伊東良徳の超乱読読書日記

雑食・雑読宣言:専門書からHな小説まで、手当たり次第。目標は年間300冊。今年も目標達成!

介護事故の事実認定と記録 「介護記録」を武器にする書き方

2021-07-31 22:01:35 | 実用書・ビジネス書
 介護事故(誤嚥、転倒等)をめぐる判決を検討し、施設側の責任(過失)を認めるか否かのポイントとなった事実認定とその事実認定に用いられた資料、特に施設側の記録の記載を評価して、施設側が裁判で有利になるような/不当に責任を認められないような書き方を論じるという本。
 総論で、介護事故をめぐる事実認定の資料として、市町村が保管する介護認定審査の資料(主治医の意見書、市町村の介護保険調査員作成の調査票)、ケアマネージャーが作成する居宅サービス計画書、施設サービス計画書、介護事業者作成のフェイスシート、業務日誌、生活記録(介護記録、経過記録、ケース記録)、市町村に提出する介護事故報告書、保険会社に提出する事故報告書(介護事業者が損害保険に加入している場合)などが挙げられ整理されている(10~16ページ)のが、門外漢には助かります。
 裁判例の紹介と検討では、事業者の責任の有無を分けたポイントの説明は参考になりますが、この本が目的とする、そのポイントになる事実認定に介護記録の書きぶり、詳細さがどのように影響したかに関しては、比較的明確にされているものもありますが、ごく大雑把な推測にとどまっているものが多々見られます。分析が判決文だけから行われているため、そもそもどのような資料が提出されているかさえわからずに推測しているものが多くあります。この本がうたっている記録の書き方(の具体性)が判決の事実認定にどう影響するかをきちんと検討するのであれば、判決確定後5年以内の事件なら記録閲覧も可能なはずですから、事件記録にあたり、証拠とされた資料/介護記録の具体的な記載まで読み込んで行うのが本来の姿ではないかと思います。あるいはそれができないとしても、判決文から介護記録の記載がはっきりしてそれによる認定が判断できるもので論じるべきであろうと思います。そこがわからないものをたぶんこうだろうという推測で論じることには抵抗を感じます。特に、転倒に関して判決が結論を分けたのが、事実認定によるのか、さらには介護記録の詳細さ・具体性によるのか、むしろその裁判官の価値観の問題かという疑問もあり、それぞれの判決紹介の後に介護記録の善し悪し、「良くない介護記録の例」「推奨される記録の例」を機械的に配しても、判決の検討紹介とフィットしているようには感じられません。
 「本書執筆陣は全員が千葉県弁護士会に所属し、高齢者・障がい者の法律問題に熱心に取り組んでいる弁護士である」と「はしがき」で紹介され、執筆分担はまったく記載されていませんが、「使用者責任(民法710条)」(5ページ)の記載には度肝を抜かれ(もちろん、使用者責任の規定は民法715条です)、「事例1」では「死亡が確認された」Aについて「A(原告)」と表記され(24ページ)、「事例6」に至っては、「死亡した」Xを「X(原告)」と表記した上、「XがYを被告とし」「損害賠償を請求」とし(65ページ)、「事例10」では判決紹介では「8割の過失相殺を認めた(損害の2割の額について請求認容)」(98ページ)としているのに、その分析では「裁判所はAについて2割の過失相殺を認めている」(101ページ)などと書いています。率直に言って、弁護士で、これを見た瞬間、えっ?と疑問に思わない人がいるでしょうか。ちょっとこういうのを見ると、大丈夫かと思ってしまいます。
 企画の趣旨には大変興味をそそられ、また初めて読む判決も多々ありその判断は(裁判官の価値観によると思われる振幅も含めて)参考になりましたが、目指したところには届いていない感がありました。


神保正宏、山本宏子編著 日本加除出版 2021年4月26日発行 
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新しい世界 世界の賢人16人が語る未来

