★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

縁論

2021-09-20 22:50:40 | 文学


ワキ  「見申せば船中にも少々都の人も御座ありげに候。逆縁ながら念仏を御申し候ひて御弔ひ候へ。よしなき長物語に舟が着いて候。とうとう御上り候へ。
ワキツレ「いかさま今日は此所に逗留仕り候ひて。逆縁ながら念仏を申さうずるにて候。


この逆縁という言葉はなかなかの言葉で、仏法を誹謗したから逆に仏法に帰依できることみたいな、――「平家物語」なら平重衡の「願わくば逆縁をもって順縁とし、只今最後の念仏によって、九品蓮台に生を遂ぐべし」みたいな言葉を生んでいる。そんな簡単に縁がひっくり返ったりするかいなと思うが、そこは縁というものの恐ろしさである。どちらにも転ぶのである。

そういうことを昔の人はわかっておったので、逆縁という言葉は、「生前の仇敵が供養をなすことから、親類縁者でもない者が供養する、また年長者が年少者の供養をすることを逆縁というが、これが俗に転用されて、親より先に死ぬことを逆縁というようになった。また、寡婦が夫の兄弟と再婚すること、広くは寡夫が妻の姉妹と再婚することも含めて逆縁婚という」(Wikipedia)――といったようなかんじに転がっていったらしい。

隅田川の狂女も逆縁を持つ人で、子どもに先立たれた。しかも、隅田川のほとりに集まって念仏を唱えている人も、赤の他人であるが、逆縁を持つ人である。

確かに、人間関係を強要することを縁で理由付け、どれだけの人が悲惨な人生を送らされたかというものであるが、――確かに、一旦繋がってしまった縁というもので、我々は世の中の弁証法というものを知ったのである。縁はある、しかしその結果がどうなるかは分からないし、原因もよく分からないのだ。だからたしかな縁のせいにするしか心を静めることは出来ないのである。

西も東も、古典にはこういうことがよく書いてあって、人間よいことをやってればよい状態に行き着くなどというのは世迷い言だと分かる。我々の人生とは、この縁をめぐる問題を知った上で、さしあたり目的を自分がみえる縁のために設定する賭のようなものだ。これをキャリア教育とかは、なにか原因と経路を間違えたら虚空に落ちる恐怖をフックにして選択があるかのような教育をしている。少なくとも、逆縁が存在する世界では、虚空ではなく冥の世界があった。能の世界は、冥の方が本質に近いもものなので、現世にこだわること自体をあきらめなくては善?ではない。

――てなことを、末木文美士氏の本を読みながら考えたのである。

相手を祝福する動機によって結縁したいわゆる「順縁」の場合のみならず、相手を呪誼する動機によって結縁した(たとえば相手と口論したることが動機となって結縁したるがごとき)「逆縁」の場合においてもなおその相手と少しも触れ合うことのできなかった「無縁」の場合よりは感謝したい気がする。著しくいわば、一人の女と全然無縁であるよりも、たといその女を辱しめることが動機となったとしてもなおかつ結縁したい気さえすることがある(むろんその反対すなわち一人の小さきものを傷つけるよりは、万人から隠遁したい気もするが)。

――倉田百三「愛と認識との出発」


倉田百三みたいな近代人は、なんだか縁をコントロールしたがっている。これではいけないのではないだろうか?