さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

樺太記念館 2

2021年04月14日 | 北海道シリーズ


今までいくつもの北方民族に関する資料館を見てきました。蝦夷地、千島列島、
樺太、そしてロシア東部の大陸に、実に様々な少数民族がたくさん住んでいました。
食料には海獣、鮭、昆布など、漁や狩りをしたりして自然と共生していました。

世界中のどこでもそうですが、近代的な軍隊を持った列強諸国がそういうところに
どんどん押し寄せて、開拓(侵略)して木を切り倒し、石炭を掘り、陸でも海でも
あらゆる資源を大規模に漁り始めたわけです。漁る(あさる)という言葉がぴったり。


先祖代々住んでいた原住民らは住処を奪われ、生活は立ち行かなくなったのです。
そして人権を無視されて蔑まれたわけで。。。(; ・`д・´)


機械を使ってワラワラと木を伐り出されるのを見て、先住民はどう思ったか?
パルプ工場がどんどん建設され、日本で読まれた新聞の何十パーセントは樺太の
木から出来ていたとか。

映像で「北海の漁」も見ました。北の海は豊かな漁場ですから、波が高く凍りつく
ような荒れた海に漁船が出て行き、船一杯に魚を積んできました。甲板が波に洗われ、
海水が凍りつくから夜通しその氷を叩いて割るという作業をしていました。激しく
揺れてて、海に落ちたら即死じゃないか!

船が稚内の港に帰ってくると、トラックに魚を積みかえて運ばれていくわけですが、
山積みな上に道路がデコボコだから、魚がボタボタと路上に落ちて、人々がそれを
拾って歩いたそうです。まさにトリクル・ダウンじゃねーか。


知らなかったが、昭和の大横綱・大鵬は樺太出身だったのかー。なんと父親はウクライナ人の
元コサック騎兵将校で、大鵬の名前は「イヴァン・ボリシコ」だったそうです。どおりで
日本人離れした顔と体のデカさだったわけだ。

原爆を落とされて日本が敗戦を認めたとき、ソ連軍は樺太を南下してきました。なので
そこに住んでいた日本人は引き揚げ船に乗って北海道に逃げてきました。10日間で
8万人も逃げてきたそうです。

大鵬と母親は小樽まで乗るつもりでしたが、母親が船酔いによる体調不良で、途中の
稚内で船を降りてしまいました。その船は、留萌沖でソ連の潜水艦の魚雷攻撃を受けて
沈没、大鵬親子は危ういところで難を逃れたのでした。


この模型が、稚内と樺太を往復していた連絡船です。


いつか樺太を旅してみようかな。日本の占領下だった時代の建物なんかを見られるかな。


日露戦争後に北緯50度の線で国境が策定され、標石が並べられました。これはロシア側
から見た表記。


日本側から見ればこうなっています。あちらからロシア語で「ここからは大日本帝国。
だから入るなよ」と書いて、逆も日本語で「ここからはロシア」って書くべきじゃ
ないか?と思ったり。


そういえば釧路に大きな製紙工場があったっけなあ。


裏は港で、漁船が停留していました。最盛期は60隻、いまは数隻もないと言って
いました。盛者必衰の響きあり。。。