2021-07-30 09:42:55 | 人文・社会科学系
 ネットメディア「クーリエ・ジャポン」が掲載したクーリエ・ジャポン自身や提携誌が行ったインタビューを選抜して出版したもの。
 世界の賢人16人と言っても、さほど長くないインタビューでは深まった議論には届かず、いろいろなもの・テーマが読める反面、総花的な食い足りなさも感じます。
 コロナ禍がどうなって行くのか見当も付かなかったコロナ禍の初期に行われたインタビューが多く、時が経過した今読むと少しズレた感もあります。
 オンラインコミュニケーションについて、コミュニケーションであっても「身体性」が抜け落ちている、仮にオンラインでしか人が会わない世界が到来したら、身体がそれに反発すると考えられますと、この本で最長のインタビューの中でダニエル・コーエンが述べています(134~135ページ)が、そこで言及された「身体の反発」は、ほとんど深められないままにインタビュアーが話題を転じ、不完全燃焼に感じます。よかれ悪しかれこの本を象徴するような場面のように思えました。オンライン授業については、他にも、あまりいい結果は望めない、テキスト購読の授業をオンラインでもリアル教室でも受講できるようにして好きに選択させると、テキストの内容をよく記憶できたのは実際に顔を合わせてやりとりをした学生の方だった、感情が記憶の土台になるという言及もなされています(228~229ページ)。
 コロナ禍と関係がない部分では、2番目に長いトマ・ピケティのインタビューでのトマ・ピケティの新著「資本とイデオロギー」の紹介が、たぶんこの本の売りでしょう。ビリオネア(億万長者)は経済を後押ししない、毎年資産に対して累進課税をすることでビリオネアをなくす仕組みを作るべきだ、その資産課税を財源に25歳になった人全員に12万ユーロ(約1500万円)を一律に支給し、それを元手に起業や住宅購入等をさせるなど、斬新な、富裕層に媚びを売る政治家たちからは決して出てこない提案がなされていて、楽しめます(154~158ページ等)。


クーリエ・ジャポン編 講談社現代新書 2021年1月20日発行
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認知症の新しい常識

2021-07-29 23:22:37 | 実用書・ビジネス書
 「週刊新潮」でのアルツハイマー型認知症の治療薬、治療法についての記事を取りまとめた本。
 アルツハイマー型認知症の原因物質と見られているアミロイドβは睡眠中に脳から排出されることが示唆され、睡眠不足は認知症リスクを高める可能性があるとされています(98~100ページ)。歯周病もアルツハイマー型認知症のリスクを高め(103~105ページ)、糖尿病もアルツハイマー型認知症のリスクを高め(112~114ページ)、中年期の肥満は将来の認知症リスクを高めるが、高齢期(65歳以上)ではやせている方が認知症リスクが高いのだそうです(115~118ページ)。いろいろ気にし出すと切りがないし、節制してもリスクが少し減るだけで認知症にならないと保証されるわけでもありませんが。
 認知症の老人が駅のホーム横の線路で電車に轢かれて死んだ際に、JR東海が家族に老人ホームに入れるか屋内に閉じ込めておくべきだったなどとして巨額の損害賠償請求をした事件のことが紹介されています(19~24ページ、152~161ページ)。認知症患者が徘徊の末に線路に迷い込んで電車に轢かれたというとき、鉄道会社にとって迷惑ではありましょうけれど、遺族からすれば、大切な人が電車に轢かれて亡くなったのです。元気な若者が柵を乗り越えて線路に入るのを防止するのは難しいとしても、認知症の老人が線路に迷い込まないように駅のホーム等を管理することは不可能なのでしょうか。むしろ遺族の方が被害者意識を持っても不思議はない場面のように思えます。その報道に接したとき、人の命を奪っておいて家族に損害賠償請求するJR東海とそれに加担する弁護士に、私は非常に阿漕なものを感じました。JR東海を利用せずにすむのなら不買運動でもしたいところですが、そうも行かないのが残念に思っています。この本が遺族側でJR東海を責めているのを見て、「週刊新潮」と意見が一致することもあるのだと驚きました。


緑慎也 新潮新書 2021年2月20日発行
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プライバシーという権利 個人情報はなぜ守られるべきか

