小市の家では、ジイちゃんの寝床を囲んで家族のものが不安そうに顔をよせている。
「もうそろそろ町田先生が来てくれる頃なんだが・・・・」と父。
「ずいぶん苦しそうね。見てるのつらいわ」と母。「・・・・ヨシコ、お前はもう小市を連れてリビングに戻りなさい」
うながされて、ヨシコは一瞬とびのくように跳ねた。
立ったまま覗き込もうとしていたところなので、重心の掛け方がちぐはぐになったのだ。
「はい・・・・」返事をして、すぐに小市の手を取り、開けっ放しの寝室を出て行った。
「姉ちゃん、痛いよ」小市はいきなり力を込めて引っ張られたので、理不尽なことをされた風に文句を言ってみた。
「ジイちゃん、死んじゃうのかな」と姉。
小市は、ジイちゃんの様子をあまり見ていたくなかったので、リビングルームに戻ってほっとした。
「あっ、だめ」
小市がテレビを点けようとしたので、ヨシコが制したのだ。「・・・・ジイちゃん苦しんでいるんだから、音立てちゃダメ」
止められて、小市はつまらなそうに室内を見回した。
すると、台所の片隅に置いてあった虫かごが目についた。
中には小市が大切に育てているコガネムシが入っている。
家の中で昆虫を飼うことを好まない母親は、ふだん虫かごに黒い布をかけておく。
餌の葉っぱは、自宅から表通りに出る道沿いに桜並木があり、その枝から毎朝小市が柔らかそうな葉をとってくる。
虫かごをあけて入れておくと、足で手繰り寄せてモリモリ食べ始める。
小市はそれを確認してから、近所の友達のところへ遊びに行ったり、家でゲームをしたりする。
この日は朝からジイちゃんの具合が悪かったため、外にも行けず友達も呼べず、ときどき様子を見に行っては重苦しい雰囲気に困惑していた。
往診の町田先生が来たのは、午後の4時頃だった。
ふうふう言いながら階段を上ってきて、「水を一杯所望できませんか」と白いハンカチで顔の汗を拭いた。
母があわてて台所に走り、コップに水道の水を汲んでくると、「いやあ、すまんです」と一気に飲み干した。
小市はそのやり取りを覗き見て、医者というものは少しもあわてることのない人種なのだと理解した。
扉を閉めると薄暗くなる玄関だが、町田先生のふとった体の周りには外から連れてきた陽光がまとわりついている。
カンカン帽と麻の洋服が白く光っているに過ぎないのだが、苦しんでいるはずのジイちゃんのことを思うと、早く診てほしいと思うのだ。
「では、先生・・・・」
母が往診カバンを取って先導すると、町田医師はのっしのっしと後に続く。
小市と姉のヨシコがそっと後を追い、何が行われるのか盗み見ようとする。
先生はジイちゃんの様子を一目見て、「これはいかん。まだ病院に行かないと頑張るのかね」と、付きっ切りの父親に尋ねる。
「へえ、なにせ昔からの病院嫌いでして」と父。
「そうですか、とりあえず痛みを忘れる注射を打っておきますが、夜中にはだんだん効き目が薄くなってきますから、看病が大変ですぞ」
そう言い残して、町田医師は帰っていった。
「お父さん、ジイちゃん今晩が峠だって。・・・・酒を飲まずに待機してるから、様子が急変したら電話をするようにって」と母。
もう一度、町田先生が夜中に駆けつけて、祖父ちゃんを楽にしてくれるんだと、聞いていた小市もほっとした。
ジイちゃんが穏やかな寝息を立て始めたすきに、一家は大急ぎで夕食を済ませた。
そうめんと木綿豆腐の冷ややっこ、それにクジラの缶詰という簡単なものだったが、父と子供たちは争うように手を伸ばして空腹を満たそうとした。
母は残ったそうめんをスルスルとすすっていたが、その合間にはため息を漏らした。
「ジイちゃん、おカネのことを心配して、病院に行かないと言ってるのかな・・・・」
母のため息を振り払うように、父は看病に戻った。
実の娘の母とは心労の度合いが違うことを気にしているのか、できるだけ病人の近くにいることで、負担のバランスを取っているのかもしれなかった。
食事が終わってやることのなくなった小市は、虫かごにかけてあった布をはぎ、腹ばいになってコガネムシの様子を飽きずにながめていた。
