旧瀬戸邸にやってきました。ここは稚内漁業の網元、瀬戸常蔵のお屋敷でした。
入れて頂くと、案内の説明をしてくれました。これがまた興味深いお話だったのです。
玄関にあったコレ、なんだと思いますか?「木じゃありません。生き物です」という
ヒント。手に持つとすごく重いんです。答えは次の画像のあとに^^
ここは一階の広間。1階が北海道様式、2階が内地の様式なんだとか。北海道の家屋は、
雪が多いから瓦屋根がないとか、台風がこないので雨戸がないといったお話。
さて、さっきの問題の答え、この部屋にも展示されているやつです。サンゴでした。
養殖だとここまで立派なものはできないから、天然ものだそうで、なんとウン百万円も
するんだって。
これは象牙で出来ています。どんだけ儲かったんだか~w
ここはなんと大鵬が滞在するために作られた部屋なんだって。樺太には行けなくなった
けど、稚内には何度も来たそうです。むかしは飛行機ではなく、青森まで列車で来て、
青函連絡船に乗って来たのかなあ、すると3日ぐらいかかる大変な道のりだったの
では、と言うと、「お座敷列車の車両で来たのでは」とおっしゃっていました。
体はデカいし、国民的英雄だったからねえ。
「すごく大きなすり鉢ですね」と言うと、「こちらの地方では魚のすり身を作るので、
どんな家庭でもこういう大きなものがあるのです」という話でした。
中段の底曳き網漁船、これが稚内漁業が栄えた源になったのです。
ニシン漁は、沿岸で漁をします。江戸時代から明治、大正まで、捕りまくって北前船で
全国に出荷し、大変豊かになったことは鰊御殿などを見物してこのブログでも見て
きましたね。しかし捕りまくるもんだからニシンが来なくなっちゃったw
そして昭和に入ってから、この底引き網漁船が樺太、千島列島、オホーツク海、
ベーリング海まで遠征して魚を捕りまくったのです。この稚内には60艘もあったそう
です。いまは4艘だとか。ちなみに漁獲量は全国2位。1位は銚子だったそうです。
(銚子の資料館のおばーちゃんー!)
案内の方がいろいろ質問してくるのですが、さっきの樺太記念館で稚内の漁業の歴史の
ビデオを見ちゃったからね^^; そのビデオではここの家の人が出てきて、「稚内の
漁業は、200海里制限で衰退した」と話していたのです。
200海里水域制限とは、1970年代に制定された国際的な決まりで、自分のうちの近所
以外で、つまりよその国のほうまで来て勝手に魚を捕るなよ、ということです。
そりゃそうだよねえ。。。あっという間に漁獲量は10分の1以下になったとか。
そんときゃ漁師たちは大打撃。
しかも底引き網漁船は、海底から小魚まで総ざらいしてみんな捕っちゃうから、あとは
砂漠みたいになっちゃって、どんどん海洋資源が枯渇してしまったのです。ひどいw
それを口にしたら、案内の方も「そうなんですよ」と悲しそうでした。
トラックに魚が満載でしょう。北の海で魚を捕ると、氷点下の寒さだからすぐに凍って
しまいます。それを箱に詰めるわけですが、その数たるや万単位!1艘帰ってくると、
億単位の収入になったそうです。そりゃ港町は潤ったでしょうなあ。
さっきの記念館で見ましたが、「トラックからこぼれ落ちる魚を市民が拾って歩いた
そうじゃないですか」と言うと、「拾ってそれを売る商売をしていた人たちがいた
そうですよ」とのこと。すごいな^^;
冬の海で漁師たちが命懸けで魚を捕ってきて、莫大な富をもたらした。宝の山です。
見てこの賑わい。そりゃあ思い出して懐かしくなりますよねえ。。。