2021-07-28 19:44:06 | 人文・社会科学系
 プライバシーと個人情報保護の歴史と現在の法制度、アメリカとヨーロッパの動向などを説明した本。
 「はしがき」で著者は、2021年1月28日のデータ・プライバシー・デーで欧州評議会が世界各国の40名の専門家のビデオメッセージを紹介した際に著者が日本を代表して「データ・プライバシーは普遍的な権利ですが、これまで一度も一つの変わらぬ形になったことがありません。だからこそ、データ・プライバシーを語ることはそれだけ困難であり、また同時に魅力的であるのです」と述べたことを挙げ、プライバシーに正解はないという立場を宣言しています。そこからスタートしたこの本がラストにたどり着くのは、なんと、個人番号(政府側の用語では「マイナンバー」)制度は、正しく運用する限りプライバシーの敵ではないという主張です。「マイナンバー制度は当時の民主党が設計した制度です」(186ページ)、「北欧諸国では国民番号制度を早くから実現し、それにより社会福祉を充実させてきました」(186~187ページ)、「マイナンバー制度において社会保障と税という分野をあえて限定して、従前からの行政事務についてマイナンバーを利用するのであれば、プライバシー・リスクが大きく増すわけではありません」(187ページ)と、個人番号制度を擁護する言葉を並べ、ただ使用範囲の拡大、個人情報保護委員会の機能不全、情報漏洩への補償の不備の3点の問題を指摘して、それさえうまくいけば個人番号制度には何の問題もないかのように論じて終わっています。何、これ? 憲法・情報法専攻の学者さんが書いた岩波新書が、1冊かけて言いたかったことが個人番号制度の正当化なのかと驚いて著者の経歴を見たら、今は学者だが、「内閣府国民生活局個人情報保護推進室政策企画専門職」って、元官僚か…著者の資質より、書かせた岩波書店の編集者の問題なのか…どちらにしても最後に唖然としました。
 著者の思惑と結論はおいて、ヨーロッパの動向は参考になりました。ドイツ・ハンブルグ州のデータ保護監督機関が、H&Mが休暇を取ったり病気欠勤した従業員の私生活に関する会話を組織的に録音し保存したことに対して3525万ユーロの制裁金を科した(117ページ)、ドイツの連邦と州のデータ保護監督機関が公道における顔認証カメラの利用が公道を匿名で歩行する自由への侵害となることなどを指摘する決議を2017年3月に採択し、イギリスでは警察が自動顔認証カメラを用いて公道で警戒者リストと照合を行ったことをプライバシー権侵害の違法捜査とする判決があったこと(164ページ)、スウェーデンの高校が学生の出席を監視する目的で同意した22名の学生を対象に顔認証カメラで3週間試験的に観察して制裁金を科されたこと(168ページ)など、プライバシーや個人情報について一面で行き過ぎと思えるほど神経質な一方でお上のやることには寛容な日本の最近の動向を考えるとき、とても有益な情報だと思います。


宮下紘 岩波新書 2021年2月19日発行
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ミレニアム6 死すべき女 上下

2021-07-18 22:29:04 | 小説
 2005年から2007年にかけて話題を巻き起こした3部作を作者の死後別の作者が引き継いだ後の第3作。訳者あとがきによれば、新作者はこれでおしまいと言っているけれども、さらに別の作者に続編を書かせる話もあるそうです。
 新3部作に入ってリスベット・サランデルの敵として登場した双子の妹カミラとその取り巻き対リスベットの駆け引きと、公園で息絶えた物乞いの正体とその死、その過去をめぐるストーリーの2本が並行して展開するのですが、作者がかつて登山家のノンフィクションを書いた経験を反映したのでしょうけれども後者のボリュームが大きく、それが前者とあまりうまく絡みあわず、シリーズの読者にはさほど興味を持てないままに冗長感が募るように思えました。
 後者には軍が絡んでいるという設定ではありますが、組織的にと言うよりはその中の個人の権力濫用的な印象ですし、前者はまったくサランデル家の内部抗争で、財閥や国家権力の悪行を暴き闘うという志向が強かった旧3部作とは問題意識の違いが感じられます。登場人物のキャラクター、行動パターン、嗜好等は受け継いでも、志の部分で差があるようです。
 サランデル家の物語を何とかドタバタアクションで強引に終わらせたものの、作品の大部分を昔の山の中のできごとの解明という読者が強い関心を持てないことで費やし、それを最後までサランデル家の物語につなげられなかったという点で、読者がよい読後感を持つことが期待できない代物だと思います。


