★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

言葉を剣のように

2020-09-14 22:43:21 | 文学


其の國より科野國に越えて、乃ち科野の坂の神を言向けて、尾張國に還り來て、先の日に期りたまひし美夜受比賣の許に入り坐しき。是に大御食獻りし時、其の美夜受比賣、大御酒盞を捧げて獻りき。爾に美夜受比賣、其れおすひの襴に、月經著きたりき。故、其の月經を見て御歌曰みしたまひしく、
  ひさかたの 天の香具山
  利鎌に さ渡る鵠
  弱細 手弱腕を
  枕かむとは 我はすれど
  さ寝むとは 我は思へど
  汝が服せる 襲の裾に
  月立ちにけり


ここらあたりから、ヤマトタケルはなんだか言葉で闘う人になってきたらしい。「北斗の拳」でも、マッチョマンたちの筋肉の闘いが極点まで達すると、あとは悲しみが強い奴が強いかなんだか知らないが、ケンシロウがすぐ泣くようになってきてしまい、――闘うまでの説教も長くなる。ヤマトタケルはまだかなり若いはずであり、婚約してたミヤズヒメの衣の裾に血がついていたからというて、月経を歌にしてしまうあいかわらず空気がよめないかんじなのであるが、――その前に坂の神(神坂峠の神か?)も言葉の恫喝だけで従わせているのだ。

神坂峠はまだ行ったことがないが、伊那から中津川に抜ける峠である。ここが余りに難所だったので、木曽の街道が開発されたとも言われているところである。峠には必ずつかれた旅人を襲う山賊がいたのであるが、こんなザコにはヤマトタケルは負けない。異常だからだ。わたくしの経験でいっても、ちょっとサイコが入っている人は、一〇代の頃はそれが空回りしているが、次第に言葉だけで人を恐れさせる術を身につけるものである。

張飛が、橋の上で大声で曹操軍を追い返す場面は、三国志の場面でも屈指の名場面であるが、ドラマとか映画でも張飛はただ大声を張り上げるだけだ。しかし本当は、こういうおかしな人物の声というのは、もっと人がいやな気持ちになる独特な感じがあるものなのだ。

神坂も今は秋の収穫でいそがしくもまた楽しい時と思います。
 ことしの秋は、柳ちゃんを連れて神坂の土を踏みたいとは、かねてから楽しみにしていたことでしたが、いろいろの都合で十一月の初めごろに出かけることはちょっとむつかしくなりました。
 さて、きょうは珍しい報告を送る思いでこのおたよりいたします。ことしの夏の初めあたりから、とうさんは自分の生活を変えようと思い立ったからです。
 今までのとうさんの生活が変則で、多少不自然であることは自分でも知っていましたが、おまえたち兄妹を養育するためには、これもやむをえないことでした。長い年月の間のとうさんの苦心は、おまえも思い見てくれることでしょう。だんだんおまえたちも大きくなり、順にひとりずつ独立するようになってみれば、とうさんがまったくのひとりになる日の来ることも目に見えています。それではとうさんも何かにつけて不自由であり、第一病気でもしたときに心細くもありますから、今のうちに自分の生活を変え、晩年になって不自由しないように今からそのしたくをしたいと思います。


――島崎藤村「再婚について」


島崎藤村も神坂の近くで育った。此の人も荒ぶる心を扱いかねて人が恐れる人生を送った。うえの文章は再婚のときの手紙か何かなのだが、自分の故郷がどのようにうつっていたのであろう?わたしにはうかがい知れない。