★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

処女懐胎東西物語

2020-09-01 23:13:24 | 文学


爾に父母其の妊身みし事をあやしみて、其の女に問ひて曰ひけらく、「汝は自然ら妊みぬ。夫无きに何由か妊身める。」といへば、答へて曰ひけらく、「麗美しい壮夫有りて、其の姓名もしらぬが、夕毎に到来て共住める間に、自然懐妊みぬ。」といひき。是を以ちて其の父母、其の人知らむと欲ひて、其の女にをしへて曰ひけらく、「赤土を床の前に散らし、閉蘇紡麻針に貫きて、其の衣の裾に刺せ。」といひき。故。教の如くして旦時に見れば、針著けし麻は、戸の鉤穴より控き通りていでて、唯遺れる麻は三勾のみなりき。爾に即ち鉤穴より出でし状を知りて、糸の従に尋ね行けば、美和山に至りて神の社に留まりき。故、其の神の子とは知りぬ。故、其の麻の三勾遺りしに因りて、其地を名づけて美和と謂ふなり。

どうやら、ここらまでくると人間のお話であるらしく、父母が正直に「なんで妊娠しているんだ、夫がいないのに」と言っている。それをいうなら、剣を噛んで生じた方々とか、そっちの方にちゃんとツッコんだ方がよいような気がしないではない。それに、キリストの母親だって処女懐胎している。そこを、なんですか、蛇神が来てましたとか、ひどいお話である。しかも、父母の凶悪さがすごい。もしかしたら、光源氏みたいな御仁が忍んできているかもしれないのに、針を着物に刺せとは、下手すると相手が死ぬのではないか。

それよりも、変な相手がきたら、現行犯で取り押さえればよいではないか。

謎の相手のつけた糸は美和山の神社で消えていた。そこで、なんでそれが「確かに蛇神だ」となるか分からない。男は神社で寝ていた不審者かもしれないのに……。確かにそこまでかんがえると、マリア様がローマ兵に乱暴されたのだとかいう俗説みたいでいやである。

我が国のマリアさまも、子どもを産む。

キリスト教と同じく、定期的に神が子孫を地上に送り込んでくるのはなぜなのであろう?――こんなことをやっているから、我々は我々の平凡さをなかなか自覚しないではないか。とはいえ、古事記の文章を最初から読んでいると、なぜか聖書の倫理至上主義みたいなものを我が国なりに超えようとしているンじゃないかと妄想しかかるところが恐いところである。アニミズムというのは案外ばかにしたものではないというのが、最近の思想潮流である。

しかし、――

わたくしは、この話から当然の如く、イザベル・アジャーニの「ポゼッション」とかを想起してしまう。この場合、不倫している妻と同衾してたのはタコであった。そこにいたる夫と妻の錯乱――この度合いがものすごいのであって、わたくしが危惧するのは、上の話で、本当の蛇の姿が描かれていないことである。これでは、何が起こっても起こらなくても同じではないか。わたくしは常々、聖書の世界が最後の「黙示録」あっての世界だと思っている。あれが最後にあることの重さが、発条となって、そこまでの道徳を輝かせる。それは人間への神の脅迫ではない。そうとりがちな、我が国の神々のお話にはその発条がない。