★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

後ろの山風吹き落ちて

2021-09-12 23:50:35 | 文学


地謡 然るに平家 世を取って二十余年 真に一昔の過ぐるは夢の内なれや 寿永の秋の葉の 四方の嵐に誘はれ 散り散りになる一葉の 舟に浮き波に臥して夢にだにも帰らず 籠鳥の雲を恋ひ 帰雁列を乱るなる 空定め無き旅衣 日も重なりて年波の 立帰る春の頃 この一の谷に籠もりて 暫しはここに須磨の浦
シテ 後ろの山風吹き落ちて
地謡 野も冴え返る海際の 舟の夜と無く昼と無き 千鳥の声も我が袖も波に凋るる磯枕 海人の苫屋に共寝して 須磨人にのみ磯馴れ松の 立つるや薄煙 柴といふもの折敷きて 思ひを須磨の山里の かかる処に住まひして 須磨人となり果つる 一門の果てぞ悲しき


ここのシテが記憶に残る。

もっとも、舞台をみると、案外このシテは音の谷のようになっているが、地謡と音楽隊の案外行進にも似た流れの中に埋もれてしまう感じだ。文字だけ読むと、この場面なんか、アルヴォ・ペルトの音楽みたいなものがあっていそうなものだが、そうでもない。我々の無常観は、つねに周囲のざわめき、チャカポカした音の中にある。これは面白い感覚である。この無常観は死と隣り合わせではあるのだが、なんとなく宮仕えの慌ただしさにも似たところがある。

文化的活力は欠けていたのではない。ただ無限探求の精神、視界拡大の精神だけが、まだ目ざめなかったのである。或はそれが目ざめかかった途端に暗殺されたのである。精神的な意味における冒険心がここで萎縮した。キリスト教を恐れて遂に国を閉じるに至ったのはこの冒険心の欠如、精神的な怯懦の故である。当時の日本人がどれほどキリスト教化しようと、日本がメキシコやペルーと同じように征服されるなどということは決してあり得なかった。キリスト教化を征服の手段にするというのは、それによって国内を分裂させ、その隙に乗ずるという意味であるが、日本国内の分裂はキリスト教を待つまでもなくすでに極端に達していたのであって、隙間はポルトガル人の前に開けひろげであったのである。

――和辻哲郎「鎖国 日本の悲劇」


和辻のような見方によれば、能なんかも冒険心のなさの現れによって悲劇になりきれないのだ、ということになりかねない。