★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

末広がりの同一性

2021-09-30 23:39:02 | 文学


洛中に心の直にないものでござる。あれに田舎者と見えて、何やらわっぱと申す。ちときゃつへたすさはって見ようと存ずる、なうなうこれこれ


「末広がり」の小アドの登場である。自分でたちのよくないと名乗ってしまっているが、これはそんなに特殊なことではない。自分でタチの悪いことを白状している人間なぞ掃いて捨てるほどいるからである。是に比べれば、末広がりを知らぬ太郎冠者にかさを売りつけるなんてたいしたことではなく――たしかに、ほんとの悪人はこんなもんではないからだ。おまけに謡まで教えてしまう。人間、人と話していると何か別のことをやってしまうものだ。それが生じないやつが一番ダメで悪人といへよう。太郎冠者はかえって、主人の喜びを、その踊りで引き出すのである。

とはいえ、こういう一見いい話も、ほんとの太郎冠者的な部下はもっと心が濁っているわけであろうし、小アドはもっといい加減か怖ろしい性格であろう。我々の文化は、面倒な支配を肯定する心理を、もともと性格がよいので平穏でしたみたいな話にしたがるというのはある。

この心の弱さ故であろうか、――今回初めて知ったのであるが、戦時中の「末広がり」の浄瑠璃での脚色を発見した。
http://ongyoku.com/E2/j123/j123_1701.htm

以下上からの引用(一部表記を改めた)。

さりながら都の者が機嫌直しを教へて呉れた、先づ急いで申して見せうず、傘をさすなら春日やんま、これも神の誓ひぞと、人が傘さすならおれも傘さそうよ、實にも此世は一つの傘の、東の海も南の洋も、四邊四隅を一つの宇に、おさめて共に榮へて行かむ、げにもさありげにもそうよの、コリヤコリヤ太郎冠者、買物にぬかれて囃しものをするとも前代の曲者、身が前には叶ふまいぞ、實にも東の空明けて、旭かゞやき和らぐ御世を、ひらき導く我が日の本や、これも神の誓ひぞと、人が傘さすなら我も傘さそよ實にもそふよげにもさあり、ヱヽコリヤ前代の曲者やるまいぞやるまいぞ。

作者の言葉はこうである。

紫紅山人
◇末廣がりに就て
 末ひろがりは目出度い能狂言として慶祝の際には古來から屢々上演せられたものである。同じ材料である紙と竹と用ひて製作せられたものだが、用途が全然異つてゐる扇と傘、即ち大名は扇を望んだに對して太郎冠者は傘を求めて來た。然し擴がる點に於て一致してゐるといふ比喩に富む一笑話。私は此末廣がりに新東亞建設と八紘一宇を寓意して淨曲化して見たのである。幸ひに御清鑑を得ば幸ひである。


昭和十七年のものだが、なるほど安吾のいっていた芸の堕落というものであろうが、――この堕落は、同一性に対する短絡に原因がそもそもありそうだ。末広がりという点で、扇と傘は一致している。確かに、そうである。しかし、本当にそうであろうか?扇と傘は別々のものではないか。この誤った同一性は喜劇にもなりゃ悲劇にもなる。末広がりは、八紘一宇に似ている。これを笑ってすますわけにはいかないが、つい微笑んでしまう馬鹿が実際はかなり我々の心の中には住んでいる。

こんど総理になりそうな岸田氏とわたしが、ともに野球と納豆が好きだということが分かったからといって、この二人を同一物と見做す馬鹿はおるまい。しかしそういうことをかなりやっているのが我が国で、研究や大学の世界でもかなりある。