何度もアップすることになる我が屋の懸崖の梅、暮れの内に咲いてくれたが、その開花は遅々として進まず0,5分(?)咲きということか。梅は、桜の様にパッと咲くわけではない。その分花期が長く愉しましてくれるので善しとしよう。
さて、今日は集いの役員会、新年会の進めようを検討しなければならない。智慧を出し合って意義のある催しとなるよう計画を立てよう。
何度もアップすることになる我が屋の懸崖の梅、暮れの内に咲いてくれたが、その開花は遅々として進まず0,5分(?)咲きということか。梅は、桜の様にパッと咲くわけではない。その分花期が長く愉しましてくれるので善しとしよう。
さて、今日は集いの役員会、新年会の進めようを検討しなければならない。智慧を出し合って意義のある催しとなるよう計画を立てよう。
早くも今日は8日、歳神様も御帰りになる。多くの願いを託したので丁重にお送りしよう。松飾りなどは、例年近くの神社に納めることにしている。こんな作法もこのところの我が家の習わしである。
ところで郷里では、屋敷にある産土神の境内に00家一族の者が、正月飾りをそれぞれ納めていた。山となった松飾も燃やすことなく朽ちるのを見届けていたように思う。決してぞんざいな扱いはしなかった。子供心にも神様と結びついているんだと思い、素朴な信仰心を培われたのである 。
日本固有の桜草は、原野の植生がかわり年々減少しているという。我が家にも管理が悪いのか鉢植えの桜草、いつの間にか絶えてしまった。それに比べこの西洋桜草は生命力が強い。こぼれ種でも庭のあちこちに芽をだし、アップしたように早くも咲きだしたものもある。
このところ植物でも動物でも外来種が跋扈するような気がする。困ったものである。あの清楚な花をつける桜草、園芸店でしか観られなくなるというのは、寂しい限りである。
今年の成人式は、9日か。何故か移動する祝日は重みがないように思う。
ところで、我が家の総領孫成人式を迎える。「じぃーじー」と訪ね爺を愉しませてくれたのがついこの前の様に思う。早いものである。昨日は、一足先にお祝いを届けるために倅宅に出向く。人生の節目として意義あるものとして迎えて欲しいものである。
その後、孫と二人で高幡不動へ参詣する。参道は未だに初詣客で混雑していた。爺を気遣いし、いろいろ語らいの中で孫の成長を頼もしく嬉しくなる。
帰路60年も前の話だが、貧乏学生の身、帰省する往復の汽車賃が惜しくて見送った成人式のことが想い出された。
昨日は、仕事始めとして老人会「集い」の新年会お知らせを作成し配布した。年々参加者も増えているので今年も期待しよう。集い、新年を祝うと同時に、励まし合い、それぞれが希望を持って生き生きと暮らす環境づくりの一助となるようにしたいものである。
ところで話は変わるが、金食い虫の我が家のプリンター、調子もいまいち、それに一色でも欠けるとストップしてしまう。インク代も馬鹿にならない。なんでこんなに高いのか。6色マルチパック3箱も買えばプリンターの値段となる。!!、
新年早々ケチな話か。
ちらほら咲き始めた梅に続いて、蝋梅の若木もその蕾を綻び始めようとしているのでアップしてみた。暫らくしてあの香り愉しめそうだ。
さて、穏やかな三が日も終わり今日から仕事始めか。とは言ってもサンデー毎日の身にとってはどうっていうことない話だが、何故か急かされるような気分となるから不思議である。日々あれこれと仕事を見つけて「起きたけど寝るまでとくに用はない」とならないようにするか。
新春の陽射しを浴びてパンジーも元気に次々と咲き誇っている。正月もはや三日、孫たちも帰り静けさが戻ってきた。
年賀状を改めて読み直してみる。年一回の便り、その効用改めて認識することとなる。中には、40年以上もお会いすることない方もいて懐かしさが募る便りもある一方、「小生 寄る年波を感じるに至り 誠に勝手ながら今年をもちまて、、、}と淋しい便りもある。
元気なうちは、人の輪を大切にし精一杯続けよう。
暮れに咲きかけた懸崖の梅、ちらほら咲いているのでアップしてみる。
今日は正月二日、ところでお正月というと何故か遠い子供のころを想い出す。皆質素な暮らし中で日々生活していたので、お正月は格別だった。新しい下駄や足袋をを買ってもらい、普段つぎはぎだらけのボロを着ていても正月は誰しも晴れ着を纏い、母親の手作りだが、日ごろ口にしない料理を頂けると言う喜びがあったからである。また、遊びも特別のものがあった。
今の様に豊かさの中で生活していると、お正月を迎える歓びは、あの遠い昔のものとはだいぶ違ったものになっているとつくづく想う。孫たちが大人になった時、どんな思い出として残るのだろう。爺婆として関われることは、等と素直に育つ彼らを見て思うのである。
5時起床、まだまだ暗いがすべての雨戸を開ける。冷気が気持ちいい。既に我が家にも歳神様が来ているようだ。早速神棚の灯明をつけ、若水をあげ二拝二拍手一拝と型にはまった作法で祈りを済ませる。これが正月を迎えるこのところの自分なりの儀式である。
やがて無精だが、リビングの窓から射し込むご来光を拝み、穏やかなお正月を迎えたことへを感謝し家族の安穏を祈る。
さてさて、恒例の子や孫たち新年の挨拶に訪れる時間となった。久しぶりの賑わい、好々爺らしくふるまわねば、、、。