地 それ草木心なしとは申せども花実の時をたがえず 陽春の徳をそなへて南枝花始めて開く
シテ しかれどもこの松は その気色とこしなへにして花葉時をわかず
地 四つの時至りても 一千年の色雪の中に深く または松花の色十かへりともいへり
シテ かかるたよりを松が枝の
地 言の葉草の露の玉 心を磨く種となりて
シテ 生きとし生ける物ごとに
地 敷島のかげに よるとかや 然るに長能が言葉にも 有情非情のその声皆歌にもるることなし
草木土砂 風声水音まで萬物のこもる心あり 春の林の
東風に動き秋の虫の北露に鳴くも皆和歌の姿ならずや 中にもこの松は 萬木に勝れて
十八公のよそほひ 千秋の緑をなして 古今の色を見す 始皇の御爵に
あづかる程の木なりとて異国にも 本朝にも万民これを賞観す
ここでは最後に始皇帝云々が出てきて、意味づけが急激になされてるのだが、――この無意味で無為な植物の心とともにあるわれわれの世界が、この世界の根幹なのである。中国の例は今で言えば主張をエビデンスであおっているようなものだ。
朝顔やひまわりの向く方向に釣られて向いてしまう我々の世界、確かに、それは案外疲れるので、松なんかはいい感じがする。対する我々は泰然自若として座っていられる。
松はみな枝垂れて南無観世音
松風に明け暮れの鐘撞いて
ひさしぶりに掃く垣根の花が咲いてゐる
――種田山頭火「草木塔」
山頭火にはしかし主体如きものがある。根本的に
かさりこそり音させて鳴かぬ虫が来た
みたいなひとだったのではなかろうか。松は動かないが虫は動く。