明治36年に熊本の遊郭に売られた鹿児島の南の島で海女の母の元で育った15歳の娘青井イチと、遊女の教育をするとして楼主組合が出資して創立した学校「女紅場」の教師赤江鐵子の視点から、遊女の暮らし、身上、運命を描いた小説。
イチの視点は、花魁候補として比較的大事にされ相対的には恵まれた環境で、花魁の東雲の教養・器量・あしらいなどへの敬意、同僚たちとの対抗心、日常のできごと、やりとりなどを軽妙に描き、その中で一部、下級娼妓の悲哀・苦悩が淡々と出てくるという感じです。冒頭で、熊本の楼閣に着いたイチら少女たちが、直ちに楼主に「検分」と称してレイプされるシーンが描かれていますが、15歳のイチはそれに動転したとは書かれていますが、それに傷つき気に病む様子は描かれず、イチの涙は母と引き離されたこと、そして父に売られ見捨てられたことに限られます。その描写方法が、より哀れを感じさせるか、冷淡に感じられるか、読者により受け止め方が違ってきそうです。
イチも含めた遊女たちの哀れは、赤江鐵子の視点で語られています。遊女たちが少しでも知識を得て自分を守れるようにと願う赤江鐵子の思いが、一見万人の平等を説いているようでありながら、「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」として労働者のストライキなどの貧者の闘いを非難し「貧人に教育を与ふるの利害、思はざる可らざるなり」などと貧者を蔑視/恐怖し(「貧富痴愚の説」より:310~312ページ)、「芸妓の事は固より人外として」「芸妓など言う賤しき女輩」などと娼婦をあからさまに蔑視し(「新女大学」より:242~245ページ)、芸妓から「成揚がり出世して」良家の夫人となった女もいるがこれらはすべて人間以外の醜物で淑女貴婦人が交わる者ではない、しかしたしなみ深い淑女はその感情を顔に表してはいけない、密かにその無教育破廉恥を憐れむのが慈悲である(同)などと論じる福沢諭吉に対する批判を展開しながら綴られます。
物語は、赤江鐵子が内心で批判する福沢諭吉の言説に対抗するように、遊女たちの決起・闘いへと進みます。遊女たちの境遇の悲哀/不条理の描写は淡々として不足にも感じられますが、そちらよりも虐げられた者が立ち上がり闘う様とその希望の方にポイントが置かれた構成です。その点はまたやや楽観的に過ぎる感じもしますが、読んでいて素直にこみ上げるものもあり、読後感は爽やかでした。
村田喜代子 新潮文庫 2016年2月1日発行(単行本は2013年4月)
イチの視点は、花魁候補として比較的大事にされ相対的には恵まれた環境で、花魁の東雲の教養・器量・あしらいなどへの敬意、同僚たちとの対抗心、日常のできごと、やりとりなどを軽妙に描き、その中で一部、下級娼妓の悲哀・苦悩が淡々と出てくるという感じです。冒頭で、熊本の楼閣に着いたイチら少女たちが、直ちに楼主に「検分」と称してレイプされるシーンが描かれていますが、15歳のイチはそれに動転したとは書かれていますが、それに傷つき気に病む様子は描かれず、イチの涙は母と引き離されたこと、そして父に売られ見捨てられたことに限られます。その描写方法が、より哀れを感じさせるか、冷淡に感じられるか、読者により受け止め方が違ってきそうです。
イチも含めた遊女たちの哀れは、赤江鐵子の視点で語られています。遊女たちが少しでも知識を得て自分を守れるようにと願う赤江鐵子の思いが、一見万人の平等を説いているようでありながら、「最も恐るべきは貧にして智ある者なり」として労働者のストライキなどの貧者の闘いを非難し「貧人に教育を与ふるの利害、思はざる可らざるなり」などと貧者を蔑視/恐怖し(「貧富痴愚の説」より:310~312ページ)、「芸妓の事は固より人外として」「芸妓など言う賤しき女輩」などと娼婦をあからさまに蔑視し(「新女大学」より:242~245ページ)、芸妓から「成揚がり出世して」良家の夫人となった女もいるがこれらはすべて人間以外の醜物で淑女貴婦人が交わる者ではない、しかしたしなみ深い淑女はその感情を顔に表してはいけない、密かにその無教育破廉恥を憐れむのが慈悲である(同)などと論じる福沢諭吉に対する批判を展開しながら綴られます。
物語は、赤江鐵子が内心で批判する福沢諭吉の言説に対抗するように、遊女たちの決起・闘いへと進みます。遊女たちの境遇の悲哀/不条理の描写は淡々として不足にも感じられますが、そちらよりも虐げられた者が立ち上がり闘う様とその希望の方にポイントが置かれた構成です。その点はまたやや楽観的に過ぎる感じもしますが、読んでいて素直にこみ上げるものもあり、読後感は爽やかでした。
村田喜代子 新潮文庫 2016年2月1日発行(単行本は2013年4月)