★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

迷ひをも。照らさせ給ふ御誓ひ

2021-09-15 22:46:16 | 文学


シテ 「暁毎の閼伽の水。あかつき毎乃閼伽の水。月も心や澄ますらん
シテ 「さなきだに物の淋しき秋の夜乃。人目稀なる古寺乃。庭の松風更け過ぎて。月も傾く軒端の草。忘れて過ぎし古を。忍ぶ顔にて何時までか待つ事なくて存へん。げに何事も。思ひ出の。人にハ殘る。世の中かな
シテ 「たゞ何時となく一筋に頼む佛の御手の糸導き給へ法乃聲
シテ 「迷ひをも。照らさせ給ふ御誓ひ。照らさせ給ふ御誓ひ。げにもと見えて有明の。行方ハ西乃山なれど眺めハ四方乃秋の空。松の聲のみ聞ゆれども。嵐は何處とも。定めなき世の夢心。何乃音にか覚めてまし。何乃音にか覚めてまし


ここで出てくる縋る対象としての仏の教えというのは内面化はされているのかも知れないが、心の外部にはある。例えば、大学とか大学院のときに、学問的問題は自分にあるんじゃなくて他人と自分の共有物にあるんだと納得し、どうにか書けるようになる人が多い。ここでいう共通物は、仏教のようなものである。仏教を対象物として問題と見做すわけである。そのことによって、学問は対象物となる。が、そこで決定的なことを欠落させる人も多い。

研究計画が審査されるシステムが一般化すると何がだめかというと、研究した結果・帰趨ではなく、研究課題を認めるか否かみたいな課題が優先されているからだ。(という穏やかな問題ではなく、お金を使えるかどうかを判定されるので研究が社会に存在出来るかという問題になってしまっている)しかし、研究は出発点には存在せずプロセスの後にだけ存在する。社会に存在するのはそっちであるにもかかわらず、研究テーマだけで存在の可否を決めているのだ。我々の社会が、宣誓とか決意表明とか、小学生中学生がもつ「将来の夢」には喝采を送りながら、その後人生については社会への馴致を要求しているだけで、勢い社会が崩壊していっているのとまったく同じ情況である。無能な教師が、生徒が勝手に勉強するのを嫌い、自分に懐くことを喜ぶのと一緒で、――よく言われることであるが、社会全体が教室化している。

そういえば、こんど自民党の総裁選に出るお方が、「みんなが自分のあこがれ、幸せ、なりたいものを目指して手を前に伸ばそうと努力する国を作りたい」といった発言をしていたようだが、これが上記と同じ構造をしているのは自明である。こんな国は地獄である。そもそも生きてゆくための目標とか夢とかに向かって生きている人がいたとしたら、その人はほぼロボットだ。生きることは真の問題を解くことに近く、研究の目当てとか夢のようなものに引き摺られてゆくものではない。せめて、大学生になったら、夢から問題にシフトすべきだと思う。

その問題とは、「たゞ何時となく一筋に頼む佛の御手の糸導き給へ法乃聲」のあとにつづく、迷いの世界のことではない。仏にすがることと、この迷いの風の世界の両方の関係を考えることである。つまり、置き去られた自分の問題に回帰することである。

月清し、星白し、
霜深し、夜寒し、
家貧し、友尠し、
歳尽て人帰らず、

思は走る西の海
涙は凍る威海湾
南の島に船出せし
恋しき人の迹ゆかし

人には春の晴衣
軍功の祝酒
我には仮りの侘住
独り手向る閼伽の水

我空ふして人は充つ
我衰へて国栄ふ
貞を冥土の夫に尽し
節を戦後の国に全ふす

月清し、星白し、
霜深し、夜寒し、
家貧し、友尠し、
歳尽きて人帰らず。


――内村鑑三「寡婦の除夜」


もっとも、世界はちゃんと外へ伸びていて、霊界だけでなく、海の外にまである。内に目を向ければ、思ったよりもひどい人間も多い。「井筒」の世界はまだロマンティックに閉じているところがあった。