庭には擬態するカエルがいてわたくしの前ですましている。こういう気分の中に神がいないと神がいるとは言えない。
爾に其の神、大く忿りて詔りたまひしく、「凡そこの天の下は、汝の知らすべき国に非ず。汝は一道に向ひたまへ。」とのりたまひき。是に建内宿禰大臣白しけらく、「恐し、我が天皇、猶其の大御琴阿蘇婆勢。」とまをしき。爾に稍に其の御琴を取り依せて、那麻那摩邇控き坐しき。故、幾久もあらずて、御琴の音聞えざりき。即ち火を挙げて見れば、既に崩りたまひぬ。
神が大いに怒って仲哀天皇を殺してしまう。最初の方の牧歌的な神々とちがって、やたらに高圧的で残忍である。つまり、これは神ではなく人間である証拠である。どうみても、仲哀天皇は人間に殺されていると考えた方がよい。もうそろそろ実在が確認される最初の天皇とも言われる応神天皇が皇后のお腹にいる。ついに実在する天皇が残忍さの権化としての神様を呼び寄せた。神が、想像や世の中の現象とぴったりと同じ次元に存在していた時代は過ぎ、権力としての観念=神がここで出現する。ヤマトタケルに対する天皇の権力者としての中途半端さが、より強力な観念を要請してしまったのかも知れない。ヤマトタケルは反天皇的な存在として、美的すぎたし、草葉の陰にもいる神として存在感が増しそうだったのである。死んだのは、天皇ではない、本質的にはいままでの神が死んだとすべきではなかろうか。
お静が琴のねは此月此日うき世に人一人生みぬ、春秋十四年雨つゆに打たれて、ねぢけゆく心は巌のやうにかたく、射る矢も此処にたちがたき身の、果は臭骸を野山にさらして、父が末路の哀れやまなぶらん、さらずば悪名を路傍につたへて、腰に鎖のあさましき世や送るらん、さても心の奥にひそまりし優しさは、三更月下の琴声に和して、こぼれ初めぬる涙、露の玉か、玉ならば趙氏が城のいくつにも替へがたし、恋か情か、其人の姿をも知らざりき、わづかに洩れ出る柴がきごしの声に、うれしといふ事も覚えぬ、恥かしさも知りぬ、かねては悪魔と恨らみたる母の懐かしさゝへ身にしみて、金吾は今さら此世のすて難きを知りぬ、月はいよいよ冴ゆる夜の垣の菊の香たもとに満ちて、吹くや夜あらし心の雲を払らへば、又かきたつる琴のねの、あはれ百年の友とや成るらん、百年の悶へをや残すらん、金吾はこれより百花爛熳の世にいでぬ
――樋口一葉「琴の音」
建内宿禰が琴を弾けと言い、しぶしぶ弾いた天皇が死んでしまう。不思議な話だ。すくなくともわたくしは、音楽が神事をこえてワレワレ人間のものだと自覚されていることを物語っているように思われてならなかった。もう神は我々から遠ざかった。神は死んだ。代わりに天皇という王権の誕生が迫っている。