★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

出家と直観

2021-09-25 23:20:35 | 文学


ワキ『世を捨人の旅の空。世を捨人の旅の空。来し方何処なるらん。』
ワキ『これは諸国一見の僧にて候。我この程は三熊野に参り一七日参篭申して候。これより西国修行と志し候。 』
ワキ『程も無く帰り紀の路の関越えて。帰り紀の路の関越えて。なほ行く末は和泉なる信太の森をうち過ぎて。松原見えし遠里の。ここ住吉や難波潟。芦屋の里に着きにけり芦屋の里に着きにけり。』
ワキ『急ぎ候ほどに。津の国芦屋の里に着きて候。日の暮れて候ほどに。宿を借り泊まらばやと思ひ候。』


僧は歌枕を重ねて旅をしているにすぎないのだが、――すなわち、文学散歩をしているのである。しかし、こういう散歩が、怖ろしい怪物との遭遇に導くのである。考えてみると、これは非常に文学研究的なものの本質的な問題だ。出家し世間から離れることによって、世の中の本質と出会うのである。

最近は、僧が出家せずに、いきなり庶民の役に立てと言われて、空疎な説教をしながら「もっと面白くしろ」とか「真実はお前の方にはない」とか言われていらいらしている状態である。たしかにそんなことをやっている僧に真実はない。僧は旅にでなくてはならないのである。そうすると、「平家物語」などの大衆化した情報の裏側に冥としてのその本体があることがわかるのである。

もっとも、その本体が本当に本体なのかについて、我々の文化は突き詰めて考えることを案外諦めやすい。やはりここには、出家によっては本体にたどり着けないジレンマがあるのではなかろうか。

前にも書いたが、出家と還相がくっついている面があるのである。わたくしは、能で例や怪物に会うといったことが利他とかいう観念に回収されてしまうのも好まない。

おじいさん、この南天は枯れているじゃありませんか。なぜ、こんなものを置くのですか。」といいました。
「私が、手をかけてみようと思っているのだ。」と、おじいさんは、答えました。
「この木がよくなるのは、たいへんなことですね。」
「子供を育てると同じようなもので、草でも木でも丹誠ひとつだ。」
 こう、おじいさんは、いったのでした。それから、おじいさんは、朝起きて、出かける前に、鉢を日あたりに出してやりました。また帰れば店さきにいれてやり、そしてときどきは雨にあわせてやるというふうに手をかけましたから、枯れかかった南天もすこしずつ精がついて、新しい芽をだしました。


――小川未明「おじいさんが捨てたら」


我々の意識は出家をしても、捨人になっていない。まだ枯れていないと思って世を捨てられないのである。世を捨てるとは、世間の空気を無視すると言うことではない。ときどき、空気が読めないことを自慢しているすっとこどっこいがいるが、大概空気しか読んでいない、「世間」そのものような人が多い。むろん「空気」などというものはないので、空気が読めないタイプというのは、むしろ、一部で全部を判断しがちな人なのである。だからあるときには、それはオタクにもなるし権威主義にもなる。最近は、幇間になるタイプである。

で、その一部や断片を一生懸命並べて行けば全体にたどり着けるかというとそうでもない。当たり前のことではなかろうか。ニーチェやウィトゲンシュタインみたいな箴言を並べて行くスタイルは普通に危険だとおもうわけだ。ちなみにツイッターは形式的にそういうのに近い。
マインドマップみたいなのものにも危険性がある。

制度はマジョリティが作ってるとか、被抑圧者はいつもいつも全てに於いて抑圧されててみたいな思考は、ツイッターと形式的に合いすぎている。2ちゃんねるで数の力の、ツイッターで二項対立の快感を覚えたのではかろうか。国語の授業でも、これは二項対立で~、とかいう図式的な読解は小学校ぐらいまでで、――ほんとは小1の教材にすらそんなのは通用してないのだ。

空気を読まないというのは、全体性への把握を一気にできる能力があることをいうべきであった。直観とかいわれているものはそれに近いのであろう。