ワキ 「これハ諸國一見の僧にて候。我この程ハ南都七堂に參りて候。又これより初瀬に參らばやと存じ候。これなる寺を人に尋ねて候へば。在原寺とかや申し候程に。立ち寄り一見せばやと思ひ候
ワキ 「さてハこの在原寺ハ。いにしへ業平紀の有常の息女。夫婦住み給ひし石乃上なるべし。風吹けば沖つ白浪龍田山と詠じけんも。この所にての事なるべし
ワキ 「昔語の跡訪へば。その業平乃友とせし。紀の有常の常なき世。妹背をかけて弔はん妹背をかけて弔はん
考えてみりゃ、こういう坊さんは何故旅をしているのであろうか?東浩紀氏みたいに観光客たらんとしているのであろうか?
日本は案外歴史が長いので、過去は遠くまで伸びている。アイデンティティはたいがい何かの始まりとして意識されるから、自分が大概どうでもよくなってきた人間にとって過去はアイデンティティのありようとして見出される。自分が矮小でもなんとか許されるのが歴史である。茫洋として遠くにあるそれをひとつひとつ辿って行くために、古典を渉猟する手段があるが、それを実際の空間の中で理解できるのが旅なのである。日本はこれまた案外歴史の痕跡を意図的に残している。どれだけ意識しているのかはわからないが、歴史のなかに自分を埋め込んで死ぬための準備をずっと行ってきたのが日本なのである。
旅に出ると、そこらに古寺などが残っている。そこに業平のゆかりがある。業平などこの僧にとって関係がない。しかし関係ないからこそ観客に業平が関係づけられる。
今宵南の風吹けば
みぞれとなりて窓うてる
その黒暗のかなたより
あやしき鐘の声すなり
雪をのせたる屋根屋根や
黒き林のかなたより
かつては聞かぬその鐘の
いとあざけくもひゞきくる
そはかの松の並木なる
円通寺より鳴るらんか
はた飯豊の丘かげの
東光寺よりひゞけるや
とむらふごとくあるときは
醒ますがごとくその鐘の
汗となやみに硬ばりし
わがうつそみをうち過ぐる
――宮澤賢治「疾中」
むしろ、ここでは我々は語り手にアイデンティファイするしかない。もうこうなったら、作家がヒーローになるしかなかったのである。