「小市ったら、虫のことしか興味ないの?」
「姉ちゃんも、お母さんと同じこと言うね」
「どこが面白いのかなあと思って・・・・」
小市はもう返事もせずに、虫かごの底に敷かれた土を均したり、食べ残しの葉を取り除いたりしたが、「・・・・そうだ、新しい葉っぱをとってくるから」と外へ出ていった。
「あっ、外は真っ暗だからすぐ帰ってくるのよ」ヨシコの声が追いかける。
と、何を思ったか小市が戻ってきて、虫かごを持って再び玄関を出ていった。
しばらくして戻ってきた小市の様子を、ヨシコはそっと見守ていた。
持って出た虫かごは、持ち帰った形跡がない。
小市には小市の考えがあるのだろうと、うるさく尋ねることはやめた。
「さ、もういいの?」
小市の気がすんだのを見計らって、寝る準備をした。
「じゃ、電気を消すよ」
小市は、自分が外でやってきたこと思い出して、暗闇の中で満足そうに顔を崩した、
(コガネムシだって、うちの中へ閉じ込められてたら可哀そうだ」
ジイちゃんの苦しむ唸り声を、自分と同じようにコガネムシも聞きたくないだろうと考えたのだ。
だから、道沿いの草むらに虫かごを置いて、夜の涼しい空気を吸えるようにした。
星の光に照らされて、スヤスヤと眠るコガネムシを想像しながら、小市もいつの間にか眠りに引き込まれていた
やはり夜中に病状が悪化したらしい。
小市は夢の中で、町田先生に電話する母の切迫した声を聴いた。
なんとなく事態を把握しながら、小市は眠りの底に沈んでいた。
そして,どれぐらい経ったころか、バタバタと駆け付けた人の気配を感じ、そのあと母にタオルケットを引きはがされた。
「小市も起きなさい。ジイちゃんとお別れだよ」
小市は母の横に座り、母に倣って水を含ませた脱脂綿でジイちゃんの唇を湿らせた。
父のそばにちょこんと座った姉も、同じように死に水をとった。
「やはり今夜が峠でした。心臓がだいぶ弱ってたんで、峠を越せなかったのは残念ですが・・・・」
町田医師は、自分の見立てが正しかったことと、祖父の死を納得させたかったようだ。
「いや、ありがとうございました。こんな深夜にお呼びしてしまって、申し訳ありませんでした」
「いやいや、医者というものはこうした職業ですから。それより、帰ったら死亡診断書を書いておきますから、取りに来てください。役所への連絡も忘れずに」
夜半過ぎだった。
町田医師が帰ってしまうと、小市は起きているのがつらくなった。
顔に白い布をかぶせられていても、ジイちゃんの苦しそうな形相が目に浮かんできて、その場にいるのが怖いのだ。
「お母さん、ぼく眠い・・・・」
叱られるだろうと思ったら、あっさりと認めてくれた。「・・・・ずっとだもんね、疲れるの当たり前よ」
気兼ねなく寝床に戻り、再び眠りに入った。
いつしか、小市は夢を見たようだ。
深夜、虫の声も止んだころ、煌々と草はらを照らす月の光が凝集して1本の柱になった。
すると、その光の中を一匹のコガネムシが眩く光りながら空へ向かって吸い上げられていく。
(あっ、どこへ行くの?)
小市の狼狽を無視するように、この夜、小市の周りから何かが消えた。
恐怖も悲しみもない、淡々としたできごとだった。
翌朝、小市は虫かごを置いた草はらに行ってみた。
虫かごの戸が5ミリほど持ち上がり、そこに昨夜大急ぎで差し込んだ桜の葉が挟まっていた。
夜は、思いがないことが起こるのだ。
とくに、満月の夜は。
小市は、ジイちゃんが買ってくれた虫かごを手に提げて、すたすたと家に戻っていった。
(おわり)
この詩を詠みながら、私の父の亡くなったときの様子が鮮やかに蘇えってきました。
私の父に比べると、このジイちゃんの最後は、意外と幸せな最後だったのではないかな、という気がしました。
更家さんの心に想起したものと、一部重なるところもあろうかと思いますが、やはり身内を亡くした時の悲しみはいつまでも忘れられないものです。
それでも、作品の中のジイジは家族に看取られているわけですから、おっしゃるとおり幸せな最後といえると思います。
いつもコメントをいただき、力づけられています。