シテ 「恥かしや。昔男に移り舞
地 「雪を廻らす。花の袖
シテ 「此處に來て。昔ぞ返す。ありはらの
地 「寺井に澄める。月ぞさやけき月ぞさやけき
シテ 「月やあらぬ。春や昔と詠めしも。何時の頃ぞや
シテ 「筒井筒
地 「つゝゐづゝ。井筒にかけし
シテ 「まろがたけ
地 「生ひしにけらしな
シテ 「老いにけるぞや
地 「さながら見みえし。昔男の。冠直衣ハ。女とも見えず。男なりけり。業平の面影
シテ 「見ればなつかしや
地 「我ながら懷かしや。亡婦魄靈の姿ハ凋める花の。色なうて匂ひ。殘りて在原の寺乃鐘もほのぼのと。明くれば古寺の松風や芭蕉葉の夢も。破れて覚めにけり夢ハ破れ明けにけり
業平は現れない。永遠に業平に会えない娘が業平の装束をまとい舞い、井戸を覗き込むこの異様な場面。我々の自意識には、こういう異様さを美しさとして諦める心性が根をはっている。「破れて覚めにけり夢ハ破れ明けにけり」とは、想像力を誘うが、理性の高まりは感じられない。理性が死んだ風景なのである。寺の鐘でどうにかなっていたら、この物語はそもそも成立していないのでは無いかと思う。だからこそ、この風景を見ているのが僧であることにしているのであろう。夢から覚めたのは僧であるが、本当に覚めたわけではない。これは、シテもそうであり、観客もそうなのである。
仏教の存在は古典文学を読んでいるとすごく強いものとかんじられてくるのだが、現実の多くの人がどうだったかは分からない。そもそも仏教は流動的な気分に相性がいいような気がするのだ。よく言われていることではあるが、仏教は儒教や神道といった形に変容し制度化して、その本体は迫害される運命にある。しかし、世の中がそうやって固定的で淀んでいても、文学のなかの仏教がなんとなく流動している気分にさせるところがある。最後の茫洋さは、流れる茫洋さだ。
必然性や因果応報という言葉はどこかしら他人事だ。とはいえ、文学もそんな他人事としての人生を描く側面もあるから、そういう作品も多い。仏教説話に至ってはそういうものに覆われている。
――普通人が他人の出来事を必然だと思うことはむしろ人生の理不尽な偶然性を認めていることになり、本人にとっては暴力的なほど偶然には思えない単なる必然に思えたりするわけで、かくして自由は難しいのだ。その人生の内部から描こうとすれば、能の世界のようになる。自分の内部からも他人事の視点も単に相対的であるとすれば、夢と繋がった現実に於いてしかその内実は顕れない。これは、悟りの境地とは異なる、死までの距離を測る絶望の形態である。
ブッダが悟ったのはたしか35才ぐらいで、そのあとは教える人生な訳だ。いまでいえば35は博論とってすごく幸運に就職出来たころだ。というわけで、そういう幸運な人でも真の人生の問題はこの後始まるわけで、ブッダもそうだったのではなかろうか、そうに違いない。青春とその終わりはいつも物語になるが、対機説法の失敗の方が思想の問題でしかも人生の問題だ。しかしそれはなかなか認識されない。
イエスもブッダも悟る前に悪魔からの誘いを断ってるが、最初から断っとけよと思わないのではないのだ。しかし30台の悟りというのは実に悪魔の誘いに乗ってこその悟りというのが多いからなのではないだろうか。その悟りは悟りではないとはっきり世界宗教達は言って居るのである。しかし我々の世界は、むしろ、小さい頃の夢がじりじりと続く、そんな人生が死に向かって歩み出すときにはっきりと自覚されてくるような世界なのである。