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★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

蟹――応神天皇

2020-09-21 23:24:53 | 文学


この蟹や いづくの蟹 百伝ふ 角鹿の蟹 横去らふ いづくに到る 伊知遅島 み島に着き 鳰鳥の 潜き息づき しなだゆふ 佐々那美道を すくすくと 我がいませばや 木幡の道に 逢はしし嬢子 後方は 小楯ろかも 歯並は 椎菱なす 櫟井の 和邇坂の土を 初土は 膚赤らけみ 底土は 丹黒きゆゑ 三つ栗の その中つ土を かぶつく 真火には当てず 眉画き こに画き垂れ 逢はしし美女 かもがと 我が見し子ら かくもがと 我が見し子に うたたけだに 向ひ居るかも い添ひ居るかも


応神天皇はカミではなく、カニであった。

でこぼこみちをずんずんと俺カニ様がおでましになったのさ、すると木幡の道で逢ってしまったよ美少女に。

このあとごちゃごちゃと後ろ姿とか歯並びとか長く弾いた眉墨とか……かいてあるが、よくわからん。たしか、三浦 佑之氏だったように思うが、これは本当にカニのカップルの面白歌謡であるといった説を聞いたことがある。

宴会で歌う歌詞には面白おかしいモノがいまでもあるから、天皇が巡行でナンパして結婚した宴席でもそんな感じだったのかもしれないが……、蟹の恋愛はべつに人間の比べて純粋でないことはないと思うのだ。なにしろ、もしかしたら夫を毒殺したかもしれん母親から生まれた方であるが、お坊ちゃんのせいか、純粋なところがある。まったく、その土地の豪族が娘を差し出して、よくしてもらおうとしているのに、坊っちゃんは唯ひたすら蟹の気分にひたっている。――やっと、天皇に蟹のようなもの、つまり「神様」が再降臨してきたのであった。そういえば、この方は、のちに八幡神ともなって全国に散らばっている。いまだに行幸をしているようなものだ。

たとえば神功皇后や竹内宿禰なぞの時代、犯人を探すにクガタチと称し熱湯に手を入れさせ、犯人なら手が焼けただれる、犯人でなければ手がただれないと称して、これが公式の裁判として行われていたような時代である。
 当時ならば出陣に当ってまず咒文を唱えて神様をよび、事に当って一々咒文を唱え、雲をよび、風を封じ、刀が折れては敵の眼前に於て咒文を唱えて刀をよび、傷をうけては咒文を唱え、傷の手当をするようなことも実際に行われていたかも知れないのだ。
 立川文庫によると、忍術の咒文は「アビラウンケンソワカ」というのであるが、念流虎の巻四十二の咒文もすべて「ソワカ」で終っている。もっとも「アビラウンケンソワカ」という咒文はない。その咒文は主として梵字のようなものと、少数は漢字を当てて書かれており、これにフリガナがついているのである。一見したところダラニ風だが、私にはむろん意味がわからない。
 この秘法は人皇九代開化天皇の時に支那からわが中つ国に伝わり、十五代神功皇后がこの法を用いて戦勝したが、その御子の応神天皇があまりにも秘法のあらたかのため他人に盗用されるのを怖れ、暗記の上で紙をさいて食べてしまった。


――坂口安吾「安吾武者修業 馬庭念流訪問記」


安吾は、面白がって語っているが、――この秘法を食べてしまうところに、なにか儒教と漢字が伝わってきた応神天皇時代の精神が乗り移っているように感じられる。わたしは、蟹が文字を食べている様子を思い浮かべた。