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爾、其の力士等、其の御子を取りまつりて、即ちに其の御祖を握りまつらむとして、其の御髪を握れば、御髪自ら落ち、其の御手を握れば、玉の緒且絶え、其の御衣を握れば、御衣便ち破れぬ。是を以て、其の御子をば取り獲たれども、其の御祖をば得ざりき。故、其の軍士等、還り来て奏言しけらく、「御髪自ら落ち、御衣且破れ、亦御手に纏かせる玉の緒も、便ち絶えにしかは、御祖をば獲まつらず、御子をのみ取り得まつれり。」と、まをしけり。爾に、天皇、悔い恨みたまひて、玉を作りし人等を悪みまして、皆其の地を奪ひたまひき。
后は、髪を剃り鬘にして被り、飾りダマの糸を腐らして巻き、衣装も酒で腐らせて身に纏った。子どもと一緒に后も髪の毛を摑んで引き摺ってこいという天皇の言いつけを守った軍士たちは、失敗した。激怒した天皇は、衣装とか紐とか鬘にはやつあたりはできないので、玉かざりをつくっていた人達の土地を没収してしまった。なんという大人げなさであろうか、髪の毛をひっぱってこいとか、玉飾りの連中はしね、とか、天皇がおそろしくフェティッシュな人であることがわかる(笑)が、――そもそも、この天皇は、暗殺には戦で反抗しようという人間的なやり方をしているからイケナイのではないだろうか。皇后は裏切ったら死刑とか、近代の姦通罪みたいなもので人間を縛るべきなのではないだろうか。
――むろん、姦通罪など、問題外である。
人間のベットのなかの事情まで法律が入り込んだら最悪である。だから、その意味においてのみであろうが、この古事記の時代の方が健全と言えば健全なのである。よく知られているように、日本の近代は、天皇と臣民の関係が、親子の関係みたいにみなされることによって、社会を構築しようとする、逆立ちした社会であった。人間の自由な生活を守るために、最低限の社会を維持するために法律を作るのではなく、社会の成立と人間の生活の成立がイコールなのである。だから、人間の生活が乱れたら、直ぐさま法律で縛るみたいな話になる。
社会のすべてが公的な空間になると、役所や学校の教師が守らなければならないある意味で建前的な言葉しか使えなくなる。「お前の言っている理屈は正しいが、お前自体はまあ微妙」とか「お前はいい奴だが、つねに言ってることが間違っている」といった言葉が使えなくなる。
我々の祖父や祖母の世代には、プロレタリア文学にでてくるような不幸続きの人生を送っている人がたくさんいたが、必ずしも彼らが「よい人」ではなかったのは自明である。抑鬱感と被害者意識で心が煮えたぎっていたひとがたくさんいて、そのなかにいれば、簡単には過剰な擁護も非難もできない。――そういう正邪乱れた複雑な状況が我々の「生活」なのである。
しかし、学校や役所というのは、そういう認識を前面にだした言い方はできないし、してはいけない。学校や役場がクレームに弱いのはそのせいである。そのクレームは、政治的な正しさを盾にとっているからである。その正しさが非現実的な滑稽さを持ち得ることを、案外社会が――というか我々の生活のなかのコモンセンスが理解していたのだが、それが最近完全に吹き飛んでしまった。おそらく、政治的な正しさが生活まで侵入していた結果破滅した先の大戦の記憶が薄れてきたためだ。
政治は、事態を単純化してぐいっと世の中を動かす必要もあるかもしれないが、我々自身の生活はそんな簡単に物事を正邪で割り切ることはできない。文学はそういうなんともいえない「生活」の側面を切り捨てることができないから意味があるので、契約書や法律の文章とは絶対的に違うものだ。後者は社会をまもるために必要だが、社会がそういうもので覆われてしまうと社会じゃなくて人間の生活抜きの機械となるのはあたりまえだ。しかし人間はただの機械的=有機体なのでそれでも生きていける、不自由さからくる心理的飢餓感の塊となって。
社会や国家もそういう「生活」を奪った飢餓感に対して気がついているから、――「大切な命を守るため」とか「家族の絆をまもる」とか言っているが、かかるせりふが社会の言葉に過ぎないのは明らかだ。「生活」のせりふというのは、「大切に思っているつもりなのだが、この成績のわるい、いやこれはおれに似ているのだなこのクソ餓鬼が」とか「家族に×したい人がいますけれども、世間体が邪魔しておりますんで、絆を守ったふりして苦節三〇年(笑)」みたいな……、――いや、本当はこれでもだめで、志賀直哉の小説などでようやく表現されたものに過ぎない。
あまり質はよくないかもしれないけども、我々がドラマや通俗小説、映画などで何を得ているかといえば、――癒やしなのではなく、そこに人間の生活があるような感じがするからである。たとえ、それが浮気とか殺人が話題であっても。
こういうことはくだらないのであまり言いたくはないのだが、――学校で文学を扱わなきゃいけない理由は、上記のような我々の「生活」を守るためで、それが守られないと社会なんか存在しようがないからである。
小説を読む方が論理的な力がつく、という議論があるけれども、――まあ気持ちは分かるんだが、けっこうそれは専門家的な視点であって、その主張をする人の中には、小説を倫理的に分析的裁断を行うタイプも混じってて微妙な感じがする。私の独断では、小説や詩を「論理」としてきちんと説明出来るためにはもう少し研究が必要である。
「あたしにちょうだい。」
「あたしにちょうだい。」
ふたりの子どもは、りょうほうからせがみました。飴だまは一つしかないので、お母さんはこまってしまいました。
「いい子たちだから待っておいで、向こうへついたら買ってあげるからね。」
といってきかせても、子どもたちは、ちょうだいよオ、ちょうだいよオ、とだだをこねました。
いねむりをしていたはずのさむらいは、ぱっちり眼をあけて、子どもたちがせがむのをみていました。
お母さんはおどろきました。いねむりをじゃまされたので、このおさむらいはおこっているのにちがいない、と思いました。
「おとなしくしておいで。」
と、お母さんは子どもたちをなだめました。
けれど子どもたちはききませんでした。
するとさむらいが、すらりと刀をぬいて、お母さんと子どもたちのまえにやってきました。
お母さんはまっさおになって、子どもたちをかばいました。いねむりのじゃまをした子どもたちを、さむらいがきりころすと思ったのです。
「飴だまを出せ。」
とさむらいはいいました。
お母さんはおそるおそる飴だまをさしだしました。
さむらいはそれを舟のへりにのせ、刀でぱちんと二つにわりました。
そして、
「そオれ。」
とふたりの子どもにわけてやりました。
それから、またもとのところにかえって、こっくりこっくりねむりはじめました。
――新美南吉「飴だま」
同じ玉でも、こちらは飴玉である。飴玉でも気をつけないとルサンチマンの種になるのは、小林秀雄の小説をみりゃわかる。むやみにあげても、引っ込めてもいかんのだ。それで、二つに分けて、という手に侍はでた。こんなものを期待しているから新美南吉はだめなのである。「ごんぎつね」その他でもそうだが、一気に事態を解決する英雄を待ち望んでいるところがある。我々は、これを政治や法律に求めるようになっただけだ。