足柄の坂下に到りまして、御粮きこし食す処に、その坂の神、白き鹿になりて来立ちき。ここにすなはちその咋し遺れる蒜の片端もちて、待ち打ちたまへば、その目に中りて、打ち殺しつ。
野蒜はわたしもむかしよく食べた気がする。ここでは、野蒜は魔除けであったのか、野蒜を白い鹿に投げつけて撃退している。確かに、野蒜は投げたくなるような形状をしている。白い鹿に白い野蒜をなげつける。それが白くない目にアタって鹿が倒れる。この事態のおちつかなさが不気味である。
先づ野蒜を取つてたべた。これは此處に越して來た時から見つけておいたもので、丁度季節なので三月の初め掘つて見た。少し過ぎる位ゐ肥えてゐた。元來此處の地所は昨年の春までは桃畑であつた。百姓たちが桃畑の草をとつて畑つゞきの松林の蔭に捨て、毎年捨てられた草が腐つて所謂腐草土となり、その腐草土の下にこの野蒜は生えてゐたのである。しかも無數に生えてゐる。ざつと茹でて、酢味噌でたべる。いかにも春の初めらしい匂ひと苦味とをもつた、風味あるものである。
神武天皇だかの御歌の中に『野蒜つみに芹つみに……』といふ句のあるのがあるが、わたしは郷里で幼い時よくこの野蒜つみ芹つみをやつた。野蒜は田圃の畦にあり、芹は水氣をもつた田中の土に生えてゐた。どうしたものかこの野蒜つみはわたしのすぐ上の脚の不自由な姉と關係して考へ出される。多分一二度も一緒に行つたことがあつたのであらう。それでも水田のくろを這ふ樣にして摘んで歩く彼女の姿を端なくも見出でた記憶が殘つてゐるのかも知れぬ。
――若山牧水「家のめぐり」
近代になると、このように野蒜や芹は対象となり、それを扱う人間が見え始める。白鹿が野蒜を呼び、白き現象が一段落すると、ヤマトタケルがオトタチヒメを偲んで「あづまはや」と嘆息する場面が続く。そこで土地は「吾妻」となる。このことの現象は土地の名前として残り続ける。このかわりに、近代では、記憶と描写を用い、名もなき人人に挑むことになったのである。