ここに倭建命、「いざ刀合はせむ」と誂へて云りたまひき。ここに各その刀を抜く時、出雲建、詐の刀を得抜かざりき。すなはち倭建命その刀を抜きて、出雲建を打ち殺したまひき。ここに御歌に曰りたまはく、
やつめさす 出雲建が佩ける刀 黒葛さは巻き さ身無しにあはれ
とうたひたまひき。かれ、かく撥ひ治めて、参上りて覆奏したまひき。
サイコタケルはサイコなので、景行天皇は恐ろしくなり、クマソを倒してこいとか、体よく追っ払ったはずが、――サイコは予想を超えてサイコであり、女装してクマソを簡単に撃破、出雲にも侵入、――出雲はもう先祖が征服してたような気がするのだが――そこの出雲タケルを殺そうとする。で、親友になった後で、木刀を渡しておいてから決闘して殺してしまう。卑怯である。
我が国は、こんな風にしてちょっとおかしい方によってより統一国となったのであった。わたくしは、こんな顛末が、何の批判的視点なしに古事記に入っているとは思わないのである。いま先行論文を調べる時間がないのであるが、――神武東征の出発点に近いクマソとか、おおくにぬしの時代に汚い手を使って征服した出雲をなぞるようにヤマトタケルが殺人道を歩んでいるところが面白いと思う。ヤマトタケルという名前がクマソタケルからとられ、イズモタケルを倒すという、名前上で「タマト」の建国を示しているようである。とにかく、ヤマトタケルは卑怯でおかしい人だったのだ、我が国は、こういう卑怯な成り立ち方をしたのであった。
ドラマ『三国志』を見ていると、天子以外の偉ぶっている人達は、すぐ「仰せの通りにいたします」とへりくだったと思ったら、「この姦賊が」と言ってその相手を殺しにかかる。尊敬語と謙譲語はシーソーのようなものであって、相手を上げるとき、へりくだるときに自分に価値の重しがついている。だからいまでも、謙譲語に気をつかいすぎてかしらんが、間違えて自分を敬っちゃう人がいる。本当に自分を尊敬しているような人がそうなっているのがおもしろい。当然である。シーソーのような心的秩序があって、自分を乗せたら相手があがり、それをみて、相手を殺して自分があがる、みたいなことを繰り返す。
こんなシステムを、我々は中国から学んだのかも知れない。と妄想される
例へば支那の古代に於て、殷と周との開祖の傳説は、殷の方は契の母が玄鳥の卵を墮すを拾つて食べたので姙娠し、契を生んだといふ話があり、周の祖后稷は、其母が野に出て巨人の足跡の拇を踏んで、其れに感じて姙娠して生れたと謂はれてゐて、各々別々の傳説であつたのであるが、後に其れが統一されて、后稷の母は帝嚳の元妃、契の母は帝嚳の次妃であるといふことになり、之を兄弟としてしまつた。斯ういふ風なことを見ると、事實と傳説とが如何なる關係を持つかを判斷するに、女眞族の祖先の如き事實を應用することが出來るであらうと思ふ。
日本に於ても同源傳説が種々に利用されるのであつて、大和朝廷の先祖と出雲國造の先祖とは兄弟であるといふ傳説である。即ち出雲國造の先祖も天照大神の子たる天菩比命であると云はれてゐるが、然し出雲國造が大和の朝廷に歸服した時の事實を見ると、日本紀では崇神天皇の時、出雲振根といふものがあつて、大和朝廷に歸服することに就て弟の飯入根と意見が異りたる所から、飯入根をだまして眞刀と木刀とを取り替へ、之を殺したのださうで、此の振根は又吉備津彦と武淳河別とに征伐せられて誅せられたといふ傳説があり、古事記では景行天皇の時、日本武尊が出雲建を騙して、やはり眞刀と木刀とを取替へ、之を誅したといふことになつて居るが、兎も角、崇神・景行の頃に、征伐の結果之を歸服せしめたのは事實である。然るに神代紀に載つて居る傳説では、最初から天照大御神と素戔烏尊とが兄弟であり、又天菩比命も天照大神の子であるといふ風に神話が形作られてある。
――内藤湖南「女眞種族の同源傳説」
そういえば、ベートーベンの第9でも「みんな兄弟になる」とか歌われている。とにかくこの世は難しい。