原題:HON SOM MASTE DO
ダヴィド・ラーゲルクランツ 訳:ヘレンハルメ美穂、久山葉子
早川書房 2019年12月15日発行(原書は2019年8月)
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ASK トップタレントの「値段」 上下

2021-07-16 23:28:24 | 小説
 ジコチュウで高飛車な美貌のグラドル堀口優奈が、さまざまな駆け引きでライバルを蹴落としてのし上がり、所属プロダクションの豪腕社長新庄と対立して莫大な負債を負わされては危機をすり抜けて再度新庄との対立と駆け引きを繰り返すという展開の小説。
 「週刊プレイボーイ」連載ということもあって、セックスシーンと暴力シーンが、読者サービスというか、読者の関心を惹くために、ストーリー上の必然性など無視して、繰り返されています。
 週刊誌への長期連載のため、おそらくは途中で気が変わったためと思われますが、①プロローグで友人の芸能記者から「堀口優奈はいま、渋谷のデリヘルで働いている」と知らされ(上巻10ページ)、それから伝手をたどって入会申込をした風采の上がらない中学教師が、どうして堀口優奈の最初の客(上巻478ページ)なのか、②新庄が真のオーナー(下巻53ページ)のデリヘルについて、どうして所属するデリヘル嬢も料金もわからず、新庄の認識で「真のオーナーは末永だ」(上巻382~386ページ)なのか、などの謎があり、③途中まで主要な登場人物だった栗山がその後どうなったのかまったく言及されないままになっているなどの不完全燃焼感があります。最後の点は、前半は新庄対栗山という図式、その中で堀口優奈がどちらをどう利用して駆け引きするのかという読ませ方だったのが、後半は新庄対堀口優奈という図式に変わった感があります。
 それくらいの個性というか我の強さがないと生き残れない業界なのでしょうけれども、あくの強い強欲な人物が戦いに勝ち、善人はただ踏みにじられる、そういう容赦のないバイオレンスものを好む/受け入れられるかが、評価を分ける小説だと思います。


新堂冬樹 集英社文庫 2020年9月25日発行(単行本は2018年5月)
「週刊プレイボーイ」連載
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知的財産法[第5版] 【伊藤真実務法律基礎講座3】

2021-07-15 00:14:58 | 実用書・ビジネス書
 司法試験を中心とする試験対策を主目的として、特許法・実用新案法、著作権法、意匠法、商標法等の知的財産法の主要部分を概説する入門書。
 各制度の権利の発生(保護)要件、権利の内容(権利発生等の効果)、侵害に対する救済手段(侵害者に対する請求)を連続して読むことにより、各制度の違いとそれらが総合して何を守ろうとしているのか、制度全体の構造を知るという観点で、その薄さ、読みやすさからして優れた本だと思います。
 司法試験受験者を主たる読者層としているため、この項目は司法試験頻出項目であるという生々しい指摘が多数あり、知的財産法の概説書として読んでいる気分から時々ハッとさせられます。弁護士実務のために読む本では、最高裁判例、下級審裁判例は出てきても、学説の紹介はないことが多く、また学説の紹介部分はまじめに読まない(裁判官を説得するのに学者さんの見解はあまり有効性がないため)のですが、司法試験では通説と有力説の対立の場合学説も聞かれることもある(私が司法試験受けたのもう40年近く前なので、懐かしい話ですが)ので、学説の対立も時々紹介されていて、そういう点からもあぁやはり司法試験のための本だなと感じます。
 著作権法では、著作権の制限(自由利用)関係はほとんど紙幅を割かれていなくて、知的財産法で司法試験を受ける人たち、そして司法試験も、一般人側ではなくて、著作権者、実質は著作者から著作権の譲渡や許諾を受けた著作権ビジネス業者を守る側にしか関心がないんだろうなと感じてしまいました。哀しい現実、ですが。


