドやシルベスタ・スタローンなどごくたまに興行的にも成功して財を成すスターもありますが、それはあくまでも例外といえるようですね。
もっともAVの世界は映像といっても裏街道の小さな世界なのでしょうが、そこにもやっぱり裏街道なりの魅力があるらしいことを、この一連のシリーズは実によく描いていて、本当に愉しませていただきました。
地主の威厳を失って混沌に落ちるにしても、その魅力から離れられなくなってしまったヤモメのジョナサン。
ボクはなんだかこういう人、好きだなあー。
いつかまたこの後日談なんかを読ませてくださいませ。
待っていますぞ。
ほんと。
(知恵熱おやじ)様、お蔭さまでなんとか最期を迎えることができました。
しかし、この老人、このあとどうなってしまうんでしょうかねえ。
他人事ながら心配です。