愛しけやし 吾家の方よ 雲居起ち來も
とうたひたまひき。此は片歌なり。此の時御病甚急かになりぬ。爾に御歌曰みたまひしく、
嬢子の 床の邊に 我が置きし つるぎの大刀 その大刀はや
と歌ひ竟ふる即ち崩りましき。爾に驛使を貢上りき。
ヤマトタケルの物語は、様々な伝承がくっついているという説があるが、確かにこのあと大和にいる后がたくさん悲しみのために出てきたり、地方で結婚するくだりなど、なんとなく若者的なロマンティックな感じがするから、なにか整合性はついてない感じがする。伊吹山で卒倒して恢復したヤマトタケルが都の方ではなく三重の方にふらついて行ってしまうのかもなんだかよく分からんが……。驛使が帰れるんだから、自分も帰れたのではないか……。
でも、そういうことはまあどうでもいいのだ。ヤマトタケルの物語は日本の統一の物語であり、それが天皇との緊張関係のもとでのなんだか割り切れないものであったことがわかりゃいいという感じだ。
わたしは、森敦みたいに、別に芭蕉の足跡を辿ろうとはいまは思わない。なんだが、予想出来る気がするのである。しかし、ヤマトタケルの行軍は一回歩いてみたいものだと思う。しかし、それはたぶん歩いただけで死の行軍となるはずだ。いまは道路も整備されて車や電車でひとっとびだが、日本列島は、すぐに山と川が立ちはだかる迷路のような国なのだ。わたしは、木曽の生まれでそれは「山の中」だったが、御嶽と木曽山脈に挟まれた木曾川沿いの一本線を基本に考えれば、そんなに複雑じゃない。山の部分をもう魔圏みたいに考えないことにすればよいのである。しかし、名古屋に出て奈良京都にも行ってみて、北アルプスから西の部分は、実に複雑な地形がひろがっていて、どっちがどっちだか分からなくなる、迷宮だと思った。加えて、和歌山三重のあたりがこれまた一度入り込んだらどっちが出口だか分からないのだ。
ヤマトタケルは伊吹山でおかしくなり、足がふくれあがって歩けなくなった。ヤマトタケルは列島を西から東までひとりで行っている。ひとりでいっちゃいないだろうが、――それは山と川と海岸を乗り越えて行く想像を絶する行軍であり、いっそ飛んでいきたいと思うのは当然なのである。
ヤマトタケルは列島を歩きすぎたのだ。――というか、当時の人達がこの列島をひとまとめにしてみてみるということの絶望的な困難をあらわしていると思うのである。戦前の我々は、こういう基本的なことさえわすれ、もっとものすごい中国大陸に乗り出してしまった。我々の空間能力は、日本列島の複雑さによって寸断されかなり未発達なのかもしれないのだ。「三国志」から感じられるのは、この能力の違いである。
すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。その時私は明治の精神が天皇に始まって天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、その後に生き残っているのは必竟時勢遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。私は明白さまに妻にそういいました。妻は笑って取り合いませんでしたが、何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯いました。
「私は殉死という言葉をほとんど忘れていました。平生使う必要のない字だから、記憶の底に沈んだまま、腐れかけていたものと見えます。妻の笑談を聞いて始めてそれを思い出した時、私は妻に向ってもし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだと答えました。私の答えも無論笑談に過ぎなかったのですが、私はその時何だか古い不要な言葉に新しい意義を盛り得たような心持がしたのです。
それから約一カ月ほど経ちました。御大葬の夜私はいつもの通り書斎に坐って、相図の号砲を聞きました。私にはそれが明治が永久に去った報知のごとく聞こえました。後で考えると、それが乃木大将の永久に去った報知にもなっていたのです。私は号外を手にして、思わず妻に殉死だ殉死だといいました。
――「心」
漱石の心の世界は、まるで夢のようである。冗談でも本気であっても殉死の心持ちは生じてしまうものだ。理由はわからんがどこからか沸いて出てくる。しかし確かにこれは経験されたものである。