監修:伊藤真、伊藤塾著 弘文堂 2021年5月30日発行(初版は2004年)
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アート・ロー入門 美術品にかかわる法律の知識

2021-07-13 23:30:10 | 人文・社会科学系
 美術品の売買やそれが贋作だった場合の処理、盗難・略奪美術品の取り戻し、美術展の開催や展示などでの美術品利用、美術品をめぐるビジネス、美術品をめぐる紛争の際の裁判や仲裁など、美術品に関するさまざまな場面での法律を、日本法に加えて、多くの場面でイギリス法とアメリカ法ではどうなるかを解説した本。
 前半は、美術品の取引、所有権をめぐって、所有者が盗難や戦時中のナチス等による強奪で美術品を奪われてその後第三者が購入している場合の処理を含めて解説していて、戦時中の強奪、特にナチスによる強奪の場合には、通常の民法的な処理とは異なる法令/方向性があること、英米法と一括して捉えられがちなイギリス法とアメリカ法でも取引法レベルでさまざまな違いがあることがわかり(法律家業界の人以外の読者には、どう違うんだよとか、そこが違ったから現実にどれだけの意味があるんだよと思われるかも知れませんが)、勉強になりました。美術品の保険に関しても、イギリス法では保険契約者の告知義務が非常に厳しく、重要な情報を保険会社に告知しなかった場合、保険契約者が意図的でも無頓着でもなくても(つまり故意・過失がなくても)保険会社はその重要な情報を契約時に知っていた場合にどうしたかに合わせて契約の取消や変更ができるのだとか(さすが、ロイズの国。保険会社優先の法制ですね)。で、海外から借り受ける美術品等に関する保険契約約款には日本の保険会社もイングランドの法及び慣習に準拠するとしているけれども、東京地裁は告知義務違反の効果は保険会社の責任の問題ではなく契約成立の問題で契約成立の問題には日本法が適用されるとしてイギリス法の適用を排除して告知義務違反による契約解除という保険会社の主張を退けたのだそうです(141~143ページ)。業界外の人には何のことかわからん、だからどうよってところでしょうけれど、弁護士にとっては、大変興味深い。もっとも、前半は、法律の知識よりも、日本では美術品の売買はオークション等のオープンな場ではなく美術商の協同組合が行う非公開の業者交換会で行われることが多く、そこでは買主の代金支払債務を組合員全員が保証する(代金は組合が払う)ことになっている(82ページ)、オークションでは出品者が最低売却価格を設定した場合その価格まではサクラが参加し、オークションハウスはそのことを規約に規定して入札参加者に知らせることになっている(102ページ)、クリスティーズのオークションで史上最高額約4億5000万ドルで落札された売主の取り分は、落札手数料や保証業者の手数料などを差し引かれると約1億3500万ドルだろうと言われている(116ページ)など、美術品取引の実情に関する話の方に興味を持って読みました。
 後半は、著作権をめぐる話が中心になります。著作権では、保護期間をめぐって、基本は従来は著作権者の死後50年だったため2018年12月29日までに死後50年が経過していたものは保護されないが、2018年12月30日時点で保護されていたものは死後70年に延長された、しかしそのカウントは第2次大戦の連合国の著作者の場合戦時加算で3794日(10年5か月ほど)延長して行う(162ページ)、映画の著作権は公表後70年だがその法改正は別の時期(2004年1月1日基準)なのでまたカウントが違う(225ページ参照)とか、興味深いと言えば興味深いですが、面倒で頭が混乱しそうです。著作権関係では、外国の制度の話で、著作者が美術品を譲渡した後も転売されるたびに一定のロイヤルティを受け取れるという芸術家追及権がEUをはじめ多くの国(80か国以上)で定められているけれども日本やアメリカではその制度がなく、日本国内では芸術家追及権導入を支持する声はあまり聞かれない(195~197ページ)ということに興味をそそられました。要するに才能ある芸術家が画商等に買い叩かれて安く手放したがその後才能が評価されて画商がぼろ儲けしたというときに、その芸術を生み出した芸術家に還元するのか、中間でぼろ儲けした著作権ビジネス業者だけが潤うことを野放しにするのかということです。日本で芸術家追及権に関心が高まらないのは、著作権擁護を声高に言う人たちが、芸術家を保護することではなく、著作権ビジネスで儲けることの方に(そればかりに)関心を持っているためだと、私は思います。
 さまざまな領域の解説があり、いろいろと勉強になる本ですが、ミスがいくつか目に付きます。88ページ下から6行目の「買主」は「売主」の間違い、130ページ下から3行目の「借主」は「貸主」の間違い、設例でも289ページ7行目の「Aの使者」は「Bの使者」の間違いなど、読んでいて「?」と思うことが何度かありました。そういうのはちょっと残念です。


