地謡『南無。八幡大菩薩と。心中に祈念して。よっ引きひゃうと放つ矢に。手応えしてはたと当たる。得たりや。おうと矢叫びして。落つる所を猪の早太つつと寄りて続けさまに。九刀ぞ刺いたりける。さて火を灯しよく見れば。頭は猿 尾は朽ち縄 足手は虎の如くにて 鳴く声鵺に似たりけり。恐ろし何度も疎かなる形なりけり』
地謡『げに隠れなき世語りの。その一念をひるがへし。浮かむ力となり給へ』
シテ『浮かむべき。便り渚の浅緑。三角柏にあらばこそ沈むは浮かむ縁ならめ』
地謡『げにや他生の縁ぞとて』
シテ『時もこそあれ今宵しも』
地謡『亡き世の人に合竹の』
シテ『竿取り直しうつほ舟』
地謡『乗ると見えしが』
シテ『夜の波に』
地謡『浮きぬ沈みぬ見えつ隠れ絶え絶えの。幾重に聴くは鵺の声。おそろしやすさましや。あらおそろしやすさましや。』
平家で鵺を伐った源頼政が地謡となっている。考えてみると、なぜ悪心を抱いたものが鵺という形状になるのであろうか。研究があるんだろうが調べたことない。むかし卒業論文で、中国の龍の変遷を調べた学生がいて、どんどんいろいろなものが合体して大げさなものになっていったという話を聞いた。もっとも、それは本当に合体なのであろうか。よくみてみたら、いろいろなものが見出せたという感じなのではないだろうか。
龍や鵺にくらべると、全身全霊、恨みだか劣等感だかになってしまった李徴が虎になるのは、李徴の心の単純さを実のところ示しているような気がする。「臆病な自尊心」とか「尊大な羞恥心」というとなんだか高級に見えるが、尊大であろうとなかろうと自尊心は自尊心だし、羞恥心は羞恥心なのである。しかも本当は「憤悶」・「慙恚」が本体だ。だから彼は虎になれたのである。いろいろな感情があったなら、鵺になってたのではなかろうか。そして、この鵺的な心理の恐ろしさを昔の人は知っていて、なにか仏道によって浄化されるみたいな風におもっていたのかもしれない。仏道もやはりこの国では純粋志向なのだ。
植物をみていると、生物がいろいろなものの組み合わせで出来ているようにみえるが、それはひとつの種から出てくるものである。それをひまわりとか朝顔とか言ってしまえば楽だが、よくみるとほぼ鵺的な感じがする。考えてみると、動物も鵺的な感じがするものはたくさんいる。
鵺が退治られてしまいますと、天子さまのお病はそれなりふきとったように治ってしまいました。天子さまはたいそう頼政の手柄をおほめになって、獅子王というりっぱな剣に、お袍を一重ね添えて、頼政におやりになりました。大臣が剣とお袍を持って、御殿のきざはしの上に立って、頼政にそれを授けようとしました。頼政はきざはしの下にひざをついてそれを頂こうとしました。その時もうそろそろ白みかかってきた大空の上を、ほととぎすが二声三声鳴いて通って行きました。大臣が聞いて、
「ほととぎす
名をば雲井に
あぐるかな。」
と歌の上の句を詠みかけますと、
「弓張り月の
いるにまかせて。」
と、頼政があとをつづけました。
――楠山正雄「鵺」
確かにここでも鵺と獅子は対立物なのである。が、頼政や大臣は、虎を分析せず、すぐさま時鳥や月に興味を移してしまう。本当は彼らをよくみれば、顔が時鳥、胴体が月みたいな人間であったに違いない。