さきち・のひとり旅

旅行記、旅のフォト、つれづれなるままのらくがきなどを掲載します。 古今東西どこへでも、さきち・の気ままなぶらり旅。

樺太記念館 1

2021年04月13日 | 北海道シリーズ


稚内の街を歩き出す。お昼だというのに人が全然いません。どこかで昼飯を食いたいが、
営業している店もほとんどなさそうだぞ。


昭和な喫茶店がありました。何か食べるものもあるでしょう。


入ってみると、カウンター席にふたり。カウンター内には人がいない。カウンターに
座っている人が、「どこでも好きなところに」と話す。常連客と座って話をしていた
その人がオーナーでした。

お、サイフォンでコーヒーを入れているのかあ。


ホットドッグを頂きました。
今回の旅は、すべて大浴場付きのホテルで、朝食付きのプランにしました。朝っぱらから
ブッフェスタイルで、普段は朝ほとんど食べないのに、せっかくあるのだからとたっぷり
食べる。だから昼はこんなもんでいいのです。ラーメンはだいぶ食べたけど^^;


雪がだいぶ降っている。しかし気温が低いから濡れなくていい。少し歩いたところに、
樺太記念館があります。なにやら港の市場の一画にあるようだ。お買い物には興味が
ないので、記念館に真っすぐ向かう。どうやら奥の建物の2階にあるようだ。


ム、一階はやけにガランとしているな。


ムム?なにやら昭和のテーマパークのようだ。明かりはついていても、全く誰もいない
ので、なんか変な感じだ。


上から見ると、稚内駅の昔の駅舎のハリボテ。どうやら観光バスの団体さんを隣の市場に
呼ぶために作ったものらしい。


さて2階の奥に、ありましたよ樺太記念館。入ると係員のおじーさんがひとりいました。
入場料無料!


樺太(サハリン)は、もちろん以前はアイヌなどの原住民が暮らしていた島ですが、
近代になってワラワラと北からはロシア人、南からは日本人がやってきて、一時期は
雑居状態でしたが、日露戦争に勝利した日本が、戦後に北緯50度以南、すなわち
南の半分を占領したのです。

この記念館は、「全国樺太連盟」より寄贈された資料を展示しているのです。
全国樺太連盟は、主に樺太出身の人たち、すなわち日本の占領下にあった時代にあちらで
生まれ育ち、太平洋戦争に日本が負けたときにソ連に追い出された人たちが作った団体です。

新聞に載ったので驚きましたが、なんとこの3月をもってその団体は解散することに
なったそうです。なにせ会員の平均年齢が85歳だとか。そういえば韓国の慰安婦の団体も
そんな感じだったよなあ。


何万人もの人たちが、樺太に渡って開拓して町を作って鉄道を敷いて工場を作って
学校を作って暮らしていたのです。それを「侵略」と呼ぶこともできますが。

こちらの係員さんが親切で、いくつかあるドキュメンタリービデオを「見ますか?」と
聞いてくれるのでお願いすると、俺が選んだのを流してくれて、椅子の前にストーブを
寄せてつけてくれました。

まずは樺太の歴史を、おそらくは全国樺太連盟の人が語るのを見ました。あちらで
生まれ、小学校には沢山の生徒たちがいて、町は賑わってどんどん大きくなり、漁業は
もちろん、パルプ工場や石炭産業などが栄え、誰もが地域の発展に大変な努力をして
いたと懐かしそうに語っていました。

それが日本の敗戦でソ連に追われ、何もかも捨てて身ひとつで逃げてきて、生まれ故郷を
失った悲しさ、そして親の墓参りも出来ないことのつらさを語っていました。

努力の成果であるすべての財産をとられ、ふるさとを追われて帰ることもできない
くやしさは生涯忘れられないでしょう。かける言葉もありません。しかしそれと同時に、
日露戦争のときに日本は満州と呼んだ中国の東部、朝鮮半島、そして樺太に軍事的侵略を
行ったわけで(そもそもその前に北海道と呼んだ蝦夷地にもだが)、そのときにそれまで
そこに住んでいた人たちを、そこで生まれ育って先祖代々の努力の結果積み上げた財産を
取り上げたりしたのではなかったか?と思わずにはいられませんでした。

樺太の開拓(侵略)に努力した人たちは、そこに住んでいたアイヌをはじめとする
原住民のことをどう思ってどう扱ったのか?原住民の体験、記憶を集めてこういうところに
保存、展示することはできないのか?と考えたのでした。