シテ げにや人の親の心は闇にあらねども。子を思ふ道に迷ふとは。今こそ思ひ白雪の。道行人に言傳てゝ。行方を何と尋ぬらん。
シテ 聞くや如何に。うはの空なる風だにも。
地 松に音する。習ひあり。
最初のところは、『後撰和歌集』の藤原兼輔「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道にまどひぬるかな」という歌の引用で、――いまはこれを親子の絆とか都合よく解釈しがちな人もいるであろうが、よく字面をみてほしいものである。親の心とは闇ではないが迷いである、と。本当にそうなのではないだろうか。こういうことを社会がふまえなくなると、親が自分の感情を善だと勘違いする事態となる。
だから、「隅田川」のこの場面は、すべての親子のことを言っているのである。人買いにさらわれた親が発狂して隅田川にたどりつくはなしなのであるが、すべての親というものは隅田川にたどり着くものなのである。
風の便りとはうまいこといったものであり、風が何かを伝えるような気がする。空気が伝えるのではなく、風が吹いて何かを子に伝える気がする。これが親の心理なのかも知れなかった。是に比べると、芥川龍之介の「六の宮の姫君」の姫は、なにか風に違うものを感じてしまっているが、彼女は親からの愛情をつねに受けながら、自分は何事もないからであった。確かに、風は親から子にばかり吹くとはかぎらず、「聞くやいかにうはの空なる風だにも松に音するならひありとは」(『新古今和歌集』宮内卿)のような恋でも吹いてしまうものであった。
考えてみると、この二種の風は区別がつくであろうか?そんなことを考える余裕があるのが我々にとって本当はよいことだ。これを親子の愛と恋愛みたいに説明しているからダメなのである。
「ああ、ここはどこだろう?」と思って、お人形は、あたりを見ますと、さびしい野原の中で、上には、青空が見えたり、隠れたりしていました。そして、寒い風が吹いていました。そばに、雑木林があって、その葉の落ちた小枝を風が揺すっているのでした。
お人形は、寒くて、寂しくて、悲しくなりました。いままでいたお嬢さんのへやが、恋しくなりました。本箱の上に、平和で、雨や、風から遁れて、まったく安心していられた時分のことを思い出して、なつかしくてなりませんでした。そして、どうしたら、ふたたび、お嬢さんのそばへゆき、あの住みなれたへやに帰られるだろうかと思っていました。
――小川未明「風の寒い世の中へ」
確かに、世間の風が厳しくて、――という情況もあるのであるが、下手をすると、我々は上のように人形になってしまう。「六の宮の姫君」もたしかそんな人であった。