★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

鵺的人間

2021-09-29 23:31:48 | 文学


地謡 頼政右の膝をついて、左の袖を広げ、月を少し目にかけて、弓張月の、いるにまかせてと、つかまり御剣を賜り、御前を罷り帰れば頼政は名を上げて、われは名を流す空舟に、押し入れられて淀川の、淀みつ流れつ行く末の、鵜殿も同じ蘆の屋の、うらわのうきす流れ留まつて、朽ちながら空舟の、月日も見えず暗きより、暗き道にぞ入りにける、遥かに照らせ山の端の、遥かに照らせ、山の端の月とともに、海月にも入りにけり、海月とともに入りにけり

やはりここは「山月記」とちがって、鵺には友人がいないのがいたかった。鵺だってそこそこ歌だってつくれたかもしれない。確かに、孤独にもいろいろあるのだ。李徴は虎になってしまったけれども、友がいたから人間を捨てられなかった。鵺は、仏罰をうけたのか何かしらないが、まったく人に相手にされないのだ。中島敦はやはり、鵺のような複雑な造形が、人間離れをおこさせてしまい、日本の社会では捨てられてしまう悲しさを知っていた。鷗外や漱石はアンヴィヴァレンツの作家だ、しかし花田★輝などは鵺的だ。だから花田には友人がいなくなってしまった。

「遥かに照らせ山の端の、遥かに照らせ」のあと、月とともに「入りにけ」る者はたぶん鵺なんだろうが、情景としてはそんな感じはせず、月が沈んだだけのような気がする。「暗き道にぞ入りにける」鵺は、そのまま「入りにける」状態なのであって、鵺の姿はやはり最後は消去させられているような気がするのである。

いつも殺されるのは鵺みたいなやつだ、――今日は、「ゴルゴ13」の作者が死んだが、とりあえずゴルゴ13とやらは人を殺しておるので逮捕した方がいいと思う。しかし、逮捕されず殺されもしない。あれは仏と同じで不純物がないからだ。

さっき、NHKで、コロナ禍での孤独はまずいので社会との繋がりをつくろうみたいな番組をやっていた。なぜ一部の人が孤独になるかというと、いろんな理由があり、そりゃあんた孤独にはなるわな、みたいな人もたくさんいることは知っているが、――根本的に孤独になりがちな人を含めたその社会がクソつまらんからに他ならないではないか。自分と同じようなつまらない人間とはつきあえない。それに、日本はなぜ幼児や老人に、人間としての鵺性を認めないのであろうか。みんなが、遊戯をしたり「ふるさと」を歌いたいわけではない。

「海が見えるよ。もうすぐ見えるよ。浦島太郎さんの海が見えるよ。」
 私ひとり、何かと騒いでいる。
「ほら! 海だ。ごらん、海だよ、ああ、海だ。ね、大きいだろう、ね、海だよ。」
 とうとうこの子にも、海を見せてやる事が出来たのである。
「川だわねえ、お母さん。」と子供は平気である。
「川?」私は愕然とした。
「ああ、川。」妻は半分眠りながら答える。
「川じゃないよ。海だよ。てんで、まるで、違うじゃないか! 川だなんて、ひどいじゃないか。」
 実につまらない思いで、私ひとり、黄昏の海を眺める。


――太宰治「海」


さすが太宰であるが、ちなみに浦島太郎というのは海にいるとは限らず、木曽川の寝覚ノ床にだっているのだ。たしか晩年、あそこで釣りをして死んでいったのが浦島なのだが、わたくしは、寝覚ノ床が竜宮城に繋がっていると子どもの頃信じていた。