★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

南無阿弥陀仏のなかには

2021-09-21 23:50:18 | 文学


子方 南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
シテ なうなう今の念仏の中に、正しくわが子の声の聞え侯。此塚の内にてありげに候ふよ。
ワキ 我等もさやうに聞きて候。所詮此方の念仏をば止め候ふべし。 母御一人御申し候へ。
シテ 今一声こそ聞かまほしけれ。南無阿弥陀仏。
子方 南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏と。
地  声の内よ り。幻に見えければ。
シテ あれは我が子か。
子方 母にてましますかと。
地  互に手に 手を取りかはせば又消え消えとなり行け ば。いよいよ思はます鏡。面影も幻も。 見えつ隠れつする程に東雲の空も。ほのぼのと明け行けば跡絶えて。我が子と見えしは塚の上の。草茫々として唯。しるしばかりの浅茅が原と、なるこそあはれなりけれ。なるこそあはれなりけれ。


集団念仏の効果が、誰かの声が聞こえてくるそれだというのは、わたくしも、祖母の葬式で経験した。子どもだったわたくしでさえそうなのだがから、疲れ切った大人達には何かこの世ならぬものまで聞こえる可能性がある。ここで、母親が子どもを幻視するぐらいのことは奇跡でもなんでもなく、むしろありふれていると言ってよい。

わたくしは合唱部でも吹奏楽部でも、この世ならぬ声を聞いた。この世ならぬ声など普通に満ちている。それをない者と思っているから普通は気にならないだけである。この能でも、子どもを実際に舞台に出すかどうかで世阿弥親子の論争があったのは有名である。作者の元雅は舞台に子どもを出すことを主張したというが、――確かに、実際この世ならぬものを見ることがあるという認識ではなく、実際に見てしまう驚きの方が実際重要なのである。われわれはすぐそれを忘れてしまう。そして、我々がいろいろな心のうちのモノによって動いている因果が分からなくなってしまうのである。

そういえば、わが都★文◆大学吹奏楽部初の全国大会出場おめでとうございます。

その人が自分をほんとうに反省した、南無阿弥陀仏という気持になっているときに、はじめてその人のいうことや、その人の考えていることが我田引水でなく、ほんとうの同情に値する。そこまで達しないで不足を申しましても、それはただ一人がっての苦痛でありまして、労働争議などの場合でも、争議団と資本家と、両方にたくさん悪いことがありますが、それが宗教的反省にまで達していないならば、その反省というものは我田引水である。

――倉田百三「生活と一枚の宗教」


こういうのを生悟りというのであるが、讃岐の民としては、我田引水でない反省を求めると言うこと自体が、水を絶つぞみたいな権力を感じるところである。