★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

兄妹心中

2020-09-26 23:36:51 | 文学


隠り処の 泊瀬の河の
上つ瀬に 斎杙を打ち 下つ瀬に 真杙を打ち
斎杙には 鏡を懸け 真杙には 真玉を懸け
真玉なす 吾が思う妹 鏡なす 吾が思う妻
有りと 言はばこそよ 家にも行かめ 國をも偲はめ

かく歌いて即ち共に自ら死にき。


木梨軽皇子、軽大娘皇女の兄妹心中のお話が、允恭天皇の崩御のあとに語られている。軽皇子は皇太子であって、次の天皇の予定であったのかもしれない。妹と通じたために弟の穴穂御子(安康天皇)にその地位を奪われて、追いつめられて心中してしまった。

いま、四国中央市にある東宮山古墳が皇子の墓とも言われている。ここの案内板だと、心中で死んだのではなく、追放されてここで死んだことになっていた。そういえば、「伊予の兄妹心中」http://gumi.a.la9.jp/wtr/wtr013.htm という歌がある。小松左京の「悪霊」に、この二つを結びつけた考えが書かれていた気がするが、忘れてしまった。おなじことに想到していた人もいた。http://www13.ueda.ne.jp/~ko525l7/x2.htm

そもそも、古事記の最初の方の神さんたちなんか、ほとんど近親相姦みたいな雰囲気であって、われわれが自分たちの起源にそういうなにものかを想定してしまうことそのものを考えるべきであろう。タブーが存在していたかどうかもあやしい事態は脇に置いて、我々は、自分のなかに他人を見ると同時に自分をみている訳である。自分が自分であるためには、そもそも自分のようなものがその前に存在していなければならないが、そうすると、他なる二が一になったというより、そもそもその二は一に近いのではないかと、我々の自己同一性が告げている。

妄想であるが、わたくしは、そう思うのである。我々の同一性にとって、親というのは根本的に近親相姦的に眺められるものだ。

姉が何か言うことは有りませんかッてお父さんに言いましたら、俺は呆れて物が言えない、人間だと思えばこそ話しもするがそんな禽獣には何も言うことは無い、彼等は禽獣に等しいものだ、蠅なんて奴は高貴な人の前でも戯れるようなものだ、そんなものと真人間と一緒にされて堪るものかなんて、それからも随分激しい調子でいろいろ仰ったんですよ。姉が、そんなに御自分のことばかり仰っても、節ちゃんの方のことも聞いてやらなくちゃ、私が聞いてもその通りには話せませんから節ちゃんに書いて貰うことにしましょう、それを私がお父さんに読んであげましょうッて言いましたのよ。お父さんはそれを聞きましてね、鸚鵡や鸚哥なんて奴はよくしゃべるから、迷い言の百万遍くりかえしても俺の耳には入らないが、禽獣のしゃべるのを一つ聞いてやろう、人間の顔をした禽獣のことだから何か物も書くだろう、一つ禽獣の書いたものを見てやろうと仰るんですよ。

――島崎藤村「新生」


藤村は希代の女たらしで、偽善者だとかさんざん同業者からも誹られているのだが、――考えてみたら、かれほど自分のことについて考えた人もいないのではないかと思うのだ。彼は「風景」のなかにも自分を見出し、女性の中にも自分を見出していた。