シテ 「風ふけば沖つ白波龍田山
地 「夜半にや君がひとり行くらんとおぼつかなみ乃夜の道。行方を思ふ心とげて外の契りハかれがれなり
シテ 「げに情知る。うたかた乃
地 「あはれを抒べしも。理なり
地 「昔この國に。住む人の有りけるが。宿を竝べて門の前。井筒に寄りてうなゐ子乃。友達かたらひて互に影を水鏡。面をならべ袖をかけ。心の水も底ひなく。うつる月日も重なりて。おとなしく恥ぢがはしく。互に今ハなりにけり。その後かのまめ男。言葉の露乃玉章の。心の花も色添ひて
シテ 「筒井筒。井筒にかけしまろがたけ
地 「生ひにけらしな。妹見ざる間にと詠みて贈りける程に。その時女も比べ來し振分髪も肩過ぎぬ。君ならずして。誰かあぐべきと互に詠みし故なれや。筒井筒の女とも。聞えしハ有常が。娘の古き名なるべし
能では筒井筒の物語は逆に展開するのだが、やはり時間はながれているわけで、夫を思いやる女があたかも小さい頃からずっと何かを待っていて髪の毛が伸びているイメージさえ感じられてくる。重要な因はその純情さだ。それはとても重要だから物語った結果として提出される必要がある。その提出されたものによって、今度は主人公の時間を振り返る行為が観客の側に生じる。かくして果てしない時間が純情の結果として表出されるわけである。
こういう仕組みは、人間的なコミュニケーションには必ずあるものではないだろうか。それをせずに、目的から逆算して行為を強制するのが権力というやつで、フーコーの口まねをして生権力などと言ってしまうと何か巧妙な感じがするけれども、それほど我々の生に食い入ったやり方ではほとんどない。むしろ、上のような語りの方が巧妙である。