島田真琴 慶應義塾大学出版会 2021年4月15日発行
 
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著作権法入門[第3版]

2021-07-12 23:00:54 | 人文・社会科学系
 著作権法についての教科書的な入門書。
 初版のはしがきに、大学・法科大学院で授業をするに際して「分量や内容について私たちにとって適切な教科書が少ないことに苦慮してきました。自分たちが授業の教材として使いたい、そして、自分たちが学生時代にこんな本で学びたかった、と思えるテキストを作ったつもりです」と豪語しています。確かに、私がこれまでに読んだ著作権法の教科書と比べて、著作権法のさまざまな規定やその解釈について、著作権を保護することで長期的に豊富な著作活動を誘引する側面、著作権を制限することでパブリック・ドメイン化して新たな(後行の)創作活動を容易にする側面、著作物の利用の必要性と便宜等の原則や利益考量に立ち戻った説明がなされている場面が多く、納得しやすい感じがします。もっとも、登場するのが、著作者と、別の創作活動を行う者、著作物の利用者くらいであればわかりやすいのですが、著作者・著作権者と2次著作物の著作者・著作権者、著作隣接権(実演家、レコード製作者、放送事業者等)など権利者間の利益調整の話になると、かなり複雑になってくるのと規定がごちゃごちゃして説明に紙幅を避けなくなるのが相まって一読してわかるとはとても言えなくなっています。
 日本の著作権法とその運用は、著作権等の制限が細切れの規定でなされてフェア・ユースの一般規定がないなど利用者保護は薄く、著作権保護の方にかなり偏っているように思えます。その際、それが著作者(著作物を創作するアーティスト、クリエイター)を保護するためと主張、説明されることが多いのですが、現実に著作権の強い保護によって守られているのは、自らは何も創作しないで著作権ビジネスで儲けている人々(出版社、音楽産業、著作権管理団体等。知財(知的財産権)業務に群がる弁護士らも含め…)です。著作権法は、労働者が職務上創作して使用者名で公表した職務著作を賃金がどんなに安くても関係なく現実に創作した労働者ではなく使用者の著作と扱っていますし、世間知らずの人のいい著作者が出版社や音楽産業に二束三文で著作権を譲渡させられたり独占的利用権を設定されて事業者がどんなに儲けても著作者はほとんど報酬を受けられないという事態を防ぐ方策などまったく定めていません(そういうことには関心がありません)。著作権をめぐる紛争の多くは、(著作者と海賊版事業者の紛争などではなく)著作者から権利を譲り受けて儲けを企んでいる既得権を有する事業者と、他人の著作物を利用した新たなビジネスを目論んで儲けようと思っているが著作者を囲い込めていない新興の事業者との間のものと考えられます。本当に著作者(著作物を自ら創作するアーティスト、クリエイター)の権利を守りたいのであれば、今の著作権法の枠組みや運用とは別のことを考えた方がいいと私は思うのですが。


島並良、上野達弘、横山久芳 有斐閣 2021年3月31日発行(初版は2009年10月)
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間違った医療 医学的無益性とは何か

