ありがたの影向や、ありがたの影向や、月住吉の神遊び、み影を拝むあらたさよ
シテ:げにさまざまの舞姫の、声も澄むなり住の江の、松影も映るなる、青海波とはこれやらん
地:神と君との道すぐに、都の春に行くべくは
シテ:それぞ還城楽の舞
地:さて万歳の
シテ:小忌衣
地:さす腕には、悪魔を払ひ、収むる手には、寿福を抱き、千秋楽は民を撫で、万歳楽には命を延ぶ、相生の松風、颯々の声ぞ楽しむ、颯々の声ぞ楽しむ
われわれの世界は、かかるイメージの重なりで覆われている。これは能だから、演劇だから、物語だからと言うわけではない。因果への意識は、理不尽な出来事による他はない。それこそが心の外部をなして、対象への意識が始まるのである。
文楽へ連れてってやるとのことで、約束の時間に四ツ橋の文楽座の前へ出掛けたところ、文楽はもう三日前に千秋楽で、小屋が閉っていた。ひとけのない小屋の前でしょんぼり佇んで、あの人の来るのを待った。
――織田作之助「天衣無縫」
対象への意識は、閉まってしまった芝居小屋でたたずむような風景から始まる。現代のように、とにかく自分の席の確保したがる時代には、上演されるのは、イメージの重なりなのだ。