ここに八尋白智鳥に化りて、天に翔りて浜に向きて飛び行でましき。ここにその后またその御子等、その小竹の苅杙に足キり破れども、その痛きを忘れて哭きて追ひたまひき。この時歌曰ひたまはく、
浅小篠原 腰なづむ 空は行かず 足よ行くな
八尋白智鳥というのは、人の手を広げたくらいの白い鳥であり、べつに白鳥を思い浮かべる必要はない。ほんとうに天使みたいなものを思い浮かべてもいいと思うのだ。この場面こそはたぶん日本文学の虚の高峰というべき場面であり、冥府巡りのあの蛆沸く死の場面と鋭く対立し、悲惨な大和朝廷成立を力尽くで昇華してしまう。我々は、竹の切り株に足を切られながら、戦場でめちゃくちゃになって想像として飛びたつしかない死者を追いかける。我々の足の痛みは、ヤマトタケルの腫れ上がった足の痛みについに届かない。――個の場面は、罪を浄めるとか、罪悪感をなくすみたいなものではなく、体で死の一部分を体験するという、死を観念ではなくなるべく肉体にとどめるやりかたなのである。肉体は個々の者でありつづけて、何かの一般者とならない。
古事記というのはいろいろな話をくっつけたせいもあるんだろうが、伊勢物語の如き、差異と反復みたいなつくりかたとちがって、クライマックスに次ぐクライマックスみたいなかんじで創られている。そのクライマックスは個の証である。個がそのまま世界の全体性を代弁しているようなかんじなのである。かえって、映画の「ヤマトタケル」みたいに一つの山をつくろうとするとつまらなくなるわけだ。
まあ、わたくし、人間の世界がすっかり好きになったと申し上げたではございませんか。おかあさん、お願いです、ほんの一目見ればいいのですから。」
と、少女はしきりとおかあさんに甘えるように頼んでいました。そのかわいらしい様子を見ていると、おかあさんは、何でもそのいうとおりにしてやらなければならないような気がしてきました。
「ではほんのちょいとですよ、伊香刀美にはないしょでね。」
とおかあさんはいいながら、戸棚の奥にしまってある箱を出しました。少女は胸をどきつかせながらのぞき込みますと、おかあさんはそっと箱のふたをあけました。中からはぷんといい香りがたって、羽衣はそっくり元のままで、きれいにたたんで入れてありました。
「まあ、そっくりしておりますのね。」
と少女は目を輝かしながら見ていましたが、
「でも、もしどこかいたんでいやしないかしら。」
というなり、箱の中の羽衣を手に取りました。そしておかあさんが「おや。」と止めるひまもないうちに、手ばやく羽衣を着ると、そのまますうっと上へ舞い上がりました。
「ああ、あれあれ。」
と、おかあさんは両手をひろげてつかまえようとしました。その間に少女の姿は、もう高く高く空の上へ上がっていって、やがて見えなくなりました。
帰って来て伊香刀美はどんなにがっかりしたでしょう。三年前に湖のそばで少女がしたように、足ずりをしてくやしがりましたが、かわいらしい白い鳥の姿は、果てしれない大空のどこかにかくれてしまって、天と地の間には、いくえにもいくえにも、深い霞が立ち込めたまま春の日は暮れていきました。
――楠山正雄「白い鳥」
ここではあちら側の世界が存在している。ヤマトタケルは、別にどこかに行っていない。たぶんほんとの白鳥になって、そこら辺にいる。しかも、白鳥でなくてヤマトタケルである。