ワキ「その身にも応ぜぬ業を嗜み給ふこと。返す返すも優しうこそ候らめ。
シテ「その身にも応ぜぬ業と承れども。それ優るをも羨まざれ。劣るをも賎しむなとこそ見えて候へ。その上樵歌牧笛とて。
シテ・ツレ「草刈の笛樵の歌は。歌人の詠にも作りおかれて。世に聞えたる笛竹の。不審を為させ給ひそとよ。
ワキ「げにげにこれは我ながら。愚かなりける言ひ事かな。さてさて樵歌牧笛とは。
シテ「草刈の笛。ワキ「樵の歌の。シテ「憂き世を渡る一節を。ワキ「謡ふも。シテ「舞ふも。ワキ「吹くも。シテ「遊ぶも。
このワキは何故「その身にも応ぜぬ業を嗜み給ふこと。返す返すも優しうこそ候らめ」なんて言って仕舞うのであろう。しかしワキはまさに、脇で見る人なので、見ることをはじめるためには、ちょっと問題で目の前の対象を限ってみることが重要なのである。「その身」とは何か?それに「応じない業」とはなにか?と問うことで、その身の正体へ、風流の本体へと見る人たちの意識が導かれてゆくわけである。
山路日落 滿耳者樵歌牧笛之聲
澗戸鳥歸 遮眼者竹煙松霧之色
もとになっている和漢朗詠集の一節である。考えてみると、能の場面でシテとワキがそうだそうだと盛りあがる中では、鳥たちの谷間のねぐらに帰ってゆくさまに浸ってる余裕がない。これは一種、テレビに田舎のおじさん達が出てきて田舎を語っている番組のようなもので、田舎の風景は「風景」となり実体をなくしている。で、そのうちに本当に、近代化でこのような風景はなくなっていったのである。この能が前提にしている風流なんかの本当の迫力を我々は知らないのかも知れないのだ。それは京都の街中なんかをのぞけば果てしなく広がる世界を感じさせるものであって、書き割り的な文学の描出はかえって、その果てしなさを想起させる契機に過ぎなかったのかもしれない。我々のように写真の精密描写から自然にいたろうとするのとは逆なのである。