2021-07-11 19:43:46 | 人文・社会科学系
 患者が治る(少なくとも病院の外で生きることを可能にするのに十分な健康を取り戻す)見込みがない状況での延命措置について、第1段階として医師にはそれを行う義務がなく、第2段階として医師は控えることを促され、第3段階として医師は控えるよう義務づけられるべきと論じた本。
 治療行為が個々の臓器や検査値レベルで改善の効果があっても、患者が生命維持装置につながれ集中治療室から出られないままでただ生存しているという状態以上に治せないのであれば(そして見込みがないとする基準としては、その治療行為がこれまでに100例行われてそれで退院ができるまでに治癒した例が無いのであれば見込みがないとすべきとして)、その治療行為は患者にとって無益であり、医師はそのような治療行為をする義務がなく、またすべきではないというのが著者の主張の基本です(というか、この本まるごと1冊それを手を変え品を変え論じているという感じです)。著者は、そのような場合は、無意味な医療行為によって患者に負担をかけ続けるのではなく、患者の苦痛を除去してより落ち着いた環境で死を迎えられるようにケアすべきであることを主張し、併せて著者としては多数派の医療施設が著者の見解に従うべきと考えるが、少数派の医療施設が宗教的信念等からあくまでも延命措置を続けるということには反対はせず、患者ないしはその家族の意向に応じて選択と医療施設間での紹介転院がなされればよいとしています。患者、家族側では、わずかでも可能性があるのならば(可能性が「ゼロ」でなければ)望みを託したいということはあるでしょうし、そういう観点から著者の主張に納得できない向きは多々あろうかとは思いますが、双方の方向性を持つ医療機関が併存して患者・家族の選択がなされるということであれば、実務的には受け入れやすいかなと思います。
 患者が意思を表明できない状態になっているとき、患者が以前に延命措置を望まないという意向を示していた場合に、①果たしてその意思表示がどれだけの情報、どれだけの状況認識の下でなされたものか、言い換えれば正しい情報を得て熟慮してなされたものかという問題、②その意向が現在も変わっていないのか(人間、誰しも気が変わることはありますし、自分の命の問題ですから、理由や根拠があろうがなかろうがやはり大切なのは現在の意思ということになります)という問題は、法律家の立場からは避けて通ることができません。また家族の意向が示された場合に、それがどのような動機によるものか、患者の意向や苦痛除去を望むものか、費用負担の問題やさらには早期に相続したいということなのかなど、悩ましいケースも出てくるでしょう。著者の立場からは裁判所や弁護士の姿勢が批判されていますが、どうすることがその患者の利益になるのかは、結局個別のケースで判断せざるを得ないことになり、法律家の立場からは、裁判の場に出される限り、紹介されているようなことになるのもある程度致し方ないように思います。
 1970年代と80年代では患者やその家族が延命措置の中止を希望したが医療施設がそれを拒否したという争いが多かったが、1990年代には患者か家族がやれることはすべてやってくれと言い医療施設が無益な治療の終了を求めるケースが増えてきたことが紹介されています(131ページ)。医療職だけが医療を受ける人々に対する無制限の義務を課せられることが適切か、例えば有罪判決や終身刑によって永久に収監された囚人が、考えを奇跡的に変えて寛大な処分を下すことを求めて弁護士が刑務所長に毎日電話するように要求できるだろうか、間違いなく弁護士はある時点でクライアントに職業上の義務に限界があることを表明するだろうと、論じられています(141~142ページ)。まぁ、そりゃあ、やれませんよね。毎日電話してくれは極端ですけど、無理な主張、法的に見て無理な場合や、事実関係について証拠の裏付けがないと言うより証拠から見て認定できそうにないことを言い張って、主張してくれ、有害でなければ主張してくれと言う依頼者は時々います。無理な主張をすると全体の信頼性が低く評価されたり、無意味に長い書面を読まされた裁判官が心証を害する恐れがあって、そういう主張は、ふつう、有害に思えますが、納得しない思い込みの強い依頼者もいて困ります。そういうのも、裁判官の内心の事情の予測なので「絶対か」と食い下がられると、絶対とは言えないという点でも、弁護士の場合も似たような状況はあります。そういうことを考えると、お医者さんの事情にも同情したくなるのですが…


原題:WRONG MEDICINE : Doctors, Patients, and Futile Treatment, second edition
ローレンス・J・シュナイダーマン、ナンシー・S・ジェッカー
監訳:林令奈、赤林朗
勁草書房 2021年5月20日発行 (原書は2011年、原書初版は1995年)
 
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