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ワキ:高砂や、この浦舟に帆をあげて、この浦舟に帆をあげて、月もろともに出で潮の、波の淡路の島影や、遠く鳴尾の沖過ぎて、はや住の江に着きにけり、はや住の江に着きにけり。
シテ:われ見ても久しくなりぬ住吉の、岸の姫松幾代経ぬらん。睦ましと君は知らずや瑞垣の、久しき代々の神かぐら、夜の鼓の拍子を揃えて、すずしめ給へ、宮つこたち。
地謡:西の海、あをきが原の波間より、
シテ:あらわれ出でし神松の、春なれや、残んの雪の浅香潟。
シテ:梅花を折って頭に挿せば、
地謡:二月の雪、衣に落つ。
管見では、――管見では、日本文学の中でも屈指の場面で、結婚式で唸られることでも有名なところだ。そういえば、わたくしの披★宴でもうたわれてた気がするが気のせいかも知れない。しかし、二人で長寿はいいよねみたいな方便で歌われるそれも、なんというか、現代のように結構歳がいったカップルだったりする場合は何か違う意味が発生しているような気がするのも気のせいであろうか。だいたい20でケコンしたとして、二人でいる時間はうまくいって60年ぐらいだ。大した時間ではない。――というのも、高砂の時間というのは、天皇の歴史と重ねられているわけであるからして。。。歳がいったカップルの場合は、更に天皇の歴史に比べて相対的に短くなってしまうではないかっ
このまえ、上皇の歳が歴史上一番ながくなったとかいうニュースがあったが、まったく失礼な話だ。天皇や皇后は人間としての寿命は本質的ではない。――わけはないのだが、そこをあまり問題にしてしまうともはや天皇の制度をやってる意味はなくなる。昭和天皇の下血云々の大騒ぎを高校生のわたくしはよく覚えているが、天皇を生物として扱っているようじゃもうそろそろだめだと思っていた。
歴史が長い?我が国では、人間の生の短さと儚さがテーマであり続けている。これに対する無理矢理な理屈づけが天皇の歴史でもあった。人間怖ろしいのは自分の考えを結局内容として認識してしまうので、最後まで自分は正しいなと思っていながら(そして確かに正しい場合もあるのだが――)客観的に、いや植物が生えて枯れるみたいな神の視点にたつと、――正しいのに完全に終わっている可能性がある。老人大国になった我が国は、現在、そういう死んだ正しさで溢れかえっている国なのだ。正しさということはそこそこしか問題じゃないという程度のことは、思春期は確実に分かっていたはずなのに。。。人間の性なのでしょうがないと言え、愚かなことである。
それは老人の割合が多くなったことも関係あるかも知れないが、基本的には情報過多が原因だ。多くのことを知った人間は老いるのである。まさに、人生を内容として認識してしまうことによって老いるのであって、分かったような口をきいている若者も老いている。
その人間の愚かさに比べて、文化の横への伝播は、人間が地球の隅々まで言葉で歌いながら広がっていったのとおなじく素晴らしい世界だ。そういえば、ディズニーランドって行ったことないんだが、わたくしは鼠に襲われる自信があるからだ。その映像を瞥見したところ、奴らはむかしお祭りの時にわたしを襲おうとした天狗の類いのように思われる。いま改めてなんかパレードみたいなのを見たけれども、祇園祭やなにやらのだんじりとかと一緒だな。車の上で面白い人たちが踊ってるとか姿とか。で、木曽男児のワシとしては、まず神輿の類いは転がして破壊するのが基本であるからして、鼠や家鴨の車はまず横転させついで縦に転がして背後の城にぶつけるぐらいのことをしてこそ祭というもの、あとはばらばらになった神輿を担いで悲しい歌をうそぶきながら深夜本国に届けた方がいいと思うのだ。
我々は自分よりも祭の方が大事ということがちゃんと分かっている。しかし、それは、その愚かな生を正直にやってみてからちゃんと認識出来ることだ。人間よりも天皇制が大事みたいな、マークシートの試験みたいなことを言い出す人がでてくると、人間も天皇制も文化も亡びてしまうのである。