シテ『悲しきかなや身は籠鳥。心を知れば盲亀の浮木。ただ闇中に埋木の。さらば埋もれも果てずして。亡心何に残るらん。浮き沈む涙の波のうつほ舟。』
地謡『こがれて堪えぬいにしへを』
シテ『忍び果つべき隙ぞなき』
ワキ『不思議やな夜も更方の浦波に。幽かに浮かみ寄るものを見れば。舟の形はありながら。乗る人影もさだかならず。あら不思議の者やな。』
最初のシテはすごく名文句のような気がする。絶望というもののひとつの特徴は、心が宛てもない気がする一方で、自由がないということである。このようなせりふは本当に絶望した人が書いたもののように思われる。我が国では?その絶望が身の置き場がない絶望と結びつく。身の置き場がないと言うことは、どこまで行っても自分の絶望をまとってしか自分を成り立たせられないということである。
「どうかして、そのかごの中から、逃げ出すことはできませんか……。」と、ふたりは、哀れな鳥にささやいたのであります。
かごの鳥は、うらめしそうに、こちらを見ていたが、
「逃げ出しても、私には、もはや、あの山を越すだけの力がありません。それより、あなたたちは、はやく、ふるさとへお帰りなさい。夏になると、この国は、とても暑いのです。」と、いいました。
二羽の小鳥は、なるほどと考えました。そして、急に、ふるさとがなつかしまれたのであります。
――小川未明「ふるさと」
二羽の小鳥が年寄り達の忠告を聞かずに人間達のすむ地域に出て行って籠のなかの鳥に出会った場面である。自由があると思っていたところは、人間の自由があるところで、その自由によって小鳥はつかまってしまうのである。それよりは故郷に帰る方が良さそうだ、というわけで二人は帰ってしまう。ここで、とらわれている小鳥を助けないところが我々の薄情さだし、いかにも、都会になんか出てくと競争に負けてしまうよと言いたげな話でいやなものだ。しかし何より問題なのは、二人の若い鳥がなんの屈託もない人格になっていて、籠の中の鳥もそうであることである。こんなことはいくら若くてもありえない。